2014年05月04日

沈黙を破る89

もののあわれについて、というエッセイを書き始めて、700回ほどになる。

今は、源氏物語を書いている。
その前は、本居宣長の、もののあはれ論から、万葉集、和泉式部日記、紫式部日記、そして、源氏物語である。

物語は、おおよそ、半分が終わる。
だが、このエッセイとしては、まだ、序の口なのである。

この倍以上を書いて、ようやく、何かが見えてくる。
それほど、長いエッセイになる。

きっと、未完になることだろう。
そんなことは、どうでもいい。
書き付けることが、問題なのだ。

そして、驚くべきは、それが、読まれているのである。
誰が・・・
いつも、そのアクセス数を見て、驚くのである。

書いた本人でさえ、読むのは、大変である。

最初から、読んでいる人がいれば、是非、批判をして欲しいと思うが・・・
勿論、最初の頃は、批判があった。
要するに、論文形式ではないからだろう。

論文の書き方は、していないから、無用の批判だった。
これは、エッセイである。
随筆なのだ。

私は、論文は、書けない。
それほど、論理が立てられないからだ。
心の思うがままに、書き付けるのである。

それで、何も悪いことは、無い。
人それぞれ、その筆に合った、書き方でいい。

古典であり、古文であり、とても、取っ付きが悪い。
また、難しいと、投げてしまう人もいる。
それは、学校教育で、古文を真面目に、取り組んだ人に多い。

読み物は、面白いか、面白くないかが、問題だ。

論文を読むのは、お勉強のためである。
だが、文芸作品を読むのに、お勉強は、ない。
好きだから、面白いから、読むのである。

源氏物語などは、主語がなく、ある意味では、滅茶苦茶な文である。
だから、更に、面白いと感じた。
先に進むごとに、面白い。

一体、誰の心境なのか・・・
解らない。
精々、解説を見て理解する。
しかし、私の勝手な解釈も入る。

その、勝手な解釈が、また、面白いのである。

全文、敬語であるのが、また、面白い。
敬語に、更に、敬語がついたりする。

お持ちあそばして、お受け取りあそばし、それを奉りて・・・
皆々、敬語なのでる。
そんな、散文は、他に無い。

大和言葉の、美しさ・・・
敬語の原型・・・

更に、女の感覚である。
紫式部以外の人の手もあるが・・・
複数で、書き継いでいったことは、確実である。

それが、書写していると、解る。
随分と、面倒なことをしているが、それも、面白い。

また、現代語訳にしているつもりもない。
ただ、解り易くしているだけである。

情報過多といわれる時代に、そんな、暢気な物語を読むということは、実に、贅沢なことであると、思う。

この後も、あはれ、という心象風景を尋ねて、書き続けるつもりだ。

別に、大義は、無い。
面白いから、書いているだけである。

それ以上の、詮索は無用である。



posted by 天山 at 06:18| 沈黙を破る2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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