2014年02月24日

国を愛して何が悪い117

作法の慇懃鄭重は日本人の著しき特性として、外国人観光者の注意を惹くところであった。もし単に良き趣味を害うことを怖れてなされるに過ぎざる時は、礼儀は貧弱なる徳である。真の礼はこれに反し、他人の感情に対する同情的思いやりの外に現れるものである。それはまた正当なる事物に対する正当なる尊敬、したがって社会的地位に対する正当なる尊敬を意味する。何となれば社会的地位は何ら金権的差別を表すものではなく、本来はじっさいの価値に基づく差別であったからである。
新渡戸

礼の最高の形態は、ほとんど愛に接近する。
新渡戸

キリスト教徒であれば、上記の意味を即、納得するだろう。

パウロの手紙に、愛に付いての、記述がある。
その愛に、礼を当て嵌めて、新渡戸は、書く。

欧米人には、説得力のある説明だろう。

しかし、新渡戸は、礼を尊ぶが、それが、諸徳の第一位に置くものではないという。

礼はより高き階級の諸徳と相関的関係にあるのを見出すであろう。
新渡戸

礼は武人の特殊なる徳として賞賛せられ、その値する以上に高き程度の尊敬を払われたけれど・・・
その偽物が起こってきた。
新渡戸

武人の礼だけではない。
日本には、庶民の礼も、存在した。

鎌倉時代、武人の礼法をまとめた小笠原家がある。
現在でも、小笠原流礼法が伝えられている。

その、礼法が、全国民に浸透してゆくのである。
更に、様々な、礼法に生かされた。
現代の礼法も、小笠原流礼法に、その源流がある。

礼が社交の不可欠要件にまで高めらるる時、青少年に正しき社交的態度を教えるため、行儀作法の仔細なる体系が制定せらるるに至るはけだし当然である。
新渡戸

ヨーロッパ人が我が国民の仔細なる礼法を賤しめて言う批評を、私はしばしば耳にする。
新渡戸

アメリカ人も、そうであろう。
理解出来ないからだ。

西欧には、礼法が無い。
アメリカにも、礼法が無い。

もし、ある一定の行動規範があれば、それは、教会における、作法である。
彼らに、キリスト教がなければ、世界的にも、無作法極まりない行為になる。

彼らの相手は、神である。
神に対する態度、行為が、作法と言えば、いえる。

イギリスの騎士道などは、作法のうちに入らない。

あれは、心得である。
精神の持ち方である。

神に対する、謙虚さが、人間に及ぶとき、作法になるのが、西欧の作法である。

アメリカなどは、何もかもにも、西欧の国からの、寄せ集めを、作法、あるいは、行儀に当てている。

新渡戸は、中でも、茶の湯の説明を通して、礼が、芸術に高まるまでのことを、言う。

だが、茶の湯の作法の、その源流にも、小笠原流がある。

カトリックのミサ典礼による、行為も、作法といえば、いえる。
しかし、それも、神に向う姿勢である。
そこから、人間対する、謙虚な姿勢が生まれた。

新渡戸は、日本の作法を、
何かをなさんとする時、それをなすに最善の道があるに違いない。しかして最善の道は最も経済的であると同時に最も優美なる道である。
と、言う。

日本の作法のまとめが、上記の言葉にある。

スペンサー氏は優美を定義して、動作の最も経済的なる態度であるとなした。
新渡戸

そこで、茶の湯の作法を解説するのである。

更に、加えると、茶の湯の心構えには、禅の思想がある。
つまり、禅の作法も生かされているのである。

茶の湯の作法は、芸術だけではなく、宗教的でさえある。

日本では、礼法もまた、道である。
武人も、その道にある者である。

礼儀は仁愛と謙虚の動機より発し、他人の感じに対するやさしき感情によって動くものであるから、常に優美なる表現である。
新渡戸

真に礼法を身に付けた人は、その動作、行為が、舞うように見えるものである。

武人の剣の道も、然り。

茶を飲む作法だけではない。
食事の作法、その他、諸々の作法・・・
日本には、礼法と呼べる、様々な、作法が存在する。

あらゆる武道、芸道に、礼の道が存在するのである。



posted by 天山 at 06:03| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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