2014年04月10日

神仏は妄想である。468

今までの、まとめのような言葉を、アーマンの言葉から、借りる。

歴史的・批判的アプローチは、「正典」たる聖書が、成立した当時の形で残っていない、つまりオリジナルではないという考えに根ざしている。正典とは、ある意味信者にとって権威がある、一冊の書物に編纂された一連の書のことである。
パウロが教会に向けて書簡を書いていたときには、聖書を書いているという意識はなかった。彼は、その時々の必要に迫られて、自分の考えや信仰や説教に基づいて、手紙を書いているつもりだった。
これらの書簡がまとめられ、それらに霊感が吹き込まれていると考えられるようになったのは、後世になってからのことだ。福音書についても事情は同じだ。実名は何であれ、マルコも、自分の著作物が他の三つの福音書と共にまとめられ、聖書と呼ばれることになるとは、夢にも思っていなかった。
当然、別の国の他のキリスト教徒が三十年後に違うコンテクストで書いたものに照らして、自分の書が解釈されるなんてことも、考えもしなかった。
マルコが、自分の書が他のものとは別個の作品として読まれ、理解されることを望んでいたことに、疑問の余地はない。マタイ、ルカ、ヨハネおよびそのほかの新約聖書の記者も同様に考えていた。

歴史的・批判的方法は、各書をそれ自体として読まないと、誤読する危険があるという考えを大前提としている。記者の伝えたいことをほかの記者のメッセージと同一視し、新約聖書を二十七の書からなる書物としてではなく、一つの本として読むことに固執すると、私たちは間違った解釈をしてしまう。
聖書を構成する書は、異なる時代や地域の様々な状況下で、別個の問題を論じるために書かれている。記者もばらばらなら、彼らの見方、信仰、思い込み、伝統、出典もばらばらだ。そして、肝心要の事柄をめぐる見解も、一つとは限らない。
アーマン 改行は私

これが、聖書に対する、冷静な、見方である。

あらゆる宗教の、正典というものは、後付で、何とでも解釈する。
屁理屈付けであるが・・・

信じ込ませるためには、どんな嘘も付く。
何故なら、信じ込ませれば、こっちのものだから、である。

一度、信じ込ませると、後が実に楽である。
次は、どんなことも、信じるからだ。

信じる人は、確実に、騙されるのである。

そうして、キリスト教、あらゆる宗教は、捏造の上塗りをし続けてきた。
それは、宗教の定めである。
大宗教から、新興宗教まで・・・

キリスト教に搾って言えば、初期キリスト教では、伝承を細くするため、権威的な文書を、多く捏造した。

特に、二世紀には、それが甚だしい。
パウロの名を借りて、捏造された多くの文書。
更に、福音書は、イエスの初期の頃を、何も語っていないがため、幼少期のイエスの物語を、作り上げる。
それが、突然、出現するという、驚き。

トマスという名の人物よって、書かれたものだ。
これは、シリアのキリスト教徒に伝わる伝承から、イエスの兄弟ユダが、彼の双子の弟、ユダ・トマスだったとされていることから、付けられた。
ちなみに、トマスとは、双子という意味。

このイエスの、幼少伝は、イエスが五歳の頃からの、面白い、冒険譚である。

だが、正典にはされなかった。
奇想天外過ぎたから・・・

面白いのは、偽文書に対抗するために、更に、捏造した文書が出されたという、驚きである。

こうなると、ウソを付いた方が、勝つようである。
そうして、大嘘の、正典を作り上げたという。

ナザレのイエスが、キリストに変容して行く過程・・・
のみならず、キリスト教を作り上げてゆく過程・・・

偽文書・・・
これが、曲者だ。

偽文書に対抗するために、捏造される、テキスト・・・
一々、例を上げる暇は無い。

ただ、四世紀初頭に、「ピラト行伝」という、反キリスト教の、異教の偽文書が作成された。

この文書では、イエスが当然の報いを受けたことを示すため、ローマ人の視点から、イエスの裁判と処刑の物語が語られる。広く読まれたという。

その直後、同じく、ピラト行伝と呼ばれる、キリスト教の文書が現れた。
この文書では、ピラトがイエスに、同情する。あらゆる罪状に関して、無罪であるとし、熱心に、イエスを釈放するように、要求している。

こうした行為は、続々と出た。

四世紀に、使徒憲法、と呼ばれるテクストが作成された。
使徒が死んで、三百年後であるが、イエスの死後、使徒が書いたとされた。

そこでは、使徒が書いていないのに、そうであるとされている文書を読むべきではないと、記される。
全く・・・

如何ともし難い、連中である。

そして、ウソも本当も、何も無い上に立って、神学なるものを、作り上げたという、根性は、尋常ではない。
その、尋常ではない行為を、宗教は、平然とするのである。

ウソから出た、誠、という、ことわざがある。
人間の行為にもはそういうことも有り得るだろうが・・・

一体、キリスト教徒は、何を信じているのか・・・
唯一の神、そして、神であるイエス、聖霊・・・
教会が、作り上げた、様々な蒙昧を信じている。

新約聖書が、こうであれば、それ以前の、旧約聖書は、もっと、酷いだろう。
それを、歴史の書として、受け容れることは、全く出来ないのである。

神話文学である。
それ以上ではない。


posted by 天山 at 06:03| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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