2014年03月01日

天皇陛下について173

新嘗祭という、穀霊の再生の儀式がある。

それは、誰も知らない世界である。
天皇から、皇太子に直に、口伝で伝えられる。

その屏風の中の姿は、誰も知らないのである。

その祭祀を行なう日の、前の晩は、皇后と床を共にされず、御一人で休まれる。
不浄なものに触れないと、ある。

女性差別ではないが、その祭祀は、男のものである。

宮中三殿の、賢所で祭祀を行なう時は、賢所の回廊に上る段の前で、侍従が靴を脱がせられる。

天皇が、賢所の中に入られると、裾を持った侍従が、そのまま従い、御剣を奉じた侍従は、扉のすぐ脇に、平伏し、天皇が出られるまで、後頭部の上に、両手で御剣を捧げて持つ。

賢所の中には、天照大御神の、神鏡である、やたの鏡を祀る内陣と、外陣に分れている。

裾を持った侍従は、外陣までしか、入らない。
掌典が内陣の前にある、羽二重の幕を開けると、平伏し、天皇が出られるまで、そのままで、待つ。

天皇は、そこから、しっこう、という、膝をついて、進まれ、神饌幣物の前で、御神体が入る御櫃に向かい、両段再拝を行なわれる。

それから、立たれて、御告文を取り出し、読まれる。
御告文は、天皇が読む祝詞である。

擬古文で書かれた御告文は、最初に、神名を称えて、賢しこみの意を表し、結びとして、自己の戦々兢々の態度を述べられるものである。

読み終わると天皇は、板の間に平伏する。
すると、白い着物に緋袴をつけた内掌典が、紐を引いて、内陣の天井から下がる、金鈴を鳴らす。

無数の音が鳴り響く。
この時、内掌典には、神威が乗り移るといわれる。

天皇は、平伏して、その音を聞いている。

鈴の音が終わると、天皇は顔を上げられ、最初と同じように、膝で内陣を出る。
侍従に裾を持たれて、御扉から、姿を現す。

すると、御剣を捧げて、平伏していた、侍従が立ち上がる。

御告文の後で、鈴の音が朗らかに鳴れば、神が御言葉を受けいれたとし、受けいれない場合は、鳴り方が悪いと、いわれる。

しかし、天皇は、その後で、誰にも、その心境を話すことはない。

この天皇の、祭祀は、1200年ほども、続いている。

時が移り、世の中が変わっても、その祭祀は、変わらずに、行なわれる。
もし、いつか、その祭祀が、公開されることがあれば・・・

天皇から、皇太子へ・・・
世界の国々で、唯一、それが、行なわれる国、日本である。

皇祖皇宗とは、超越した存在の神ではない。
日本人の祖霊であり、先祖である。

その、祖霊が、先祖が大切にしてきたものを、守り、更に、その霊位に対して、誠を尽くして、向う天皇の祭祀である。

神道・・・
これは、皇室神道と言えるものである。
そして、皇室神道は、日本と、日本人の原型ともいえる。

様々な神社には、それぞれの祭祀の仕方がある。
神社神道である。

それは、皇室神道から発した、祭祀である。
或いは、その写しである。

只今、神社は、神社本庁という、宗教法人として、成り立つ。

日本には、様々な世界の宗教が、混在している。
だが、皇室神道は、それらを包容し、日本、日本人のために、行なわれる、天皇の祭祀なのである。

本来は、宗教というものを、超越していると、考える。

この、天皇の祭祀を、奉じて、日本という、国が存在する。
もし、それが、無くなれば、日本という国が、無くなる。

簡単に言えば、天皇の存在しない、日本という国は、成り立たない。

それは、つまり、古里を失うという感覚に近いものである。
先祖たちが、大切にしてきたものを、今も、大切にしている。
そこで、先祖たちと、つながる。

それぞれの、家系の先祖に対する思い・・・
天皇は、その象徴なのである。

それは、民族の、偉大なる、共同幻想として、成り立つ。
神話があり、共同幻想の最たる天皇の存在が、日本という国を、成り立たせているのである。

為政者が変わろうと、変わらない存在があるという、日本は、実に幸せな国である。

天皇の存在が、超越した世界遺産であり、文化遺産であると、言う。
そして、天皇は、国民が何を言おうが、すべて包容する。
天皇に反対する者も、天皇は、それらも日本人として、向う。

敗戦後、共産主義者たちが、食べ物よこせと、皇居に押し寄せた際に、昭和天皇は、驚くこともなく、側近に、あの者たちも、日本人であろうと、仰せられた。
つまり、天皇には、敵がいないのである。

国民の誰一人も、天皇の敵ではないのである。

国内に、敵を想定しない、君主は、日本の天皇のみである。


posted by 天山 at 05:27| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月02日

霊学142

次に、第三の試練である。

最後のこの試練にはどんな目標も感じられない。すべては彼自身の手に委ねられている。何ものも彼を行為に駆り立てようとはしない。そのような状況の中で、彼はまったく独りになって、自分で道を見出さなければならない。どこへ向っていったらいいのか。自分自身の他には、自分の行くべき方向を示し、自分の必要とする力を与えてくれるような何ものも、何びとも存在しない。
シュタイナー

この試練に必要なことは、速やかに、自分自身を取り戻すことである。

言葉のもっとも真実の意味で自分の「高次の自我」をこの試練の間に見出さねばならない。すべての事柄において霊の呼びかけに応じる決意を速やかに固める。
シュタイナー

霊の声に従おうとする気持ちを、邪魔するものは、直ちに、克服されなければならない。

自分自身の中にこそ、自分を支えてくれる唯一の確実な、支点が見出せる。

読み続けていると、具体的なのだが・・・
矢張り、抽象的なのである。

この試練は、無条件な、霊の顕現を実現することを、目的にしている。

この試練は神秘修行上「風の試練」と呼ばれる。なぜならそこでは外的誘因という確かな地盤や、準備と開悟の段階で認識した色、形などから生じる事柄を拠り所にすることができず、もっぱら自分自身以外に頼るものを持たないからである。
シュタイナー

この時点で、更に、何をなすべきかということは、
神秘修行者は神秘教義の秘密を決して他人に漏らさぬという誓いを立てねばならない。
と、表現される。

シュタイナーは、それを漏らしている・・・のでは・・・

ここでいう、誓いとは、通常の意味の誓いとは、違う。
進歩の段階に応じたひとつの経験をもつことを意味している。

人はどうしたら神秘教義を人類のために役立たせうるかを学ぶ。
シュタイナー

気功から、霊界を解いていた人が、矢張り同じようなことを言っていた。
そして、弟子を集めて・・・
カルトに似ていた。

延々と語り続けるのであるから、その中から、一部を取り出して、色々と、屁理屈を付けられる。
シュタイナーも、それに似る。

すなわち沈黙すべきなのは人がこれまでに語ってきた多くの事柄についてであり、特に大切なのは、これまでの語り方で語ることをやめて沈黙するという素晴らしい特性を見につけることである。
シュタイナー

これまで、進歩してきた人間にとって、言うことを「禁じられている」ような事柄は差存在しない。
シュタイナー

どんな人間も、どんな存在も彼にそのような方向での「誓い」を命じることはできない。すべては彼自身の責任に任せられている。彼が何を学び、何を行なうべきかは、どんな状態の下でも、自分自身によって決定されなければならない。だから「誓い」とはこのような責任を負うことができるまでに成熟した、ということ以外の何ものをも意味していない。
シュタイナー

要するに、第三の、風の試練を通過した人である。

そして、そこまで、成熟した志願者は、「忘却の飲み物」といわれるているものを、受けるという。

低次の記憶に邪魔されることなく、いつでも、霊的な働きに集中できる方法を伝授される。

どんな時にも人間を取り巻いている思い出というヴェールを取り除くことができなければならない。
シュタイナー

人生経験は可能な限り、常に利用しなければならない。しかし導師であるためには、すべての新しい体験をその体験から評価できる能力を身に付けなければならない。そして一切の過去の経験によって曇らされることなく、自分をその体験の作用に委ねなければならない。
シュタイナー

新しい事柄を、古い事柄によって、評価することは、誤謬を持ち込むことになる。

もし私が特定の経験をしなかったなら、今私の前に現れている事柄や存在の特徴をおそらく全然洞察することができなかったであろう。
シュタイナー

しかし新しいものを古いものによって評価することではなく、まさに新しいものを洞察するためにこそ、経験が利用されねばならない。
シュタイナー

導師には、次に、「記憶の飲み物」がある。

これを飲むと、高次の秘密を常に精神の中に生かし続けることができる。
シュタイナー

シュタイナーの勝手な見解を聞くようである。
こけおどしにならなければ、いいが・・・

人は完全に高次の真理内容と一つにならねばならない。
シュタイナー

真理内容そのものが行となり、習慣となり、性向とならねばならない。・・・
かくして彼は自分を、自然が肉体に対して為したように、霊的意味でますます進化させていくのである。
シュタイナー

これが、霊界参入である。
シュタイナーの、行というものを行い、その気にならなければ、いいがと、思う。

妄想の中に、分け入って行くこともある。


posted by 天山 at 05:45| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月03日

霊学143

只今、シュタイナーによる、いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか、という、著作を紹介している。

霊学というものの、歩みの一つとして。
しかし、読み進めて行くと、これは、一つの人生論であり、もし、彼の主張を受けいれるとしたら、宗教を信じることに似るのである。

ただ、兎に角、喧しく、説明することが、特徴である。
延々とし、具体的に説明することには、抵抗が無いが、それにより、彼の、霊的感覚を受けいれることは、出来ない。

具体的に説明することで、より、超感覚の世界を認識するという、命題であるが、その超感覚という世界は、生きている者が、極めて注意深く、生きることで、獲得出来るものなのである。

それでは、神秘修行の諸条件を、読む。

説明が、くどいので、簡略化して、紹介する。

神秘修行が、難しく、嘆く者は、・・・
自分の中に厳しい具体的な実践の条件を充たす能力も意志も見出せぬ間は、しばらく神秘修行を断念せねばならなぬ。・・・

断念するとは、生きること、生活することを、止めるということである。
何故なら、シュタイナーの修行は、生活の中で、当たり前の行為だから・・・

その第一の条件は、肉体と精神の健康に留意することである。と、ある。

健康であろうとする人間からしか健全な認識は育ってこない。
シュタイナー

違う。
黙っていても、健康志向を人間は持つのである。

生活が、健康でなければ、生活出来ないのである。

それに関して、兎に角、延々と、説明している。
これは、シュタイナーが強迫性観念に、縛られている証拠ではないか。
あるいは、人間を信じていないか、である。

面白いのは、
禁欲生活といえども、それが諸々の享楽と同じような動機から発したものである限り、何の役にも立たない。
シュタイナー

セックスしない、セックスを楽しむという、快楽ということになる。

完全な霊的健康のための努力である。不健全な心情生活と思考生活はどんな場合にせよ、人を高次の認識への道から遠ざける。
シュタイナー

空想癖、激昂しやすい性質、神経質、興奮、狂信などの傾向ほど有害なものはない。
シュタイナー

西欧の思想家は、皆々、語り過ぎるきらいがある。
それに、日本の思想家も、大いに影響を受けたが・・・

人生の中で自分が今どこにいるのか、どこから来て、どこへ行こうとしているのか、よくわきまえているべきである。
シュタイナー

イエスは、福音書の中で、人は、何処から来て、何処へ行くのか、解らない、と言った。それが、通常の人間である。

シュタイナーは、自分の霊界から出て、その霊界に帰ることを、知っていたのだろうが・・・
それが、皆々の、霊界ではないということを、知らない。

つまるところ、キリスト教が、天国へ、仏教徒が、極楽に行くと、信じることと同じように、霊界参入も、シュタイナーと同じ霊界に参入すると、考えている。

そのようなことは、有り得ない。

第二の条件は、自分を全体生命の一部と感じることである。
シュタイナー

当然である。
全体から離れて、この生命は、成り立たないのである。

人は、相手に、我が身を写して見る。
この一言葉で、足りる。
しかし、彼は、語る。語り過ぎるのである。

第三は、修行者は自分の思考と感情が世界に対して自分の行為と同じ意味を持つ、という立場に立てなければならない。誰かを憎むなら、すでにそれだけで、なぐるのと同じ被害をその人に与えている。
シュタイナー

心の世界を知る人なら、それは、とうに心得ている。

このことが認識できるなら、私が自分自身を完成させようとする努力が、私ひとりのためではなく、世界のためでもある。
シュタイナー

その通りだが・・・
それが、出来ずに、人類は、21世紀を迎えた。

第四は、すなわち人間の本質が外観にではなく内部に存するという観点を獲得することである。
シュタイナー

人間は、自身の内部にしか、認識を得られないのである。
外観に捕らわれている人は、生きていて、死んでいるのである。

更に、生きていても、浮遊しているということである。

自分を魂的=霊的な存在であると感じることは、神秘修行の前提である。
シュタイナー

当然である。
だが、魂的=霊的ということも、信じる、信じないという、浅はかな人間の思慮により、異なる。

人間が、霊的存在であることを、認識する人は・・・
特別な、修行は、必要ではない。

生きているということが、修行と同じなのである。
いや、あえて、修行という言葉を、使う必要は無い。
修行という言葉は、そこに拘りがある。

伝統行事で、人々が、寒中に水をかぶり、御祭りをするのは、理解するが、特定の宗教が、寒中を選んで、水をかぶり、修行するとは、実に、笑わせるのである。

修行という言葉には、浅はかさが、へばり付く。


posted by 天山 at 06:02| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月04日

霊学144

条件の第四は今述べた言葉の中にすでに含まれている。
シュタイナー

つまり、繰り返しが多いのである。

すなわち人間の本質が外観にではなく内部に存するという観点を獲得することである。
シュタイナー

自分を外観「つまり物質界」の所産に過ぎないと考える人は神秘修行上、進歩することが不可能である。
シュタイナー

最もである。
神秘思想であるから、当然のこと。
物質界の所産であると、思う人は、神秘主義に興味を抱かないだろう。

自分を、霊的な存在であると、感じられないと、神秘も何も、無い。

神秘道を修行する者は外的な諸条件が命じる事柄と、自分自身が正しいと考える事柄との間に立って、中庸の道を見出さなければならない。
シュタイナー

実に、当たり前のことを言う。

実に、具体的と言えば、具体的であるが・・・
シュタイナーを読む事で、すべてが、整えられる気がするだろう。

神秘修行・・・
一つの宗教的、修行のようである。

であるから、次の、第五の条件も、
すなわち一旦決心した事柄は忠実にこれを実行する、ということである。

成功する、しないは、欲望から行動するときにしか、意味を持たない。そして欲望から為された一切の行動は、高次の世界にとって価値を持たない。高次の世界にとっては、もっぱら行動に対する愛だけが決定的である。
シュタイナー

愛の中にこそ、行動に対する、すべてがなければならないと言う。
実に、西欧的な言い方である。

行為すること自体に喜びと満足を見出すようになるであろう。
シュタイナー

これは、比較的、善意という行為などと、同じ口調である。
だから、人生論なのである。

勿論、生き方の手引きとしては、いいものだろうが・・・

第六が、
自分に向ってくるすべての事柄に対する感謝の気持ちを養うことである。
シュタイナー

ここに至ると、新興宗教に似る。
いや、宗教、道徳、人倫の道・・・

あるがままを、感謝する。
これで、尽きる。

高次の認識に至るのに必要な慈悲心「博愛」を自分の中に育てる。

どんな存在でも、私が愛そうとしなければ自分の秘密を私に打ち明けようとはしないであろう。
シュタイナー

それにより、自分が豊かになる。

そして、最後の第七の条件が、
人生をこれらの条件にふさわしく形成すること、これが第七の条件である。
以後、延々とした、説明が続く。

これらは、すでに、キリスト教神秘思想、あるいは、その教えによって、説かれているものである。

高次という言葉が、神に置き換わるだけ。

であるから、シュタイナーのオリジナルとしては、その霊界の模様である。

或る事柄の形成ではなく、精神が問題なのだということは正しい。しかし精神不在の形式が無に等しいように、自分の形式を生み出せない精神があるとしたら、それは無力な精神だといわざるをえない。
シュタイナー

シュタイナーの、奇想天外な歴史観や、その妄想に影響を受けた人は、多い。
また、その、霊的論述である。

神秘学もまた、一つの、方法であるということだ。
またそれは、シュタイナーの神秘学である。

真理を求めようとするなら、その努力は常にこの信頼と真の人間愛との上に築かれねばならないのである。努力そのものがここから発するというものではない。自分の魂の内なる力から発した努力がこの信頼と人間愛の上でいとなまれねばならないというのである。そのようにして、人間愛がさらに、次第に、すべての生物、すべての存在への愛にまで拡大されていかねばならない。
シュタイナー

日本の伝統は、そのようである。

天地自然、生きとし生けるもの、すべてに、心を見出した、日本の心である。

更には、自然物に、結界を張り、神域として、御祭りしたのである。

つまり、シュタイナーは、西欧の無味乾燥な、その精神に対して、啓蒙したといえる。そして、語り続けた。繰り返し、語り続けなければ、理解されなかった。
それが、西欧の精神の限界であった。

だが、神秘思想家は、西欧から発していると、言う。
認識不足である。

ただ、言葉にしなかったせいである。
そして、言葉にせずとも、伝わったのである。

懇切丁寧なシュタイナーの、説明には、感心する。


posted by 天山 at 04:54| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月05日

霊学145

さて、次に、霊界参入が与える諸影響、から、見る。

これからが、シュタイナーの霊的能力の判断を要するところである。

「明瞭な意識を失わずに超感覚的な認識を獲得するための」修行を続けると、いわゆる「魂的組織」の中に変化が現れてくる。
シュタイナー

この魂的組織は見者にしか知覚できない。
とは、見者にならなければならないということである。
その規準は・・・

この組織は、多かれ少なかれ霊的、魂的に光り輝く雲と比較することができ、人間の肉体がその中心に位置している。この組織のなかに、衝動、欲望、情念、表象などが霊的形成姿をとって現れてくる。
シュタイナー

そこでは、肉欲は暗赤色、高貴で純粋な思考内容は赤紫色の光を放射する。
論理的な思索が生み出す明確な概念は、非常にはっきりと輪郭づけられた黄色い形象として感知される。

と、色々ある。

見者にしか、見えないから、何とも言えない。

見者が、曲者である。
見えるのではなく、感じるのである。
この、感じる、ということを説明するには、実に難しいが・・・

例えば、オーラーが出ているということは、見えるが、その色に関しては、感じるのである。
オーラー測定器が出来て、おおよそ、色合いを出すことが出来るが・・・

さて、人間の魂が進化するに従って、その魂的組織そのものも規則的な分節化を得るようになる。魂のいとなみが未発達な人間の場合、この組織はまだ分節化されず、雑然としている。しかしはっきりと分節化されぬ魂的組織といえども、周囲からはっきりと際立った構成体を示している。
シュタイナー

そこで、身体部分において、霊的に近くされるものを、上げる。
両眼の間にある第一の器官、喉頭の近くにある第二の器官、心臓の辺りにある第三の器官、鳩尾の近辺にある第四の器官、下半身にある、第五、第六の器官。

神秘学者にとっては、「輪」チャクラ、または、「蓮華」と呼ばれる。
そのように、呼ばれるのは、車輪や水蓮の花に似ているからだ。

この「蓮華」は霊的に進化していない人間の場合、色が濃く、安定し、動こうとしない。しかし見者の場合、それらは動いており、光り輝く色彩の明暗を示している。霊媒の場合にも、同じようなことがいえるが、その姿には相違が認められる。
シュタイナー

修行者が行を始めると、蓮華が輝き始め、そして、回転する。
そうすると、見霊能力が現れてくる。

どんな人もその人のアストラル体の諸感覚がこのような仕方で形成される以前に、超感覚的なものを観ることはできない。
シュタイナー

これが、日本の新興宗教に与えた功績は、大きい。
これを、取り入れたのである。

結局、シュタイナーの場合も、インド系のヨガ行からの、暗示効果大なのである。
勿論、それを、延々と説く。

別エッセイ、神仏は妄想である、に、それらのヨガ行からの、タントラについて書いている。

さて、魂の特定の働きはこれらの感覚器官の開発と関連している。したがってそのような魂の働きを特定の仕方で意識的に活用するなら、該当する霊的感覚器官を開発するための修行をしたことになる。
シュタイナー

身体のすべてが、チャクラであるという、考え方は、ここには無い。
当然、魂の働きは、身体全体に関連するのである。

身体全体で、感じ取る力こそ、重要なのである。

喉頭近くにある霊的感覚器官には、他の魂的存在の思考内容の在り方を霊視する能力がある。
シュタイナー

シュタイナーが、何処から、その能力を得て、そして、何処からの情報により、このように説明するのか・・・
それが、問題である。

それでなければ、シュタイナーを、ただ、信じることになる。
一つの宗教と同じである。

インドには、大勢の聖者という人が、存在していて、シュタイナーのように、色々と、仰天するようなことを、教える人たちがいる。

弟子に靴を持ってきなさいと言う。
弟子が靴を持って来ると、その通りだ。私が必要としていた、靴である・・・

私は、すでに知っていた・・・
あなたが、ここに訪ねて来ることを・・・

そうして、そこで、修行して、おかしくなり・・・
そう、気がおかしくなり、帰国せずに、インドの、何処かで、行方不明になったりと・・・

神秘学を否定するものではない。
が、このような書物により、影響を受けて、人生を台無しにする人が居るということも、付け加えておく。

まだ、シュタイナーの説明を続けるが、私は、霊学というものは、生活の中にある、当たり前のことに帰結するという、考え方である。

それは、霊能力を得るというようなものではない。
生活の中にある、気付きを促がすものである。

そして、霊能力ではなく、それは、感受性という言葉で、表すものである。


posted by 天山 at 05:38| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月06日

霊学146

喉頭近くにある霊的感覚器官には、他の魂的存在の思考内容の在り方を霊視する能力がある。それはまた自然現象の真の諸法則への深い洞察力をも所有している。―――心臓近辺の器官は他の魂の志向の在り方を霊的に認識する。この器官を開発した人は、動、植物の隠された諸力をも認識できる。いわゆる鳩尾近くにある感覚器官は魂の才能や能力を認識する。この器官によって、動物、植物、石、金属、大気などにおける諸現象が大自然のいとなみの中でどのような役割を演じているのか、洞察することができる。
シュタイナー

喉頭近くの器官は、十六の「蓮弁」または「車輪のや」をもっている。心臓近辺の器官は十二の、鳩尾近くの器官は十のそれをもっている。
シュタイナー

神秘学、人智学を名乗る人だから、当然だが・・・
実に、詳しく説明している。

だが、それでは、人は、振り回されるだけである。

更に、信じる・・・
信じないと、始まらない。
つまり、聖書のイエスの言葉と同じく・・・
私は道であり、真理であり、命である。私を通して、天の国に行く。

魂の働きを特定の仕方で意識的に活用するなら、該当する霊的感覚器官を開発するための修行をしたことになる。
シュタイナー

十六弁の蓮華のうち、その八枚は太古の時代、すでに開発されていた。当時人間はこの開発のために、自分からは何も行なわなかった。太古の人間はそれを自然からの恩恵として、まだ暗い夢幻的な意識状態の中で、受け取ったのである。
シュタイナー

だから、新たに、八弁の蓮弁を、意識的な修行をして、開発することができる。
シュタイナー

そこから、また、延々とした、説明が続く。
例えば、その第一は、
表象「意識内容」を獲得する仕方である。通常、人はそれをまったく偶然に任せている。日々さまざまの事柄を見聞きし、それを基にさまざまな概念が作り上げられる。そのような態度で生活している限り、十六弁の蓮華はまったく活動を停止している。これを活動させるには、これに意識的態度でのぞまなくてはならない。この目的のために必要なことは、自分の表彰に対する注意力の喚起である。どの表象も彼にとって有意義なものにならなければならない。意味のない表象に満足してはならない。自分の所有する概念の働きをすべて自分で統禦し、それが外界の忠実な鏡となるようにしなければならない。歪んだ表象は自分の魂から遠ざけねばならない。
シュタイナー

これらの説明が、第二、第三と続く。

無意味な行為は、自分の魂から遠ざける。
意味のある内容だけが、神秘修行の唇から流れてこなければならない。つまり、発言について、である。

魂の働きは、外的行為に節度を設けることである。

こうして、読み進めると、矢張り、生活態度、生き方指導なのである。
勿論、人間は、そこから逃れられない。
その、逃れられない、生活の中での、修行なのである。

これは、山奥に入り込み、修行をするという、意味に近いものである。

歪んだ、意識内容とは、何か・・・
無意味な行為とは、何か・・・

シュタイナーの、修行に関して、否定するものはないが、それを他人に押し付けることは、出来ない。

聖人になれ・・・
そのように、言うのが、易い。

その、聖人になるために、延々と、仕方を説明しているのであるのか。

更に、十六弁の蓮華が、何故、問題になり、その根拠は何か。
私には、延々と繰り返す、説明が、単なる、妄想に思えるのである。
更には、繰り返しが多い。

第五の働きは生活全体の在り方に係わる。神秘修行者は自然と精神の法則に従った生活を送る。やたらに急いだり、怠けたりしない。仕事のし過ぎも、投げやりな態度も等しく縁遠いものとなる。人生を努力の手段と見做し、それに応じた態度をとる。健康管理、習慣等に留意し、それによって調和した生活がいとなめるようにする。
シュタイナー

当たり前のことである。

このように、延々と、くどい程に、説明するのは、特殊な霊界からの、情報である。

上位霊界の情報は、とても、シンブルなものであり、多くの説明を要しない。

くど過ぎるだけ、拘っているのであり、説明し尽くすというのは、西欧の哲学の特徴である。つまり、それ程、延々と、くどく説明しなければ、解らない。

日本でも、江戸末期から、明治期にかけて、霊学なるものを、書き続けた人たちも、本人だけが、解るような難解な言葉を使い、延々と、記述した。

言い得ないものを、言うというのとは、どこか、違うのである。
この違いとは、賢いようなのだが、明らかではないということだ。

勿論、人間には、様々な人がいて、延々と説明を続けないと、理解出来ない人もいる。

そういう意味では、神秘学の説明を続けたシュタイナーは、立派である。
だが、私は、お勧め出来ない。

この後、シュタイナーの霊的世界に関する、記述を読むが・・・
その多くは、日本の新興宗教にも、取り入れられたものである。

守護霊とか、守護神とか・・・

だが、日本では、菅原道真の歌、
こころだに 誠の道に 叶いなば 祈らずとも 神や守らん
に、尽きるのである。

それでは、誠の道とは、何か・・・
それは、人倫の道である。
それでは、人倫の道とは・・・
私の、霊学は、それである。



posted by 天山 at 05:34| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月07日

伝統について67

争へば 神も悪ます よしえやし よそふる君が 悪からなくに

あらそへば かみもにくます よしえやし よそふるきみが にくからなくに

抵抗すると、神様も、憎まれることだ。ああ、人の噂が、自分の相手に、なぞられている、あの人は、憎くはないのに。

複雑な心境である。
噂が、自分の相手に、よく似ている。
あの人は、憎くないのに・・・

夜並べて 君を来ませと ちはやぶる 神の社を 祈まぬ日は無し

よならべて きみをきませと ちはやぶる かみのやしろを のまぬひはなし

毎夜、続けて、あの方が来て欲しいと、神威ある神の社に、祈らぬ日は無い。

ちはやぶる、とは、感動詞である。
何かに、思い切る時に、使われる言葉。

来て下さいと、神に祈る心。恋である。

霊ぢはふ 神もわれをば 打棄てこそ しえや命の 惜しけくも無し

たまぢはふ かみもわれをば うつてこそ しえやいのちの おしけくもなし

霊の力ある神も、私を見捨ててください。この命は、惜しくもないこと。

恋に極まり、命を棄てても良いという。
叶わぬ恋なら・・・
死んでも、いいと、言うのである。

吾妹子に またも逢はむと ちはやぶる 神の社を 祈まぬ日は無し

わぎもこに またもあはむと ちはやぶる かみのやしろを のまぬひはなし

我が妹子に、またも逢いたいと、神威ある、神の社に、祈らぬ日は無い。

祈り、とは、い、の、り、であり、意を述べるのである。
しかし、この場合は、思いである。
ひたすらな思い、満ち満ちて・・・祈る。

ちはやぶる 神の斎垣も 越えぬべし 今はわが名の 惜しけくも無し

ちはやぶる かみのいかきも こえぬべし いまはわがなの おしけくもなし

恐れ多い、神の垣根といえど、越えて行く。こうなった今は、私の名など、惜しくない。

恋は、恐れを超える。
恐れていては、恋など出来ない。

畏れかしこむ、神の垣根も、越えるというのである。

いずれ、この心が、様々な、日本の伝統的心情として、生きてくる。
例えば、武士道・・・

恋に命が惜しくないと同じように、名誉のために、死ぬことを、潔しとする。

更に、芸に命を懸ける。
それが、また、美意識にも、高まるのである。

恋から発した、日本の精神である。

この、万葉の恋は、真っ直ぐに、エロスへと進む。
それは、純粋なる、欲望である。
その、欲望を善しとした。

つまり、恋の心は、エロスへの道なのだった。

複雑怪奇な、情欲の世界ではない。


posted by 天山 at 05:31| 伝統について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月08日

沈黙を破る85

私の、唯一の楽しみ・・・と言えば・・・
銭湯である。

だが、週に一度程度。
後は、部屋のシャワーを浴びる。
浴槽にお湯を張ることはない。
銭湯の広さを覚えたからである。

その銭湯で、様々な人と会う。
多くは、老人である。
その老人たちの話を聞く。

名前も知らない人たち・・・

彼らの、昔話は、実に面白い。
特に、戦中戦後を生きた人たち。

空襲に遭ってさ・・・
皆、死んじゃったよ・・・
そんで、死体の処理だよ・・・
もう、滅茶苦茶でさ・・・

何でも食べたよ・・・
ネズミは、旨かった・・・
カラスは、不味いよ・・・

聞くともなしに、聞いていると、とんでもない話が飛び出す。

ヤクザの老人も多い。
ところが・・・
全く、そのヤクザの怖さがない。

そして、我が身の老いを考える。

時に、顔を見せなくなる人もいる。
死んだのだ。
だが、誰も、そのことを口にしない。

当たり前のことだからだ。
逆に、それが、笑いを誘う。

俺がよ・・・ここに来なくなったら・・・死んだと思え・・・である。
そして、本当に、そうなる。

名も知らぬ人たち。
ところが、時々、道で出会うと・・・
あーーー元気かい・・・
はい・・・
この頃、見えないね・・・

海外に行っていることを知る人と、知らぬ人がいる。

今度は、フィリピンです。と、言うと、活動を知らない人は・・・
いいね・・・極楽だね・・・
女は安いしさ・・・麻薬は手に入るし・・・
えっ・・・

俺もさ・・・昔、行ったよ・・・
マニラのケソン市でさ・・・女買って・・・さ・・・
えっ・・・

すると、
この人は、違うって・・・
と、中に入って、話を中断させる人もいる。

チェンマイは、いい女が多いから・・・
えっ・・・
今も、流行ってんだな・・・
えっ・・・

昭和初期に出来た、銭湯である。
建物が、実に古めかしくていい。
浴槽が一つ。
子供の頃の風呂屋と、同じである。

60を過ぎても、現役で働く人がいる。
いつも、その仕事の事を尋ねる。
面白い。
内緒の話を教えてくれる。

若者は、ほとんどいない。
老人の場所である。

我が身の明日を見る。
それが、精神衛生に良い。

いずれ・・・
老いる。
確実に・・・
そして、死ぬ。

お前さん・・・何してるんだい・・・
と、時々、聞かれる。
売れない作家です・・・
へ・・・作家さんかい・・・

と、ウソを言う。

何を言っても、聞き流される場所、銭湯である。


posted by 天山 at 05:46| 沈黙を破る2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月09日

もののあわれについて657

東宮の御元服は、二十よひの程になむありける。いとおとなしくおはしませば、人の、女ども競ひ参らすべき事を、心ざし思すなれど、この殿の思しきざすさまのいとことなれば、なかなかにてや交じらはむ、と左の大臣なども、思し止まるなるを、聞し召して、源氏「いとたいだいしき事なり。宮仕への筋は、あまたある中に、少しのけぢめをいどまむこそ、本意ならめ。そこらのきやうざくの姫君たち、引きこめられなば、世に映えあらじ」と、宣ひて、御参り延びぬ。次々にもと静め給ひけるを、かかる由、所々に聞き給ひて、左大臣殿の三の君参り給ひぬ。麗景殿と聞ゆ。




東宮の御元服は、二月二十日過ぎの頃だった。
大変、大人であるから、人々が、競争して、入内させることを、希望しているが、源氏は、予定されている様が、大変格別なので、しない方がましだというような宮仕えになろうかと、左大臣なども、中止される考えだということを、お耳にして、大変、けしからぬことだ。入内というものは、沢山いる中で、わずかの優劣の差を張り合うのが本当だろう。多くの優れた姫君たちが、引っ込めされるのだと、姫を持ったかいがない。と、おっしゃり、姫君の入内は、延期になった。
明石の姫君入内のあと、次々にと、差し控えていたが、このような事情を、あちらの方が聞いて、左大臣家の三の君が、入内された。
麗景殿と、申し上げる。

東宮とは、朱雀院の皇子。
源氏は、明石の姫君を入内させたい、考えである。つまり、それは、皇后にしたいということである。




この御方は、昔の宿泊所淑景舎を改めしつらひて、御参り延びぬるを、宮にも心もとながらせ給へば、四月にと定めさせ給ふ。御調度どもも、もとあるよりも整へて、御自らも、ものの下形、絵模様などをも御覧じ入れつつ、すぐれたる道々の上手どもを召し集めて、細かに磨き整へさせ給ふ。冊子の箱に入れるべき冊子どもの、やがて本にもし給ふべきを選らせ給ふ。古へのかみなき際の御手どもの、世に名を残し給へる類のも、いと多く侍ふ。




明石の姫君の御方は、昔の源氏の宿泊所の淑景舎を改装して、入内が延期になったのを、東宮におかせられても、待ち遠しく思いあそばすので、四月に、入内と決める。
道具類も、元からあった上にも、立派に支度し、ご自身でも、お道具の雛形や図案などをも、お目通しされて、それぞれの道の一流中の一流を召して、細かなところまで、立派に作らせる。冊子箱に入れる、冊子などは、そのまま手本になることができるのを選ぶ。上代の、この上も無い、名筆家方が、後世にその名を残した、筆跡類なども、随分沢山あります。




源氏「よろづの事、昔には劣りざまに、浅くなり行く世の末なれど、仮名のみなむ、今の世はいと際なくなりたる。古き跡は、定まれるやうにはあれど、広き心豊かならず、一筋に通ひてなむありける。妙にをかしきことは、とよりてこそ、書き出づる人々ありけれど、女手を心に入れて習ひし盛りに、こともなき手本多く集へたりし中に、中宮の母御息所の、心にも入れず走り書い給へりし一行ばかり、わざとならぬを得て、際ことに覚えしはや。さてあるまじき御名も立て聞えしぞかし。悔しき事に思ひしみ給へりしかど、さしもあららざりけり。宮にかく後見仕うまつる事を、心深うおはせしかど、なき御影にも見直し給ふらむ。宮の御手は、細かにをかしげなれど、かどや後れたらむ」と、うちさざめきて聞え給ふ。




源氏は、何から何まで、昔に比べて、見劣りするように悪くなる末の世だが、仮名だけは、際限なく、立派になった。昔の字は、書き方が定まっているようだが、ゆったりとした感じがあまりなく、一様に、似通ったものになっている。見事で、立派なものは、近代になってから、書ける人が、しきりに出て来たけれど、私が女手を熱心に習っていた頃は、難のつけられない手本を沢山集めた中に、中宮の母御息所が、何の気もなく走り書いた一行ほどの、無造作な筆跡を手に入れて、格別に優れていると、感心した。そういうことで、けしからぬ浮名を立てることになってしまった。癪なことと、思い込んでいらっしゃるだろうが、私は、それほど、薄情ではなかった。中宮に、こうして、お世話役を勤めていることを、お考えの深い方だったから、草葉の陰からでも、見直してくださるだろう。中宮の御筆跡は、こまやかに趣きがあるが、才気はないようだ。と、小声で、お話になる。

源氏の書家たちの、評価である。

いつの時代も、今は、末の世という。




源氏「故入道の宮の御手は、いと気色深うなまめきたる筋はありしかど、弱き所ありて、匂ひぞ少なかりし。院の尚侍こそ、今の世の上手におはすれど、余りそぼれて、癖ぞ添ひためる。さはありとも、かの君と、前斎院と、ここにとこそは書き給はめ」と許し聞え給へば、紫の上「この数には眩ゆくや」と聞え給へば、源氏「いたなう過ぐし給ひそ。にこやかなる方のなつかしさは、ことなるものを。真字の進みたる程に、仮名はしどけなき文字こそ交じるめれ」とて、まだ書かぬ冊子ども作り加へて、表紙、紐などいみじうせさせ給ふ。源氏「兵部卿の宮、左衛門の督などにものせむ。自らひとよろひは書くべし。気色ばみいますかりとも、え書き並べじや」と、我ぼめをし給ふ。




源氏は、故入道藤壺の宮の御筆跡は、まことに深く味わいもあり、美しい手の筋はあったが、なよなよした点があり、余韻が乏しかった。院の尚侍こそ、当代の名人であるが、あまり洒落すぎて、個性が強い。そうは言っても、尚侍の君と、前斎院と、あなたとは、上手だと思う、と認めると、紫の上が、この方々のお仲間入りは、恥ずかしいと、申し上げる。源氏は、ひどく謙遜しては、いけない。柔らかい筆の、親しい感じは、特別なもの。漢字が上手になってくると、仮名は、整わない文字が混じるものだから、と、おっしゃり、まだ書いていない、冊子などを追加して作り、表紙、紐など、大変立派に作らせた。
源氏は、兵部卿の宮、左衛門の督などに書いてもらおう。私自身も、二冊は、書こう。いくら気取っても、私の字も、お二方に並べないことはないだろう。と、自賛する。

なつかしさ
ここでは、親しい、という言葉として、使われている。




墨筆並びなく選り出でて、例の所々に、ただならぬ御消息あれば、人々難き事に思して、かへさひ申し給ふもあれば、まめやかに聞え給ふ。高麗の紙の薄様だちたるが、せめてなまめかしきを、源氏「この物好みする若き人々試みなむ」とて、宰相の中将、式部卿の宮の兵衛の督、内の大殿の頭の中将などに、「葦手歌絵を、思ひ思ひに書け」と、宣へば、皆心心にいどむべかめり。




墨や筆を最上のものを選び出して、いつものご婦人方の所に、特別の依頼を出すと、方々は、難しいと思い、辞退される方もいるので、ねんごろに、依頼される。
高麗渡りの紙の薄様風なのが、非常に優雅なのを、源氏は、あの風流事の好きな、若い人たちを試してみよう、とおっしゃり、宰相の中将、式部卿の宮の兵衛の督、内大臣家の、頭の中将などに、葦手や、歌絵を、各自思い通りに書きなさいと、おっしゃると、皆それぞれ、工夫して、競争するらしい。

宰相の中将とは、夕霧である。


posted by 天山 at 06:14| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月10日

もののあわれについて658

例の寝殿に離れおはしまして書き給ふ。花盛り過ぎて、浅緑なる空うららかなるに、古きことどもなど思ひすまし給ひて、御心の行く限り、草のも、ただのも、女手も、いみじう書き尽くし給ふ。御前に人繁からず。女房二三人ばかり、墨などすらせ給ひて、ゆえある古き集の歌など、いかぞやなど選り出で給ふに口惜しからぬ限り、侍ふ。御御簾上げ渡して、脇息の上に冊子うち置き、端近くうち乱れて、筆の尻くはへて、思ひめぐらし給へる様、飽く世なくめでたし。白き赤きなど、けちえんなるひらは、筆とり直し、用意し給へる様さへ、見知らむ人は、げにめでぬべき御有様なり。




いつもの通り、寝殿に、紫の上とは離れて、お書きになる。
花の盛りも過ぎて、薄藍色の空が、気持ちよく晴れている頃、色々な古い歌などを、心静かに考える。思う存分に、草のも普通のも、女手も、立派に、あらん限りの美しさで、お書きになる。
御前にお付の者も、たいしていない。女房二、三人に、墨をすらせて、由緒ある歌集の歌などを、どんなものかと、選び出される。話し相手になる者だけが、お傍に控えている。すべの御簾を上げて、脇息の上に、冊子を置いて、庇の間のすのこ近くで、気軽に、筆の尻をくわえて、考え込んでいる様子は、見飽きるほどもないくらい結構である。白や赤などで、明確な色の色紙は、筆を持ち直して、気をつけている様子は、物の解る者は、感心するに決まっている姿である。




「兵部卿の宮渡り給ふ」と聞ゆれば、驚きて御直衣奉り、御褥参り添へさせ給ひて、やがて待ちとり入れ奉り給ふ。この宮もいと清げにて、御階さまよく歩みのぼり給ふ程、内にも人々覗きて見奉る。うちかしこまりて、かたみにうるはしだち給へるも、いと清らかなり。源氏「つれづれにこもり侍るも、苦しきまで思う給へらるる頃ののどけさに、折りよく渡らせ給へる」と、喜び聞え給ふ。かの御冊子持たせて渡り給へるなりけり。




兵部卿の宮が、おいでになりました。と申し上げるので、驚いて、直衣をお召し、敷物を持ってこさせて、そのまま待って、お入れ申し上げる。
兵部卿の宮も、まことに綺麗で、階段を、体裁よく上がられる。それを御簾の中でも、女房達が、覗いて拝見する。丁重にご挨拶なさり、お互いに、整然としているところが、まことに、美しい。
源氏は、する事も無く、家におりますのも、辛いもので、この頃ののどかさで、丁度良いところへ、お出でくださりました。と、お礼を申し上げる。そして、あの依頼の冊子を、持たせてお出でになったのである。




やがて御覧ずれば、すぐれてしもあらぬ御手を、ただかたどりに、いといたう筆すみたる気色ありて、書きなし給へり。歌もことさらめき、そばみたる古ごとどもを選りて、ただ三行ばかりに、文字少なに、好ましくぞ書き給へる。大臣御覧じ驚きぬ。「かうまでは思ひ給へずこそありつれ。さらに筆投げ捨てつべしや」と、ねたがり給ふ。宮「かかる御中に面無くくだす筆の程、さりともなむ思う給ふる」など、戯れ給ふ。




すぐにその場で拝見されると、たいして上手ではない御筆跡であるが、一本調子に、酷く筆が垢抜けている感じに統一されている。歌もわざとらしい、偏った古歌を幾首か選んで、ほんの三行ほどに、漢字を少なくし、結構に書いてある。大臣は、御覧になり、驚いた。こんなにまで、お書きになろうとは、存じませんでした。全く、筆を投げ出してしまうべきです、と羨ましがる。宮は、こういう上手な人の間に、平気な顔で書きますので、いくら何でもと存じます、なとど、冗談をおっしゃる。




書き給へる冊子どもも、隠し給ふべきならねば、取う出給ひて、かたみに御覧ず。唐の紙のいとすくみたるに、草書き給へる、すぐれてめでたし、と見給ふに、高麗の紙の、はだ細かになごうなつかしきが、色などは華やかならで、なまめきたるに、おほどかなる女手の、うるはしう心とどめて書き給へる、たとふべきかたなし。見給ふ人の涙さへ、水茎に流れ添ふここちして、飽く世あるまじきに、またここの紙屋の色紙の、色あひ華やかなるに、乱れたる草の歌を、筆にまかせて乱れ書き給へる、見所限りなし。しどろもどろに愛敬づき、見まほしければ、さらに残りどもに目も見やり給はず。




書かれた何冊もの冊子も、隠すべきものではないから、取り出して、お互いに御覧になる。唐渡りの紙の、ごわごわしたものに、草でお書きになるが、まことに結構である。と、拝見されると、朝鮮の紙の、きめ細やかで、柔らかく親しみ深いのが、色彩が派手ではなく、優しい感じがするのに、おっとりとした女手の、整然と気をつけて、お書きになったのは、喩えようもない。
御覧になる宮の涙までが、筆跡に添って、こぼれてゆく感じがして、見飽きるときがないようで、また国産の紙屋院の、色紙の色合いが派手なのに、乱れ書きの草の歌を、筆の向くままに、散らし書きされたのが、見るべき点が尽きないほどである。しどろに乱れて愛敬があり、いつまでも、見ていたいもので、他の物には、全く、目もやらないのである。

女手とは、現在の平仮名である。
平仮名は、女の書く文字だった。

平安期の、女房文学は、まさに、平仮名の功名である。
以後、鎌倉時代になり、漢字かな混じりの文が、堂々と、登場する。

この、漢字かな混じり文により、日本の精神が、益々、広がりを持つことになる。
であるから、源氏物語の功績は、あまりに大きい。
まさに、先駆けである。

更に、この物語により、和歌の道が、一層明確になった。
現在の、短歌に至る、歌の道である。

もののあはれ、と、和歌の道を、作り続けたのである。


posted by 天山 at 06:00| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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