シュタイナー
それでは、日本には、天皇という、超民族的な存在がある。
とても、恵まれた、民族であるということだ。
何せ、愛の象徴である。
シュタイナーの目指す、その存在こそ、天皇のような存在であろう。
しかし、研究者からは、そんな言葉は、見出せない。
これは、一つの提案的、発言であると、私は、聞く。
何か、大乗仏教の経典を読む心地がする。
ひとつの解脱の過程である・・・
その通り、一つである。たった、一つの解脱の過程なのである。
同じように、ますます純粋な道徳的宗教的立場に到達しようとする過程は完全さへの努力の一過程であるといえる。なぜならどんな道徳的な段階にも理想主義的な未来への萌芽とともに、過去への執着が含まれているからである。
シュタイナー
過去への執着・・・
何故・・・
何故、そんなことが、言えるのか。
つまり、道徳的宗教的な段階では、過去への執着が含まれる故に、一過程であるが、足りないというのであろう。
つまり、シュタイナーは、自分の霊学そこか、完全を目指すものなのだと、いいたいのであろう。
そこから、また、新しい守護霊の登場となる。
「・・の小守護霊」のところに大守護霊が加わってくる。ここでふたたび、この第二の「・・の守護霊」との出会いの情景を物語的形式で表現してみよう。
シュタイナー
自己を解脱させるには何をすべきなのかを悟った修行者の道の行く手に、崇高な光の姿が現れる。その壮麗な姿は到底筆舌には尽くし難い。
シュタイナー
その物語的形式は、省略する。
更に、再度、
筆舌に尽くし難い壮麗な輝きが第二の・・守護霊から発している。
と、書く。
第一の守護霊は、無意識の我。
そして、第二の守護霊は、無意識の底、魂の姿として、私は、理解する。
もし、本当に、そのようなものが、別存在として、現れるというならば、シュタイナーは、誤っている。
それそこ、次元の別にする世界から、そこような存在が、現れる事、事態、尋常ではない。
それならば、魔界関与である。
超感覚的な輝きを示すこの霊姿の要求に応じようと決心すれば、人類の解脱と救済のために寄与することができるであろう。
シュタイナー
超感覚的、つまり、霊界からの、使者・・・
人類の解脱と、救済は、そのような、化け物は、必要ないのである。
そろそろ、この著書も終わりに近づく。
延々として、説明を繰り返したシュタイナーであるが・・・
人間が高次の霊的諸領域で受け取るであろう事柄は外から彼の方へ来るのではなく、もっぱら彼から発して外へ向うところの、周囲に対する愛である。
シュタイナー
周囲に対する愛は、霊的に云々とするものではない。
修行者ではなく、普通の生活をする、普通の人間が、行なう行為である。
そして、そこから、特別な修行を必要とせず、愛の行為により、人類の成長と発展に、寄与するのである。
簡単に言えば、我を捨てて、利他のために、行為することで、人類は、解脱し、救済されるのである。
それにしては、人類の歩みは、遅い。
その、あとがきに、
特に霊学上真実なる魂の体験領域が迷信、白日夢、霊媒師のような霊的努力の退行現象と取り違えられることが多い。それは危険な錯覚を生み出すであろう。
と、書かれている。
人間が本書に記された道を歩む場合、その体験内容はすべて純粋に霊的、魂的に経験分野で得られる。
シュタイナー
日常生活をいとなむときの魂は、ほとんどの場合、常に思考を、知覚、感情、意志のような他の魂的活動と結び付けている。思考以外の諸活動は肉体を通して生み出される。
シュタイナー
それは、
体験そのものを身体生活から自由に独立させることができなければならない。
との言葉からだ。
しかし思考がこれらに働きかけるとき、その働きかけの度合いに応じて、人間の中に、人間を通して、肉体との係わりをもたぬ何かが生じる。この経過が肯定できない限り、人は魂の他の諸活動に制約された思考活動が生み出す幻影や錯覚から免れることができないのである。とはいえ、どんな人にも内面生活における思考部分を、それ以外のすべての部分から切り離して経験しうるまでに魂の自己集中を行なうことは、可能である。
シュタイナー
最も、端的に言えば、ヨガ、座禅による、訓練に近い。
だが、その必要は無い。
人格の分裂、人格障害・・・その他の、危険が伴う。
更に、著作を読み込んで、自分で行なうことが、推奨されている。
これこそ、危険である。