2014年02月15日

フィリピン・ボホール島へ7

さて、今日、活動をするか・・・明日か・・・
と、ベッドに横になって、考えていた。

明日までしか、時間がない。
そして、うとうとするが、意識は明確である。
その時、私の上、上空に、気配がする。

幾人かの、兵士が来ている・・・
妄想か・・・
それで、決心がついた。
今日のうちに、やるべきことをする。

昼過ぎ、三時にホテルを出る。
そのために、フロントの女の子に言いに行く。

トライシクロの運転手との、交渉をして貰う。

荷物をすべて用意して、トライシクロを拾うため、ホテル前に出た。
色々な運転手がいる。
私は、比較的若い男を捜した。
荷物を持ってくれるだろうと、予想して・・・

一台の、トライシクルを止めた。
すると、フロントの女の子が、交渉する。
二時間で、幾らか・・・

最初は、二時間という時間に、戸惑っていた、運転手に、私は、メイビーと言った。二時間は、目安で、それより、早く終わることもあると。

それで、200ペソで決まった。
荷物を乗せて、バクラヨン町、バクラヨン教会に向う。

街を抜けると、美しい海沿いである。
ボホール島と橋でつながる、バングラオ島が見える。
あちらは、豪華なビーチホテルがある。
ダイビングに来た、客が多く滞在する。

道が、いよいよ揺れる状態になった。
地震のために、迂回する道に出た。

民家の中を通る。
だが、地震の影響を感じない。

あちらの貧しい家は、崩れても、すぐに建てることが出来る程度のもの。
それにしても、全く被害を感じさせない。

ようやく、バクラヨン教会に着いた。
崩れた教会の塔の修理が始まっていた。

その前に行き、手を合わせる。
地震で亡くなった人たちを、思う。

しばし、そこに佇むが、物売りがしつこいのである。
煩い。
怒鳴りそうになる。

目の前に、海が広がる。
私は、そこから離れて、日本兵の慰霊を行なうことにした。

トライシクルの運転手に言う。
丁度、慰霊するのに、良い場所がある。
橋が架かり、その前が海である。

手前で、トライシクルを止めてもらう。
そして、近くの木の枝を一つ折り、御幣を作る。

ここ、ボホール島の、タクビラランに、日本軍は、1942年3月17日に、上陸し占領した。住民たちは、有効な抵抗の手立てが無かったという。
1944年以降はじまった、アメリカ軍の奪還作戦により、レイテ島から上陸が始まり、ボホール島も、戦場となった。
指揮系統を失った日本軍は、山地に敗走し、散発的に戦ったという。
アメリカ軍のボホール解放は、1945年8月11日となっている。

奪還、つまり、アメリカのものだったのだ。
スペインの後は、アメリカの植民地となっていた。

どれ程の兵士が、亡くなったのか、知らない。
だが、戦闘があれば、必ず、死者が出る。
日本にて、ボホール島の慰霊とは、聞いたことが無いのである。

日の丸と、御幣で、祝詞を唱える。

兎に角、霊位をお送りする。
いつもの通りである。
20分ほどかかった。
終わって、運転手に写真を撮ってもらう。
が、その時、運転手の機転のなさに気付く。

更に、私は、支援をしたい。地震の被害のあった場所を知っているかと問うと、知らないと言う。
この時、運転手は、気のよい、おじさんの方が、良かったと思う。

全く、役立たずになった、運転手である。
支援物資を差し上げる人たちは、何処か・・・

道を戻りつつ、私が、時々、止めて、家の人に声を掛ける。
が、皆さん、いらないと言う。
それから、何度か、止まって、声を掛けたが、皆さん、いらないと言う。

後で知るが、この付近の人たちは、とても恥ずかしがりやで、個人的に、物を受け取ることはないとのこと。

そして、言葉である。
プレゼント・・・と言うが・・・どうも通じない。

私が売りに来たと思った、お婆さんもいた。
こういう時、運転手が助けてくれるのだが・・・

と、いっても、着ているものは、穴が開いたり、上下共に、ボロボロの人もいた。
差し上げたくても、いらないと言われては、差し上げられない。
こんなことは、初めてである。

ついに、私は、諦めた。
ホテルへ戻ると、運転手に告げた。
役立たずの運転手に。

帰りの道は、私が山側の道を示したので、大変だった。
道というより、泥の中を走る。
そこをバスが、トラックが向ってくる。

ホテルに着いた時、一時間半が過ぎていた。
それで、200ペソ。

ただ、兎に角、一番の目的、慰霊の儀が執り行えたことが、良かった。

支援物資に関しては、まだ明日がある。




posted by 天山 at 04:08| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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