これは、あくまでも、参考である。
それが、最も理想であるとか、するべきであるとかは、言えない。
更に、シュタイナーの霊界は、グノーシス主義、キリスト教の瞑想指導や、その他、西欧の考え方が多くある。
精神指導という名において、キリスト教の黙想会なども、目指すところだと、思われるが、キリスト教を超えている。
更に、心霊主義、心理学・・・なども、加えることが、出来る。
その都度、紹介の合間に、付け加える。
その、霊界参入、の箇所から始める。
一般に理解可能な言葉で暗示することのできる神秘修行についていえば、霊界参入こそその最高の段階である、といえる。この段階よりも高次の修行になるとどんな記述も理解し難くなる。とはいえ、準備と開悟と霊界参入の諸段階での秘密内容を認識するところまで来た人には、どのような道もさらに開かれている。
シュタイナー
霊界参入に伝授される、知識と能力は、シュタイナーの言う行なしでは、遠い未来・・・何度も輪廻転生を重ねた末に、獲得されるという。
参入を許された人は、遥かな未来に、まったく異なる状況下で、経験するような事柄を、この世で、経験出来たのである。そうだ・・・
ここで、躓く人もいるだろう。
今世で、経験しなければ、遠い未来において、経験するだろう・・・
その前に、霊界参入という言葉も、躓く。
霊界の存在を認めることから、始まるのである。
キリスト教の西欧において、輪廻転生を言うとは、大胆である。
それは、また、画期的なことであるが・・・
グノーシス派は、すでに、そのように考えていた。
ここで言うところの、行とは、精神的指導という名目で、宗教の中にもある。
仏陀の指導法も、取り入れているが・・・
人はその成熟の度合いに応じた程度でしか、存在の秘密を本当に経験することはできない。
シュタイナー
当然である。
つまり、人には、それぞれの、精神、心、魂のレベルがあるということだ。
知る人が、知らない人に、教える、伝えることで、歴史と文明は、成り立ってきた。
そして、知る人は、様々な言い方をされる。
宗教の教祖が、勝手に自分のことを、名乗るのに、似る。
そして、知識と能力の高次の段階へ至ろうとする人の前には、成熟を促すさまざまの障害が待ち構えている。
シュタイナー
その通りであるが、勝手に、それを障害だと、思い込み、勝手に妄想する者も、多い。
更に、障害があるからこそ、それが、本当のことである・・・云々という、宗教の教えである。
シュタイナーの確信は、自分の霊界参入の確信であり、自分の霊界の見方の確信である。
誰も、それには、批判出来ない。
経験したという人に、何をか言えるだろうか。
霊界参入が許されるのは、輪廻転生の中で、秘密の伝授を受けるに相応しいところまで、進化するために、積まなければならない、諸経験を、通過しないで、済ますことになる。
したがって霊界参入を志す者への最初の指導は、未来の諸経験をいかに代償しうるかである。
シュタイナー
矢張り、オカルトなのである。
そして、結局、霊的な事柄を語ることは、オカルト以外にないのである。
シュタイナーが言うところの、行を積む・・・
私は、その行を、まだ、書き付けていない。
真の神秘学の原則に従えば、研究者は常に明瞭な意識をもって、研究に従事しなければならない。どんな作用が生じるかも知らずに、研究や修行を続けるべきではない。神秘道の導師が弟子に助言や指針を与えるときには必ず、それを修行することによって、修行者の体、魂または霊の中に、何が生じるかを説明する。
シュタイナー 霊界参入が与える諸影響
当初、シュタイナーは、自分で修行する道を、示していたが、ここでは、導師が出てくる。矢張り、指導者が必要なのである。
明瞭な意識を持ってすれば、一人で修行が出来るはずだった。
それは、前段階だったのか・・・
それでは、神秘学の導師とは・・・
神秘学を先に学んでいる人なのか。
そして、一体、どのようにして、それを証明するのだろうか。
疑問が次々と、湧いて来る。
暗中模索は神秘修行にとって決して好ましい状態ではない。眼を見開いて自分の道を歩もうとしない人は、霊媒的な方向に近づく。そうなると、自分を神秘学の意味での見者にすることができなくなる。
シュタイナー
当然である。
霊能者と自称する人たちの多くは、霊媒師である。
霊媒師とは、その体を霊に明け渡す。
つまり、霊の入れ物になるだけである。
それは、実に、恐ろしいことである。
だから、シュタイナーも、明瞭な意識を持ってと言う。
明瞭に意識を持つということは、絶対に必要である。
だからこそ、確実なのである。