2014年03月23日

国を愛して何が悪い122

第十一章は、克己、である。

或る意味において我が国民は他の民族以上に、しかり幾層倍も勝りて物に感ずるはずであると、私は考える。けだし自然的感情の発動を抑制する努力そのものが苦痛を生ぜしめるからである。感情のはけ口を求めて涙を流したりもしくは呻吟の声を発することなきよう教育せられる少年―――しかして少女を想像せよ。かかる努力が彼らの神経を遅鈍ならしむるか、それとも一層鋭敏ならしむるかは、生理学上の一問題である。
新渡戸

克己の教育である。
表現のオーバーな異国人には、それが、無情と感じられるかもしれない。

武士が感情を面に現すは男らしくないと考えられた。
新渡戸

そのようである。
感情的であることと、感情を面に現すのは、別である。

実に、多感な者でも、それを直接、現さないという、教育である。
だからそこ、私は、日本の和歌の伝統が、廃れない理由を見出す。

新渡戸も、
かくのごとく感情の抑制が常に要求せられしため、その安全弁が詩歌に見出された。十世紀の歌人「紀貫之」は「かやうの事、歌このむとてあるにしもあらざるべし。唐土もここも、思ふことに堪えぬ時のわざとぞ」と書いている。死せる児の不在をば常のごとく蜻蛉釣りに出かけたものと想像して、おのが傷つける心を慰めようと試みた一人の母「加賀の千代」は吟じて曰く、

蜻蛉つり 今日はどこまで 行ったやら
新渡戸

ここまでに、ギリギリの心境を歌うものを、外国語に翻訳するのは、無理である。更に、それは、国文学を傷つけることになる、と、新渡戸も言う。

日本を知って貰うには、日本語を知って貰うことが、一番、正しい道だ。

日本に帰化した、文学者、ドナルド・キーン博士は、源氏物語の本筋を見抜いたのである。
生きること、それ自体が、もののあはれ、であると・・・

延々と続く、物語の真髄を、外国人でありならが、見抜いたのは、日本語の力による。
まさに、言葉は、民族の魂に至るのである。

紀貫之の時代は、唐、中国にも、そのようなものが在ったというが・・・
今の、中国には、もはや存在しない。

さて、新渡戸は、その象徴的な事柄を、書き付けている。
日清戦争に際して、ある連隊が、某市を出発した際、多くの群集が軍隊と決別するため、停車場に群れ集った。
この時、一人のアメリカ人が、声高き感情の爆発を予期しつつ、その場に行って見た。
ところが・・・
群集は、ただ、沈黙し、その場は、静まり返っていた。
アメリカ人は、その光景に奇異の感を抱き、失望した。
ただ、耳を澄ませると、すすり泣くのを、耳にするだけである。

人の深奥の思想および感情―――特にその宗教的なるものを多弁を費やして発表するは、我が国民の間にありては、それは深遠でもなく誠実でもなきことの間違いなき徴であるとされる。諺に言う、「口開けて、腸見する柘榴かな」と。
新渡戸

現在は、どうだろう・・・
多くの新興宗教は、多弁を弄して、その教えを宣伝する。

多弁は、虚しいものなのである。
更に、語り尽くそうとする、根性は、如何ともし難いのである。

心底、伝えたいことは、言葉少ないものになる。

感情の動いた瞬間これを隠すために唇を閉じようと努むるのは、東洋人の心のひねくれでは全然無い。我が国民においては言語はしばしば、かのフランス人「タレラン」の定義したるごとく「思想を隠す技術」である。
新渡戸

何故、思想を隠すのか・・・
無用な、摩擦を避けるためである。
我が心の内に存在しているのであるから、それを披露して、摩擦を起こす必要は無い。

足利義満が、庶民が苦境にある時、豪華な建物を工事した。
その時、時の天皇が、暗に、歌詠み、その行為を咎めている。
即座に、義満は、工事を中止した。

勿論、いつの時代も、馬鹿はいる。
それが、通じない、馬鹿である。

克己の修養はその度を過ごしやすい。それは霊魂の溌剌たる流れを抑圧することがありうる。それはすなおなる天性を歪めて偏狭畸形となすことがありうる。それは頑固を生み、偽善を培い、情感を鈍らすことがありうる。いかに高尚なる徳でも、その反面があり偽物がある。吾人は各個の徳においてそれぞれの積極的美点を認め、その積極的理想を追求しなければならない。しかして克己の理想とするところは、我が国民の表現に従えば心を平らかならしむるにあり、或いはギリシャ語を借りて言えば、デモクリトスが至高善と呼びしところのエウテミヤの状態に到達するにある。
新渡戸

心を平らかに・・・
これは、和の心である。

和とは、おほいなる、やわらぎ、の心となる。
大和心、大和魂という。

大和とは、地名を言うのではない。
その大和の心を求めて、大和と、命名したのである。

やアまアとオ
ア音は、開く、オ音は、お送りする。
相手に心を開き、そして、その思いを相手に、贈る。

そこで、思想の違いは、何ほどのこともない。
日本にて、あらゆる思想、信条、宗教が、包括される如くである。

その上にはあるものは、和、なのである。



posted by 天山 at 05:00| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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