2014年04月16日

国を愛して何が悪い124

新渡戸は、ミットフォードの著書から、彼自身が目撃した、切腹の有様の一部始終を書き付けたものを、引用している。
ここでは、省略する。

ただ、その中で、滝善三郎という武士が、切腹の前に、話した言葉を書き付ける。

拙者唯だ一人、無分別にも過って神戸なる外国人に対して発砲の命令を下し、その逃れんとするを見て、再び撃ちかけしめ候。拙者今その罪を負いて切腹致す。おのおのがたには検視の御役目御苦労に存じ候。
である。

この冷静さである。
武士たる所以である。

だが・・・
切腹をもって名誉となしたることは、おのずからその濫用に対し少なからざる誘惑を与えた。全然道理に適わざる事柄のため、もしくは全然死に値せざる理由のために、早急なる青年は飛んで火に入る夏の虫のごとく死についた。混乱かつ曖昧なる動機が武士を切腹に駆りだしたことは、尼僧を駆りて修道院の門をくぐらしめしよりも多くあった。
新渡戸

と、いう風に、死を安易に受けいれる青年武士も、多かったのである。

しかしながら真の武士にとりては、死を急ぎもしくは死に媚びるは等しく卑怯であった。
新渡戸

真の名誉は天の命ずるところを果たすにあり、これがために死を招くも決して不名誉ではない。
新渡戸

死を軽んずるは勇気の行為である、しかしながら生が死よりもなお怖ろしき場合には、あえて生くることこそ真の勇気である。
サー・トマス・ブラウン 医道宗教
新渡戸は、それを引用する。

17世紀の一名僧が言う。
平生何程口巧者に言うとも死にたることのなき侍は、まさかの時に逃げ隠れするものなり。

一たび心の中にて死したる者には、真田の槍も為朝の弓も透らず。

更に、キリスト教徒に理解させるために、
これらの語は我が国民をして、「わがために己が生命を失う者はこれを救わん」と教えし大建築者「キリスト」の宮の門に接近せしめているではないか。これらは、キリスト教徒と異教徒との間の差異を能う限り大ならしめんと骨折る試みがあるにかかわらず、人類の道徳的一致を確認せしむる数多き例証中の、僅か二、三であるに過ぎない。
新渡戸

ちなみに、キリストの言葉であるが・・・
わたしのために命を失う者は、永遠の命を得ると、言う。
それは、福音書の作者の言葉である。
イエスの言葉ではない。

更に、キリスト教徒で、殉教する者に対して、言われる。
これが、実に蒙昧な結果を生むことになった。

ただし、それが名誉なことと、信じられていた時代があるということ。

日本では、キリシタン弾圧の際に、それが、実に多くの不幸を呼んだ。
死ぬことで、天国に行けるというものである。
それは、武士道の切腹とは、全く違う。
信仰の蒙昧である。
ただし、否定はしない。

さて、武士道の切腹は、仇討ちという行為にも、つながっていくが、それは、省略する。

切腹と仇討ちの制度は、刑法法典によって、共に、存在理由を失ったと、新渡戸は、言う。
確かに、それは、国家によって、法律として、裁かれるようになった。

それは、時代の流れである。

付け加えたいことがある。
命惜しむな、名こそ、惜しめ・・・
武士の命は、上記の言葉で、言い表せる。

そこで、死ぬべきならば、死を、快く迎え入れるという、心意気である。
つまり、武士道とは、生死学なのである。

武士道の、またの名を、生死学というと、心得るといい。
それを、日本は、伝統の中に奉持していたということである。

改めて、生死学なる言葉を使用しなくても、すでに、武士道の中に、それがあったといえる。忘れていただけである。

日本人は、だから、死んで終わりではなかった。
死ぬことから、始まるものもあると、明確に見ていた。

それは、心意気である。
それは、粋に通じる精神だ。

極めて、高められた精神の力が、死を超える。

キリスト教は、復活という言葉を、救いと同じように考える。
死からの解放が、イエスキリストによって、もたらされたという、信仰である。

それ程、死とは、人間にとって、不可抗力なのである。
それなのに、確実に、人間は死ぬ。
そこに、何かの思想が必要である。

意味の無い死には、堪えられないのである。
しかし、私は、意味なくても、死んでいいと思うのである。

余計な意味づけをすることで、余計な神経を使うことも無い。
死ぬ時節には、死ぬと、心得ていれば、足りる。

だから、こそ、日本の武士道には、輝かしい精神がある。
命惜しむな、名こそ、惜しめ・・・

咲いた花なら、散るのは覚悟・・・である。


posted by 天山 at 07:04| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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