2014年04月12日

神仏は妄想である。470

聖書、福音書などに興味の無い人、また、キリスト教徒でも、聖書、福音書に精読していない人が多いが・・・
面倒な話で、恐縮である。

どうしても、パウロのことを書かなければ・・・
何故かというと、それは、キリスト教の教義というものが、パウロから成り立っているからである。

ところが、そのパウロの書簡、新約聖書の中に含まれる、正典であるが、全く、別物の思想が展開されているのである。
勿論、書いた者は、パウロではない。
しかし、パウロの書簡として、正典入りしている。

それが、矛盾しているとは、教義も矛盾する。

キリスト教徒は、聖書をすべて読む訳ではない。
好きな箇所を何度も、繰り返し読む。
だから、趣味なのである。
趣味の信仰を、本当の信仰だと、思い込んでいる。

旧約聖書などを、精読しているキリスト教徒は、100万人に一人くらいだろう。
聖職者といわれる人たちも、である。

パウロが「コロサイの信徒への手紙」と「エフェソの信徒への手紙」を書いたという主張への反論も、同様の理由からだ。学者は、これらの書簡と「テサロニケの信徒への手紙二」を、「第二パウロ書簡」と呼び習わしている。なぜなら、これらの書簡は、パウロの作ではないと考えられており、パウロの全作品のなかで、二次的な位置を占めているからだーー
アーマン

その第一は、両書簡の文体である。
その他・・・は、学者に任せる。

それよりも、大変なことは、パウロの書簡よりも、高度な神学論なのである。
両者の作者が別人だとして、両者とパウロの見解が異なるということだ。

その盲点は、両作者と、パウロが、洗礼を受けたイエスの信者にとって、物事が、どのように変化するのかについて、述べている。

そして、その意見は、真っ向から、対立している。

初期教会では、洗礼は、乳児期に行なわれ、大人が洗礼を受ける場合は、キリスト教に改宗したときに限られていた。パウロにとって、洗礼は、単なる象徴的行為ではなく、重要な儀式だった。洗礼を受けると、何かが実際に起こるのだ。洗礼を受けた人は、死ぬときに、霊的にキリストと一体化するのである。
アーマン

パウロは、「ローマの信徒への手紙」の中で、その考えを、慎重に言葉を選びつつ、説明している。
それは、黙示思想である。

世界は、罪の力を含む、人々を隷属させ、神から疎外する、悪の勢力がはびこる。罪とは、悪魔的な力である。誰もが、その力に、隷属されられて、誰もが、どうしようもなく、神から引き離されている、というもの。

エホバの証人が、よく口にする言葉である。

この世は、悪魔が支配している、という、とんでもない考え方である。

とんでもない、というのは、人間の悪行を、悪魔のせいにするということである。
この世は、地獄であるが、それは、人間が、行なっていることである。
神を信じるから、その対立概念として、悪魔を置くと言う、形になる。

もし、そうならば、全知全能の神が、悪魔を作ったといえる。
そうすることで、神の姿が、より一層輝く・・・
冗談ではない。

それでは、神が愛する人間が、神に、コケにされているということだ。

さて、その罪の力から遠ざかる、唯一の方法が、死ぬことである。
キリスト共に、死ぬのである。
その瞬間が、洗礼である。

信者は、墓に埋葬されたかのように、その死をもって、キリストと一体化し、この世界を支配する勢力にとっても、死んだことになる。
洗礼を受けた人々は、罪の力に隷属することが、なくなるのだ。

それが、パウロの思想である。

ところが、洗礼を受けても、悪行をやめない人々・・・
西欧史の野蛮さを、見れば、一目瞭然である。

しかし、パウロは、人々がキリストと共に死んだとしても、その復活の姿にあずかれる訳ではないという。
イエスの信者は、キリストが栄光に包まれて、降臨したときに、甦る。それも、肉体的な復活である。

パウロは、キリストと共に復活することについて語るときは、未来の話として語る。

だから、パウロの教会には、自分たちは、すでにキリストと共に霊的な復活を遂げ、天国のキリストと共に支配していると、異議申し立てする改宗者もいた。

パウロは、それに対して、語気を荒げて、批判している。

ここで、パウロは、復活がすでに経験済みのものではなく、これから経験するものであり、過去の霊的な復活ではなく、本物の、将来の、肉体的復活なのだと強調している。
アーマン

「ローマの信徒への手紙」六章、五節、八節では、
洗礼を受けた者は、キリストと共に死ぬが、彼と共に蘇ったわけではないと、念を押す。

もし、わたしたちがキリストと一体になってその死にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう・・・わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

ところが、「コロサイ、エフェソの信徒への手紙」では、それを否定している。

洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。

上記の二つの文は、実に、怪しい。
上は、過去の体験だが、復活は、過去の体験ではないという。

つまり、過去の体験ではなく、未来の体験であると、パウロは言うが、後者は、過去の霊的復活に言及して、パウロとは、対照的なのである。

神は・・・わたしたちをキリストと共に生かし、・・・キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
エフェソの信徒への手紙

すべては、すでに起こったことである。
信じる者は、すでにキリスト共に支配者となった。

アーマン氏は、信者たちの、勘違いだと言うが・・・

それらの書簡は、パウロの死後、書かれた。
つまり、パウロの書いたものではない。
パウロの名を拝借して、書いたものである。

それでは、パウロの本当のお説が解った・・・良かった、良かった・・・という問題ではない。

私は言う。
聖書は、神の霊感に導かれて書かれたものというのが、ウソであるということである。
皆々、人間の手により、作為的に書かれたものであるということだ。

それを言うために、私は書いている。



posted by 天山 at 05:50| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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