2014年04月19日

国を愛して何が悪い127

女子がその夫、家庭ならびに家族のために身を棄つるは、男子が主君と国のために身を棄つると同様に、喜んでかつ立派になされた。自己否定―――これなくしては何ら人生の謎は解決せられないーーーは男子の忠義におけると同様、女子の家庭性の基調であった。
新渡戸

そして、
女子が男子の奴隷でなかったことは、彼女の夫が封建君主の奴隷でなかったと同様である。
と、なる。

つまり、女子の役割は、内助の功なのである。

ここで、自己否定という言葉に、戸惑う人も多くいるだろう。
特に、キリスト教の世界では、理解され難いのである。

しかし、新渡戸は、
私はこの教訓の欠陥を知っている。
と、述べる。

そして、
またキリスト教の優越は、生きとし生ける人間各自に向って創造者に対する直接の責任を要求する点に、最も善く現れていることを知る。しかるにもかかわらず奉仕の教義に関する限りーーー自己の個性をさえ犠牲にして己れよりも高き目的に仕えること、すなわちキリストの教えの中最大であり彼の使命の神聖なる基調をなしたる奉仕の教義―――これに関する限りにおいて、武士道は永遠の真理に基づいたのである。
と、掲げる。

女子の行為は、男子に対する、奉仕であるという。
それに、キリスト教の教義を取り付けたのである。

これで、キリスト教国の人々に、共感を呼んだのだ。

アメリカの、ウーマンリブの運動家が、日本女性に旧来の習慣に対して、決起を促がしたが・・・
それは、誤解に基づくものだった。
だが、それが、日本の女性にも、伝播した。

現代は、上記の感覚が失われて、久しい。
そして、幸せになったのか・・・
解らない。

ローマの主婦が家庭性を失ってより起りし道徳的腐敗は、言語に絶したではないか。
新渡戸

さて、次に行くと、ヨーロッパの騎士道である。

吾人はヨーロッパの騎士が「神と淑女」にささげたる外形的尊敬について多くを聞いている、―――この二語の不一致はギボンをして赤面せしめしところである。またハラムは騎士道の道徳は粗野であり、その婦人に対する慇懃は不義の愛を含んだ、と述べている。
新渡戸

武家社会では、確かに、女子の地位というものが、低いという感覚があったが、それ以外の、農、工、商の世界では、男女の差異は、少なかった。
そこが、西欧と違うところである。

もし私の言が武士道の下における婦人の地位に関し甚だ低き評価を人にいだかしめたとすれば、私は歴史的真理に対し大いなる不正を冒すものである。私は女子が男子と同等に特遇せられなかったと述べるに躊躇しない。しかしながら吾人が差異と不平等との区別を学ばざる限り、この問題についての誤解を常に免れないであろう。
新渡戸

男女の平等について、議論を始めると、終わらないのである。
それは、男子と男子でも、存在する。
平等とは、何か、である。

男女間の相対的なる社会的地位を比較すべき正確なる基準は何か。
新渡戸

新渡戸の説明が続くが・・・

結論に行くことにする。

我が国民の結婚観は或る点においてはいわゆるキリスト教徒よりも進んでいると、私には思われる。「男と女と合いて一体となるべし」。アングロ・サクソンの個人主義は、夫と妻とは二人の人格であるとの観念をば脱することができない。したがって彼らが相争う時は別々の権利を承認し、しかして相和する時はあらゆる種類の馬鹿馬鹿しき相愛の語や無意味な阿諛の言葉のありたけを尽くす。夫もしくは妻が他人に対しその半身のことをーーー善きか悪しき半身かは別としてーーー愛らしいとか、聡明だとか、親切だとかなんだというのは、我が国民の耳にはきわめて不合理に響く。自分自身のことを「聡明な私」とか、「私の愛らしい性質」などと言うのは、善い趣味であろうか。
新渡戸

日本人は、自分の妻を誉めるのは、自分自身の一部を、誉めることと、一緒である。
そして、日本では、自分を誉めることを、悪趣味と見做されている。

ここまで、具体的に書けば、あちらも、納得するだろう。

文化の違いと言えば、済んでしまうが・・・

アングロ・サクソン、及び、アメリカでは、当初、女子が少なかった。
故に、男子が、女子に対する尊敬が道徳の主要な、規準となったと、新渡戸は、分析している。

新渡戸は、この章を終わるに当たり、男子同士の友情を語る。
それは、多く、同性愛的要素が強いが・・・

しかしてこの愛慕の情が青年時代における男女別居の習慣によって強められたことは疑いない。
新渡戸

男女は、ある年から、別々に、教育を受けたのである。
それは、武士の社会では、顕著である。

それにより、男女の自由交際の道を塞いだとの、新渡戸の分析である。

しかしながら、武士道特有の徳と教えとが、武士階級のみに限定せられなかったことは怪しむに足りない。
新渡戸

つまり、国民に、それが、浸透したのである。

青年武士に、おける、念友とは、今で言えば、ゲイである。
そして、それと結婚とは、別物であった、時代がある。

ちなみに、武士道の大本である、葉隠れ、には、男ならば、男のみに、女ならば、女のみに、という説が立てられている。



posted by 天山 at 05:58| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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