2014年02月21日

国を愛して何が悪い114

勇気は、義のために行なわれるのでなければ、徳の中に数えられるにほとんど値しない。
新渡戸

義を見てなさざるは勇なきなり
論語

武士道にあっては、死に値しない事のために死ぬのは、犬死といった。
猪突的行為は、勇気ではないのである。

プラトンは、勇気を定義して、
恐るべきものと恐るべからざるものとを識別することなり。
と、言う。

そして、水戸の義公も、
戦場に駆け入りて討死するはいとやすき業にていかなる無下の者にてもなしえらるべし。生くべき時は生き死すべき時にのみ死するを真の勇とはいうなり。
と、言う。

西洋において道徳的勇気と肉体的勇気との間に立てられた区別は、我が国民の間にありても久しき前から認められていた。いやしくも武士の少年にして、「大勇」と「匹夫の勇」とについて聞かざりし者があろうか。
新渡戸

剛毅、不撓不屈、大胆、自若、勇気等のごとき心性は、少年の心に最も容易に訴えられ、かつ実行と規範とによって訓練されうるものであって、少年の間に幼児から励みとせられたる、いわば最も人気ある徳であった。
新渡戸

日本の昔話の中には、我慢と勇気の話が多々ある。
それを、幼児の頃から聞いて育つ。

イスラムの幼児が、コーランを聞く如くである。

武士の教育の厳しさは、格別である。
それは、肉体的訓練から、始まった。

身を持って、習うのである。
そして、その親、長上は、それを求めた。

この超スパルタ式なる「肝を練る」方法は、現代の教育家を驚かせて戦慄と疑問を抱かしめるであろうかーーーこのやり方は、人の心の優しき情緒をば蕾のうちに摘み取る野蛮な方法ではあるまいかとの疑問を、抱かしめるであろうか。
新渡戸

少年に対する、敢為自若の精神を鼓吹する方法・・・
現代のスポーツの現場で起きている、体罰をどう考えるか。
鍛錬と、体罰による指導は、全く別物である。

体罰は、指導者の勝手気ままな、気分によると、判断する。

武士の子の指導は、道理がある。
義であり、勇気である。

勇気が人のたましいに宿れる姿は、平静すなわち心の落ち着きとして現れる。
新渡戸

敢為の行為が勇気の動態的表現たるに対し、平静はその静態的表現である。真に勇敢なる人は常に沈着である。彼は決して驚愕に襲われず、何ものも彼の精神の平静を乱さない。激しき戦闘の最中にも彼は冷静である。大事変の真中にありても彼は心の平静を保つ。
新渡戸

つまり、それは、余裕であると、言うのだ。
余裕綽々なのである。

そのために、幼児からの、武士の教育がある。

更に、それは、武士のみに関わらず、日本人の精神、心のあの方として、定着してゆくのである。

戦にあっても、歌詠みをする、余裕・・・
その多くの実例がある。

更には、その余裕により、武士の情けで、命を失うことのない場合もあるのだ。

ここでは、その実例を一々取り上げない。

新渡戸は、様々な、実例を挙げている。

欧米人は、この新渡戸の、武士道を読んで、感動したことだろう。
それは、武士の教育に留まらず、人間教育の手本になるからである。

武士道とは、人間教育に他ならないのである。

ニイチェが「汝の敵を誇りとすべし、しからば敵の成功はまた汝の成功なり」と言えるは、よく武士の心情を語れるものである。実に勇と名誉とは等しく、平時において友たるに値する者のみを、戦時における敵としてもつべきことを要求する。勇がこの高さに達した時、それは仁に近づく。
新渡戸

仁とは、論語の眼目である。

愛であり、慈悲である。

この仁についても、新渡戸は、詳しく説明する。

仏教からは、慈悲の心を、論語からは、仁の心を学んだ、日本人である。
そして、更に、それは、元々から、日本人の心に宿るものだった。
それを、言葉とした時、それが、観念となった。

だが、観念まみれにならなかった。
行為があったからである。

初めに、言葉があるのではない。
初めに、行為があるのだ。

初めに、心があるのだ。
そして、精神として、花開くのである。
種は、心。精神は、花である。



posted by 天山 at 05:41| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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