純然なユダヤ教徒として。
神学者が、なぜイエスが人生最後の週に、エルサレムへ旅をしたのかと問われれば、世界の罪を背負って十字架に架けられるためだったと答えるだろう。しかし、歴史的観点からすると、旅の動機は何だったのか? イエスが黙示思想家だと考えるなら、筋が通る。最古の共観福音書によれば、イエスは、ユダヤ人に教えを説きながら宣教活動を行なっていた時期の大半を、ガリラヤの片田舎で過ごした。全くとは言えないまでも、彼は、大都会にはほとんど滞在せず、明らかに北部一帯の小さな町や村、小部落ばかりを回っていた。
アーマン
それが、事実である。
キリスト教が行なったのは、ガリラヤの片田舎のイエスが、世界的イエスに成る過程である。
単なる、一人のユダヤ教徒の、黙示思想家である。
それが、何故、イエス・キリストなのか・・・
これでは、あまりに、稚拙である。
陳腐な物語である。
と、いうことは、キリスト教徒は、一度、ユダヤ教徒になり、それから、考え直して、キリスト教徒になるべきである。
さて、イエスは、何故、エルサレムへ出たのか・・・
それは、人の子の出現と共に、王国がまもなく到来することを、人々に伝え、人々が、その準備をしなければならないことを、教えるためである。
つまり、イエスも、妄想の人であった。
妄想に、取り付かれていた人であった、ということになる。
イエスを信じる人も、妄想に取り付かれたのである。
そして、今も、続々と・・・
一人の妄想を信じて、その後を継ぐ人たちを、宗教、その団体という。
ユダヤ人は、モーゼの妄想を、キリスト教は、イエスの妄想を、そして、イスラムは、ムハンマドの妄想を・・・
すべての宗教は、そのようである。
そこで、イエスは、それを伝えるために、ユダヤ教の中心地、首都、神殿の所在地、そして民衆と共にある、社会的、政治的に重要な要人に、自分のメッセージを伝えるために、出掛けた。
更に、過ぎ越しの祭りの最中である。
つまり、群集が、最も多く集う時期である。
過ぎ越しの祭りとは、ユダヤ人を、モーゼがエジプトから脱出させたことを、思い出す日である。
神が、ユダヤの民に介入した日と、ユダヤ人は、考える。
それは、伝承である。
いえば、神話である。
それなら、それでいい。
それぞれの民族には、神話が必要である。
ユダヤ民族の神話を、世界の神話にせずともよい。
更に、ユダヤ人は、神が再び介入して、過去の支配者を打倒したように、現在の支配者、ローマを打倒するようにと、願う。
が、願いは、叶わない。
逆に、滅ぼされてしまった。
更に、モーゼ以後、神は一度も、介入しなかった。
今に至っても・・・
イスラエルを守るのは、神ではなく、核兵器という、おまけつきである。
一部のユダヤ人は、政治的・軍事的蜂起によって、この時期が実現すると考えていた。また、神が自分に背く者どもを破滅させるような、超自然的・宇宙的事件として現実化すると考える者もいた。イエスの考えは、後者の延長戦上にあった。
アーマン
だが、信じた者は、騙される。
事実を知っても、信じないのである。
自分の妄想を、信じるのである。
宗教の洗脳とは、そういうことである。
説教による、幻想が、自己幻想に至るまで、続けられる。
そして、信じると、宗教の勝ちである。
信者は、勝手に、幻想の中に入り込む。
無いものを、在ると思い込む。
そして、それ以外のモノを、すべて悪、悪魔からのものだと、信じ込む。
それを、蒙昧と言う。
だから、平然とキリスト教は、他民族を虐殺し、更には、他民族を根絶させたのである。
現在は、イスラム系のテロ行為を、糾弾するが・・・
キリスト教、カトリックがやったことは、それより、怖ろしいのである。
勿論、プロテスタントも、今も同じように、異教徒の場所にて、馬鹿馬鹿しい、幻想を振りまいている。
信仰が、迷いであることは、後々に、十分に書き付けるが・・・
付ける薬が無いのである。
その宗教の中にあって、霊性とか、聖霊の働きとか・・・
霊学を知らない者が、言うことである。
そして、何処をどうしたら、神学なるものが、現れてくるのか・・・解らない。
大真面目に神学を学ぶという。
哲学から生まれた、神学であり、神学から、生まれるものは、無い。
妄想だからである。
人間を無明の闇に、陥れるもの、それは、神仏である。
神仏こそ、妄想なのである。
開祖が、妄想全開なのである。