2014年03月14日

神仏は妄想である。463

新約聖書の記者同士の大きな違いは、四つの福音書だけではなく、使徒パウロの書簡を含む他の書にも見られる。
アーマン

パウロの書簡は、西暦50年代に書かれたもので、福音書よりも古いものである。
最古の福音書、マルコよりも、10年から15年前のことになる。

パウロの書簡、そして、福音書は、何度も言うが、イエスの実際の言動を、後世のために、記録したものではない。
彼らは、独自に、自分の神学的見解に照らして、イエスの言葉や、行いを語るのである。

つまり、創作である。

更に、パウロの書簡は、ルカの著者による、使徒言行録同様、福音書のものとは、相容れないのである。

特に、マタイとは、全く違う。
あまりにも、違い過ぎるのである。

パウロの教えの重要なテーマは、人がいかにして正しく神と向き合うことができるかということである。
アーマン

パウロは、いかに人々が、神との正しい関係を築けるか、ということに多大な関心を寄せていた。
特に、改宗させようとしていた人々にである。

マタイと、明確に違うのは、ユダヤの律法を厳守することではなく、イエスの死と復活を信じることによって、初めて神との、真っ当な関係を結ぶことが出来ると、確信していた。

であるから、マタイを読むと、大きな矛盾に突き当たる。
マタイは、律法を厳守することにより、イエスを信じて、救いを得るのだ。

これほど大きな、矛盾を抱えている新約聖書である。
どこの部分を読むかで、結果が変わるとしたら・・・
冗談ではない。

パウロは、人が神の前に正しく立つことを、義認と、称した。
特にそれは、ガラテアの信徒への手紙、ローマの信徒への手紙によって、述べられている。

ユダヤの律法に従うのではなく、イエスの、死と復活を信仰することによって、義とされるという。

これは、カトリック教会の最大の教えでもある。

勿論、多くのプロテスタントも、そうである。

アーマンは、それを理解するためには、パウロがイエスの信奉者ではなく、キリストへの信仰が神への冒涜と同じであるという、過激な考えに凝り固まっていた、そもそもの始まりから見るべきだという。

キリスト教徒を迫害していた時期から、およそ、20年後に書かれたパウロの書簡は、彼が、キリスト教信仰の、何が非難されるべきなのかということを、示していないのである。

イエスを信じる前は、信仰深いユダヤ教徒だった、パウロである。
であるから、メシアというものが、いかなるものかを、自分なりに、思い描いていたはずである。

ユダヤ教徒のメシア像は、キリスト教のそれとは、対極にあった。
彼らは、メシアが、威厳と力強さを体現し、有無を言わさず、神の地上での目的を遂行する人物であるという点で、意見が一致していた。

ところが・・・
イエスは、何者か・・・

一世紀の頃の、多くのユダヤ人は、イエスをメシアと呼べば、せせら笑うか、最悪の場合は、冒涜行為とみなしたのである。

イエスをメシアとみなすことは狂気の沙汰でしかなく、磔にされた犯罪者ほどメシアに似つかわしくない人間もいない。
アーマン

パウロも、そのように考えていた一人である。
だが・・・

パウロは、イエスの死後、イエスの幻視を見たと証言する。

この幻視を目の当たりにして、彼はイエスが死んでいないと悟る。しかし、死んでいないとはいかなることか?
アーマン

イエスに帰依する以前は黙示思想的なユダヤ教徒だったパウロは、前々からこの邪悪な時代の終末に、死者が復活することを信じていた。
アーマン

だが、イエスが、生きた姿を目撃したパウロは、イエスが死んでいないことを、知ったのである。
と・・・だが・・・

幻を見て、イエスが死んでいない・・・とは、情けない。
それこそ、奇跡話である。

結果は、
パウロは、もしイエスが神の加護を受けたメシアなら、間違った行いによってイエスが死んだはずがないと推論した。イエスは、自らの罪によって死んだはずはないのだ。それならば、どうしてあのような運命にあったのか? 他人の罪業のために死んだことは、火を見るよりも明らかではないか。エルサレム神殿の生贄のように、イエスは他の人びとの罪深さを背負って、犠牲となったのだ。
アーマン
と、いうことになった。

そして、ユダヤ教徒の、生贄は、人々の罪を帳消しするには、不十分であるからに、違いない、とのこと。

更に、律法と預言は、人間の問題を解決する神の究極的な手段であるキリストを指しているはずである。
との、こと。

ここに、主イエスの誕生がある。

兎も角も、罪、生贄など・・・
ユダヤ教とは、一体何かという、疑問が出る。

ユダヤ王国が、滅んだ時点で、ユダヤ教は、終わったのである。
しかし、宗教というもの、そんなことでは、滅しない。

その旧約の神も、消滅した。
しかし、その後の、解釈で、メシアが現れるという、誇大妄想を得た。

創作の新約聖書により、後世の人たちは、妄想全開で、イエスを、キリストとするために、情熱を傾けた。
おぞましい程の、情熱による、妄想である。

これを見ても、人間が、如何に、暇なものかということが、解る。
死ぬまでの、暇を潰すために、妄想を生きるのである。




posted by 天山 at 06:09| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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