2014年03月15日

神仏は妄想である。464

神は、ユダヤ人を自分の特別な民と呼び、選ばれし者たちとして、他の民から差別化する法を与えたのではなかったか? その通りだとパウロは考えた。律法と預言者は、人間の問題を解決する神の究極的な手段であるキリストを指しているはずである。

しかし、人間とは何だろう? ユダヤ教徒のみならず異教徒も含むあらゆる人間は、神の法を犯し、己の罪悪を贖うために神が求めている完璧なる生贄を捧げなかった。しかし、そうならば、異教徒もユダヤ教徒も、神の前で自分たちの罪を覆い隠し、ないしは贖うために、神の遣わしたメシアが犠牲になることを受け入れなければならないということになる。
アーマン

更に、
律法のなかで神が命じた行動規範に従っても、人びとは神との正しい関係を築けないのだろけうか? そう、築けないのだ。もし正しい関係を築けていたなら、メシアが十字架に架けられるいわれも無かったのだろう。
アーマン

従って、パウロは、ユダヤの律法を守っても、救いは無いと、判断した。
義認される、唯一の方法は、イエスの死と復活を信じること以外に、無い。と、結論付けたのである。

ガラテヤの手紙では、
ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行だけではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
と、ある。

私は、この論法によっても、不思議と、不可解を感じている。
アホ・・・である。

実に、馬鹿げている。
ユダヤ人の民族の神・・・
単に、それだけの問題である。

人類の救い・・・冗談ではない。

新約聖書の矛盾も大きな問題だが・・・
この、ユダヤ人の論法が、おかしいのである。

ここで、ある牧師の説教を紹介する。
牧師とは、プロテスタント系である。

新約聖書全体をつらぬく中心的メッセージによれば、イエスの十字架の死は、神が罪びとをゆるして救うために、その恵みを歴史の中で現実化したもうた出来事である。十字架の苦痛は、歴史的人間であるイエスが歴史の中で味わいたもうた事であるが、しかしそれは歴史を超えた永遠の領域で、神の心の中において起こった苦痛をさし示しているのである。

単に歴史の中で、たとえば抑圧された者の味方として行動したがゆえに、権力によって圧殺されたものだというように考えられるだけで終わってはならない。そのような「聖書の読み方」は深さを失っているといわざるをえない。

深さを失っているのではなく、それが、事実である。
上記の説教こそ、実に、おかしな話である。
手前勝手な屁理屈である。

罪人、許し、救い・・・
呆れる。

一体、人間をそこまで、貶めて、何が楽しいのだろう・・・
人間の存在そのものを、罪であり、許しを必要とし、救われなければならないと、考えるのは、精神が病んでいる、あるいは、狂っている証拠である。

イエスの生涯は、神の心が歴史の中で結晶したものなのである。
だって・・・

それならば何故、罪びとに対する神の愛は、イエスの十字架という出来事に結晶したのであるか。それは、罪びとが神の意志にそむいて神の意志の外に脱落しているにもかかわらず、神がなおも彼を神の愛の内に入れようとしたもうたからである。外を内に包み入れる愛は「苦もなく」できるものではなく、苦を通してのみ現実化するのである。・・・
永遠なる神の愛の心が、歴史的人間であるイエスの出来事において結晶したものである。一言でいえば、神の苦難の愛である。

ここまで来れば、もう、手当ての仕様が無いのである。

これを、信仰病という。
勿論、一人で、勝手に罪人の意識を持ち、許しを求め、そして、救いに預かるというなら、何もいう事がない。
それを、人に説く行為である。
そこに、罪がある。

ここまで、自分を痛めつけるというのは、マゾヒズムである。
そして、ユダヤ教の神は、サディストであろうか・・・

旧約聖書を通読すれば、そのようである。

この論理から出来上がる、神学というもの・・・
学問足り得ないのだが・・・

さて、パウロの理論は、キリスト教理論の元となる。
だから、ユダヤ教と対して、別宗教である、キリスト教が成り立った。

しかし、ユダヤ教が存在しなければ、キリスト教も、存在しない。

ところが・・・
マタイは、そうは問屋が卸さないと、全く逆の説である。
キリスト教神学者は、その矛盾と、闘い続けていた。
別に、キリスト教の内部のことであるから、どうでも、いいが・・・

矛盾だけの、新約聖書を読んで、信仰を深める、世界のキリスト教徒である。
実に、憐れというほかは無い。

マタイを取り入れる人は、一度、ユダヤ教徒にならなければならない。

神仏は妄想である、という、このエッセイは、私の勝手な、徒然である。
だが、神仏を奉じる者は、今一度、考えるべきである。
己一人が勝手に信じているのは、いい。

それを、人に説くのは、罪である。
罪とは、そういうものである。

イエスは、一粒の信仰があれば、山をも動かすと、仰せられた。
山を動かすほどの信仰を見せて貰いたいものである。

人をして、自虐に陥らせる行為を、罪という。




posted by 天山 at 05:36| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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