2014年05月07日

神仏は妄想である。475

さて、当時、一部のユダヤ人たちは、イエスを冒涜的な人間だと、見ていた。
何故か・・・
神を語るからである。
その名も、畏れ多い、神を簡単に語るのである。

その他の行為も、同じく。
だが、それがイエスを窮地に追いやった。

イエスは、旧約の預言者、エレミヤを引き合いに出す。
エレミヤも、神殿やその内部での活動が、崩壊すると、警告していた。
更に、神殿を痛烈に批判した。
だが彼も、イエスと同様に、大きな代償を払わされた。

イエスは、すぐにでも訪れる審判で、神殿が破壊されると信じていた。
アーマン

だから、神殿に上がった時、テーブルをひっくり返し、騒ぎを起こす。
例え話を、実践したのである。

旧約聖書に出てくる、多くの預言者同様に、イエスは、腐敗し、増長した神殿を管理する、ユダヤ人指導者たちも、神の敵だとみなしていたのである。

神の敵は破滅する。

当然、当局は、イエスを脅威に感じて、イエスを排除することを考える。
すぐに逮捕されなかった。だが、イエスの噂が広まる。監視される。

イエスの周りには、審判の時が訪れるという彼の黙示思想的メッセージに興味を持った群集が群がり、その数はどんどん膨れ上がっていった。
アーマン

つまり、ローマの支配下にある、自分たちの悲惨な暮らしを変えてくれる。何かが起こることを、切望していたのである。

それ程、民衆は、悲惨な生活を強いられていた。
だが、それは、ローマの支配だけではない。
ユダヤ教の指導者たちも、その原因である。

もし、現在も、イエスが現れて、ローマカトリック、その他のキリスト教に、警告を発したら、まず、受け入れられず、迫害されるだろう。

イエス以後、そのような、預言者が現れていない。
実に、皮肉である。

ここで私は、イエスが、自分が神聖な存在であるとは言わなかったと主張してきた。彼は、ほとんどの場合、自分自身についてではなく、神について語ったのである。とりわけ彼が強調したのは、地上で審判を下すために人の子が出現し、神の国がまもなく訪れるということである。イエスは、神の国が、彼の生きている時代が終わる前に到来すると主張した。
そして、この新しい国に入るためには、自分の教えを受け入れなければならないと、群集に説いた。彼の教えとはすなわち、全身全霊を傾けて神と向き合い、自分を愛するように隣人を愛することである。
アーマン

それを聞いて、ユダヤ人指導者は、何と思うか・・・

そして、ローマ総督である。
ローマ当局に身柄を拘束され、裁判にかけられたとき、イエスの容疑は、ユダヤ人の王を僭称したことからであると、マルコが書く。

だが、アーマン氏に言わせれば、それは、実に奇妙である。
何故なら、イエスは、公の説教の中で、一度も、そのようなことを口にしていないのである。

ローマ当局が、ローマ市民が任命した人だけが、王になれる時代に、王の名を語ることは、反逆行為になる。
だから、イエスは、ローマに対する氾濫を起こすように扇動した罪で、処刑されたのである。

だが、イエスは、謀反を起こすようなことは、していない。
それは、イエスの黙示思想的な教えにあると、アーマン氏は言う。

まもなく実現する、王国で、イスラエルの十二部族を支配するのは、イエスの弟子たちである。と、イエスは、弟子たちに説いていた。

もしイエスが、自分が弟子の現在の主人であるだけではなく、次の時代の主人でもあると、私的な場で彼らに話したのであれば、全てつじつまが合う。王国の王になるのはイエスなのだ。古代イスラエルにおける未来の王の呼び名の一つが「油を注がれた者」を意味する「メシア」という言葉である。他の人々は、イエスがメシアだと考えていたかもしれないが、公的な場では、彼自身は自分をメシアとは呼ばなかった。しかし、弟子と共にいた私的な場で、メシアを自称したとき、彼は、ローマ人を追い払い、イスラエルを独立させることを意図していたわけではない。彼は、神が悪の勢力を駆逐し、自分を王に任命するのだと言いたかったのだ。
アーマン

弟子たちが、イエスの死後も、メシアと呼び続けたのは、このためである。

ローマ当局は、イエスの王を、黙示思想的な意味ではなく、王を自認する者として、その事実を知ったからである。
政治的な王という意味に、受け取ったのである。

それをローマ当局に、イエスが未来の、ユダヤの王と言うと、告げ口したのが、ユダである。

そして、ユダヤ人指導者である。
イエスの黙示思想に業を煮やしていた彼らは、尋問した挙句、裁判にかけるべく、その身柄をピラトに引き渡した。

ピラトは、イエスに、ユダヤ人の王かと問い、イエスは、否定しなかった。
ビラトは、磔刑を申し渡し、判決は即座に実行された。

と、いうように、単なる、ユダヤ世界の中での、お話なのである。
それが、いつしか・・・
人類の救い主、メシアとして、登場する。

妄想の遊びである。
何度も言う。
イエス以後、神がユダヤの世界に介入したか・・・
一度も介入せず、ユダヤは、滅びた。
神は、不在である。
いや、神は、妄想だった。

すぐに来るはずの、神の威力も、見えない。
弟子たちが死んで、何代を経ても、全く、現れない。

イエスも、雲に乗って来ない。

あれから、二千年以上待っても、来ない。
来るのは、気候変動による、自然災害ばかりである。



posted by 天山 at 05:18| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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