2014年02月01日

もののあわれについて656

かくて西のおとどに、戌の時に渡り給ふ。宮のおはします西のはなちいでをしつらひて、御髪あげの内侍なども、やがてこなたに参れり。上も、このついでに、中宮に御対面あり。御方々の女房、押し合はせたる、数しらず見えたり。子の時に御裳奉る。大殿油ほのかなれど、御気配いとめでたし、と、宮は見奉り給ふ。大臣「思し捨つまじきを頼みにて、なめげなる姿を、進み御覧ぜられ侍るなり。後の世の例にやと、心せばく忍び思ひ給ふる」など、聞え給ふ。宮、「いかなるべき事とも、思う給へ分き侍らざりつるを、かうことごとしうとりなさせ給ふになむ、なかなか心おかれぬべく」と、宣ひ消つ程の恩気配、いと若く愛敬づきたるに、大臣も、思す様にをかしき御気配どもの、さし集ひ給へるを、あはひめでたく思さる。




こうして、西の御殿に、戌の時刻に、お出向きななった。
中宮の、お出であそばす西の対の噴水を整えて、御髪上げの役の、内侍なども、真っ直ぐに集まった。紫の上も、この機会に、中宮にご対面になる。お二方の女房が、一緒に来ているが、数えられないほどに、多い。
子の時刻に、御裳を、お召しになる。大殿油は、かすかだが、姫の様子は、とても美しいと、中宮は、拝見される。
源氏は、お捨てされまいと信じて、失礼に当たります姿を、進んでお目にかけました。後の世の先例になろうとか、狭い考えで、密かに気にしていました、などと、申し上げる。中宮は、どういうこととも、判断いたしませんでしたが、このように、たいそう、らしくおっしゃられるのでは、かえって、気が引けますと、何でもなく、おっしゃる様子が、とても若々しく、愛敬があるので、源氏の大臣も、理想通り、立派なご様子の婦人方が、お集まりだが、お互いの間も睦まじく結構だと、思うのである。

姫とは、明石の姫君である。
中宮は、秋好む中宮である。

後の世の例・・・
中宮が、太政大臣の姫君の、裳着の役を勤めたことである。




母君の、かかる折だにえ見奉らぬを、いみじと思へりしも、心苦しうで、参うのぼらせやせましと思せど、人のものいひをつつみて過ぐし給ひつ。かかる所の儀式は、よろしきにだに、いと事多くうるさきを、片端ばかり、例のしどけなくまねばむもなかなかにや、とて、こまかに書かず。




母君、明石が、このような機会にさえ、姫君にお目にかかれないのを、辛いことと、思っていたのも、気の毒ゆえ、参上させようかと思うが、人の陰口を恐れて、そのままになった。こうした邸での儀式は、普通の場合でさえも、何かと、煩雑で、面倒なものだが、一部分だけを、いつもの通り、まとまりなく写しても、どうかと思い、詳しくは、書きません。

最後は、作者の言葉。

片端ばかり、例のしどけなくまねばむもなかなかにや・・・
とて、こまかに書かず

時々、作者が、このように書き付ける。

いつもの通りのことで、詳しく書き付ける必要はないというのである。

物語の一つの特徴である。
当時の人ならば、想像がつく。
だが・・・現在の人は・・・

ただ、他の部分によって、少しばかり、想像することが、出来るが。
それも、また、面白い。


posted by 天山 at 01:56| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月02日

沈黙を破る83

中国共産党の一党独裁政権が、崩壊する。
海外に向かい、強気の中国も、国内問題では、お手上げになる。

つまり、革命である。

その前段階が、ウイグル族から出る、イスラムのテロだった。
そして、それが動き始めた。
すると、それぞれの少数民族、特に、チベット族も、動き出す。

更に、一日、数百件を超える、農民の暴動である。
それらが、大きくなる。

人民解放軍を持って、対処するだろうが・・・
間に合わない。

その歴史は、それの繰り返しである。

反日教育も、本当のことを知る、中国人が増えた。
日本に対する、内政干渉は、甚だしい。

経済大国と言われるが、その大半の利益は、共産党幹部により、多く海外に流れている。
更に、幹部たちは、いつでも、海外に逃げられるに、準備している。
そんな国が、いつまでも、続く訳が無い。

巨大ダムも、蟻の一突きから、崩壊する。

中国も、そのようである。

腐敗と汚職は、止むことがない。
嘘の上塗りが、当然の国。

粛清するなら、共産党幹部すべてが、そうなるだろう。
革命が、起こると、彼らは、皆殺しにされる。
それが、中国の歴史である。

中国経済が、世界一に上がるなどとは、寝ぼけた者の、言い草である。

東アジアは、西欧の百年前だという人がいる。
その通りだろう。
が、その成り立ちが違う。

ただし、中国共産党は、最後に戦争を選ぶ。
人民の目を、国内ではなく、国外に向けるためである。

だが、中国に加勢する国は、数えるほどである。
孤立して、戦争をすれば、負ける。

日米露を敵に廻すことになる。
更に、他のアジアの国々である。

金で覇権主義を推し進めてきた中国に対して、嫌悪を感じている国は、アフリカにも、多い。

世界の至る所で、中国排斥があることを知らぬようである。

世界の大国は、借金まみれである。
その借金を帳消しするためにも、戦争に参加する国は多い。

勿論、戦争といっても、第二次世界大戦とは、全く別物である。
勝ち組は、人的損失を出さずに、勝つ。

無人機攻撃が、主となる。

中国という、倫理の無い国が崩壊する。
それは、世界にとって、実に良いことである。

そして、漢民族は、ようやく、反省に立つことが出来る。
その勝手な言い分、歴史の捏造も、泡と帰す。

そして、中国は、小国になり、落ち着くのである。

覇権主義が、通った時代は、最低最悪のイギリスが活躍した時代であり、その次の戦争好きなアメリカの時代で、終わりである。

独裁政権は、時代の流れに無い。
つまり、独裁政権は、確実に、崩壊する時代である。
時代には、勝てない。

そういう意味では、北朝鮮も、ロシアもまた独裁になると、順次崩壊する。


posted by 天山 at 05:56| 沈黙を破る2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月03日

神仏は妄想である。458

さて、私は、神仏は妄想である、というエッセイを書くにあたり、様々な宗教の経典を読む。また、様々な、宗教に関する、批判、評論を読む。

ここで、一度、私の立場に戻って考える。

人間は、未知なるものに、憧れる。
そして、それが、人間を生かすものになったり、人生の苦悩を超えるための、方法だったりする。

そして、それを否定するつもりは、全く無い。

何故、私が、神仏は妄想である、を書いているのか・・・
それは、人間が勝手に、自分の考えを神仏に託して、解釈し、解説し、教えているからである。

簡単に言う。
存在しないが、観音様という、仏教の菩薩がいる。
その、観音様に対する、信仰を否定はしない。
しかし、その観音様を利用して、様々な、自分勝手な解釈や、人を支配する道具に使うとしたら・・・

更には、観音様の名を使い、金を得るなど・・・
多くの宗教は、そのようである。

例えば、観音様という、未知の、架空の存在があってもいい。
子供時代は、架空の存在だらけである。

それは、その一人のものであると、言う。
イエス・キリストという存在も、たった、一人のために存在する。

多くの人たちの、神、仏という、存在は無いのである。

教祖にかかったといわれる、神なる霊も、教祖一人のものである。
それは、多くの人を集い、拝ませるようなものではない。

どこで、どう間違うのか、その霊である、神と名乗るものを、多くの人に伝え、救いたいという、傲慢さである。

神仏は妄想である、というのは、自分以外の人に、自分の神仏というものを、信じさせる行為に対して、書くのである。

それは、個人の妄想である。
しかし、個人の妄想でも、それによって、生きられるというならば、否定する何物もない。

大勢の人が、念仏を唱える、題目を上げる・・・
不気味であろう。

その大勢というものに、誤魔化されて、とんでもない、世界に入る人たちも、多い。
時に、我というものを、知らない人たちである。

何一つ、努力せずに、我というものを、知らず、人の伝えた神仏を信じて、人生を棒に振る。

実に、恐ろしい、蒙昧である。

福音書に描かれる、イエスは、福音書を書いた人の、考え方に基づき、描かれたというのは、色々と書いてきたので、理解出来ると思う。
しかし、そこで、ある一つの宗派に属していると、その宗派の属する、考え方をのみ、正しいものであり、それによって、救われると、信じ込んでしまうという、愚昧なのである。

それが、実は、迷いであると、気付かない。

それが、恐ろしいのである。
勿論、そういう人たちがいても、この世には、何の問題も無い。

ただ、反社会的な活動をしなければ、いい。
と、共に、人に説くことを止めるべきである。

人は、それらに、導かれて、神仏に逢うことになっている。
それは、自分の創造力である。

その、創造力こそ、人を生かすものである。

あなたと、私の、イエスは、違う。
あなたと、私の仏陀は、違う。
それが、当たり前なのである。

更に、極めて言えば、一人は、一つの宗教を持って、当然なのである。

キリスト教には、聖書主義という、一派がある。
聖書を受け取るのは、人それぞれ、百人百様である。

だが、それでも、導き手が必要であると、結局、指導者が現れる。
誤った、イエスを信じては成らない・・・

しかし、もし、最初から、誤っていたら、どうするのか。
そして、最初から、誤っているのである。

その経典を書くという、行為が、誤りである。

何故、仏陀やイエス、その他の、書き物をしなかった、開祖たちがいるのか・・・
書くことは、誤りになるからである。

つまり、解釈の仕様で、如何様にもなる。

その、解釈により、宗教、宗派、カルトが出来上がる。
実に、恐ろしい、迷いである。

宗教は、迷いを打ち消し、正しい、神仏の道を教えるものというのは、全くの誤りである。

伝えるというのは、人間の欲望である。
その欲望に翻弄された人々が、真っ当に、伝えることが、出来るだろうか。

技術、技巧の技ならば、伝えることが、出来る。
しかし、宗教は、技ではない。
言葉の世界である。
そして、言葉の世界とは、人間の精神の世界である。

その精神の世界が、それらの、教えで、満杯になったら・・・
それほど、恐ろしいことは無い。

何故なら、この世に、絶対というものは無いからである。

神仏だけではない。
鬼や妖怪・・・その他・・・
未知のものは、多数存在する。
人の数だけ、存在する。

何せ、人の皮を被った、鬼も、妖怪もいる。
勿論、神や仏もいるだろう。


posted by 天山 at 06:04| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月04日

神仏は妄想である。459

さて、福音書とは、読めば読むほど、矛盾だけで、呆れるほどの嘘が多い。
嘘とは、史実である。

宗教が、まず信じることからだ・・・というのは、良く解る。
信じなければ、始まらないからだ。

不信や疑問を持っては、進まないし、信者を騙せないのである。

イエスの誕生物語・・・
それは、マタイとルカにしか、書かれていない。
マルコと、ヨハネでは、触れられていない。

最初の福音書である、マルコが触れていないということは、まだ、誕生物語が、出来上がっていなかった。

更に、パウロをはじめとする、皆々も、その誕生には、触れていない。
つまり、解らないのである。

解らないことを、マタイとルカが、創作し書いたのである。

教会で、語られる、イエスの誕生、クリスマスは、マタイとルカを混ぜ合わせた、物語である。

アーマンも、
実のところ、こうしたお話自体は、まったくもって調和を欠いている。イエスがどのような生まれたかという種々の物語は内容がてんでばらばらで、しかもそうした物語同士の食い違いは、いかんともしがたい・・・
食い違いの一部は、歴史的検証にも耐えうるものではないが、それはまた別の話だ。

まず、マタイを要約すると、
マリアの妊娠が発覚。マリアとヨゼフは婚約していた。ヨゼフはマリアとの婚約を破棄することを考えるが、夢のお告げで、マリアが聖霊によって、妊娠したと知る。

彼らは、結婚し、イエスが生まれた。
すると、星に導かれた賢者たちが、東方からエルサレムまで旅をして、ユダヤの王は何処でお生まれですかと、尋ねた。
ヘロデ王は、調査に乗り出し、ユダヤ人の学者から、王がベトレヘムから来るという、預言を知る。

ヘロデ王から、それを知らされた賢者たちは、ベトレヘムに向った。
その時も、星が先導した。
星は、イエスの家族の上で止まった。

賢者たちは、イエスに贈り物をして、夢で警告されたので、ヘロデ王の言いつけに背き、イエスについて報告するために、エルサレムに戻ることはせず、別のルートを通り帰路についた。

ヘロデ王は、自分が王であるから、未来の王に、恐れをなし、軍隊を向けて、ベトレヘムとその周辺の、二歳以下の男の子を皆殺しにした。

しかし、ヨゼフは、夢のお告げで知らされていたので、虐殺前に、エジプトに逃げる。

そして、ヘロデ王が死んだので、帰還できることを知る。
しかし、新しい王は、ヘロデの息子であるから、ベトレヘムには行かず、ガリラヤ地方の北部、ナザレに向った。
イエスは、そこで、育った。

と、上記は、皆、嘘である。

マタイは、預言の成就を、書き尽くすのである。
だから、創作したのである。

ルカは、そのことには、一切触れていない。

マタイと、ルカの共通した意見は、マリアが処女であることと、イエスがベトレヘムで、生まれたことだけである。

ルカは、マタイより、長い文章で、書き綴る。

長いので省略して、マタイにない記述を言うと、天使がマリアに現れたということ。

そして、とんでもない、嘘を書き付ける。

ローマ皇帝であった、アウグストゥスは、帝国内の全て人の人口調査をするというのである。この住民登録制度を最初に導入したのは、シリアの総督キリニウスだと、ルカは言う。

そして、何と、先祖の土地に戻って、登録するということ。

ヨゼフの先祖は、ベトレヘム出身の、つまり、ダビデの子孫である。
そこで、ベトレヘムに行き、イエスが生まれる。

主の天使が現れて、羊飼いたちに、メシアが生まれたことを告げる。
彼らは、イエスを拝みに来た。

八日後、イエスは、割礼を受ける。
そして、出産後、神に献上する生贄を持って、神殿に行く。
神殿で、シメオンという男と、アンナという年老いた女が、イエスをメシアであると、認める。

割礼、神殿は、モーゼの律法通りである。

この二つの物語を、歴史家は、解釈に戸惑うばかり。
嘘なのであるから、歴史も何も無い。

アーマンも、
マタイに出てくる星の話は、一体全体何を意味しているのか?
と言う。

星が賢者を導き、エルサレムで止まり、更に、動き出して、ベトレヘムに誘う。
そして、イエスの生まれた場所で、止まった・・・

マタイは、一体何を言いたかったのか・・・
不思議を言いたかった・・・

もっと、面白いのは、住民登録である。
ヘロデ王が、ベトレヘムや、その周辺で、幼児殺しをした事実は無い。

更に、先祖であるダビデが生まれた、ベトレヘムに戻る・・・
一千年前の先祖の地に戻る・・・
そんな制度は、歴史的に見当たらない。

全く、嘘八百である。
御伽噺である。

ところが・・・
キリスト教徒は、福音書を歴史的事実だと、信じているのである。

マタイと、ルカは、イエスが、ナザレの出身であることを、知りつつ、ベトレヘムで生まれたことにしたかったという・・・

本当に、ご苦労なことだ。

posted by 天山 at 06:10| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月05日

神仏は妄想である。460

「マタイ」と「ルカ」のイエス誕生に関する記述には、非常に顕著な違いがある。「マタイ」に書いてあることが、ことごとく「ルカ」には書かれていないのだ。その反対も然り。「マタイ」では、ヨゼフが夢で神託を告げられるが、「ルカ」ではそのことに触れられていない。「ルカ」では、エリザベトとマリアの前に天使が出現するが、「マタイ」にそのようなくだりはない。「マタイ」には賢者が登場し、ヘロデ王による幼児殺戮、聖家族のエジプトへの逃避行およびユダヤを迂回してのナザレへの帰還について記されている。しかし「ルカ」にはそのような話が一切出てこない。その「ルカ」と言えば、洗礼者ヨハネの誕生、ローマ皇帝による住民登録制度の実施、ヨハネとマリアのベツレヘムへの旅、飼い葉桶と宿屋の話、羊飼いの話、イエスの割礼、エルサレム神殿で赤子イエスを神に捧げる話およびその直後の帰郷といったふうに物語は続く。そのどれ一つとっても、「マタイ」には載っていない。
アーマン

つまり、二つの物語は、困難な矛盾があり過ぎるのである。
つなぎ合わせて、解釈しても・・・

「マタイ」と「ルカ」が言うように、イエスが本当にヘロデの治世に生まれたなら、この時キリニウスがシリア州の総督だったという「ルカ」の記述は間違っていることになる。ローマの歴史家タキトゥスやユダヤの歴史家ヨセウスの著作物、古代の碑文などの様々な資料から、キリニウスは西暦六年にシリア州の総督に就任したことが分っている。これは、ヘロデが死んだ十年後のことだ。
アーマン

こうして、アーマンは、順々に、その矛盾と、誤りを書き続ける。

何度も言うが、創作だから、そういうことになる。

ルカは、ヨゼフとマリアの故郷は、ナザレというが、マタイは、全くそれには、触れない。
マタイは、初めから、二人は、ベトレヘムと関わりがあるとしている。

更に、宿屋と飼い葉桶の話は、無い。
二人は、ベトレヘムの家にいて、イエスを生んだ。

そして、ヘロデ王・・・本当は、いないが・・・
二歳以下の男児を皆殺しするように言う。
それは、賢者が現れる、随分前に、生まれていたことになる。

そうすると、イエスの誕生後、数ヶ月、一年、それ以上、ベトレヘムに留まっていたことになる。

それでは、ルカが、全く嘘を書いていることになる。
イエスが生まれて、一ヶ月ほど経って、ナザレに戻ったことになっている。

マタイは、エジプトに逃げていた家族が、ヘロデ王が死んだので、ベトレヘムに戻ろうとする。
しかし、ヘロデ王の息子が後を継いだので、ナザレに移住せざるを得ない。
つまり、マタイは、彼等は、ナザレではなく、ベトレヘム出身だというのである。

二つの福音書の同じところは、マリアが処女だったこと。イエスが、ベトレヘムで生まれたことである。

何故、ベトレヘムなのか・・・
それは、マタイが、旧約聖書の、ミカ書が、メシアがベトレヘムからやって来ると、預言しているからである。

ガリラヤのナザレの町に至る、物語を作る必要があったのである。

まあ、苦心惨憺である。
嘘を書くのも、楽ではない。
しかし、初期キリスト教団、初期イエス集団としては、何とか、旧約聖書との、整合性を整えたかったのであろう。

少年時代は、私は、世の救い主は、最も貧しい場所、馬小屋の飼い葉桶で、生まれたと、教えられたものである。
そして、ルカと、マタイの、二つの物語を合わせた、ストーリーを聞かされたものである。

そのクリスマスの前には、待降節という、四週間の準備期間があった。
それは、太祖、旧約の代表的な人物たちを、一人一人、思い出すというものである。

こじ付けも、程がある。
それが、ローマカトリックに代表される、嘘八百であった。

そして、それを、そのまま受け継いだ、プロテスタント・・・その他、キリスト教の新興宗教である。

こういうのを、呆れるというが・・・
それは、何も、キリスト教に限ったことではない。

仏典も、イスラム教典も・・・
その他の、宗教の正典なるものも、である。

そして、彼ら、宗教愛好者たちは、事実ではなく、そこに、真実がある、云々と、事実を捻じ曲げる。

兎に角、信じることで、救われる。
兎に角、信じることで、悟る。

信じさせれば、こっちのもの・・・
皆々、騙されて、その信仰の喜びに、涙を流すのである。

皆、人間の、創作、作り上げた、諸々の、物語に酔いしれて・・・
騙される。

空海などは、それを知らない人間は、酒に酔ったようなものだと、言うが、彼こそ、信仰に酔ったものであり、詐欺師であろう。

信仰という、迷いに入り込んで、身動きが取れなくなってしまった、面々・・・
哀れである。

カトリックでは、洗礼によって、原罪が許され、神の国、天国に行く。
唾棄すべき、日本仏教の宗派は、すべて、戒名なるものを、与えて、引導を渡し、極楽へ、行くという。

この迷いは、いつまで、続くのであろうか。
霊界には、天国も、極楽も無い。
存在するのは、想念の世界である。

隣に居ても、想念が違えば、永遠に逢うことが、無い世界である。
霊学を学ぶべきである。


posted by 天山 at 06:31| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月06日

神仏は妄想である。461

イエスの系譜というものも、おかしい。

家系図が載っているのも、マタイと、ルカである。
どちらも、イエスの家系を、ヨゼフからユダヤ人の先祖まで、遡る。

このこと自体が意味不明だ。
アーマン

二つの福音書は、マリアが処女で、妊娠していると、書くのである。
つまり、聖霊によって・・・

では、ヨゼフとは、血の繋がりなく、関係ないのである。
イエスが、ヨゼフと血のつながりがないのに・・・
イエスをヨゼフの血統だというのか。

更に、肝心のマリアの系図は、載っていない。

よく解釈すれば、だから、ヨゼフの存在意義があるということになるのだが・・・
マリアとイエスは、血が繋がる。
そこで、聖霊の役割が、ヨゼフに与えられるという・・・

現代医学であれば、処女降誕も夢ではないが・・・
当時、果たして、処女が妊娠するような、技術があったか・・・
無い。

すると、神には、お出来にならないことは、無い、という、蒙昧の信仰に陥る。
つまり、迷いである。

さて、マタイ一章の系図と、ルカ三章の系図は、はっきりと、異なる。

マタイは、冒頭から系図を載せる。
ルカは、イエスが洗礼を受けた後に、載せている。

マタイの系図は、ヨゼフから、メシアである、イエスの先祖ダビデ王、更にユダヤ人の祖である、アブラハムまで辿る。

ルカは、人間の祖である、アダムまで、辿るという・・・

つまり、ルカは、イエスがユダヤ人を含めた、すべての人々に対する、メシアであることを、示すことに、力を注ぐ。

それは、ルカが書いた、使徒行伝にも、書かれている。
キリスト教に改宗した、異教徒についても、書かれているのである。

ルカは、イエスがアダムを通して、人類と繋がっていると、言いたいのである。

マタイが、アブラハムから始まり、ヨゼフまで辿る。
ルカは、その逆で、ヨゼフから、アダムに辿る。

更に問題なのは、二つの福音書の系図が、違うことである。
共に、ダビデ王からの系譜が、合致しないのである。

そこで、ルカは、マリアの系図なのか・・・
いや違う。
ルカは、ヨゼフの系図と丁寧に、嘘の上塗りをしている。

アーマンは、
ほかにも問題がある。「マタイ」の系譜は、イエスの先祖の数に重大な意義を付与しているという点で、より際立っている。
と、言う。

それは、十四代に意味を持たせて、十四代ごとに、重要な出来事が起こるというものだ。
そして、イエスも、十四代目に当たる。

ところが、それが、不首尾に終わっている。
三つ目の十四代の組が、実際には、十三代しかいないのだ。

旧約聖書と、照らし合わせて見ると良い。
マタイは、ダビデから、バビロニアによる、災禍までの十四代を立脚する上で、幾つかの名前を、すっ飛ばしているのだ。

何故か・・・
マタイの作者は、すべての世代を採用すると、十四代ごとに大事件が起きると、主張出来ないからだ。

アーマンは、その十四という数字の解説をしているが・・・
省略する。

言える事は、マタイは、アブラハムから数えて、イエスは、四十二番目に当たるはずであり、しかし、ルカからは、五十七番目になっている。

二つの福音書の系図は、全く別物なのだ。
アーマン

二つは、別々の目的があった。
マタイは、偉大なる、ユダヤの王、ダビデとのつながり、ルカは、人類全体との、つながりである。

ここでも、明らかな通り、福音書は、創作されたものであるということだ。
創作とは、創り上げるということである。

創り上げられた、お話を元に、教義を作り・・・
本当の、イエスからは、遠い遠い、お話になってしまった。

メシア、キリストにされた、イエスである。
イエスは、メシアにされたのである。

つまり、メシアは、存在しない。
イエス・キリストは、存在しない。
つまり、神の子、イエス・キリストは、存在しないのである。

ところが・・・
存在しているが如くに、説く人たちがいる。

キリスト教という、宗教、カトリック、プロテスタント、その他、諸々の、諸派の、指導者たちである。
そして、あろうことか、罪の許しという言葉まで、尾ひれはひれをつけて、イエスの救いを説くのである。

騙され者は、たまったものではない。

そうすると、旧約聖書というものも・・・
物語、神話としては、非常面白いが・・・・
更に、教訓なり、生き方なりの指導など・・・

それは、信じる物ではなく、生かすものである。
神は、妄想であるが、そこに書かれた多くの、物語、資料は、情報として、生かすものである。

私は言う。
何一つ、無駄な書き物は、無い。
それを、情報の一つして、生かすことで、生きられる、ということである。


posted by 天山 at 05:41| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月07日

神仏は妄想である。462

イエスが、何故、キリストに成っていったのか・・・
そこには、イエスの受難物語が、大きく関わる。

イエスの死と復活は、キリスト教の眼目である。

そこで、私は時々、何故、洗礼者ヨハネが、キリストにならなかったのかと、考えることがある。

イエスは、ヨハネの仲間、あるいは、ヨハネはイエスの先生だったはずである。
同じ場所で、禁欲的な修行をしていた。
ヨハネも、政治的に捕らわれた。

そして、首を落とされて死んだ。
イエスと、ヨハネの違いは、何か・・・

矢張り、イエスは、村から村へ、町から町へと、話して歩いたからか・・・
ヨハネより、目だった存在だった。

二人は、共に、ユダヤ教にありながら、ユダヤ教の指導者たちから、嫌われた。ユダヤ教の指導者たちの、地位を危うくする存在だったのか。

二人は、反ユダヤではなかったが、その行為が、反ユダヤ教に見られたようである。

その精神を、福音書のヨハネが受け継いだ・・・

つまり、ヨハネの福音書は、実に、反ユダヤ的である。
学者たちも、多くの点で、最も激しい反ユダヤ主義的福音書だと、指摘している。

最初の福音書である、マルコの描く、イエスの受難物語と、ヨハネの受難物語は、極端に違うのである。

ここで、それぞれの、受難物語を書き付けるこつは、大変なので、それを承知しているという、前提で、書く。

マルコを読むと、裁判がスムーズに進んでいる。そして、イエスは、ほとんど、何も言わない。ピラトと、イエスを訴えるユダヤ人指導者、群集が、一堂に会し、各々意見を言うのみである。

ところが、ヨハネになると、段取りから、何から何まで、様子が違う。
更に、裁判は、実に奇妙な具合に進む。

イエスは、ピラトと共に、官邸の中で、イエスを訴えたユダヤ当局と、群集は、官邸の外にいる。
ピラトは、イエスや、告発者と話をするために、官邸を出たり入ったりする。

ピラトは、官邸を、六回も出入りしている。

そして、ヨハネのイエスは、実に雄弁である。
イエスは、ピラトと、私の国は、この世に属していないと語り・・・
真理について説く為に、この世にやってきた。
神によって与えられたもの以外は、イエスがピラトに、何の権限も及ぼすことが出来ないと、言う。

そして、ピラトは、裁判の真っ最中に、イエスを鞭で打たせている。
その後、ピラトは、イエスを総督官邸から連れ出し、打ち据えられ、血にまみれ、紫のローブをまとったイエスの姿をユダヤ人に見せる。

そして、ピラトは、見よ、この男だ、と言う。
ピラトの兵士は、イエスに茨の冠をかぶせ、紫のローブを着せて、ユダヤ人の王、万歳と、嘲る。

ここで、ヨハネは、彼ら兵士の口から、真実を引き出した。
ユダヤ人の王、である。

更に、ピラトは、三度、イエスが無実であることを言う。処罰される謂れは無い、釈放すべきだと、明言する。
だが、マルコでは、一度も、イエスが無実だとは、言わないのである。

ヨハネの福音書、八章42節から44節に、
神が自分たちの父であるなら、
あなたたちはわたしを愛するはずだ。
わたしは神から出て来て、
ここにいるからである。
わたしは自分勝手に来たのではなく、
あの方が、
わたしをお遣わしになったのである。
なぜ、わたしの言うことがわからないのか。
それは、わたしの言葉を聞く耳がないからだ。
あなたたちは、
悪魔である父から出たものであって、
自分たちの父の欲望を満たしたいと
思っている。
悪魔は初めから人殺しであり、
真理を拠りどころとしていない。
彼には真理がないからである。
嘘を言うときは、本性から言っている。
彼は嘘つきであり、
嘘の生みの親だからである。

つまり、イエスは、ユダヤ人は、悪魔から出たものであると、言っているのである。
実に、反ユダヤである。

ピラトが無実を訴えるが、ユダヤ人は、殺せと叫ぶ。
そして、遂に、ピラトは、そのことから、手を引く。

イエスを殺したのは、悪魔から出た、ユダヤ人である。
ヨハネは、そのように解釈した。

これは、重大である。
ユダヤ人は、神の子ではなく、悪魔の子であるとなる。

ここに、ヨハネの意図があるのだ。

イエスをキリストとして、作り上げてゆく過程である。
ヨハネ福音書は、ヨハネ教団の考え方である。

果たして、キリスト教徒は、マルコに付くのか、マタイか、ルカか・・・
ヨハネか・・・
ところが、これらは、新約聖書の正典である。
キリスト教徒は、これらの矛盾の中で、騙されているのである。

勿論、キリスト教徒だけではない。
多くの宗教、その他の宗教的な集い・・・
皆々、騙しのテクニックを使う。


posted by 天山 at 06:16| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月08日

伝統について66

君に恋ひ 寝ねぬ朝明に 誰が乗れる 馬の足音そ われに聞かする

きみにこひ いねぬあさけに たがのれる うまのあのとそ われにきかする

あなたを思い、寝られずに迎えた夜明け。誰が乗る馬か、足音を私に聞かせるのだ。

つまり、何処かの女の元に通った、男の馬の足音だったのだろう。
少しばかりの、嫉妬である。

紅の 裾引く道を 中に置きて われか通はむ 君か来まさむ

くれないの すそひくみちを なかにおきて われかはかよはむ きみかきまさむ

紅の、裾を引いて行かなければならない道を、間に置いて、私が通って行きましょうか。それとも、あなたが、来てくださるのですか。

ほのぼのとして、恋の心、満載である。
私が行く・・・それとも、あなたが・・・
全く、時代を問わない歌である。

天飛ぶや 軽の社の 斎槻 幾世まであらむ 隠妻そも

あまとぶや かるのやしろの いはひつき いくよまであらむ こもりつまそも

天に飛ぶ、軽の社にまつわる、槻の下に、いつまで隠しておくのか。隠れる妻だ。

人に知られぬ妻の存在を、いつまで、隠しているのか、と言う。
人の口に上らぬように。
いはひつき、とは、穢れを祓い、大切にする、槻である。

神名火に 神ろぎ立てて 斎へども 人の心は 守りあへぬもの

かんなびに ひもろぎたてて いはへども ひとのこころは まもりあへぬもの

神名火山に、神域の木を立てて、大切にするようにしても、人の心は、守ることが出来ないもの。

移り気な人の心を、歌う。
当時は、樹木などを立てて、神域とした。
そして、その場を、大切したのである。
それに、掛けて、歌う。

天雲の 八重雲隠れ 鳴る神の 音のみにやも 聞き渡りなむ

あまくもの やへくもかくれ なるかみの おとのみにやも ききわたりなむ

天雲の、八重雲に隠れて、鳴る雷のように、音を聞くだけで、過ごすのだろうか。

この神の音、雷は、人の口である。
噂ばかりを聞いて、日々を過ごすという。

これは、酷いことである。
好きな人を、好きだと言えぬ、苦悶である。

ただ、人の噂だけが、流れている。

だが、このような歌が多いが、実は、その噂も、楽しんでいるのかもしれない。
苦しいと言いつつ、そのことも、楽しむ。

また、苦しいから、更に、恋の心が、燃え上がる。

障害があれば、あるほど、人の心は、それに立ち向かうのである。
万葉の時代も、同じである。

現代の人と、どれ程の差があるのか・・・
恋に関しては、全く、同じ程度なのである。

それが、救いである。
古代の人たち・・・私達の先祖たちも、恋に、心を焦がしたのである。



posted by 天山 at 06:01| 伝統について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月09日

フィリピン・ボホール島へ

真冬の日本から、フィリピンである。
フィリピンは、多くの島による国である。
その地域によっても、天候が様々に、異なる。
だが、暑い国である。

夏の絽の襦袢、単の着物、そして、羽織は、袷という、へんてこな、井出立ちで、出発した。
マニラに到着したら、羽織を脱ぎ、更に、ホテルに着いたら、着物を脱ぐ。
そして、夏の恰好をする。

そんな旅を続けて、八年目に入る。
その間、15カ国を廻った。
東南アジア、南太平洋の国々である。

追悼慰霊と、衣服支援の旅・・・

戦没者の追悼慰霊をするというのは、長年の希望だった。
そして、出掛けてみて、折角だからと、衣服支援をはじめた。

大東亜戦争の日本兵の遺骨は、まだ、113万人ほど、異国の地にある。
今年、平成26年、2014年は、敗戦から、69年目である。

そんなことを、知る人は、少ない時代・・・

だが、日本が戦争をしない国であることを、これからも願うとするならば、慰霊は、必要である。そして、追悼である。
追悼とは、追って、悼むこと。つまり、戦争を知るということである。

日本は、フィリピン全土を戦場とした。

今回の目的は、ビサヤ諸島という、ルソン島とミンダナオ島の間にある、島々の一つボホール島である。

ボホール島は、レイテ島とセブ島の間にある島。
フィリピンは、国内線の飛行機も多いが、フェリーの行き来も多い。

私は、セブ島から、フェリーで、ボホール島に渡る計画を立てた。

ボホール島は、昨年の地震で、185名以上の死者を出し、更に、あのレイテ島、サマール島に甚大な被害を出した、台風の被害も受けた島である。
報道されない故に、多くの人は知らない。

そして、戦争時代、敗戦まじかな時期、日本軍はボホール島に上陸し、レイテ島を奪還した、アメリカ軍と戦うことになった。
だが、それも、情報が少なく、知る人は少ない。

幾人の兵士が亡くなったのか・・・
よく解らないのである。

更に、ボホール島に、慰霊に行くという、話も聞いたことがない。

それでは、慰霊と支援をと、私は即座に、ボホール島に行くことを考えた。

今では、親日感情を持つ人が、フィリピンでは、八割ほどになっている。
日本人としては、嬉しいことだ。

敗戦後の、日本の戦後賠償支援がフィリピンを、大いに助けたということもある。

一時期、日本人男性が、フィリピンに遊びに行くとは、性処理の遊びが多かった。勿論、今も、それは、ある。だが、日本人は、行儀が良いことでも知られる。

白人特有の、傲慢不遜は、ない。

ただ、悲しいことは、日本人の血を引いた、孤児が多く存在するということだ。
日系人であれば、保護も受けられるが・・・
孤児であると、国籍もない状態である。

更に、貧しい国特有の、児童買春問題。
今回、国際的児童ポルノの集団が、摘発されたことは、実に良いことである。

私は、報道されたことを、現地に行って、確認できるから、第一次情報である。
単なる、物知りの情報家と違う。

ただし、書けないことと、書かないことも、多い。
その国を悪くする情報は、書かない。
更に、情報を与えることによって、馬鹿な者が、行動しないことを願って、書かない。

兎に角、私は、拙い、ブロークン英語、和製英語で、誰彼に、話し掛ける。
そこから、色々な情報を得る。

そこが、恥知らずの私の良いところである。

ただ、今回は、不思議なほど、幸運に恵まれなかった。
それは、ボホール島に関しての、協力者が現れなかったことである。
全く初めての場所・・・

さて、今回は、最初にマニラに、二泊した。
暑さに慣れるためである。
それで、日本で、メトロ・マニラのパサイ市のホテルの予約をしてみた。

安いホテル・・・
丁度良いホテルが、見つかった。
シングルベッド・・・つまり、シングルルームだと、思ったが・・・

そのホテルは、その付近では、結構有名なホテルである。
ところが、チェックインをして、部屋に入ると、何と、四人部屋の、カプセルホテル仕様だった。
驚いた。

すぐに、フロントに行き、確認する。
そして、シングルルームだと、二泊で割り増し、3000ペソ必要と言われた。
今は、円安により、1ペソ、2,5円である。
以前は、1ペソ、2円だった。

100ペソが、以前は、200円、今は、250円ということである。
物価高のイメージ。

3000ペソと聞いて、諦めた。
私も、確認しなかったのが、悪い。

ただ、救いは、朝食が付いていたことである。

日本で、予約する際は、よくよく、内容を確認せよということだと、勉強した。
ちなみに、日本円で、二泊で、4800円程であった。
ペソにすると、2000ペソと少しである。

私は、いつも、現地の金銭感覚で、考えるようにしている。
日本円の感覚では、現地の感覚が、理解出来なくなるからだ。

兎も角、諦めて、二泊することにした。

posted by 天山 at 04:57| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月10日

フィリピン・ボホール島へ2

メトロ・マニラのパサイ市は、空港に近く、その点ではいいが・・・
一番、危ない街といわれる。

スリ、かっぱらい、などは、当たり前にある。
それが、皆、ストリートチルドレンが、大きくなった青年たちが、多い。

兎に角、一瞬の隙を突いてくる。

更に、人人人の波である。
朝から夜まで・・・

道端に出る、屋台の物売りも多い。
お祭りのような気分になる。

用だけを済ませて、ホテルにいるのが、一番だが・・・
それでも、私は、ホテル近くの路地を歩いてみた。

迷路のような、細い道である。
入り組んで、どちらに向っているのか、解らなくなる。

家々が、つながっていて、長屋式なのだが・・・
それが、歪なのだ。

決して、豊かとは言えない、暮らしぶりである。
ここでも、衣類を持って来ると、喜ばれそうだ。

学校前の子どもたちは、半身裸の子が多い。
道端のストリートチルドレンも、幼い子は、裸だが・・・

さて、海外で使う、携帯電話であるが、なかなか、日本に通じない。
日本からも、通じないということで、新しい携帯電話を買うことにした。

一番安い物。
1000ペソ、2500円ほどである。
簡単な操作だけを教えて貰い、早速、日本に電話してみる。

ようやく、繋がる。
八年も使うと、古い物になる時代。

コンビニに行き、料金を入れる。
最初に古い電話に入れた、200ペソがパーになったので、今度は、新しいものに、100ペソ入れる。

フィリピンでは、どこでも、一度出したお金は、戻らないと、知っている。
ホテル料金も、毎朝、本日の分として、支払うことにしている。
もし、ホテルが嫌になり、別のホテルに変更するとしても、支払ってしまったものは、決して、戻らない。

それは、フィリピン全土に、言える。

どうしても、返金を求めるなら、ピストルでも、持参していないと、駄目。
そういう意味で、日本人は、多くフィリピン人に、お金を取られているだろう。
一度や二度の観光ならいいが・・・

フィリピンに憑かれて、日本から男たちが、遊びに来て、そのまま、フィリピンに居つき、貧しくなって行く過程を取材した本が、出た。

一人の女と恋愛をする。
すると、その女の家族から、親戚、友人知人も、金を取りに来る。
お金を貸すことは、上げることと、同じである。
勿論、日本でも、そのようであるが。

さて、迷路に入った私は、人に聞いて、ホテルに戻った。

明日は、セブ島に向う前日である。
暑さに慣れるため、マニラで、一日過ごすという、それだけのこと。

ところが、朝夕が涼しいのである。
昼間も、それほど、強い暑さはなかった。

今時期は、乾季であり、二月頃から、気温がぐんぐんと上がる。
帰国する日に向けて、次第に、気温が上がって来た。

フィリピンは、乾季、暑気、雨季があるが・・・
それぞれの、島でも、天候は違う。

だが、フィリピンでも、天候の変化が多くなったという。
今までは、台風など通過しなかった、ミンダナオ島も、台風被害が酷い。

世界的規模で、天候が不順なのである。

カプセルの部屋は、一人のマレーシア人が出て行き、三名が入って来た。
つまり、満室である。

その、帰国する、マレーシア人と、色々と話をする事が出来た。
とても、流暢な英語で、半分ほど理解出来なかったが・・・

今回は、出来るだけ、相手にスローリーに話してもらうように、頼んだ。
ゆっくり話してくれれば、少しは、理解が増した。

ただ、フィリピンのおじさんたちの英語は、訛りが酷くて・・・
解らない時は、笑って誤魔化す。

昼12時前にチェックアウトし、タクシーに乗り、空港に向う。
100ペソ程度である。

空港のメータータクシーでは、ホテルまで、300ペソもかかった。
それらは、黄色のタクシーである。
以前は、普通のメータータクシーに乗ることが出来たが・・・

客を乗せて来たタクシーに乗ると、通常料金だが・・・
空港側も、考えたものだ。手数料を取るのだろう。

大量の支援物資を持つ私は、とても辛いものがある。
絶対にカートが必要だ。
カートに乗せて、搭乗手続きに行く。

この支援物資が、今回は、最後の最後まで、重荷になった。

posted by 天山 at 06:22| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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