それは、誰も知らない世界である。
天皇から、皇太子に直に、口伝で伝えられる。
その屏風の中の姿は、誰も知らないのである。
その祭祀を行なう日の、前の晩は、皇后と床を共にされず、御一人で休まれる。
不浄なものに触れないと、ある。
女性差別ではないが、その祭祀は、男のものである。
宮中三殿の、賢所で祭祀を行なう時は、賢所の回廊に上る段の前で、侍従が靴を脱がせられる。
天皇が、賢所の中に入られると、裾を持った侍従が、そのまま従い、御剣を奉じた侍従は、扉のすぐ脇に、平伏し、天皇が出られるまで、後頭部の上に、両手で御剣を捧げて持つ。
賢所の中には、天照大御神の、神鏡である、やたの鏡を祀る内陣と、外陣に分れている。
裾を持った侍従は、外陣までしか、入らない。
掌典が内陣の前にある、羽二重の幕を開けると、平伏し、天皇が出られるまで、そのままで、待つ。
天皇は、そこから、しっこう、という、膝をついて、進まれ、神饌幣物の前で、御神体が入る御櫃に向かい、両段再拝を行なわれる。
それから、立たれて、御告文を取り出し、読まれる。
御告文は、天皇が読む祝詞である。
擬古文で書かれた御告文は、最初に、神名を称えて、賢しこみの意を表し、結びとして、自己の戦々兢々の態度を述べられるものである。
読み終わると天皇は、板の間に平伏する。
すると、白い着物に緋袴をつけた内掌典が、紐を引いて、内陣の天井から下がる、金鈴を鳴らす。
無数の音が鳴り響く。
この時、内掌典には、神威が乗り移るといわれる。
天皇は、平伏して、その音を聞いている。
鈴の音が終わると、天皇は顔を上げられ、最初と同じように、膝で内陣を出る。
侍従に裾を持たれて、御扉から、姿を現す。
すると、御剣を捧げて、平伏していた、侍従が立ち上がる。
御告文の後で、鈴の音が朗らかに鳴れば、神が御言葉を受けいれたとし、受けいれない場合は、鳴り方が悪いと、いわれる。
しかし、天皇は、その後で、誰にも、その心境を話すことはない。
この天皇の、祭祀は、1200年ほども、続いている。
時が移り、世の中が変わっても、その祭祀は、変わらずに、行なわれる。
もし、いつか、その祭祀が、公開されることがあれば・・・
天皇から、皇太子へ・・・
世界の国々で、唯一、それが、行なわれる国、日本である。
皇祖皇宗とは、超越した存在の神ではない。
日本人の祖霊であり、先祖である。
その、祖霊が、先祖が大切にしてきたものを、守り、更に、その霊位に対して、誠を尽くして、向う天皇の祭祀である。
神道・・・
これは、皇室神道と言えるものである。
そして、皇室神道は、日本と、日本人の原型ともいえる。
様々な神社には、それぞれの祭祀の仕方がある。
神社神道である。
それは、皇室神道から発した、祭祀である。
或いは、その写しである。
只今、神社は、神社本庁という、宗教法人として、成り立つ。
日本には、様々な世界の宗教が、混在している。
だが、皇室神道は、それらを包容し、日本、日本人のために、行なわれる、天皇の祭祀なのである。
本来は、宗教というものを、超越していると、考える。
この、天皇の祭祀を、奉じて、日本という、国が存在する。
もし、それが、無くなれば、日本という国が、無くなる。
簡単に言えば、天皇の存在しない、日本という国は、成り立たない。
それは、つまり、古里を失うという感覚に近いものである。
先祖たちが、大切にしてきたものを、今も、大切にしている。
そこで、先祖たちと、つながる。
それぞれの、家系の先祖に対する思い・・・
天皇は、その象徴なのである。
それは、民族の、偉大なる、共同幻想として、成り立つ。
神話があり、共同幻想の最たる天皇の存在が、日本という国を、成り立たせているのである。
為政者が変わろうと、変わらない存在があるという、日本は、実に幸せな国である。
天皇の存在が、超越した世界遺産であり、文化遺産であると、言う。
そして、天皇は、国民が何を言おうが、すべて包容する。
天皇に反対する者も、天皇は、それらも日本人として、向う。
敗戦後、共産主義者たちが、食べ物よこせと、皇居に押し寄せた際に、昭和天皇は、驚くこともなく、側近に、あの者たちも、日本人であろうと、仰せられた。
つまり、天皇には、敵がいないのである。
国民の誰一人も、天皇の敵ではないのである。
国内に、敵を想定しない、君主は、日本の天皇のみである。