2014年05月11日

国を愛して何が悪い130

王政復古の暴風と国民的維新の旋風との中を我が国船の舵取りし大政治家たちは、武士道以外何らの道徳的教訓を知らざりし人々であった。
新渡戸

確かに、そのようである。
規範は、武士道より、出でたものだった。
その心意気も、である。

近頃二、三の著者は新日本の建設に対しキリスト教宣教師が著大なる割合の貢献をなしたということを証明しようと試みた。・・・しかし右の名誉はいまだ善良なる宣教師たちに授与せられ難きものである。
新渡戸

キリスト教徒である、新渡戸は、宣教師たちの、活動を評価しつつも、
聖霊の活動は確実であるが神秘的であって、なお神聖なる秘密の中に隠されている。
とのことだ。

更に、明確に、
否、今日までのところキリスト教伝道が新日本の性格形成上貢献したるところはほとんど見られない。
と、断言する。

結局、日本人を動かしたものは、純粋無雑の武士道であった、と言う。

極東を研究し観察した、ヘンリー・ノーマンの言葉。
日本が、他の東洋専制国と異なる唯一の点は、
従来人類の案出したる名誉の掟の中最も厳格なる、最も高き、最も正確なるものが、その国民の間に支配的勢力を有すること・・・

新日本の原動力に触れた言葉であると、新渡戸は言う。

つまり、武士道という以外には、答えられないのだ。
儒学でもない、道教でもない、仏教でもない、武士道という道である。

日本にて、独自に生成発展した道である。
日本文化の、すべてを包括し、包容して、成り立った道である。

今まで、紹介してきた、新渡戸の武士道の中に、すべて存在しているものである。

東洋の制度ならびに人民をくわしく観察したるタウンゼント氏は記して曰く「我々はいかにヨーロッパが日本に影響したかを日常聞かされて、この島国の変化はまったく自己発生的であったことを忘れる。ヨーロッパ人が日本を教えたのではなく、日本は自己の発意をもってヨーロッパから文武の組織の方法を学び、それが今日までの成功をきたしたのである。数年前トルコがヨーロッパの大砲を輸入したごとく、日本はヨーロッパの機械科学を輸入した。正確に言えば、それは影響ではない、イギリスが中国から茶を買うことによりて影響を受けたと言えない限りは」と。氏はまた問うて言う、「日本を改造したるヨーロッパの使徒、哲学者、政治家もしくは扇動者がどこにあるか」と。
新渡戸

劣等国と見下されることを忍びえずとする名誉の感覚―――これが最も強き動機であった。殖産興業の考慮は、改革の過程において後より目覚めてきたのである。
新渡戸

名誉の感覚、つまり、武士道の感覚である。

欧米列強に追いつくこと・・・
それが、名誉の感覚だったのである。
そして、国が滅びるという、明確な感覚である。

独立自主の心意気である。
まさに、武士道である。

「矮小ジャップ」の身体に溢るる忍耐、不撓ならびに勇気は日露戦争において十分に証明せられた。「これ以上に忠君愛国の国民があろうか」とは、多くの人によりて発せられる質問である。これに対して「世界無比!」と吾人の誇りやかに答えうるは、これ武士道の賜である。
新渡戸

忠君愛国・・・
これは、まさに、武士道の本筋である。
忠君とは、それぞの武士の殿様である。
それが、国家の意識になる時、天皇となる。

そして、それが爆発したのは、明治維新の際である。
国を大きく変貌させる時に、王氏に、天皇に政をお返しする。

他方、我が国民の欠点短所に対しても武士道が多いに責任あることを承知するのは公平である。我が国民が深遠なる哲学を欠くことの原因はーーー我が青年の或る者は科学的研究においてすでに世界的名声を博したるにかかわらず、哲学の領域においてはいまだ何らの貢献をなしていないーーー武士道の教育制度において形而上学の訓練を閑却せしことに求められる。我が国民の感情に過ぎ、事に激しやすき性質に対しては、我々の名誉感に責任がある。もしまた外国人によりて往々非難せらるるごとき自負尊大が我が国民にありとすれば、それもまた名誉心の病的結果である。
新渡戸

ここでいう、哲学への貢献とは、西欧哲学に対するものである。
西欧哲学は、長い歴史がある。
ギリシャ哲学からのものだ。

武士の教育には、哲学的要素が欠けていたことは、否めないが・・・
それ以前から、哲学、理屈は、日本の文化の中では、嫌われていたものである。

言葉にせずとも、解ることが、第一だった。
新渡戸の言う、西欧の哲学に対する貢献は、全く無いのである。

その後、西欧の哲学が輸入された。
そして、それが、哲学なるものだとの、気付きがあった。
だが、それは、大変な努力を要した。
つまり、翻訳作業である。

武士道の感化は今日なお深く根差して強きものがあるが、しかしそれはすでに私の述べたるごとく、無意識的かつ沈黙の感化である。国民の心はその自ら継承しきれたる観念に対し訴えらるるところあれば、理由の何たるやを知らずして、これに応答する。それ故同一なる道徳観念にても、新しき訳語によって表現せられし場合と、旧き武士道の用語によって表現せられし場合とにおいて、その効果に莫大なる差異がある。
新渡戸

甚大なる差異が、問題である。
言葉一つで、全く別物になるのである。

だから、その訳語には、特別な感性が必要であった。
言葉に対する、感性である。

その際には、
武士道によりて涵養せられたる感情を喚起することによって、偉大なる道徳的革新が成就せられうる。
のである。

それが、また、キリスト教の宣教師の布教問題にも、なってくる。
新渡戸の、宣教師に対する、批判は、もっともな事である。
つづく・・・



posted by 天山 at 06:11| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月12日

国を愛して何が悪い131

我が国におけるキリスト教伝道事業失敗の一原因は、宣教師の大半が我が国の歴史について全然無知なることにある。或る者は言う、「異教徒の記録などに頓着する必要があろうか」とーーーその結果として彼らの宗教をば、吾人ならびに吾人の先祖が過去数世紀にわたりて継承しきたれる思索の慣習から切り離してしまうのである。
新渡戸

痛烈な宣教師に対する、批判がはじまる。
その傲慢不遜である。
新渡戸のような、キリスト教徒によって、はじめて、日本にキリスト教というものの、姿が提示されたと、考える。

また、内村鑑三のように・・・

一国民の歴史を嘲る?―――彼らはいかなる民族の経歴、何らかの記録を所有せざるもっとも遅れたるアフリカ原住民の経歴でさえも、神御自身の手によりて書かれたる人類一般史の一ページをなすものたるを知らないのである。滅亡したる種族さえも、具眼の士によりて判読せらるべき古文書である。
新渡戸

ここで、新渡戸も、また、キリスト教の世界的歩みに加担する。
そして、キリスト教の普遍的な様を、語るのである。
それは、それで、評価していいが・・・

哲学的かつ敬虔なる心には各人種は神の書きたまいし記号であっても或いは黒く或いは白く、彼らの皮膚の色のごとく明らかに跡を辿りうる。もしこの比喩にして佳ならんか、黄色人種は金色の象形文字をもって記されたる貴重の一ページを成すものである!
新渡戸

これは、キリスト教の伝道における心構えを正したものである。

一国民の過去の経歴を無視して、宣教師らはキリスト教は新宗教だと要求する。しかるに私の考えでは、それは「古き古き物語」であって、もし理解しうべき言葉を持って提供せらるるならば、すなわち一国民がその道徳的発達上熟知する語彙をもって表現せらるるならば、人種もしくは民族のいかんを問わず、その心にたやすく宿りうるものである。
新渡戸

その良い例が、秀吉時代の、キリシタンである。
天主教と言う。
当時の日本の言葉を持って、布教に当たった。

そうして、長崎を植民地化し、更に、九州全域を治めようとした。
それに気付いた、秀吉は、即座に、キリシタン禁止令を出す。

当時のキリシタンは、イエズス会、つまり、カトリックである。
敗戦後に入って来た、キリスト教は、耶蘇教と呼ばれる、プロテスタント系である。

アメリカ的もしくはイギリス的形式のキリスト教―――キリストの恩寵と純粋よりもむしろ多くのアングロ・サクソン的恣意妄想を含むキリスト教―――は、武士道の幹に接木するには貧弱なる芽である。新信仰の宣伝者たる者は幹、根、枝を全部根こそぎして、福音の種子を荒地に播くことをなすべきであるか? かくのごとき英雄的方法は、―――ハワイでは可能であるかもしれない。
新渡戸

ハワイでは、戦闘的に教会が、富を搾取し、原住民の絶滅を計ったのである。
実に、野蛮な、アングロ・サクソン的方法にて、ハワイを乗っ取った。

新渡戸は、敬虔なキリスト者である、ジョエットの言葉を引用する。

「人は世界を異教徒とキリスト教徒とに分かち、しかして前者に幾ばくの善が隠されているか、または後者に幾ばくの悪が混じっているかを考察しない。彼らは自己の最善なる部分をば隣人の最悪なる部分と比較し、キリスト教の理想をギリシャもしくは東洋の腐敗と比較する。彼らは公平を求めず、かえって自己の宗教の美点として言われうるすべてのことと、他の形式の宗教を貶すがために言われうるすべてのこととを集めてもって満足している」

これは、今も、行なわれている。
私は、オーストラリアで、それを目の当たりにした。

だが、日本に西欧が入って来たと共に、キリスト教の影響も大であった。

だから、新渡戸も、
しかしながら、個人的にはいかなる誤謬が犯されたにもせよ、彼ら宣教師の信ずる宗教の根本的原理は、吾人が武士道の将来を考えるについて計算に入れるを要する一勢力たることは疑いがない。武士道の日はすでに数えられたように思われる。その将来を示す不吉の微候が空にある。微候ばかりではなく、強大なる諸勢力が働いてこれを脅かしつつある。
新渡戸

つまり、武士道の将来である。
それは、最後の章である、第十七章にある。

その前に、少しばかり書く。
キリスト教とは、実に、大きな矛盾を抱えている宗教である。

世界的宗教となれども、その排他的、非寛容は、未だに、強く強く残る。
宣教師の個人的性格を通り越して、キリスト教の本体が存在する。

その元は、ユダヤ民族の神の信仰、ユダヤ教から、出た。
一民族の宗教であるから、民族信仰であるが・・・
キリスト教は、それを踏まえて、世界的宗教に成り上がったのである。

更には、同じ聖典を持つ、イスラム教である。
皆、いずれも、排他的、非寛容の宗教である。

そして、それらが、世界の大戦の主たる、原因ともなっている。
更に、キリスト教に付きまとう、白人主義というものである。
それは、差別主義の最たるものである。

民族差別、人種差別は、そこから発した。
その底には、実に傲慢不遜な精神が宿る。

それが、支配欲として、表現される。
だから・・・
世界は、混迷する。

武士道という、情緒とは、まさに異質である。
江戸時代の、身分差別は、将軍により、定められた。
一番上が、無事である。
しかし、その次が、士農工商という、最も多く存在する、農民が次である。

労働者が、一番であるとは、共産主義にあるが・・・
それも、別物である。

共産主義には、人間として、欠けてはならない、情緒が存在しない。
理念だけである。

それは、見事に、滅び去ったが。
posted by 天山 at 04:59| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月17日

国を愛して何が悪い132

最後の章は、第十七章、武士道の将来、である。

ヨーロッパの騎士道と日本の武士道との間におけるごとく適切なる歴史的比較をなしうるものは稀である。しかしてもし歴史が繰り返すものとすれば、後者の運命は必ずや前者の遭遇したるところを繰り返すであろう。サン・バレーの挙ぐる騎士道衰頽の特殊的原因は、もちろん日本の状態には適応せられない。しかしながら中世およびその後において騎士と騎士道とを覆すに与りて力ありたる、より大かつより一般的なる諸原因は、武士道の衰微に対しても確かに働きつつある。
新渡戸

武士道の衰退の道を言う。
衰退しているのか・・・
その当時も、その危機感があったということである。

武士道が衰退しても、その精神が受け継がれることは、あるのか。
それは、変容した形で・・・

ヨーロッパの経験と日本の経験との間における一の顕著なる差異は、ヨーロッパにありては騎士道は封建制度から乳離れしたる時、キリスト教会の養うところとなりて新たに寿命を延ばしたるに反し、日本においてはこれを養育するに足るほどの大宗教がなかったことである。
新渡戸

ここに、新渡戸の誤りがある。
確かに、一部、そのような状況があるかもしれないが・・・
違う。

宗教により、何事かを受け継ぐなどは、日本には無い。
それよりも、様々な武芸の道の中に、温存されている。

騎士道が無くなれば、無秩序と混乱が、野蛮な白人を野放図にする。
それを、キリスト教会が、辛うじて支えた。
現在も、キリスト教のお陰で、彼らは、自制を保つのである。

武士道の幼時においてこれを保育したりし神道は、それ自体すでに老いた。
新渡戸

上記も、誤りである。

それでは、現代のキリスト教は、老いていないのか・・・
老いているのである。

もろもろの機能および権威は陣を張って武士道に対抗する。ヴェブレンの説くがごとく、すでに「本来の産業的諸階級の間において儀礼的礼法の衰微せること、換言すれば生活の通俗化は、鋭敏なる感受性をもつすべての人々の眼に堯季文明の主なる害悪の一つと映ずるに至った」。勝ち誇れる平民主義の抵抗し難き潮流だけでも、武士道の遺残を呑むに足る力があった。けだし平民主義はいかなる形式もしくは形態のトラストをも許容しない。しかるに武士道は知識および教養の予備資本を独占する人々によりて組織せられ、道徳的諸性質の等級および価値を定むるトラストであった。現代の社会化諸勢力は区々たる階級精神に敵対する。
新渡戸

平民主義、デモクラシーである。
デモクラシーは、歴史の進化である。

その中で、武士道の行方を云々することなかれ、である。

勿論、新渡戸は、嘆いているのである。

しかるに騎士道は、フリーマンの鋭く批評せるごとく、一の階級精神である。現代社会はいやしくも何らかの統一を標榜する限り、「特権階級の利益のために工夫せられたる純粋に個人的なる義務」を容認するをえない。
新渡戸

これに、普通教育、産業技術、富ならびに、都会生活・・・
何処に、武士道の入る隙があるのか。
と、なる。

「彼らの熱烈なる行為を生みたる環境は永久に去った」
また武士道に移して適切であろう。

悲しいかな武士の徳! 悲しいかな武士の誇り! 鉦太鼓の響きをもって世に迎え入れられし道徳は、「将軍たち王たちの去る」とともに消え行かんとする運命にある。
新渡戸

人の中にある戦いの本能は普遍的かつ自然的であり、また高尚なる感情や男らしき特性を生むものであるとはいえ、それは人の全体を尽くすものではない。戦いの本能の下に、より神聖な本能が潜んでいる。すなわち愛である。
神道、孟子、および王陽明の明白にこれを教えたるは、吾人のすでに見たるところである。しかるに武士道その他すべて武的形態の倫理は、疑いも無く直接の実際的必要ある諸問題に没頭するあまり、往々右の事実に対し正当なる重さを置くを忘れた。
新渡戸

今日吾人の注意を要求しつつあるものは、武人の使命よりもさらに高くさらに広き使命である。
新渡戸

拡大する人生観、平民主義の発達、他国民他国家に関する知識・・・

孔子の仁、仏教の慈悲思想、キリスト教の愛・・・

人は臣民以上のものとなり、公民の地位まで発達した。
新渡戸

世界の歴史は「柔和する者は地を継がん」との預言を確証する。
キリストの預言である。

しかして産業主義の前線から後退して侵略主義の戦線に移る国民は、まったくつまらない取引をなすものだ!
新渡戸

つまり、新しい時代が来たのである。
そして、今、現在も、新しい時代が始まりつつあるということ。

勿論、武士の刀や、鎧などは、必要ない。
しかし、その精神は、生き続ける。
変容しつつ、生き続けるのである。

新渡戸の説を最後まで見ることにする。

posted by 天山 at 05:02| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月18日

国を愛して何が悪い133

社会の状態が変化して武士道に反対なるのみではなく敵対的とさえなりたる今日は、その名誉ある葬送の準備をすべき時である。騎士道の死したる時を指摘するの困難は、その開始の正確なる時を決定するの困難なるがごとくである。
ミラー博士は曰く、騎士道はフランスのアンリ二世が武芸仕合で殺されし1559年をもって公然廃止されたと。我が国においては1870年明治3年、廃藩置県の詔勅が武士道の弔鐘を報ずる信号であった。
その五年後公布せられし廃刀令は、「代価なくして得る人生の恩寵、低廉なる国防、男らしき情操と英雄的なる事業の保ボ(女偏に母)」たりし旧時代を鳴り送りて、「詭弁家、経済家、計算家」の新時代を鳴り迎えた。
新渡戸 改行は、私。

武士道の終わりを言うが・・・
しかし、新渡戸は、その続きを言う。

要するに、時代が武士を必要としなくなった。
しかし、果たして、その精神も、共々に、破壊されたか・・・
そんなことは、無いのである。

活力を与えるものは精神でありそれなくしては最良の器具もほとんど益するところがない、という陳腐の言を繰り返す必要はない。最も進歩せる拳砲も自ら発射せず、最も近代的なる教育制度も臆病者を勇士と成すをえない。否! 鴨緑江において、朝鮮および満州において戦勝したるものは、我々の手を導き我々の心臓に撃ちつつある我らが父祖の威霊である。

これらの霊、我が武勇なる祖先の魂は死せず、見る目有る者には明らかに見える。最も進んだ思想の日本人にてもその皮に掻痕を付けて見れば、一人の武士が下から現れる。名誉、勇気、その他のすべての武徳の偉大なる遺産は、クラム教授の誠に適切に表現したるがごとく、「吾人の信託財産たるに過ぎず、死者ならびに将来の子孫より奪うべからざる秩禄」である。
しかして現在の命ずるところはこの遺産を護りて古来の精神の一点一画をも害わざることであり、未来の命ずるところはその範囲を拡大して人生のすべての行動および関係に応用するにある。
新渡戸 改行は、私。

応用するにある・・・
つまり、武士道は、形を変えて、残り続けるのである。

封建社会の道徳は、崩壊する。そして、新しい新道徳が現れると言う者、多数。
しかし、新しい道徳とは、何か・・・
道徳の根源的様態は、変わらない。
一度築かれて、成ったものは、伝統として、脈々と生き続ける。

しかし、新渡戸は、それでも、
日本人の心によって証せられかつ諒解せられたるものとしての神の国の種子は、その花を武士道に咲かせた。悲しむべしその十分の成熟を待たずして、今や武士道の日は暮れつつある。しかして吾人はあらゆる方向に向って美と光明、力と慰籍の他の原泉を求めているが、いまだにこれに代わるべきものを見出さないのである。
と、言う。

功利主義および唯物主義に拮抗するに足る強力なる倫理体系はキリスト教あるのみであり、これに比すれば武士道は「煙れる亜麻」のごとくであることを告白せざるをえない。
新渡戸

倫理体系・・・
西欧の思想である。
武士道は、そのような言葉の世界を必要としなかった。

更に、新渡戸は、キリスト教徒らしく、
しかしメシアはこれを消すことなく、これを煽いで焔となすと宣言した。メシアの先駆たるへブルの預言者たち、なかんずくイザヤ、エレミア、アモス、およびハバククらと同じく、武士道は特に治者、公人および国民の道徳的行為に重きを置いた。これに反しキリストの道徳のほとんど専ら個人、ならびに個人的にキリストを信ずる者に関するものであるから、個人主義が道徳的要素たる資格において勢力を増すにしたがい、実際的適用の範囲を拡大するであろう。
新渡戸

当時は、である。
現在は、そのキリスト教も、不案内である。

少し、また、新渡戸は、理屈を書き付けるが・・・

まだ、キリスト教が、幾つかの段階の盛りだった頃である。
それらを元に、武士道を対置して考えた功績は、大きい。

最後に、新渡戸は、

武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない。しかしその力は地上より滅びないであろう。その武勇および文徳の教訓は体系としては毀れるかも知れない。しかしその光明その栄光は、これらの廃シ(土偏に止)を越えて長く活くるであろう。その象徴とする花のごとく、四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう。百世の後その習慣が葬られ、その名さえ忘らるる日到るとも、その香は、「路辺に立ちて眺めやれば」遠き彼方の見えざる丘から風に漂うて来るであろう。―――
新渡戸

ロマンチストである。

キリスト教徒として、武士道を英語にて、書きつけた功績・・・
そして、その理解を得た、新渡戸の、武士道は、傑作である。

矢張り、言葉の力を見せ付けられる。
この、日本の風土からなる、曖昧で、たゆたう心を、言葉で明確に提示する必要が、あったのである。

それぞれ、具体的に語る口調は、欧米の人たちの心を得た。

キリスト教という、体系的哲学により、新渡戸は、日本人を振り返り観ることが出来たと思われる。
それから、百年以上を経た現在・・・

果たして、武士道を誰か、語るか・・・
それは、懐古になるのではないか。
私も解らない。

ただ、武士道を心に抱く人のいることは、知っている。
その行為にも、武士道が生きている人がいる。

武士、もののふ、という言葉は、大和言葉である。
封建時代の花・・・
よくぞ、言ったものである。
posted by 天山 at 06:29| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月19日

沈黙を破る90

このブログに、神仏は妄想である、というエッセイを書いているが、宗教を否定するものではない。
それは、お勉強である。

だが、宗教団体となると、また、違ってくる。

宗教団体とは、その指導者と、信徒、会員である。

慈悲行を教える、仏教系団体が、真っ当に、それを行なうかといえば、違う。
それを行なうのは、多分に、その宗派の宣伝、喧伝行為である。

個人的に、慈悲の行為を行なう、信徒や会員は、いるであろうが・・・

さて、キリスト教である。
福音書の中で、イエスが、善いことをする時は、人に知られず、右手が行なうことを、左手が知らぬように、云々とある。

つまり、善行は、宣伝するなということだろう。
それは、偽善者がやることだと、言うのである。

だが、プロテスタント系は、善行は、全く、布教のためである。
助けて、その信仰を受け入れよと、言うのである。

そして、カトリックは、また、同じように、そのようである。
更に、善行は、知られないようにと、人には、言うが・・・

マザーテレサに関しては、別なのである。
世界的に知られた、マザーテレサの行為である。

それそこ、偽善者と呼ばれるような行為である。
ところが、人には、それを言うが、我がマザーテレサの場合は、違うのである。

大きな矛盾であるが・・・

そして、マザーテレサは、云々・・・
このような言葉を言ったと、いけしゃーしゃーと、口にする。

宗教団体とは、何ともでも、言える。
その常識は、世の中の常識を超えている。

それでも、平気のへいさである。

宗教団体とは、よく出来たもので、自分たちの世界で、通用することが、何よりなのである。

私のように、個人的に、ボランティア活動をしている者に、平然と、善行は、人に知られぬように・・・などど、言う。

呆れる。

更に、呆れるのは、カトリックの信徒は、自分も、マザーテレサの側にいると、思い込んでいることである。
何も、しなくても、そのようである。

少しばかりの、寄付をして、マザーテレサと共にと、思い込む様は、さまに、信仰の様に似る。

信仰は、迷いと、思い込みの世界であるから・・・
当たり前だが。

個人的に、何を信じようと、全く、それは自由である。
だが、世の常識を破り、言葉を発するのは、その団体の中だけにして欲しいと思うが。

正しい信仰を持つという、確信と、うぬぼれには、本当に、適わないのである。

ちなみに、宗教団体の善行は、すべて、その宗教の宣伝行為である。
それ以外の、何ものでもない。

その証拠に、立派なパンフレットを作り、これこれ、このような善行をしていますと、喧伝している。

それも、また、呆れるが・・・
posted by 天山 at 06:03| 沈黙を破る2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月20日

霊学157

単なる表象は、単一の感覚活動によっても生じさせることができます。しかし判断になりますと、単一の感覚だけではなく、そこに他の感覚が同時に協働して、共感覚になったときはじめて可能になります。存在の承認と否認、自分自身との関係のあるなしは、人間が諸感覚を協働させて、あるものに向き合ったときにはじめて、問題になりうるのです。
高橋

シュタイナーは、この表象と判断との関係が、イマギナツィオン、霊視の場合に、重要な意味を持つことに注目した。

体的、魂的な存在としての人間、いいかえると、時間と空間のなかに生きている人間は、身体という鏡に映して、自分の意識を目覚めさせています。人間にこの身体の鏡がなかったら、自分の魂は見えません。ところが身体、もしくは脳細胞という鏡は、どこまでも鏡ですから、鏡のなかに映っている像が現実そのものではないように、脳細胞が魂という実体を生み出しているのではなく、脳細胞はどこまでも魂の存在を映し出している単なる鏡にすぎません。しかし鏡がこわれていたら、像がゆがんでしまうように、脳細胞が十分に機能しなかったら、人間の魂も十分に意識化されません。
高橋

私は、ここで言う、魂という言葉を、心と、置いている。
魂は、また、別物なのである。

だが、ここでは、そのまま受け入れる。

脳細胞が、十分に機能しなれければ、その超感覚的世界の認識も、危ういのである。

マルクス主義の反映理論は、外なる現実世界が脳細胞に映し出されて、意識化するわけですから、脳細胞がなくても、現実世界は存在する、と考えて、魂そのものが現実世界のほかに存在しているとはまったく考えません。
しかし、シュタイナーのいう反映理論は、そうではなく、魂の現実を映し出すのが脳細胞だ、という考えでした。そして脳細胞という鏡に映し出されているかぎりの人間の魂は、表象(または思考)、感情、意志という三つのはたらきから成り立っています。そして表象、感情、意志のうち、肉体を背負った私たちにとっては、表象がもっとも意識にとって明るいはたらきです。感情になりますと、かなり混沌として薄明かりであり、意志は意識にとってはまったくの闇です。私たちは意志を意識化できずに暮らしています。
高橋

そこで、明るい表象を、今までの日常生活の中で体験したことのないような方向で、働かせ、そこに新しい内容を盛り込むと、その表象は、今までとは違った仕方で、自分の存在に作用する。

そして、感情と、意志に、今までとは違った刺激を与える。
その結果、日常的な魂全体のあり方が、微妙に変化する。

ユングは、それを、能動的構想力と呼んだ。

そのエネルギーとは、判断と愛憎の力のことです。つまりその人間の時間世界から、過去と未来から来るエネルギーなのです。
高橋

シュタイナーの考え方を理解するためには、その使用する言葉の意味を、一つ一つ、解釈してゆかなければならない。
実に、面倒なことだ。

突然のように、エネルギーとは、判断と愛憎のことだ・・・
とは、何か・・・

そして、それが、エーテル体の体験ということになる。

普通、エーテル体とは、人間の肉体とほとんど一つになっていますから、エーテル体だけを体験することはできません。そしてそれを無理に体験しようとすると、知らず知らず物質的、肉体的な次元でそれを体験しようとしています。
高橋

しかし、ユングが能動的構想力といい、シュタイナーがマギナツィオンというときのエーテル体は、むしろエーテル体による表象と思考のことなのです。エーテル体そのものではなく、エーテル体がもっている表象能力をいうのです。
高橋

このエーテル的表象は、エーテル体に外から刺激を与えることによっても生じさせることができます。たとえばドラックや催眠術などを用いる場合がそれにあてはまりますが、そうすると、それはふたたび受動的な状態でイマギツィオンを体験することになってしまいますから、シュタイナーの立場からいうと、それでは判断の行為にならないのです。
高橋

ということで・・・
エーテル体とは、私の言葉では、幽体のことである。

それを説明するには、夢の世界が、最も手っ取り早いのである。

勿論、シュタイナーも、それを説明している。

エーテル体による表象体験と肉体による表象体験とはまったく違うのです。夢の体験もエーテル体的な体験に属します。
高橋

夢に対して意識的であろうとすることは、すでにオカルト的な生活に入ることなのです。ただ夢の場合に大事なのは、個々の内容にあまりこだわらないことです。
高橋

大事なのはドラマ的な性格であって、個々のイメージではありません。
高橋

強烈な夢などは、象徴となる。
そして、感情に強く働く。
シュタイナーの霊視というのは、そういう性格を持つという。

イマギツィオンによって体験されるものは、時間の空間化、自分の内なる世界の象徴化なのです。ですから、この場合の表象は、もはや判断とも愛憎とも切り離せない、深い多層構造をもっているのです。
高橋

ここまでの、説明でも、私は、あまり理解できないのである。
霊視・・・
それは、エーテル体の単独な働きと理解する。

そして、それが、能動的に行なわれることが、大切であると、シュタイナーは言うと、理解する。

だが、実際、シュタイナーの考え方の最後まで、眺めると、それは、多く様々に、言われ続けてきたことなのである。
特別、新しいことではない。

ところが・・・
シュタイナー哲学は、とてつもない哲学への、歩みを踏み出したとのこと。

霊視について、簡単に言うと、幽体が、幽界とつながり、その幽界の様を見る、聞くということであり、そこには、亡き人も現れるし、知らない亡き人も現れる。
更に、よく解らない、模様や状況が現れる。

健康な人は、夢を忘れる。
特別なことと、思わずに過ごしている。

その幽体は、肉体と同じ容姿をしている。
死んで、そのままの状態を幽霊と言う。

シュタイナーの語り尽くす姿勢は、評価するが・・・
確実に、指導者が必要なことと、あまり、深入りしないことである。
何故か・・・

シュタイナーの観た、または、情報を得た霊界、超感覚的世界が、何処からのものか、解らないからである。


posted by 天山 at 06:18| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月21日

霊学158

霊視
イマナツィオンの体験内容は、その体験者にとって、つねに、非常な愛着を感じさせます。それはつねに大きな体験であり、喜びであり、苦しみでもあります。それはなにか自分の運命との深い結びつきを感じさせ、そこに生きることは、第二の現実を生きることのように思えます。丁度辛い環境の人が、超現実的なまでに美しい夢を見るように、または、いやな社会環境のなかにいても、自分の部屋に戻ってくれば、そこで好きな絵を描き、好きな詩を作り、自由に日記を書くことができるように、自分にイマギツィオンの世界があれば、それを第二の、より美しい現実として生きることができるのです。しかしインスピラツィオンを可能にするためには、イマギナツィオンの世界を自分ですべて消し去らなければなりません。
高橋

霊聴の世界には、霊視の世界を、消し去るという。

魂のなかの生きいきとした内部空間を、完全に無の状態にするのです。まったくの無でありながら、しかも非常に目覚めて、しかも生きいきと感じられる意識空間を自分の内部に作るのです。その困難な内的作業の果てに、その無の状態のなかに霊的な客観世界からの啓示が与えられるのです。それをシュタイナーはインスピラツィオンと名づけました。
高橋

名付けるのは、勝ってだが・・・
一体、これを、どのように理解せよというのだろうか。

霊視の世界を、消滅させ、次は、霊聴の世界をというのである。

霊視は、自分自身についての、内的な体験であり、霊聴は、客観的な、霊的世界の内容を示している。

シュタイナーは、その世界を、響きと光と色から成り立っていると、言う。
自分の空虚な意識の中に、外から、光や色、響きが流れ込んでくるのである。

統合失調症に似る。
昔の、分裂病である。

その響きや色は、今まで私たちが日常生活のなかで受け取っていたのとはまったく違った、異質なものでありながら、しかも光や色や音としてしか表現できないような、そういう体験です。
高橋

昔からそれを体験させるのに、秘義という伝統がありました。・・・・・
秘義に参入しようとする人は、はじめのあいだ、道徳的に非常に厳しい生活を要求されました。そして道徳的にその人間がふさわしいと認められたとき、イマナツィオン、インスピラツィオンの体験が許されました。
高橋

シュタイナーは、古代から、その方法は、恐怖と、ドラック体験を基本にしていると、言う。

ここで、高橋氏は、日本の修験道の体験を紹介している。
極めて危険な、修行であり、私は、神仏は妄想である、というエッセイの中で、否定している。

エーテル体を肉体から分離させ、脱魂状態にして、分離した、エーテル体を鏡にして、そこに宇宙の霊的な営みを反映させるという、行為である。

全く、論外である。

シュタイナーは、それを能動的な仕方で、体験しようとしたのである。

人間の自我が現代という時代の課題に応えるためには、認識において受動的な態度をとらず、能動的な態度に徹しなければならないからです。
高橋

それは、シュタイナーの勝手な考え方である。

そういう態度を新しい哲学を通して確保すること、それが現代の文明社会を生きる人間の意識を、真に時代の進むべき方向にふさわしく変革する前庭になる、と考えたのです。ですから超感覚的世界があるかないかを明らかにするために、そういう体験をするのではないのです。
高橋

変な理屈になってきた。
超感覚的世界を、得るために・・・あれほど、シュタイナーが語ったのである。

ここに至ると、高橋氏の、解説も、危うい。

哲学史などの問題を扱うならば、理解するが・・・
シュタイナーの霊的云々は、もう、哲学的などではなく、オカルトの最たるものである。

霊視と、霊聴の世界が、つながりなく、まして、魂の世界の無を作り出すという辺りは、とても、危険であり、いよいよ、神智学、人智学、霊学というものの、有り様が、不安定である。

膨大な著作の中から、人それぞれが、何がしかを取り出して、教育から、シュタイナーの歴史観から、色々と、分析している。

それらの、根拠は、何処にあるのか・・・

シュタイナーは、また、第五福音書などという、妄想とも思える、イエス・キリストを語り、人々に講演をするという。

何かに、憑依されたとしか、考えられないのである。
その何か・・・
それが、シュタイナーの霊界である。

ある霊界が、シュタイナーの背後に存在して、その霊界の宣伝マンのように、書き続けたのである。

これで、ある程度、シュタイナーの背後の霊界が解るということである。

延々として、語り続ける霊界が存在する。

更に、現代という時代に応えるために・・・
その現代という時代性を、シュタイナーは、独特のイメージで捉えた。
だが、シュタイナーの修行に関しては、それ以前から、様々な形で、行なわれていたのである。

シュタイナーのオリジナルではない。

ただ、意味付けをシュタイナー様式にして、紹介しているだけである。
その様式・・・
それが、彼の霊界の有様を語る。

posted by 天山 at 06:59| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月22日

霊学159

最後に、イントゥイツィオン、霊的合一である。

シュタイナーは、霊的合一は、真の自我を体験することだと、言う。

ちょうどフィヒテが思考を通して、個的自我と宇宙自我との同一性を体験したように、超感覚的な知覚と表象を通して、個的自我と宇宙自我との同一性を体験するとき、それをイントゥイツィオンとシュタイナーはよんだのです。
高橋

そのときはじめて、能動的な態度をとる個的自我が自分の根底に存する、宇宙叡智の秘密の主体である宇宙自我と出会うのです。
高橋

ちゃかす訳ではないが・・・
人間は、そこまで、偉いものなのか・・・
宇宙自我・・・とは、何か。

私は、もし宇宙自我が存在するならば、人間は、すでに、その自我の中に存在すると、考えている。

そして、それは、意識せずとも良い。
その宇宙自我から、逃れることは、出来ないのである。

現代の自然科学は観察と実験を通して、数量的法則性の上に、宇宙の実体を解明しようとしますが、そのような自然科学的宇宙論では、宇宙自我の秘密に触れることはできません。究極的にはエントロピーの法則で説明できるような、まったく魂の暖かみや愛の欠けた宇宙論しか得られません。自然科学的な因果律にしたがった生成と発展と死滅だけしか、その宇宙論からは出てこないのです。イントゥイツィオンというのは、そういう世界とはまったく異質の、自我が自分のなかだけではなく、外なる宇宙にもあるということの体験なのです。
高橋

いいかえると、自分よりももっとはるかに高次の存在が宇宙の主体としてはたらいているが、そういう高次の存在のなかにも、自分と同じ自我がある。そしてその自我を実感できるときにはじめて、宇宙の意味と目的が痛切に体験できる。そのような宇宙的な自我との出会いをイントゥイツィオンというのです。
高橋

シュタイナーでなくとも、そのようなことを言う人は、数多く存在していた。

インド系の、解脱者といわれる人たちは、それが、得意である。
インド思想史を俯瞰すれば、そんな話で溢れている。

宇宙叡智の秘密の主体である宇宙自我との出会い・・・

何か、特別なものを、意識しているのだろうか。

中国思想では、人間の体は、宇宙そのままだと言う。
人間の体は、小宇宙であると言う。

さて、私の読み込みが悪いのか・・・
シュタイナーの哲学に関して、高橋氏の、言葉を使用する。

従来の哲学は、ハイデッガーやメルロ・ポンティやサルトルのような、みずからの立場の前提を特に重要視する実存哲学者においてさえも、問題意識への反省はあっても、意識そのものを変革する際には、ラディカルな態度をとりませんでした。けっきょくは、日常生活の延長上で生じる疎外感や孤独を否定的に取り上げるか、または認識ではなく、信仰による救済へ向いました。
ところがシュタイナーは、私たちの思考と感情と意志、あるいは表象と判断と愛憎、あるいは理性と感性、そういう認識を可能にする魂のはたらきそのものを、新しい時代にふさわしいものにするために、自分のなかでどう変革すべきなのか、を問題にしたのです。
高橋

そして、それが、シュタイナー哲学の新しさであるということだ。

そして、新しい体験内容を元に、新しい神秘学的哲学である、人智学を構築したのである。

前代未聞の新しさを持っていると、高橋氏は、言う。
確かに、前代未聞の哲学だろうが・・・

それを、哲学として、理解する人にとっては、そのようである。
一体、哲学とは、何か・・・
そこで、哲学について、を書く必要は無い。

それは、それぞれの人が、決めることである。

posted by 天山 at 05:17| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月23日

霊学160

今まで私は、少しばかり、批判的にシュタイナーの説を紹介してきた。
霊学というものを、見つめている。

そして、何度も、シュタイナーの霊界、また、シュタイナーの見た場所は何処かと、書き入れてきた。
これから、シュタイナーの、神智学――超感覚的世界の認識と人間の本質への導き、から、多く引用して、そのまま、シュタイナーを理解するために、書くことにする。

それは、とても、学ぶことが多い。
また、このような考え方があるというものだ。

出来る限り、忠実に、シュタイナーの論述を理解したいと思う。
そして、その中には、霊界の話もある。
それで、シュタイナーの霊界についても、理解出来る。

その最初は、人間の本質、である。

シュタイナーは、ゲーテから、多くの影響を受けた人だ。
その最初に、ゲーテの引用がある。
そのまま、その引用を書く。

人間は自分の周囲に対象を求めると、すぐにそれを自分自身との関係において考察する。そしてそれは当然である。なぜなら対象が自分の気に入るか否か、自分を惹きつけるか否か、有用か有害か、ということに人間の運命全体がかかっているのだから。事物を観察し判断する際のこのまったく自然なやり方は、どうしてもそうなってしまうくらいにまで容易なやり方のように思われている。けれども人間はそうすることで、無数の誤謬にさらされており、その誤謬がしばしば自分を赤面させ、自分の人生を辛いものにしているのである。
自然の諸対象をそれ自身において、もしくはそれら相互の関係において、考察しようと努める人たちは、そのような活発な認識衝動の結果、もっと困難な日課をひきうけることになる。なぜなら彼らは、物事を自分との関係において考察するとき助けになっていた尺度が、もはや役に立たないことにすぐ気づかされるからである。彼らには、気に入るか気に入らぬか、心が惹きつけられるか反発を感じるか、有用か有害か、の尺度が欠けている。彼らはこのような判断の仕方をあきらめ、平等な、いわば神的な態度をとり、気に入るものではなく、存在するところのものを探求しなければならない。真の植物学者はこのように、植物の美でも有用性でもなく、植物の形成、他の植物との関係を探求し、そしてすべての植物が太陽によって誘い出され、照らし出されるように、等しい静かな眼をもって、それらすべてを観察し、そしてこの認識のための尺度、判断の材料を自分からではなく、彼が考察する事物の世界から取り出さねばならないのである。
ゲーテ

と、言うことで、実に、納得の行くものである。
その通りだ。

そこから、シュタイナーの人間の本質が、はじまる。

このゲーテの言葉を提示して、人間の本質を見るのである。

存在するところのものを探求しなければならない。
その存在するところの、人間というものを、探求するのである。

シュタイナーの神智学からの、人間の存在の、探求である。

ゲーテによって語られたこの思想は人間の注意を三つのものに向ける。
第一は感覚の門を通して、絶えず人間に触、嗅、味、聴、視の情報を流している対象である。第二はこの対象が彼に与える印象であるが、それは人が或るものに好感をもち、他のものに反感をもつときや、或るものを有用と見、他のものを有害と見るときに対象から受けとる、気に入るもの、気に入らぬものの印象であり、欲望、嫌悪の印象である。さらに第三は人が「いわば神的な態度で」対象について獲得した認識内容である。それはこの対象が彼に明かしたその作用と在り方の秘密である。
シュタイナー

そして、その領域は、三つのもので、明確に区別されているものである。
人間は、三重の仕方で、世界と結び付いている。

第一に人間は所与の事実としての眼前の世界と結び付いている。第二の仕方によって、人間は世界を彼自身の要件、彼にとって有意義な何かにする。第三の仕方を彼は絶えず努力すべき目標と定める。
シュタイナー

その三つは、体、魂、霊とから成るということだ。

シュタイナーの、体、魂、霊について、その定義を見なければならない。

ここに、口を挟むことはしない。
シュタイナーの定義から、シュタイナーの霊界を見るべきだと、思うからだ。

魂、霊に関しても、シュタイナーの定義の通りに見なければ、これからの話が理解出来ないのである。

また、そのように、説明されれば、魂、霊という、見えないモノを、理解出来る手掛かりになることもあるだろう。

ちなみに、日本では、霊魂という言葉がある。
霊魂と一緒にしている訳だが・・・

日本にも、霊魂に関する、考え方があるが、その多くは、復古神道という立場から語られたものである。
更に、それを、古神道と呼ぶ人もいるが・・・
私は、それは、古神道とは、考えない。

更に、霊魂と言うと、全く、興味の無い人もいる。
そんなものは、存在しないと、初めから、信用しない。

シュタイナーの説により、魂と、霊とが、体と共に、存在するということが、理解出来ると思う。
生きているということは、すでに体のみならず、魂と、霊が関係しているということである。

人間は、この三つのものから、成り立っていると、考える。
死後の世界の問題ではない。

だが、それが、死後の世界にも係わるということが、目的である。

シュタイナーの霊界からの、物の見方である。
シュタイナーが情報を得た、霊界からの、物の見方である。

例えば、スェンデンボルグの見た霊界があるように・・・
また、他の人が見た、霊界の姿があるように、である。

posted by 天山 at 05:54| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月24日

霊学161

人間は、体と、魂と、霊から、成り立っている。

そこで、体とは、周囲の事物が、それによって人間に自己を示すところのものを、意味する。

魂とは、それによって、人間が事物を自分自身の在り方と結び付け、それによって、気に入る、気に入らない、快と不快、喜びと、苦しみを事物から感じ取るもの。

そして、霊とは、事物を「いわば神的な態度」で観るとき、示されるものを意味する。

と、シュタイナーが定義する。
それをそのまま、受け入れることにして・・・

体を通して、人間は一時的に自分を事物と結び付けることができる。魂を通して、人間は事物が与える印象を自分の中に保持する。そして霊を通して、事物自身がみずから保持しているものが彼に啓示される。
シュタイナー

人間は、この三重の世界との関わりで、成り立つ。

それそれが、異なる世界であることも、付け加える必要がある。

要するに、体は、一時的に物事と関わり、魂は、それに対して抱く感情であり、霊は、物事の側からの啓示とは、その内容を理解するということ。

これを、延々として、繰り返し説明するのが、シュタイナーである。

体としての人間は、感覚に対して外から自己を現すところの事物と同質である。外界の素材がこの人間の体を構成している。
シュタイナー
と、いうように・・・

しかし、同じ観方で、魂の存在を、考察することは出来ないと、言う。
要するに、好んでいるか、嫌っているか、喜び、苦しみは、身体的感覚によっては、知覚出来ない。
それが、出来るのが、魂であり、体的な観方にとって、手の届かない領域だと、言う。

勿論、その通りであろう。
それを、魂の領域、世界と言うのである。

魂の存在は自分の世界として、人間自身の内部で担われている。
シュタイナー

しかし、霊によって、外界は高次の仕方で人間に示される。外界の秘密が明かされるのは人間の内部においてであるが、しかし人間は霊的存在として自分の外へ出ていき、そして事物に事物自身のことを語らせるのである。
シュタイナー

ここまで、丁寧、あるいは、くどいほどに、説明する必要があるようである。

何故なら、その後で、霊界という世界について、語るからだ。

シュタイナーは、兎に角、観念を創り上げる。
そこから、誘導する。

西欧の哲学は、皆々、似たようなものと考えている。
言葉の発生の違いか・・・

身体の諸感覚によって、人間の体を知ることができる。
シュタイナー

要約すると、人間は、鉱物、植物、動物という、三つの存在形式と同質である。
人間は、その三つの世界から成り立つ。

しかし人体は動物の体と異なっている。この相違は、たとえどれ程人間と動物との類似が考えられるにしても、すべての人によって認められなければならない。
シュタイナー

それと、共に、魂の存在も、霊的存在も、である。

だが、上記を読むと、魂も、霊も、存在していると、認めることが出来る。
シュタイナーの観念だと・・・

体と、魂と、霊という言葉で、人間の有り様を説明しているだけである。
何も、否定することは無い。

人体の存在の三つの形式、鉱物的、植物的、動物的形式が備わっているが、さらに第四の、独自の人間的形式がこれにつけ加えられなければならないのである。その鉱物的形式によって、人間は一切の可視的存在と同様であり、その植物的形式によって、生長し、生殖するすべての生物と同類であり、その動物的存在形式によって、環境を知覚し、外的印象をもとにして内的体験をもつ一切のものと同類である。その人間的存在形式によって、人間はすでに体的関係において、それ自身で独自の世界を形成している。
シュタイナー

改めて・・・
改めて、このように、語るのである。

この繰り返しの多さに、シュタイナーを投げ出してしまう人もいるだろう。

私も、霊界の部分まで、進んで行くが・・・
それ以上は、必要が無い。

シュタイナーの情報が、何処の霊界からなのかを、確認してみるべきなのだ。

そのために、続けている。

シュタイナーの概念に添うと、魂も、霊も、当然と思うだろう。
それは、人間の持つ、働きだからである。
その最大のものは、脳である。

脳の働きを、このように、解釈したともいえる。
ただ、超感覚的世界となると、突然、疑問が湧き上がる人が、大勢だろう。

脳を超えての、超感覚的世界なのか・・・
それに、疑問を持つ。

脳内で、すべてが、解決しているのではないか・・・
当然、そのような疑問が起こる。
脳以外に、人間を、動かすものが存在するのか・・・

例えば、脳は、心に支配されている、とか。
心によって、脳が作られたとか・・・


posted by 天山 at 05:51| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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