2014年03月16日

神仏は妄想である。465

イエスの復活についての記述ほど、福音書の間の違いが顕著なものはほかにはない。
アーマン

「捏造された聖書」でも述べたことを、今一度ここで力説しておこう。福音書のオリジナル・テキストは現存せず、現在私たちの手にあるのは、後世に作られた写本、しかも多くの場合、何世紀も後に書かれたものであるということだ。これらの写本に載っているイエスの復活劇は、てんでばらばらだ。学者は、後世の写本を手掛かりに、オリジナル・テキストに何が書かれていたのか突き止めなければならない。ときには簡単に事が進むことがあるが、議論が紛糾することもある。
アーマン

と、いうことで・・・
キリストの柩、という、本が出たことがある。
科学者が、検証して、イエスの家族の柩と、判定した、その過程を書き続けたものである。
勿論、キリスト教国では、受け容れられず、日本語に翻訳されて、少しは、衝撃的だったが、実に、納得できるものだった。

現在の福音書を、大切に、奉じている人たち・・・
キリスト教徒・・・
中でも、カトリック信者は、外典も、論外である。
更に、その他のキリスト教関係の古い書物を、簡単に偽書という。

それでは、現在の福音書は、偽書ではないのか・・・
誰も知らないのである。

ただ、教会の権威のみを、信じて、奉じるのである。

私は、数多くの、彼らが言う、偽書も読んでいる。
現在の福音書と、変わらない。
何せ・・・
共に、妄想、幻覚の書物である。

福音書の正当性を、掲げよと言っても、彼ら、キリスト教徒は、ただ、教会が正しいと言うと、述べるだけだろう。

さて、復活物語・・・
マルコの最後の12節は、オリジナル・テキストにはなく、後の時代の書記によって、加筆されたものだと、学者の意見は一致している。

オリジナル・テキストは、現在の、16章8節で終わっている。

女たちが、墓から逃げ出し、目撃したことについて、誰にも言わなかった、というところで、完結しているのである。

四つの福音書に記される、復活物語は、イエスが磔になり、埋葬された三日後に、マグダラのマリアが墓に行くが、墓が空っぽだという点について、全ての福音書が、一致している。
しかし、細部は、すべてが、違う。

ちなみに、マグダラのマリアは、イエスの妻であるというのが、キリストの柩、という本の眼目である。

ヨハネでは、マグダラのマリアであり、マタイでは、マグダラのマリアと、もう一人のマリアである。
マルコは、マグダラのマリアと、ヤコブの母マリア、そして、サロメ。
ルカでは、ガリラヤからエルサレムに来た、女たち・・・
それも、おそらくマグダラのマリアと、ヨハナ、ヤコブの母マリア、婦人たち。

マルコでは、墓の石は、脇にどけてあった。
マタイでは、一人の天使か、若い男が、女たちの前で、石を脇に、転がした。

ルカでは、二人の男。
ヨハネは、何も見なかった。

更に、マルコでは、女たちは、天使、もしくは男に、イエスがガリラヤに行くようにと、伝えよと言われた。

ルカは、イエスが、まだガリラヤにおられたころ、自分が死んでも生き返ると言ったことを、思い出すように言われる。

こうして、延々と続く、違いである。

疑問は後から後から、湧いてくる。それぞれの福音書の続きがどうなっているのか比較するには、四つの話を水平的に読めばいい。
アーマン

全ての点において、少なくとも福音書のどれか一つは、他と違っている。
アーマン

そして、ある一点では、その矛盾には、手の施しようがない。
マルコでは、女たちは、ガリラヤにいるイエスに、会いにゆくよう、弟子たちに伝えよと言われるが、恐れおののいた女たちは、誰にも一言も言わずに、話すことが無い。

マタイでは、弟子は、イエスに会うため、ガリラヤに赴くように告げられ、すぐに、その通りにする。
イエスは、そこで、彼らの前に姿を現し、最後の指示を与える。

だが、ルカでは、弟子は、ガリラヤに向うようにとは、言われない。
イエスが、ガリラヤにいる時に、復活を予告していたので、彼らは、エルサレムから離れない。

そして、ルカでは、エマオに向う、二人の弟子の前にイエスが現れる。
その日の遅く、彼らが他の者に、見たことを話した。すると、イエスが、彼ら全員の前に再び、現れる。
イエスは、彼らをエルサレムの郊外にある、ベタニアまで連れて行き、指示を与えると、天に昇って行く。

更に、ルカの続編と言われる、使徒行伝では、復活したイエスは、エルサレムを離れることを禁じて、過ぎ越しの祭りの50日目に当たるペンテコステに、彼らの上に聖霊が降りるまで、エルサレムに留まるように言ったと、書かれている。

全く、それぞれの話は、つじつまがあっていないのである。

それで、正典とは、笑わせる。
完璧に、信ずる者は、騙されているのである。

矛盾など、信じてしまえば、何のことはない。
こうして、蒙昧の福音書に、冒されて・・・
キリスト教徒の出来上がりである。

哀れというしかない。

イエスを、キリストに仕立てようとした、顛末が、福音書を通して、理解出来るのである。




posted by 天山 at 05:52| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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