2014年01月09日

伝統について65

あしひきの 山田守る翁が 置く蚊火の 下焦れのみ わが恋ひ居らく

あしひきの やまだもるをぢが おくかひの したこがれのみ わがこひをらく 

あしひきの、山田を番する老人が置く、鹿火のように、下心に焦がれるだけで、私は恋している。

蚊火とは、鹿から田を守る火のこと。
その火のように、燃え続けている恋心である。

何とも、奥ゆかしい恋である。

そき板もち 葺ける板目の 合はざらば 如何にせむとか わが寝始めけむ

そきたもち ふけるいための あはざらば いかにせむとか わがねそめけむ

そぎ板で葺いた、板目のように、逢わずにいても、どうしようとも、私は共寝し始めたのだろう。

どんな不可抗力があろうとも、私は、恋するという、宣言である。
強い意志の恋。

難波人 葦火焚く屋の 煤してあれど 己が妻こそ 常めづらしき

なにはひと あしひたくやの すしてあれど おのがつまこそ つねめづらしき

難波の人が、葦の火を焚く家のように、すすけているが、わが妻こそは、いつも変わらず、可愛いのだ。

妹とは、言わず、妻と呼ぶ。
その妻とは、長い間の、付き合いであるが、変わらずに、可愛いのである。

妹が髪 上竹葉野の 放ち駒 荒びにけらし 逢はなく思へば

いもがかみ あげたかはのの はなちこま あらびにけらし あはなくおもへば

恋人の、髪を束ねる、竹葉野に放し飼いをする、馬のように、すさんでしまったのか。あの娘が逢ってくれないということは・・・

失恋の歌である。

恋人の心が、すさんでしまったのか・・・
つまり、心変わりをしたのか、である。

馬の音の とどともすれば 松蔭に 出でてそ見つる けだし君かと

うまのねの とどともすれば まつかげに いでいそみつる けだしきみかと

馬の音が、どんどんと響くと、松影に出てみた。あなたが来たのかと思い。

待っている、心。
その音がすると、恋人が来たのかと、思うのである。

恋の歌を、読み続けていると、何とも、ほほえましいのである。
万葉の世界の恋・・・

純粋で、素朴である。
その、心に、曇りが無い。

嬉しさも、悲しさも・・・
素のままなのである。

歌に、技巧が無いのが、何よりの、証拠である。

その、苛立ちも、何もかも、人の心は、大差ないのである。
時代を超えても、それは、同じ。

心は、古代も、現代も無い。
心こそは、共通しているのである。

それを万葉によって、知る。




posted by 天山 at 07:20| 伝統について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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