2014年01月03日

神仏は妄想である。457

事実、この答えは、共観福音書には当てはまる。しかしそれだけではない。共観福音書に出てくる奇跡は、待望の王国が、イエスの内部にすでに到来しつつあることを示唆しているのだ。
アーマン

共観福音書とは、ヨハネを省く、マルコ、マタイ、ルカである。

その前に、奇跡とは、何か。
不思議な業である。
不思議とは、超自然・・・

通常は、有り得ないことである。

教祖、開祖にいえるのは、皆々、奇跡を行なうということである。
勿論、その後の人たちが、創作したものである。

現在も、多くの宗教では、奇跡、不思議なことが起こったという。
そして、不思議なことが起こると、信仰が深まるのか、更に、迷いに入るのか・・・

兎に角、病気が治った、商売が繁盛した・・・
ご利益があった・・・

奇跡、超自然、不思議なこと・・・

実は、超自然というものも、自然なのであるが。
自然の中には、超自然も、含まれてある。

こういう例がある。
高齢の男性が、肝臓癌と診断された。
そして、手術を受けることになった。
海外にいる、息子たちも駆け付けた。

ところが、前日になり、肝臓癌が消えている・・・
嘘・・・
ところが、本当の話だ。

さて、この方が、何かの信仰を持っているとしたら・・・
奇跡だ、奇跡が起こった。信仰のお陰だ、となるかもしれないが・・・

本人は、何の信仰も無かった。
そして、消えたと聞いても、あーーーと言っただけ。

家族も、唖然である。
そういうことが、この世にはある。
それで、奇跡、不思議だと、騒ぐことは無い。
そういうこともある。

福音書の中で、イエスの奇跡を書かざるを得ない状況である。
それが、待望の神の国の到来である。
それを、告げるために、書かざるを得なかった。

勿論、少しばかりの、不思議はあるだろうが・・・

福音書の奇跡物語は、創作である。

イエスの内部に到来しつつあった・・・それを示唆する。
ルカは、書く。

主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に開放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ・・・
この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した、とイエスは言った。

旧約聖書の書かれている、預言の成就を成り立たせるために・・・

共観福音書は、神の王国へ人々をいざなう、永く待たれた人物として、イエスを描くのである。

だが、ヨハネでは、違う。
奇跡と言わない。
しるし、と言う。
そこにも、魂胆がある。

ヨハネと、他の福音書では、その意味が異なるのである。

「ヨハネ」に出てくるしるしは、イエスへの信仰を広める目的を負っている。
アーマン

しかし、
「マタイ」では、超自然的な現象を通して、イエスが自分の正体を立証する場面が、極めて厳格に除外されている一方で、「ヨハネ」では、イエスのアイデンティティを証明することこそが、奇跡の眼目なのである。
アーマン

更に、マタイでは、ユダヤ人の指導者たちに、ヨナのしるし以外のしるしを見せることを拒む。ヨハネには、そんな箇所は無い。
更に、イエスの宣教する前に、荒れ野で悪魔の誘惑に遭うことも、ヨハネでは記述が無い。

「マタイ」では、イエスは自分の正体を明かす手段としてしるしを行なわない。「マタイ」の中で、奇跡が奇跡と呼ばれ、しるしと呼ばれないのは、そのためである。奇跡は、それを必要とする人々を助けるための力の発現であり、神の国がまもなく訪れることを示すためのものなのだ。
アーマン

ヨハネの、しるしは、イエスを信じさせるためのものである。

福音書を遅く書き上げた、ヨハネ教団は、一番、イエスの多くの教団から、疎外されていたと思われる。

イエスの死後、そして、復活の後で、神の国は、すぐに到来しなかった。

勿論、神の国など、到来するはずがない。
永遠に到来しないだろう。

イエス自身も、到来すると、信じていたのである。
ユダヤ教徒の一人として・・・

福音書の作者たちが、それぞれの団体、個人の思いで、書き続けたものという、認識が必要である。
つまり、福音書は、創作されたものである。

それは、事実ではない。
だが、事実ではないが、真実があるという、ご大層な、妄想に付き合うことはない。
問題は、事実である。




posted by 天山 at 00:17| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。