2014年03月13日

もののあわれについて661

もののあはれ、というものを、源氏物語を通して、見続けている。
だが、この物語・・・

実に、難しい。
それは、散文小説の書き方が、決定していない時代の、作品であるから。

主語が無い・・・
兎に角、それが、大問題である。
だから、研究者の分析、また分析を手本にして、読む。

本当に、ご苦労なことである。

つまり、滅茶苦茶な小説なのである。
一行の文に、何人もの、心境を綴られれば、一体、誰のことなのか・・・

現代語訳した作家たちは、皆、独自の文体で、表現した。
つまり、源氏物語の、直訳ではない。
それぞれの、作家の源氏物語なのである。

理解すれば、しょうとするほど、解らなくなる。
適当に、楽しんで読む・・・

原文を読むことなのである。

更に、面倒なのは、全体が、敬語で書かれている。
つまり、訳す時、敬語でなければならないという、それを捨てた。

日本の、敬語の原点がある。

申し上げる
お聞きあそばした・・・

更に、その行為にも、敬語である。

人の御おやげなき御争ひ・・・
御目
御声・・・

え おはします 離れず

いと かたじけなしと 見奉る
いと かたじけなしと みたてまつる

どのページを開いても、敬語のオンパレードである。

ところが、声に出して読むと、不思議と、懐かしいのだ。
その音・・・
実に、みやびである。

そして、和歌の数々。
物語は、和歌への道というほど。

その、歌のみを取り出しても、意味不明。
物語の前後が、必要なのである。

それを書写した、藤原定家などは、意味が解ったのであろうか・・・
と、思われるが、解ったようである。

いずれ、時代を経るにつれ、文語体から、口語体へと、移行し、散文小説が、生まれる。
最初は、私小説と言われた。
文学のしののめ、である。

勿論、その前に、江戸文学の盛んな時代もあった。
その頃のものは、まだ、読める。

平家物語も読める。
だが、最初の散文小説である、源氏物語は、解説がなければ、解らないことだけらである。

これが、もし、平仮名だけなら、一層、困難なことになっただろう。

いまはかく おもおもしきほどに よろづのどやかにおもししづめたる おんありさまなれば たのみきこえさせたまへる ひとびと さまざまにつけて みな おもふさまに さだまり・・・

古典など、読んでも、意味が無いという人も多い。
それぞれの、思いである。

私は、もののあわれについて、という、エッセイを書いている。
そこで、どうしても、源氏物語を通らなければならない。
ただ、それだけである。

まだ、半分ほど、物語がある。
延々と、書き続けるしかない。

こうして、読み続けて、三年以上が経った。
実に、長い物語である。
そして、とても良い、気分転換になる。

大和言葉とは、声に出して価値があると、知る。
そうして、書写して、価値がある。

この忙しい世の中に・・・
何とも、優雅な趣味だと、思う。

物書きは、世に多い。
その物書きは、伝統によって、書く行為を続けているだろう。
その型が、整うまで、千年以上を有した。
それを思うと、大したことではない。

その千年の流れの、源流に源氏物語があるという、程度である。
しかし、そこには、もののあはれ、の原型もある。

もののあはれ、という、心象風景が日本人に与えた影響は、計り知れない。
教養というものが、あるならば、そういうことに、心を向けることだろうと、思う。

そして、物語は、面白いか、否かである。
私には、源氏物語が、面白いのである。




posted by 天山 at 05:20| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。