2014年03月21日

国を愛して何が悪い120

武士道、第九章、忠義、について・・・

封建道徳中他の諸徳は他の倫理体系もしくは他の階級の人々と共通するが、この徳――目上の者に対する服従および忠誠――は截然としてその特色をなしている。人格的忠誠はあらゆる種類および境遇の人々の間に存在する道徳的結びつきであることを、私は知っている。・・・しかしながら忠誠が至高の重要性を得たのは、武士的名誉の掟においてのみである。
新渡戸

ただし、それは、それぞれの国柄によって、その理解度が違う。
また、評価されないこともある。

我々が国民の抱くごとき忠誠は他の国では多くの讃美者を見出さないかもしれない。
新渡戸

日本の風土、独特のものであるといえる。
だが、新渡戸は、
しかしそれは我々の観念が誤謬なるが故ではなく、おそらく彼らがそれを忘れたからであり、また我々が他のいかなる国にても達せられざりし程度の高さにまでそれを発達せしめたからである。
と、言う。

確かに、その通りであろう。
具体的なその話題を持ち出せば、明らかに、理解不能に陥ること、多々あると、思われる。

現代の日本人でさえ、そう思うだろう。
だが、そういう時代があったのである。

例えば、忠誠を誓う、君主の息子のために、我が子を、身代わりに惨殺されても、誉として、名誉として、受け容れるという・・・

中国では、親に対する服従を持って、人間第一とするのに対し、日本は、忠が第一位に置かれる。

西洋の個人主義は父と子、夫と妻に対して別々の利害を認むるが故に、人が他に対して負う義務を必然的に著しく減ずる。しかるに武士道においては、家族とその成員の利害は一体である、―――一にして分かつべからざるものとなす。この利害を武士道は愛情と結び付けたーーー自然に、本能的に、不可抗的に。それ故に、もし我々が自然愛によりて愛する者のために死ぬとも、それが何であるか。「汝ら己を愛する者を愛すとも、何の報いをか得るべき。取税人もしかするにあらずや」
新渡戸

最後は、聖書のイエスの言葉である。

この聖書の語句を用いて、欧米人の理解を得るという方法は、見事だ。

だが、残念ながら、愛する者は、愛するが、憎む者は、殺してきた、欧米の精神である。
キリスト教の教えは、機能しなかった。

つまり、理屈だけである。
しかし、武士道は、それを全うした。
それゆえに、欧米人に、感動を与えたのだろう。

シェクスピアにも、「旧約聖書」にすらも、我が国民の親に対する尊敬を現す概念たる「孝」に当たる適切なる訳語は含まれていない。
新渡戸

だが、孝より、忠が重いのである。

武士道は忠を選ぶに決して逡巡しなかった。婦人もまたその子を励まして、君のためにすべてを犠牲にせしめた。・・・
武士の妻女は毅然としてその子を忠義のために棄つるに躊躇しなかった。
新渡戸

そのような、話は、尽きない。
忠義に生きた人々は、あまりにも、数多いのである。

読み進めてゆくと、特別な言葉に出会う。

ただ国法と国家は我が国にありては人格者によって表現されていたという・・・
新渡戸

忠はこの政治理論により生まれたる倫理である。
新渡戸

つまり、天皇の政治を言う。
更に、天皇の存在そのものが、日本の国法であり、国家であるということだ。

武器を持たない、権威の御方である、天皇の存在を紹介しなければ、理解出来ないことである。しかし、新渡戸は、それを極力避けている。
当然である。
欧米人に理解させるために・・・

しかし、イギリス人のごとき民主的国民の間においてすら、プートミー氏が近頃言えるごとく、「一人の人ならびにその後裔に対する人格的忠誠の感情は、彼らの先祖たるゲルマン人がその首領に対して抱きたるところであり、これが多かれ少なかれ伝わって彼らの君主の血統に対する深厚なる忠誠となり、それは王室に対する彼らの異常なる愛着の中に現れている」ことを、吾人は想起するであろう。
と、引用している。

更に、新渡戸は、キリスト教徒であるが故に、日本の天皇を奉ずることが出来ないという、者たちに対しても、深追いしている。

「カイザルのものは、カイザルに、神のものは神に納める」
それを知らないと・・・

信仰と、この世の主は、別物であると、言うのである。

ソクラテスは彼の鬼神に対する忠誠の、一点の譲歩をも不退転に拒否しつつ、同様の忠実と平静とをもって地上の主たる国家の命令に服従したではないか。
新渡戸

国家がその人民に対し良心の指令権を要求するまでに強大となる日こそ悲しむべきである!
新渡戸

それは、共産主義、社会主義に代表される、イデオロギーの国のことである。

日本は、天皇の存在により、建国から、民主的まつりごと、を行なっていた国である。


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2014年03月22日

国を愛して何が悪い121

武士の教育において守るべき第一の点は品性を建つるにあり、思慮、知識、弁論的知的才能は重んぜられなかった。
新渡戸

知的優秀はもちろん貴ばれた。しかしながら知性を表現するために用いられたる「知」という語は、主として叡智を意味したのであって、知識には極めて付随的地位が与えられたに過ぎない。
新渡戸

これは、武士の教育および訓練、に関する記述である。

学問は、武士の活動範囲の外にあったという。

武士は「人を救う信仰箇条ではなく、信仰箇条を正当化する人である」ことを信じた。
新渡戸

実に、武士を言いえている。

哲学も、軍事的、政治的問題も、品性を得る上で、必要なものであった。

武士道教育は、剣、弓、柔術、馬術、槍、兵法、書道、倫理、文学、歴史などから、成り立つ。
十分な教育である。

それらについて、一々説明しない。

面白いのは、
武士道は非経済的である。
新渡戸
という。

それは貧困を誇る、とも言う。

であるから、児童は、全く経済を無視するように、躾けられたのである。

数の知識は軍勢を集め、もしくは恩賞知行を配分するに不可欠であった。しかし貨幣の計算は下役人に委ねられた。
新渡戸

武士は、貨幣に関わらないのである。
確かに、貨幣は、戦争の筋道であることを知っていたが、金銭の尊重を徳にまで、高めることは、考えなかったのである。

武士道において節倹が教えられたことは事実であるが、それは経済的の理由によるというよりも、克己の訓練の目的にいでたのである。
新渡戸

武士は、質素である。
これは、見事に日本の、各藩に言えた。

かくのごとく金銭と金銭欲とを努めて無視したるにより、武士道は金銭に基づく凡百の弊害から久しく自由であることをえた。これは我が国の公使が久しく腐敗から自由であった事実を説明する十分なる理由である。しかしああ! 現代における拝金思想の増大何ぞそれ速やかなるや。
新渡戸

新渡戸の時代から、拝金主義が増大していた・・・

さて、
抽象的問題が青少年の心を悩ますことは稀であった。
と、新渡戸が書く。

議論のための、議論は、無いというのである。

ベーコンが学問の三つの効用として挙げたる快楽、装飾および能力の中、武士道は最後のものに対して決定的優先を与え、その実用は「判断と事務の処理」にあるとなした。
新渡戸

つまり、実際的目的を眼中において、教育がなされたのである。

そして、武士道は、
金銭なく価格なくしてのみなされうる仕事のあることを、武士道は信じた。
と、ある。

更に、僧侶の仕事にせよ教師の仕事にせよ、霊的な勤労は金銀をもって支払われるべきではなかった。価値がないからではない、評価しえざるが故である。
新渡戸

武士道のありし頃は、そのようであった。

我が国民は、皆々、そのように、武士道からの影響を受けて、品性を為していたのである。

これが、近代日本の、精神だったことは、見事と言うしかない。

武士の地位を上に置く事によって、成り立った、日本人の、近代の精神は、世界に誇れるものだった。
だから、新渡戸の英語の武士道が、欧米人に多く読まれたのである。

慄然として、品性を磨くことの、教育を現代は、手放してしまったようである。
品性のない者は、卑しい者である。

時代は、進化したが・・・
人間性は、退化したのか・・・

精神は、言葉の世界である。
その精神の品性を高く保つために、言葉の世界があったはずである。しかし・・・

精神は、言葉に冒されてしまったようである。
何故か・・・
それは、言葉を扱う者たちによる。

そして、情報過多である。更に、その情報を鵜呑みにしてしまう、性質である。
マスコミ・・・
インターネット・・・
勿論、今では、どれも拒むことは、出来ない。
それが、出来るのは、吾自身である。

その吾に、品性を求めているのか、である。
posted by 天山 at 05:57| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月23日

国を愛して何が悪い122

第十一章は、克己、である。

或る意味において我が国民は他の民族以上に、しかり幾層倍も勝りて物に感ずるはずであると、私は考える。けだし自然的感情の発動を抑制する努力そのものが苦痛を生ぜしめるからである。感情のはけ口を求めて涙を流したりもしくは呻吟の声を発することなきよう教育せられる少年―――しかして少女を想像せよ。かかる努力が彼らの神経を遅鈍ならしむるか、それとも一層鋭敏ならしむるかは、生理学上の一問題である。
新渡戸

克己の教育である。
表現のオーバーな異国人には、それが、無情と感じられるかもしれない。

武士が感情を面に現すは男らしくないと考えられた。
新渡戸

そのようである。
感情的であることと、感情を面に現すのは、別である。

実に、多感な者でも、それを直接、現さないという、教育である。
だからそこ、私は、日本の和歌の伝統が、廃れない理由を見出す。

新渡戸も、
かくのごとく感情の抑制が常に要求せられしため、その安全弁が詩歌に見出された。十世紀の歌人「紀貫之」は「かやうの事、歌このむとてあるにしもあらざるべし。唐土もここも、思ふことに堪えぬ時のわざとぞ」と書いている。死せる児の不在をば常のごとく蜻蛉釣りに出かけたものと想像して、おのが傷つける心を慰めようと試みた一人の母「加賀の千代」は吟じて曰く、

蜻蛉つり 今日はどこまで 行ったやら
新渡戸

ここまでに、ギリギリの心境を歌うものを、外国語に翻訳するのは、無理である。更に、それは、国文学を傷つけることになる、と、新渡戸も言う。

日本を知って貰うには、日本語を知って貰うことが、一番、正しい道だ。

日本に帰化した、文学者、ドナルド・キーン博士は、源氏物語の本筋を見抜いたのである。
生きること、それ自体が、もののあはれ、であると・・・

延々と続く、物語の真髄を、外国人でありならが、見抜いたのは、日本語の力による。
まさに、言葉は、民族の魂に至るのである。

紀貫之の時代は、唐、中国にも、そのようなものが在ったというが・・・
今の、中国には、もはや存在しない。

さて、新渡戸は、その象徴的な事柄を、書き付けている。
日清戦争に際して、ある連隊が、某市を出発した際、多くの群集が軍隊と決別するため、停車場に群れ集った。
この時、一人のアメリカ人が、声高き感情の爆発を予期しつつ、その場に行って見た。
ところが・・・
群集は、ただ、沈黙し、その場は、静まり返っていた。
アメリカ人は、その光景に奇異の感を抱き、失望した。
ただ、耳を澄ませると、すすり泣くのを、耳にするだけである。

人の深奥の思想および感情―――特にその宗教的なるものを多弁を費やして発表するは、我が国民の間にありては、それは深遠でもなく誠実でもなきことの間違いなき徴であるとされる。諺に言う、「口開けて、腸見する柘榴かな」と。
新渡戸

現在は、どうだろう・・・
多くの新興宗教は、多弁を弄して、その教えを宣伝する。

多弁は、虚しいものなのである。
更に、語り尽くそうとする、根性は、如何ともし難いのである。

心底、伝えたいことは、言葉少ないものになる。

感情の動いた瞬間これを隠すために唇を閉じようと努むるのは、東洋人の心のひねくれでは全然無い。我が国民においては言語はしばしば、かのフランス人「タレラン」の定義したるごとく「思想を隠す技術」である。
新渡戸

何故、思想を隠すのか・・・
無用な、摩擦を避けるためである。
我が心の内に存在しているのであるから、それを披露して、摩擦を起こす必要は無い。

足利義満が、庶民が苦境にある時、豪華な建物を工事した。
その時、時の天皇が、暗に、歌詠み、その行為を咎めている。
即座に、義満は、工事を中止した。

勿論、いつの時代も、馬鹿はいる。
それが、通じない、馬鹿である。

克己の修養はその度を過ごしやすい。それは霊魂の溌剌たる流れを抑圧することがありうる。それはすなおなる天性を歪めて偏狭畸形となすことがありうる。それは頑固を生み、偽善を培い、情感を鈍らすことがありうる。いかに高尚なる徳でも、その反面があり偽物がある。吾人は各個の徳においてそれぞれの積極的美点を認め、その積極的理想を追求しなければならない。しかして克己の理想とするところは、我が国民の表現に従えば心を平らかならしむるにあり、或いはギリシャ語を借りて言えば、デモクリトスが至高善と呼びしところのエウテミヤの状態に到達するにある。
新渡戸

心を平らかに・・・
これは、和の心である。

和とは、おほいなる、やわらぎ、の心となる。
大和心、大和魂という。

大和とは、地名を言うのではない。
その大和の心を求めて、大和と、命名したのである。

やアまアとオ
ア音は、開く、オ音は、お送りする。
相手に心を開き、そして、その思いを相手に、贈る。

そこで、思想の違いは、何ほどのこともない。
日本にて、あらゆる思想、信条、宗教が、包括される如くである。

その上にはあるものは、和、なのである。

posted by 天山 at 05:00| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月24日

性について243

生殖が、性交から分離するだけではなく、性そのものから、分離されるという、事態も想定できる。

処女生殖と呼ばれる、単為生殖の可能性である。
つまり、クローンである。

単為生殖は、自己分裂によって、増殖することを意味する。
下等な生物だけではなく、高等な動物にもみられるものだ。

実験では、ウニ、カエル、ウサギなどの未受精卵を人為的に刺激することで、細胞分裂を起こさせることが、可能になった。

その方法を、人の女性にも、用いる。
ただし、この場合は、生まれるのは、すべて女性である。
男女を決定するのは、精子にしかないからである。

この種の、クローニングが可能になると、いくらでも、一人の人間を産むことが出来る。
ただし、その人間は、全く同じ遺伝子を持った、クローン人間である。

さて、それは、自然に反することである。
と、言うのは、簡単だが・・・

それでは、自然は、すべて合理的であるかといえば、そうではない。

生殖が性と分離するという、時代に従い、人間の性に対する考え方も、変わらざるを得ないのである。

性と、生殖の分離が不自然である。
と、考える人たちが、まだ、大勢いるだろうが・・・

では、自然のシステムが、生殖に関する限り、合理的であろうか・・・

女性の卵巣には、約40から50万個の原卵を持つ。
しかし、一生のうちに、その精々、数百個しか、排卵しない。

更に、受胎により、出産するのは、わずかである。

また、男の場合は、一生のうちに、精子を天文学的数字に達する、放出をする。
しかし、そのうちの、精々が、数匹、受精に関わるのである。

ここで、もし、自然が、合理的であるとするなら、一人の男と、限られた女だけで、地球は、人間で埋まるだろう。

そして、自然のままに、放置すれば、多くの欠陥人間も生まれる。

生殖は、合理的な科学に委ねて、性は、生殖と別のものとして、考える時代が到来した様子である。

だが・・・
合理的・・・
果たして、すべて、合理的で、いいのかという、問題がある。

社会現象の中では、合理的という言葉で、多くが解決される。

だが、生殖が、科学による、合理的な方法で、果たして、人間と、人間性は、納得するのだろうか。

更に、現代は、遺伝子によって、様々なことが、解るようになった。
あらかじめ、障害のある子供を生まなくてもいいのである。

自然=神
つまり、神への挑戦になるのか。

性を考えることは、生殖を考えることで、そして、誕生を考えることで、育児を考えることだった。
そこに、家庭という、家族の仕組みが存在した。

今、性と生殖は、その根本、基本的な、人間の最小単位の、人間関係まで、変容しようとしている。

更には、先祖という感覚、観念も、変容する。

精子バンクから得た、精子によって、受胎した場合・・・
先祖とは、誰か・・・

見ず知らずの男の精子を、受精するのである。

あるいは、外国人の男の精子を、受精する者もいるだろう。

そして、その精子バンクは、登録出来る男が、判定される。
その男の家族関係・・・
優秀とみなされる男の精子を、保存している。

子供は、授かりものではなくなる。
与えられたものではなく、自分が選んだものとなる。
その時、倫理は、どのように働くのか。

倫理学は、それを、どう捉えるのか・・・

地球の人口のバランスを考えた、生殖行為が、科学でされる時代になるのか。
そして、その主導は、誰がするのか。

性を考える・・・
さて、まだ、続けるか否か・・・

そこで、本能という、問題を考えることにしたいと、思う。
性、性欲は、本能か・・・

種族保存の本能・・・
それは、本当なのか・・・

そして、人間の、本能とは、何か、である。

本能の実体を考える。
そして、性を、更に見つめてみる。

posted by 天山 at 06:30| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月25日

性について244

性を本能として、疑わないという、社会通念が出来上がっている。

それは、食べることを、生命保存の本能と共に、性は、種族保存の本能と呼ばれている。

しかし、社会通念というより、私には、固定観念に思える。

神の子としての、人間が、本能に生きる動物と区別されていた時代は、ダーウィンの「種の起源」によって、終わったとされる。
その、進化論が、人間も、動物から進化したものであるとし、動物と別の種ではないことを、明確にした。

それ以後、人間の本能についての、研究が盛んになった。

その研究の第一人者といわれる、マクドゥーガルは、あらゆる社会行動を、本能という概念で、説明した。

それによると、逃走、拒否、好奇心、怒り、自己卑下、自己主張、両親愛の七つが、基本的本能であり、次に、重要な本能が、生殖、集合、取得、制作の四つであるという。

ここで、摂食が出て来ないことである。

しかし、上記にも、疑問がある。

その本能として、上げているものは、社会生活と関係なく、生まれつき持つ、衝動なのかということだ。

人間は、社会生活と関係なくして、人間であることは、不可能である。

マクドゥーガルの本能心理学は、その後、行動主義心理学の発達と共に、新しい欲求心理学へと、移行した。

1930年頃に、ロシアのハブロフが行なった実験により、条件反射という言葉により、人間の行動に、新しい分析を与える。

そして、それを、人間について、
われわれの生活は条件反射に満ち溢れている。それは、われわれの習慣や、教育や、すべての統制ある行動の基礎である。
と言う。

そして、社会心理学が発達すると、人間の行動が、学習と、条件付けによって、支配されるとする、考え方が生まれた。

更に、20世紀の文化人類学・・・
社会活動に関する本能の普遍性を否定する、考え方が占めるようになる。

現在、人間の欲求を、地球上のどこでも通用する、固定した、生得的な遺伝的本能として、考えなくなっているのである。

様々な、調査、研究の結果、性欲が、種族保存のための、生殖から、逸脱していることが、確認された。

子を産むことは、性的本能の自然の目的であり究極点ではあるが、それを性的衝動の内容の一部分と考えること、あるいは性的衝動の定義として少しでも役立てようとすることは、ぜんぜん承認しがたい。
エリス

動物の多くは、本能によって、行動し、性本能によって、種の保存を可能にする。生殖から逸脱した性行動は、観察されないのである。
そして、その行動は、発情期、繁殖期に限定されている。

人間だけが、動物の性本能とは、別になったのか・・・

今まで書いてきた、様々な、人類の進化の様子を、振り返って欲しい。

人間の性を考えることは、人間とは、何かを考えるのと、同じなのである。

人間が、他の動物と、違うところは、智恵や、道具、言葉を持ったことである。
つまり、大脳化である。

人間が、人類として、生存を可能にしたのは、他の動物のように、自然的存在であることを、止めたからである。
智恵、道具、言葉、そして、社会生活という、要素を生存の仕組みの中に、組み入れたからである。

それにより、動物とは、異質の存在になった。

そして、本能という、メカニズムも、それに代わる、智恵、道具、言葉、社会生活によって、捕らわれ、また、新しいそれらの要素によって、本能は、不要となった。
本能が不要になる・・・

ということは、人間は、人間として、作られてゆくということである。

長い時間をかけて、人間は、人間として、作られてゆくようになったのである。

児童心理学では、赤ん坊が、9ヶ月目には、認識能力を身に付けるようになる。そして、思春期になり、性を含む、様々な人間としての、認識を身に付けるのである。

それが、大脳化であり、大脳生理学によって、明らかにされた、新しい皮質によってである。

大脳には、身体機能を司る皮質があり、古い皮質と呼ばれる部分が、いわゆる本能を司る役割を果たす。
しかし、新しい皮質によって、古い皮質が、覆い隠された。

この新しい皮質によって、人間は、人間として、生きてゆくのである。

古い皮質は、新しい皮質によって、支配されるという、事実である。

つまり、本能の脳は、新しい皮質によって、制御され、あるいは、正される。

本能の場所は、新しい皮質に、明け渡したのである。
つまり、性、性欲という、ものは、本能とは、いえるが、それは、新しい皮質によって、如何様にも、利用出来る、統制されるものとなった。

その、新しい皮質は、精神を作る。
つまり、人間は、その精神によって、生かされるということなのだ。

もう、本能では、生きられないのである。

であるから、人間は、本能に支配されるのではなく、精神に支配されるようになったのである。

posted by 天山 at 05:38| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月26日

性について245

さて、少し視点を変える。

日本、及び東洋では、西欧に見られる、愛という概念がなかった。
どういうことか・・・
つまり、性愛の世界のみが存在した。

万葉集、源氏物語・・・
そこには、性愛の花が咲いた。

そこから、肉体を離れた、永遠なるものというような、観念を見出すことは出来ない。

日本における、性愛には、二つの流れがある。
一つは、日本古来のもの。
そして、西欧から輸入した、性愛である。

この後者が、長いキリスト教の、禁欲による、アンチテーゼとして生まれたものである。
特に、ヴィクトリア朝への反動として、過度に、肉体を強調するものであった。

愛と性に基づくものという考え方は、実は、性に対する人間の態度を、実に、狭量にしてきたのである。

近代ヨーロッパがはぐくんだ性と愛の結び付きに関する思想は、たんに愛を性の従属物たらしめる誤りを犯しただけではなく、同時に人間の性をそのほんらいのすがたとちがう性格のものにつくり上げるという誤りをおかしてきた。
巻 正平

それは、愛が独立した存在であると共に、性も、独立した存在なのであるということ。
それを、見失ったのである。

性は古来、社会的制約の元におかれてきたが、愛と性を結び付ける考え方は、更に、性の制約を強化するために、役立ったのである。

例えば、愛の無い性を、不道徳であるとするように・・・
結婚という、社会制度の元で、法的に制約されている性が、この思想により、新たに、道徳的に大きな、制約を受けるのである。

そこから、売春廃止などを、実行した。

だが、人は、更にそれに抵抗せざるを得ないのである。
売春禁止によって、何が起こったのか・・・

性的混乱、ポルノグラフィーの氾濫。
スウェーデンでは、未婚の母の家、を作るに至ったのである。

そして、フリーセックスである。

性と愛を結び付けることは、それ以前の封建的社会制度やキリスト教的禁欲思想にしばりつけられていた性を、愛によって個人の自由として解放しようとする試みであった。しかし、同時に愛が社会制度としての結婚と不可分なものとされたことによって、性独自の存在はついに解放されずに終わったのである。


性と生殖を分離させるということは、性の社会性を減少させて、個人的性格を強める。
それが、人間の他の機能と同じく、個人の自由な行為が認められつつあることだ。

しかし、未だ、性と生殖の分離が、不完全なままである。
これが、性の解放に必要な、条件が揃わないということを、教える。

性と愛・・・
その関係の正しい考え方・・・

キリスト教が、教えた性のあり方では、無理なのである。
更に、性は、愛に基づくという、考え方。

性は肉体であり、愛は精神であるという、蒙昧である。

性行為が、愛する証し・・・
果たして・・・そんなことが、言えるのか。

それでは、何故、セックス後に、別れるのか、離婚をするのか・・・
愛が無くなったからか・・・

そう、都合よく、愛が消滅する・・・

実際、性と結婚が、結び付けられる歴史は、長いものではない。

古代ギリシャでは、性的快楽と、結婚は無関係、別物であった。

われわれは、われわれの快楽ためにはヘタイラ売春婦を所有し、日々のサービスのためには妻を所有するが、われわれが妻を所有するのは合法的なこどもたちのためであり、家事を忠実に行なわせるためである。
古代ギリシャの政治家・デモステネス

と、いうことになる。

つまり、妻とは、当時、性的関係の対象ではなく、家事労働者であり、子どもを作る道具としか、考えられていないのである。

これは、封建的社会では、どこでも見られたことである。

長い間、それが続いていたのである。

女は、男の所有物だったのである。
古代の文献は、皆々、そのようである。

モーゼの十戒の中に、姦淫するな、盗むなとある。
これは、実は同じ意味である。
女は、他の男のものであるから、盗むな・・・である。

これは、実に憐れなものであるが、その実、母となると、別物になるという。
人には、皆、母がいる。

母系社会が、寛容である証拠である。

兎に角、性と愛というものを、分離して考えることが、先決である。

性的快楽は、愛とは、別物であるということ。
そこで、初めて、性とは、愛とはと、考えられるのである。
posted by 天山 at 06:07| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月27日

霊学147

境ヨク(門構えに、或)の守護霊について・・・

ヨクとは、門の境界の横木の意味である。
境と同じ、区切りという意味。

面倒なので、守護霊ということで、記す。

「境ヨクの守護霊」との出会いは霊界へ参入する際の重要な体験である。・・の守護霊は単一の存在ではなく、本質上「・・の小守護霊」と「・・の大守護霊」に分けられる。・・・
霊妙な身体部分(エーテル体とアストラル体)の内部で、意志、思考、感情の間の結合帯が解け始めたとき、人間は前者の守護霊と出会い、この結合帯の解消が身体の肉体的部分(特に頭脳)にまで及ぶとき、「・・の守護霊」と向き合う。
シュタイナー

小守護霊は、独立した存在であるが、相当する発展段階に到る以前の、修行者にとって、その存在は、どこにも、見出せない、と言う。

シュタイナーは、それを物語的に語る。

思わず怖気立つような、妖怪じみた存在が修行者の前に立っている。これに向き合う修行者はまったく透徹した意識を持っており、これまでの修行で十分身に付けてきた自分の認識力の確かさについてはまったく自信を持っている。
シュタイナー

その説明であるが、趣味の悪い、仏典のようである。

何度か繰り返し読んでみたが・・・

私はこの妖怪じみた姿はおまえ自身の生活の会計帳簿を映し出している。
シュタイナー

これは、潜在意識か・・・

その最初の部分を、引用する。

これまでおまえの眼にふれることのなかった霊的な力がおまえを導いてきた。それらの力はこれまでのおまえの人生の中でおまえの善行には良い恵みが、おまえの悪行には悪い報いが来るように働きかけてきた。それらの影響を通して、人生経験と思索をもとに、おまえは自分の性格を作り上げてきた。おまえの運命はこれらの力の働きの結果なのだ。それらは輪廻転生の一時期に割り当てられた快と苦の量を、前世におけるおまえの態度に従って決定した。それらの力は一切を包括するカルマの豊作の形式をとって、おまえに対する支配力を行使してきた。ところが今これらの力がその支配権の一部を手放そうとしている。
そしておまえに対して為してきた仕事の一端はおまえが代わりに果たさなければならない。
シュタイナー

と、言うことで・・・
少しばかり、呆れるのである。

解り易く説明するという、主旨なのだろうが・・・

色々なモノの、寄せ集め的な物語である。

もしその後にもなお、不正な行いをおまえがするようなことになると、直ちにおまえのその罪は私の姿を醜い悪鬼に変身させるだろう。
シュタイナー

趣味の悪い、道徳的、お勧めである。

ユング的に言えば、潜在意識であり、自分自身であろうか・・・

兎に角、まともに、読んでいられないものである。
一体、霊学にこのようなことが、必要なのかと、思う。

これまで己の犯してきたすべての不正行為に決着をつけ。もはや悪行を重ねることが全く不可能な程に、自己を浄化させたなら、その時はじめて私は光輝く壮麗な形姿に変じるだろう・・・
シュタイナー

一体、悪行とか、不正とか、何を言うのだろうか。

その註に・・・
・ ・守護霊はアストラル的形姿であり、修行者の高度な霊的直観によって知覚される。
と、ある。

神秘学はこのような霊的直観を教える。
とあるが・・・
実に、不案内である。

この守護霊の姿は修行者自身の過去の結果に過ぎない。その姿は過去の生活が作り上げた修行者の性格である。
シュタイナー

このような、繰り返しも多い。

つまり、守護霊とは、我自身である。
と、私は考える。

生活の結果が彼の外で独立した生存をいとなめるまでに覚醒されたのである。そしてこの覚醒は、意志と思考と感情が相互に分離しなければ惹き起こされない。
シュタイナー

意志、思考、感情の分離・・・
それでは、それぞれに、意志霊、思考霊、感情霊と言えばよい。

シュタイナーの著作を、引用してきて解ることは、単なる、シュタイナーの拘りと、捉われである。

最後に、シュタイナー哲学というものを、考えるが・・・
哲学的な言葉を多数使用して、霊的な事柄を説くと、見ているが、全く、独善的である。

そして、そこから解釈されて、色々な分野が出来た。
シュタイナー教育など・・・

一体誰が、それを確認できるのだろうか。
私が、読み込めないというより、滑り込まなければ、理解の出来ないモノ、或いは、理解しなくていいモノなのかもしれない。

例えば、瞑想修行というものも、単なる、時間潰しになる人もいる。
無念無想で、何も考えない・・・
それでは、別に、瞑想の時間を設けなくても、何も考えずにいればいいのである。

人間は、黙っていても、無念無想になる時間がある。
その一瞬でも、無念無想なのである。

勿論、私は、何一つも、否定しない。
それは、自己満足でいいからである。

posted by 天山 at 05:15| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月28日

霊学148

シュタイナーの守護霊の箇所で、共感する部分がある。
それは、死に対することである。

・ ・の守護霊との出会いを幸いにも通過できた修行者が死の瞬間を迎えたとき、その死はこれまでの前世で体験してきた死とはまったく異なる事実として受け止められる。死がまったく意識的に体験され、まるで使い古しの、または使いものにならなくなった衣服を脱ぎ捨てるように、彼は自分の肉体を脱ぎ捨てる。死が修行者にとって、特別に大きな事件であるのは、彼と共に生きてきた人たちとの別離としてであり、そしてまだ物質世界だけを現実世界と考えている人たちのことを考えてである。
シュタイナー

これは、多くの霊的関係の思想と、同じである。

全く、その通りである。

彼が生前体験してきた超感覚的世界はすべて、生前は生前に応じた仕方で自分の前に現存していたし、死後も死後に応じた仕方で自分の前に現存し続けている。
シュタイナー

この「・・の守護霊」は別な事柄とも関連している。この世の人間は家族、民族、人種に属し、その働きはどのような共同体に属しているかによって左右される。
シュタイナー

この、家族、民族、種族に関しては、以前、シュタイナーの説明の際に、書いた。

民族の魂は自己の意図を物質的な感覚世界で実現するために、個々の人間の肉体を道具として使用する。
シュタイナー

これも、共感出来る、箇所である。

それは、意識的、無意識的に、そのようになるのであり、守護霊云々とは、本当は、関係ない。
だが、守護霊というものを、置いて、考えるということは、否定しない。

どの人間も、言葉のもっとも真なる意味で、家族の、民族の、もしくは人類の意図に従って働いている。修行者は、・・の守護霊と出会った時から、彼自身の個人的な立場を意識するのみならず、民族や種族によって与えられた使命に対しても意識的でなければならない。
シュタイナー

そのための、守護霊なのであろう。

このことで、修行者は、自分のアストラル体に、新しいアストラル体を付け加える過程であると、言う。

だが、使命を意識する、無意識に行為するということは・・・
どちらも、使命を果たすのである。

そこに、シュタイナーが言う、高級霊の関与がある。
神ではない。高級霊である。
これは、多分に、グノーシス主義の考え方である。

その証拠に、後に、血族、民族、人種の守護霊たちという言葉が出てくる。

通称、背後霊というのは、それらの、総称である。
一人の人間の背後には、膨大な、霊が関与するということだ。

シュタイナーのすべてを、受け入れることは、出来ないが、それぞれの箇所には、共感する部分がある。

ここで言う、修行者ではなとも、守護霊という存在は、誰にでも、存在する。
ただし、その霊は、その人の性格、そして、行為により、入れ替わる。

更に、物質世界だけを、すべてだと、信ずる人の守護霊は、近づけない。遠く、遥かに、遠くに存在する。

ただし、別の霊的存在が、非常に近くに存在する場合がある。
世に言う、成功者といわれる人たち。
彼らの、背後には、守護霊ではなく、別の霊的存在が関与する。

その、良し悪しは、言う必要が無い。

ここで、解ることは、人間は、生きていると、思い込むが、実際は、生かされているのである。
多くの、眼に見えない存在によって、生かされている。

自分の意志で、何事かを為すと思うが、実は、その背後には、多くの霊的存在が係わり、その人間に、行為を促がす。

操られる人間なのである。

人間の頭で、捏ね繰り回した、様々な考え方・・・
実は、それも、背後に存在する、霊的存在が関与する。

シュタイナーが言う、修行者とは、それらを意識するか否かにかかっていると、思われる。
それを意識する人を、修行者というならば、理解する。

今まで、心霊主義や、その他諸々を見てきたが、西欧の哲学、思想を通しての、シュタイナーである。
その西欧を主とする考え方もあり、実際は、イスラムの心霊に関する考え方、インド系など、様々に存在する。

歴史も、西洋史を主にして学ぶと、誤る。
更に、それぞれの妄想も、多く存在する。

そして、霊的な事柄には、物質的世界ではない、つまり、眼に見えないという、世界のこと故に、通常の常識では、測り知れない世界である。

そうすると、信じる、信じないという、二つの対立した考え方が出る。

何度も書いているが、シュタイナーの見た、霊的世界は、何処なのだ・・・
その検証が必要である。
だが、その証拠とは、何か・・・

言葉で、語り得るものなのか・・・
だから、修行が必要になるともいえる。
だが、その修行というものが、本当に真っ当なものなのか。

一番、危険なことは、新興宗教などに見る、教祖の思い込み、妄想の産物による、修行法である。

眼に見えない世界は、非常識な世界である。が、故に、常識的に判断するべきである。
だから、霊学には、精神医学の教養が必要なのである。

狂いと、超感覚的世界は、紙一重である。

posted by 天山 at 06:02| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月29日

霊学149

守護霊によって、もう一枚の着物を身にまとうようになる。

これまでの彼は、彼個人だけを包む魂の衣服を着けて、世界を生きてきた。そして彼が自分の属する共同体のために、民族や人種のために、為すべき事柄については、彼個人を道具として用いる高級霊たちが考慮してきた。―――さて「・・の守護霊」は、今後高級霊たちが彼から一切配慮の手を引くであろうと彼に打ち明ける。彼は共同体の温床から出ていかなければならない。今もし民族霊や種族霊の力を身につけておかなければ、彼は孤立した存在となって、完全に自分の中に凝り固まり、破滅の道を進むことになるであろう。
シュタイナー

これは、シュタイナーの霊界のものであると、意識しておく。

民族の、血族の、そして人種の指導霊の指揮からの手からまったく離れるということが何を意味するか、今はじめてそれを認識するようになる。
シュタイナー

つまり、民族、人種、血族によって、人間は、成長したのであるということだ。
だから、それらから、離れるということは、孤立するというのである。

ここでいう、指導霊とは、高級霊のことだろう。

そして、
この守護霊の次なる警告の声が響いてくる。

「おまえ自身、この闇に光を当てることができるまでに輝け。それができぬ間は、私の・・を通過しようとするな。・・・・おまえを導いてきた者たちの明かりはもはやこれからは存在しないのだから」。この言葉を聴いて、修行者は思わず振り向き、眼差しを後ろへ向ける。すると・・の守護霊はこれまで人生の深い秘密を覆っていたカーテンを取り払う。血族、民族、人種の守護霊たちがそのありのままの姿を現す。そして修行者は自分がこれまでどのように導かれてきたのかを明らかに悟るのみならず、今後もはや、このような指導を受けることはないであろうと悟る。これが霊界への・・で、その守護霊によって与えられる第二の警告である。
シュタイナー

実に、多弁な著である。
このシュタイナーの神秘学、神智学を研究する人たちは・・・
一体、どのように修行することだろう。

私にとっては、この有り様は、自己との対話であると、言う。
このような、霊的現象は、実に危険である。

それは、霊的に行なわれてはならないものである。
もし、そのような、守護霊との対話によって、何事かを得るとしたなら・・・
それは、不自然である。

シュタイナーが、何処の霊界の情報を得ているのか、それに疑問を持つ。

霊界を実在界と呼び、この世を現象界と呼ぶ人たちもいるが・・・
確かに、霊界を主たる存在の場所と認識すれば、そのように言える。

だから、シュタイナーの死についての、記述は、共感するが・・・

・ ・の小守護霊との出会い・・・・
この出会いを通して人間は、小守護霊という超感覚的存在を生み出したのが自分自身であったことを知った。この存在の体は人間自身の行為、感情、思考の諸結果から構成されていた。
シュタイナー

自分の中にある特定の傾向や習慣が、なぜそのような在り方をしているのか、今彼はそれを理解することができる。
シュタイナー

それを超感覚的存在というが・・・
それは、心理学では、当然の結果である。

別に、守護霊を持ち出さずとも、それは、説明が付く。

自分が生まれる以前に、ふたたびこの世に生を受けねばならぬ原因がすでに作り出されていたことに、彼は気づく。
シュタイナー

シュタイナー以前に、インドでは、それは、とうに解っていたことである。
特に、仏教の一つの派閥は、それを主として考えていた。

未生の我、である。

事実彼は次のように考えない訳にはいかない。「私がかつてこの世界にはじめて生を受けたのは、この世に生きて、他の世界の中では手に入れることのできぬ諸性質を身に付ける必要があったからである。私はこれからもこの世界との結び付きを保ち続けなればならない。そしてこの世の現実の中で獲得できるすべのものを、自分の中に取り入れなければならない。そうすることによってのみ、いつか私も他の世界のための有用な一員になれるであろう。そのためにも眼に見えるこの感覚的現実の中でのみ育成することが可能な能力のすべて、手に入れなければならない」。
シュタイナー

感覚的に把握しうる世界の本当の価値が、修行以前よりも、もっと深く認識でき、評価できるということは、霊界に参入した者の体験内容のもっとも重要な部分である。この認識と評価は、超感覚的世界の洞察を通して、彼のものになる。
シュタイナー

このシュタイナーの語りに、迷う者もおおいであろうと、推測する。

西欧の哲学、思想は、語り尽くすという一点にあるので、なんとも言えないが・・・
シュタイナーの研究者は、西欧の哲学史の中での、シュタイナーの位置を探る様子だが、これは、哲学に到るのか・・・解らない。

仏陀の悟りが、一つであるように、シュタイナーの考え方も、一つである。
更に、仏陀の観た霊界と、シュタイナーの観た霊界も、同じものとは、思えない。
更に、仏陀は、霊界については、一切、口にしていない。

私は、共に、生活指導だと、考える方が、易い。
改めて、超感覚的云々と言う必要は無い。

感覚を超える感覚というのだろうが・・・
私は、単に、感受性と呼ぶ。

感受性の強い人、弱い人がいる。
霊的感受性の高い人、という言い方をする。
それは、体質的なことになる。

勿論、感受性を高めるために、色々な方法があるだろうが・・・
修行とは、言わない。

修行とは、行為する人の、思いで決まる。
修行だと信じれば、修行になるのである。

posted by 天山 at 05:53| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月30日

霊学150

感覚的に把握しうる世界の本当の価値が、修行以前よりも、もっと深く認識でき、評価できるということは、霊界に参入した者の体験内容のもっとも重要な部分である。この認識と評価は、超感覚的世界の洞察を通して、彼のものになる。このような洞察ではなく、予感だけを通して、超感覚的領域が無限に価値多い世界であると信じようとする人は、感覚世界の意味を過小に評価してしまいがちになる。しかし可視的な現実の中で必要な体験を獲得することができなければ、不可視的な世界の中でも、必要な洞察力を持ち得ない。
シュタイナー

このように、書かれると、実に難しいことになる。
つまり、可視的な現実の中で体験することは、不可視的な世界でも、必要なことなのである。それで、いい。

洞察力は、現実、不可視的世界でも、必要なことである。
そうでなければ、浮いてしまう。
単なる、偏狭な、修行者になるのである。

私は、シュタイナーを説明することは、しない。
紹介しているだけである。

不可視の世界の中に生きるつもりなら、そのために必要な能力や手段を可視的な世界の中に求めねばならない。
シュタイナー

当然である。
この現実から離れて、一体、何を得るというのだろうか。

不可視の世界を意識化しうるための霊的洞察力、「高次の」世界のための視力は、「低次の」世界での諸体験を通してこそ、次第に形成されていく。肉眼を母の胎内で形成できなかった子どもが、盲目に生まれつかざるを得ないように、この世で霊眼を開発しなかった人は、霊眼を備えた者として霊界の中を生きることができない。
シュタイナー

そんなことは無い。
意識せよ、無意識にせよ、霊界に参入した場合は、霊眼など必要なく、霊界を生きることが出来る。

この場合の、霊眼とは、何か・・・
特殊能力か・・・

皆々、シュタイナーの修行によらなければ、霊眼を得ることが出来ないというのは、僭越である。

これは、シュタイナーのための、修行である。

それは、超感覚的世界への、・・が守護霊によって、守られているからだと、言う。

そして、
そのために必要な諸能力が獲得できる以前には、霊界を本当に洞察することは許されないのである。それ故死と共に、まだ霊界での活動能力をもたぬ人が霊界へ入っていくと、その度に、ヴェールが霊界の体験内容を覆ってしまう。そのための能力を十分成長させた者だけが霊界を意識的に体験することを許される。
シュタイナー

と、いうのは、彼の言う、霊界のことである。

すべての、霊界について、言えることではない。

勿論、そういうこともあるだろうと、否定はしない。
それぞれの霊界により、違うからだ。

だが、納得することも、多々ある。

超感覚的世界が感覚世界から発展してきたのだという先入見は、とうに否定されている。超感覚的世界が最初に存在したのであり、すべての感覚的なものはここから発展してきたのである。
シュタイナー

つまり、霊界が、最初であり、そこから、現実の世界が成り立ったということだ。

だから、霊界には、現実世界と同じような、風景が存在する。
その風景から逃れなられない霊がいる。
つまり、霊界に必要な霊眼を得ていない・・・のか・・・

それは、意識のレベルである。
そのことを、シュタイナーは、細かく説いているのか・・・

実際、とても、霊界は、シンプルである。
少しの意識の上昇で、簡単に、別の霊界の世界へ、移動する。

死ねば、解るといえば、終わってしまう話だが・・・

彼は、自分自身もまた、感覚世界にはじめて生まれてくる以前は、或る超感覚的世界の一員であったことを知る。
シュタイナー

ここで、或るというのだから、シュタイナーも、霊界の諸相を知る者だと、認識する。

しかしかつての超感覚的世界は感覚世界への修行を必要とした。その世界はこの移行なしにはそれ以上発展しえなかったであろう。感覚的な領域の中で必要な能力を発展させえた存在が現れたときはじめて、超感覚的世界もさらに前進する。そしてそのような存在こそが人間なのである。
シュタイナー

シュタイナーの人間に対する、位置付けが、明確になった。

超感覚的世界の、前進のために、人間の存在がある。
とてつもない、馬鹿げたことなのか・・・
あるいは、それが、本当なのか・・・

シュタイナーの霊学を、作り上げたものは、何か。
その周辺の哲学、思想を俯瞰するべきだ。

彼の超感覚的世界から、妄想とも思える、様々な、提言がなされている。

今までも、それらを書きつけてきたが・・・
だが、このシュタイナーの著作を最後まで、読み込むことなのである。

何故なら、シュタイナーは、この書物を読み込むことによって、個人的に修行することを言うのである。
その、読み込みこそが、大切なことであるという。

posted by 天山 at 05:58| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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