2014年01月11日

天皇陛下について168

王権が、祭祀的機能を持たなかった。
だが、ローマ法王は、政治的機能も持っていた。

ここに、西欧の独特の力学があったと、いえる。

ローマ法王庁は、つねに一定の政治的影響力を行使したのである。

そして、今なお、超民族的な祭祀の中心と、精神的権威を有している。
勿論、西欧に、おいてである。

天皇をローマ法王に似たものとして、認識する学者、識者がいるが・・・
勉強不足である。

ローマ法王の、何たるかを知らない。
法王は、神の代理者である。

更に、日本の天皇は、その神の代理者でもなく、超越した、神という観念の無い日本で、現人神といわれる事態は、全く、その神観念が違うである。

古来から、日本人は、人は皆、神であった。
現人神とは、国民のことであり、天皇は、現人御神で、あらせられた。

しかし、西欧キリスト教のような、超越的存在の、神観念が無いから、天皇が、神であるといっても、全く別物である。

昭和天皇が、人間宣言をしたというが、天皇は、神であったことはない。

言葉の価値、観念が違うということに、何故、気付かないのか・・・
不思議だ。

更には、天皇が、政治的権力を持っていたこともない。
天皇の政治は、皆々の、意見を聞いて、それに添って、承認する形を取る。

そのことも、知らないという・・・
愚かである。

もし、日本も、西欧のように、権力、武力によって、治められる国ならば、西欧の考え方、その西欧の思想に準じて、考えてもいい。
だが、鎌倉幕府から、江戸幕府という、武家の政治が続いた際も、日本の元首は、天皇であった。

中には、天皇家も、一つの領主という、アホもいたが・・・
武家は、京都御所にいられる御一人に対して、無視することはなかった。
何故か。
国民が、それでは納得しないからである。

天皇に委任されたという承諾があればこそ、国民は、将軍を認めたのである。

何故、これほどまでに、西欧の歴史観、政治学から、天皇の存在を考えたのか・・・
それは、単なる、劣等感と、西欧迎合の精神である。

普通私たちは、個人の自由と国家権力とを対立させて取り扱うのをつねとする。ヨーロッパ史においてもそうであった。しかしその意味する処が、根本から異なる。源流において異なるのである。
西尾幹二

西尾氏は、西欧の大学を説明して、その違いを言う。

最古の大学のひとつである、パリ大学は、12世紀、法王インノケンチウス三世に認知されて、創設された。
国王に、認可権は無かったのである。

つまり、学問の自由、という近代的観念さえ、西欧では、政権と宗権の緊張関係から、発していたという。

大学は、宗教権力の威光をバックに、王国の境界を越えて、広く西欧の精神界に、君臨したのである。

そして、学僧たちは、大学でラテン語という、共通語により、学問をした。大学は、国王の力の及ばない聖域であった。
学問の自由、という、近代的観念は、宗教権力の庇護のもとに、鍛えられたのである。

大学は国家に対し、つねに一定の距離を保つ独立団体としての性格を保持していた。それはパリだけではなく、その後各地に創設された中世ヨーロッパの各大学に一般的であった。そしてまことに不思議なことだが、この中世的性格が大学の中から失われていく推移とともに、学問の自由とか大学の自治が脅かされて・・・
西尾

宗教権力にとって替わって、別種の国家的制約が生じたからに外ならず、これはフランスに最も早く、最も典型的に現れた、という。

フランス革命は、宗教権力の牙城としての大学を、敵視した。
革命軍にとって、国家から独立した権威が存在することが、邪魔だった。

ロシア革命も、ナチの右翼革命も、同じである。

ナポレオンは、いち早く、フランス各地の大学を国有化すると共に、教育制度全体を中央集権化して、その頂点に大学を据えた。

つまり、大学は、国家に縛られるようになる。

何を言いたいか・・・
近代的自由というものは、単純ではなく、歴史の逆説を内臓して展開してきたということである。

西欧の、その複雑な歴史の波動を引き起こしたのは、宗教と政治の関係、その緊張感である。

ヨーロッパ史の特有のもので、日本の天皇制と武家政治とをこれに簡単に対比することは、比喩としての面白さはあっても、余り意味のない作業になるのではないかということを私は強調しておきたい。
西尾

りんごと、ミカンを、比べられない。
果物だが、それぞれ、違うものである。

そんな簡単なことに、気付かず、西欧と日本を比較する事は、出来ない。
特に、天皇に関しては・・・



posted by 天山 at 06:02| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月12日

天皇陛下について169

天皇という存在は、西欧の歴史との比較によっては、何の解決も見ないのである。

それは、日本史に特有の存在であるということだ。
未だに、西欧の歴史から、天皇を解釈する人がいるというのは、全く、解せないことであり、愚かなことである。

ましてや、イギリス王室に比べるというのは、最低である。
全く、別物である。

西欧人にとって、国王という存在と、天皇という存在は、理解し難いものなのである。

それは、日本と日本史に立って、考えるべきことである。

日本の歴史学者たちはヨーロッパの現実をよく知らないために・・・
西尾

その通りである。
知らないのである。
だが、学者は、知ったと勘違いする。

市民革命をいち早くくぐり抜けたイギリス、フランスが、革命を知らないドイツや日本よりも近代的自由をより多く達成したなどということさえ、必ずしも言えないのである。今日になってみると、イギリス、フランスはドイツ、日本よりもはるかに多くの問題をかかえた階級的身分社会である。19世紀後半の、ビスマルクと明治天皇がいわば象徴となった、外見的には前近代的な「絶対王制国家」と思えた二つの権力集中体制のなかに、じつは現代の、中産階級の幅の広い能率的な産業国家を成熟させるに足るだけの前提時要件が、少しずつ準備されていたと言えるのかもしれない。
西尾

明治天皇を戴き、急速に、統一を達成した日本。
それは、植民地化を防ぎ、欧米列強に追いつくための、当時の日本に与えられた、最も、能率的な道であったことは、否定し難い。

日本の近代化は、天皇の存在なくして、有り得なかったのは、事実である。

さて、前にも、少し書いたが、マルクス主義を取り入れて、プロレタリア・インターナショナリズムを目指した、ソ連である。

ソ連は、西ヨーロッパから来た、外来思想を国是として、ロシアの伝統文化とは、背反する、開かれた国際的合理主義に支えられた、国造りを目指した。

その中では、闘争的な無神論に、理論上の基礎を置いた。
ロシア一辺倒ではない、他民族配慮の政策を重んじた。

ところが、ソ連の歴史を俯瞰すると、ソ連が、危機に見舞われた際に、国際的合理主義では、やってゆけない事態にぶつかっている。

第二次大戦中に、スターリンは、ロシア愛国主義を鼓舞して、驚くべき事に、ピョートル大帝、イワン雷帝を讃えた。
更に、ロシア正教の教会再興を、許したのである。

これは、如何なることか・・・

精神的な活力が無神論的な、インターナショナリズムからは、得られないということだ。
それを、ソ連が証明した。

如何なる、社会主義でも、無理なのである。
精神的支柱というもの・・・

歴史にも、目に見えない事態がある。

無神論的とは、精神的支柱という意味である。

ロシアには、ロシア正教が存在する。それが、精神的支柱になるのである。
皇帝が存在しなくなっても・・・

ところが、日本の場合は、無神論的であろうが・・・
何があろうが・・・
天皇という、存在があることで、前に進むことが出来るのである。

危機的状況に陥る場合の、天皇の存在は、日本人以外に知ることは出来ないだろう。

西洋史の中に、天皇の存在意義などを求めるとしたら・・・
あまりにも、愚かである。
更に、その比較も、相違も、である。

東日本大震災の際の、天皇陛下の、被災地に対する、行幸を見ても解る。
陛下が行かれる所、多々、人々が集った。
そして、そのお言葉に、慰められたのである。

また、国民も、その様子を見て、感激した。
ありがたい、と、感じた。
そういう、存在が、日本にはあるということ。

面白いことに、日本には、多くの宗教が存在する。
だが、天皇の存在は、揺るがないのである。

天皇ご自身が、すべてにおいて、寛容だからである。
それは、歴史的に見ても、そうである。

国を思うという、御一人が、天皇という、国柄が、日本である。

儒教、道教、仏教、そして、キリスト教系・・・
新興宗教・・・

昭和天皇ではないが、皆々、あっ、そう・・・と言って、受け容れられる。
だが、天皇は、御一人として、国を思い、祈る。
そういう存在が、日本という国を、支えているのである。

精神的支柱である。

だが、普段の生活の中で、殊更、思い出すことも無い。
忘れている存在である。
だから、尚、良い。

国民が、天皇を強烈に意識する時代は、すべて不幸な時代であった。

新年、新嘗祭、一般参賀・・・
一年の中で、幾度が、天皇を意識するだけで、天皇も由とされる。
そのような、国の精神的支柱というものを、持つのは、世界唯一、日本だけである。

あえて言えば、妄想の存在ではない、天皇という、象徴が、日本なのである。


posted by 天山 at 06:10| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月13日

沈黙を破る82

何度も書いたが・・・
確認するために、書く。

ボランティアである。
日本語に訳すと、奉仕とか、支援とか・・・

だが、ボランティアの語源を探ると、ラテン語の、ボランタスからなる言葉だ。
その意味は、生きる意味意識、である。

生きる意味意識を行為する、活動という意味になる。

すると、奉仕、支援とは、少し違う。
奉仕は、たてまつり、つかえる、支援とは、ささえて、援助する。

奉仕は、神事の行為だった。

さて、日本人と欧米人のボランティアに対する、大きな違いは、その行為を、神に捧げる。更に、その行為によって、もたらされるものは、聖書の中で、イエスが言う、その小さな者にしたことは、私にしたことである、という言葉に行き着く。

マザー・テレサが一番解りやすい。
神様のために、良いことを・・・

つまり、それは、神のために行なうのである。
人道支援とは、神のためである。

それは、それで、意義のある事だ。

日本人は、奉仕は、神事であるが、人に対する行為は、親切であり、仏教の利他の行為、慈悲の行為となる。

それは、人と人の関係になるのである。
袖振りあうも他生の縁、という。

さて、私が言いたいことがある。

ボランティアに必要なものは、支援を必要とする人がいるということである。

貧しい人が必要。
助けを必要とする人がいる。
障害を持った人がいる。

つまり、そういうことだ。
もし、そういう人が皆無ならば、ボランティアは、必要ではなくなる。

そうすると、もっと、本質的なことを考えることになる。

助けを必要としない人に対しても、何がしかの行為という、善意がある。
日本では、親切という。

いつも、何か人の為にと、考えて行動する人は、即座にそれが、出来る。
挨拶もそうである。
挨拶は、しなくてもいい、が、すると、尚良いのである。

コミュニケーションである。
それが、人と人を結び付ける。

ということで、ボランティア行為とは、特別になんでもない、当たり前の行為ということになる。

私にとっては、そうである。

健康な人でも、時には、病になり、人の手を借りる場合がある。
絶対に、人の迷惑にならないと、踏ん張って、生きる人は、孤立する。
人間の孤立は、死を意味する。

集団生活を人類発生の時から、しているのである。
今は、社会という。

そして、社会から、国家、更に、国民国家へと、進化した。

人は、一人では、生きられないことになっている。
どんなに頑張っても、それは、避けられないことだ。
日本では、道端で、死ぬと、行政が、その始末をする。

鎌倉時代のように、そのまま、放り投げておかないのだ。

更に、国が国民の生活を保障する。
それを、福祉といっている。

ボランティアも、福祉の一部に入っている。
行政と、民間のボランティアが、共同作業をするようになった。

ただし、ボランティアは、無償の行為といわれている。

行政の、行為は、国が面倒をみる。
民間は、寄付などの民間の人に支えられる。

日本でも、災害時に、ボランティアが多くなってきたことは、いいことだ。

そして、それが、自然な行為になることである。
当たり前の感覚である。

神が介入しなくても、それに問題は無い。
神が介入してもよい。

問題は、行為に尽きる。
だから、何を語るのではなく、何を行なうか、なのである。

ボランティアをする人がよく口にする言葉がある。
逆に勇気、元気を貰った・・・

そんなことは、当たり前なのである。
何せ、相手あることである。
相手が存在しなければ、ボランティア行為も存在しない。

人は、人の為に、何かをする時、力が湧いてくるというのが、人類発生の時から、学習していったことである。

そして、それが、皆、我が身に返ってくることを、知っていた。
それが、褒美である。

精神的褒美を多く言うが、色々な褒美がある。

例えば、情報である。
例えば、気付きである。

すべて、我が身に返ることになる。

倫理進化学では、人間のすべての行為を、利己的であると、説く。
全く、その通りである。

結果は、すべて、我が身に尽きるのである。

話は、まだまだ、あるが・・・

posted by 天山 at 06:11| 沈黙を破る2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月14日

霊学137

シュタイナーの著作、いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか、から紹介することにする。

これは、あくまでも、参考である。
それが、最も理想であるとか、するべきであるとかは、言えない。

更に、シュタイナーの霊界は、グノーシス主義、キリスト教の瞑想指導や、その他、西欧の考え方が多くある。
精神指導という名において、キリスト教の黙想会なども、目指すところだと、思われるが、キリスト教を超えている。
更に、心霊主義、心理学・・・なども、加えることが、出来る。

その都度、紹介の合間に、付け加える。

その、霊界参入、の箇所から始める。

一般に理解可能な言葉で暗示することのできる神秘修行についていえば、霊界参入こそその最高の段階である、といえる。この段階よりも高次の修行になるとどんな記述も理解し難くなる。とはいえ、準備と開悟と霊界参入の諸段階での秘密内容を認識するところまで来た人には、どのような道もさらに開かれている。
シュタイナー

霊界参入に伝授される、知識と能力は、シュタイナーの言う行なしでは、遠い未来・・・何度も輪廻転生を重ねた末に、獲得されるという。

参入を許された人は、遥かな未来に、まったく異なる状況下で、経験するような事柄を、この世で、経験出来たのである。そうだ・・・

ここで、躓く人もいるだろう。
今世で、経験しなければ、遠い未来において、経験するだろう・・・

その前に、霊界参入という言葉も、躓く。
霊界の存在を認めることから、始まるのである。

キリスト教の西欧において、輪廻転生を言うとは、大胆である。
それは、また、画期的なことであるが・・・
グノーシス派は、すでに、そのように考えていた。

ここで言うところの、行とは、精神的指導という名目で、宗教の中にもある。
仏陀の指導法も、取り入れているが・・・

人はその成熟の度合いに応じた程度でしか、存在の秘密を本当に経験することはできない。
シュタイナー

当然である。
つまり、人には、それぞれの、精神、心、魂のレベルがあるということだ。

知る人が、知らない人に、教える、伝えることで、歴史と文明は、成り立ってきた。

そして、知る人は、様々な言い方をされる。
宗教の教祖が、勝手に自分のことを、名乗るのに、似る。

そして、知識と能力の高次の段階へ至ろうとする人の前には、成熟を促すさまざまの障害が待ち構えている。
シュタイナー

その通りであるが、勝手に、それを障害だと、思い込み、勝手に妄想する者も、多い。

更に、障害があるからこそ、それが、本当のことである・・・云々という、宗教の教えである。

シュタイナーの確信は、自分の霊界参入の確信であり、自分の霊界の見方の確信である。
誰も、それには、批判出来ない。

経験したという人に、何をか言えるだろうか。

霊界参入が許されるのは、輪廻転生の中で、秘密の伝授を受けるに相応しいところまで、進化するために、積まなければならない、諸経験を、通過しないで、済ますことになる。

したがって霊界参入を志す者への最初の指導は、未来の諸経験をいかに代償しうるかである。
シュタイナー

矢張り、オカルトなのである。

そして、結局、霊的な事柄を語ることは、オカルト以外にないのである。

シュタイナーが言うところの、行を積む・・・
私は、その行を、まだ、書き付けていない。

真の神秘学の原則に従えば、研究者は常に明瞭な意識をもって、研究に従事しなければならない。どんな作用が生じるかも知らずに、研究や修行を続けるべきではない。神秘道の導師が弟子に助言や指針を与えるときには必ず、それを修行することによって、修行者の体、魂または霊の中に、何が生じるかを説明する。
シュタイナー 霊界参入が与える諸影響

当初、シュタイナーは、自分で修行する道を、示していたが、ここでは、導師が出てくる。矢張り、指導者が必要なのである。

明瞭な意識を持ってすれば、一人で修行が出来るはずだった。

それは、前段階だったのか・・・

それでは、神秘学の導師とは・・・
神秘学を先に学んでいる人なのか。
そして、一体、どのようにして、それを証明するのだろうか。

疑問が次々と、湧いて来る。

暗中模索は神秘修行にとって決して好ましい状態ではない。眼を見開いて自分の道を歩もうとしない人は、霊媒的な方向に近づく。そうなると、自分を神秘学の意味での見者にすることができなくなる。
シュタイナー

当然である。
霊能者と自称する人たちの多くは、霊媒師である。
霊媒師とは、その体を霊に明け渡す。
つまり、霊の入れ物になるだけである。
それは、実に、恐ろしいことである。

だから、シュタイナーも、明瞭な意識を持ってと言う。
明瞭に意識を持つということは、絶対に必要である。
だからこそ、確実なのである。


posted by 天山 at 06:03| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月15日

霊学138

肉眼でも見ることのできる生命現象の霊的形姿を霊眼によって見るまでに進歩した神秘学徒は物質的な現象形態をまったくもたないので、神秘学の教えを受けたことのない者にはまったく隠されているような事象をも観ることのできる段階のすぐそばまで来ている。
シュタイナー

健全な感覚と鋭敏な観察力を用いて、感覚世界に観入し、そして自分の感情に自己を委ねればよい。事物が何を意味するかを思弁的な悟性の力で決定しようとしてはならない。事物そのものに語らせねばならない。
シュタイナー

段階を追わないと、非常に抽象的に聞えるが・・・

その行を見ることにする。

神秘学が高次の諸世界での位置確認と呼ぶものもまた重要である。霊界で方位を正しく定めるには、感情や思考が感覚界での机や椅子とまったく同じ現実的な事実なのだという意識を身に付けなければならない。
シュタイナー

霊界という、幻想を見ても、である。
それが、霊界か、否かは、判定できない。

延々として、シュタイナーが、語るが・・・
具体的な行のあり方を見ても、尚、抽象的に思える。

神秘学でなくても、その注意力は、生きるに必要なことである。

魂や霊の世界での感情、思考は物質界での感覚的事物と同じように、相互に作用し合っている。
シュタイナー

当然である。
霊界の事柄は、この世の事物と、相互に作用し合っているのである。
それは、特別なことではない。
霊界を知る者は、皆、それを知る。

神秘行においては、自分の思考と感情に対して、地上を歩むときと同じ注意深さをもとうとしないと、進歩することができない。
シュタイナー

と、いうより、それ以外の方法は無いだろう。

例えば、
音の世界のまた行の対象になる。
ということで、その説明を簡単にすると・・・

無生物によって生じる音と、動物や人間の発する生物の音「声」を区別しなければならない。
鐘の響きを聞くとき、それと結び付いている快さの感情も同時に生じる。
けものの叫びを聞くときは響きから受け取るこのような快さの感情以外に、その動物の内なる快さや苦の現れをも感知する。

彼は音が自分自身の魂の人に存する何かを告知しているという点に、注意力のすべてを集中する。そしてこの自分とは異質なものの中に沈潜する。
シュタイナー

音を発する存在自体の中でいとなまれるものだけが彼の魂を充たすまでに至たらなければならない。
シュタイナー

何も、神秘学云々の話ではない。

この世の話である。
霊界という、言葉を使用するが、すべて。この世の注意深さのことである。

これが、シュタイナーの勘違いさせるものである。

このような行を続ける人は音を発する存在の内面といわば融合する能力を獲得するであろう。
シュタイナー

自然と接する仕事をする人々などは、とっくに、このような行をしている。
改めて、このように書くと、そんな気になるが・・・

霊界参入などという言葉を使わずとも、この世で、十分に、その行を成しているのである。

神秘学徒は全自然をこのような仕方で感得する術を学ばねばならない。―――そしてこのことを通して感情と思考の世界の中にひとつの新しい可能性がひらかれる。全自然がその響きを通して人間に秘密をささやく。
シュタイナー

随分と、文学的である。

そのときからは自然の意味深い言語となる。
シュタイナー

これは、散文というより、詩のような、表現である。

神秘学徒にとって特別の重要さをもつのは、他の人間の語る言葉に耳を傾ける仕方である。
シュタイナー

それは、他の人間が語ることに対して、一切の反応をしないということだ。
賛成も、反対も、無く、沈黙する。
そうすると、自然な仕方で、傾聴という、新しい態度が習慣化されるようになる。

カウンセラーは、まさに、そうである。
相談者の語りを傾聴するのみ。

カウンセラーの仕事は、それに尽きる。
傾聴とは、共感と受容である。

賛成、反対・・・そんなものはない。

シュタイナーの言う、行とは・・・
それは、生きるということを、より深めるためのものである。
霊界参入のため、ではない。

すべの行は、その注意深さのためにある。
後で、霊界に関して、多くを語るが・・・

私から見れば、霊界というより、現実の世界の、深さのことである。


posted by 天山 at 07:03| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月16日

霊学139

神秘学徒は一定の期間、自分とは正反対の思想に耳を傾け、自分の内部の一切の賛成、特に一切の否定的判断を完全に沈黙させる行を自分に課す。
シュタイナー

このような記述が、延々と続き・・・
結局、一言で語れることを、延々として、語り継ぐ。

こうして人間は他人の言葉をまったく没我的に、自分の意見や感じ方を完全に排除して、聞くようになる。・・・没批判的に傾聴する修行を積み重ねていく人は、次第に相手の本質的部分と融合し、同化することができるようになる。相手の言葉を聴く行為を通して相手の魂の中へ自己を移し入れる。このような修行を積んだ人にとって、音ははじめて魂と霊を知覚するための正しい手段となる。
シュタイナー

行、修行・・・
これが、神秘学の行であるという。

いずれにせよ、注意力の問題である。

音が、魂と霊を知覚するための正しい手段となる・・・

手品のような感覚がする。
日本でも、内観法、内省法というものがある。

深い、カウンセリングのようなものである。
それが、魂と霊を知覚するための正しい方法とは、言わない。

相手の気付きを促すものである。
こちらは、単なる、聞き役である。だが、聞き役であるが、その聞き役こそ、存在感のあるものになる。

厳格な自己鍛錬が必要である、と、シュタイナーが言うが、当然である。
相手の言葉を、否定も肯定もせず、聴くという、行為は、実に難しい。
こちらの感情を殺すのである。

霊界参入のための、修行である。

それほどに、生きている間に、霊界参入の行をするという、神秘学、シュタイナーの教えである。

そこで、
新しい聴覚が魂の中から生じてくる。耳には聞えず、物質音では表せぬ霊界からの知らせが「聴ける」ようになる。「内なる言葉」のための知覚能力が目覚め、霊界が次々と真実を打ち明けはじめる。
シュタイナー
と、なる。

すべて高次の真実はこのような「内なる語りかけ」を通して獲得される。
シュタイナー

その真偽は、誰が承認するのか・・・
内なる語りかけを、誰が認めるのか・・・

シュタイナーが生存している間はよいが、その後は、その弟子達によって、承認されるのか。

内なる語りかけが、妄想の場合は・・・どうする
そのような、行をして、その気になってしまったら・・・

実に、問題が多いのである。

そして他の手段をすべて用いたとしても、神秘学の教義を受け容れなかったなら、決して目標は達成されえない。
シュタイナー

ということは、宗教の教義と同じである。

神秘学の教義・・・
それは、シュタイナーを信じるということである。

そうすると、最初から、信じる、信じない、という、判断に行く。

シュタイナーから、色々な、科目が出来た。
例えば、シュタイナー教育・・・

勿論、神秘学、人智学・・・
それは、教義なるのである。

キリスト教、禅宗などにも、このような、訓練がある。
特に、瞑想、黙想などの盛んな宗教には、付き物である。

そこには、思い込みが、付きまとう。
それを冷静に判断するだけの、心の包容力が試されるはずだ。

霊界、霊学とは、この世の、延長線にある。
断絶されているものではない。

更に、次元が違う。
次元の違いを、行によって、補うという、考え方と、理解する。
だが・・・

実に、危険である。
何故か・・・
通常の生活の中で、シュタイナーの言う行をして、人生を深く味わう、人生をよりよく生きるのであり、霊界参入とは、関係ないのである。

そして、何故、霊界に参入しなければならないのか。
来世にて、するべきことを、現世にて、行なう。
その必要は無い。

そこに、私の霊学と、シュタイナーの霊学の相違がある。

勿論、シュタイナーの霊界も見ることにするが・・・

ここで、シュタイナーを信じてしまい、それを最も有効な方法だと、思い込むと、宗教の蒙昧と同じようになる。

勿論、私は、否定も肯定もしない。
霊学というものを、説明するために、シュタイナーを取り上げている。


posted by 天山 at 07:09| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月17日

霊学140

もし今日、誰かに霊界参入が許されるとすれば、輪廻転生の中で、秘密の伝授を受けるにふさわしいところまで進化するために積まねばならぬ諸経験をその人は通過しないで済ますことになる。それ故霊界参入の門前で、そのような未来の諸経験が何か別の仕方で代償される必要がある。
シュタイナー 

であるから、如何に、代償するか・・・
それを、試練という。

志願者は、その試練を通過しなければならない。

あえて、何故、そんなことをしなければならないのか・・・
私には、解らない。

つまり、仏教が言う、悟りと同じ意味合いである。

「試練」については、しばしば書物の中でも語られている。けれども概して正しい観念を与える書物は少ない。なぜなら準備と悟りの段階を通過しなければ、決して試練を経験しえず、したがって著者自身にそのような神秘修行の経験がない場合は、事柄を具体的に記述できる筈がないからである。
シュタイナー

これでは、教祖である。
それでは、シュタイナーの見た、霊界というものを、霊査しなければならないのである。

ところが、日本の新興宗教の中には、無批判に、シュタイナーの試練を取り上げた団体が少なくないのである。

例えば、最初の試練である、火の試練・・・

第一の試練は、無生物、植物、動物、人間の体的特質について、通常の人間の場合よりもはるかに真実なる直観を獲得することである。
シュタイナー

まず霊界参入の志願者には、自然物や生物が霊眼と霊耳にどのように自己を顕すかが認識できるようになる。
シュタイナー

もし、この書物を読み、そのまま信じて、何事かを行なえば・・・
危うい。

その時に見聞きできる事物の特質は、身体的な眼や耳には、ヴェールで覆い隠されている。このヴェールが霊界参入者のために脱げ落ちるには「霊的燃焼過程」と呼ばれる手続きが必要である。したがってこの第一の試練は「火の試練」と呼ばれる。
シュタイナー

そして、ある人たちには、日常生活の中で、無意識的な、火の試練による、霊界参入の過程を示していると、言う。

その人たちは豊かな経験を通して、自己信頼、勇気、不撓不屈の精神を健全に育成する努力を重ね、苦悩、幻滅、失敗を魂の偉大さ、特に内的平静と忍耐力をもって堪えぬく術を知っている。
シュタイナー

そうであるなら・・・
特別な、修行は、必要ではない。
何故、あえて、未来における代償を云々となるのか・・・

霊界参入をしたいと思う人が、神秘学の学徒なのか・・・

つまり、高次のレベルの世界に参入するということである。
そして、高次の世界、霊界という場所に、参入なければならない、理由は、何か。

シュタイナーの行は、確かに、人生を深く味わうために、心得るものであると、肯定出来るが・・・

高次の世界、つまり、高次の霊界参入をしなければならないというのである。

常識を超えた事柄を知るようになる。
シュタイナー

私は、これが、危険であると、言う。
何故、常識を超えた、事柄を知る必要があるのか・・・

それは、
一般に低次の世界の中で獲得しうるものよりも、一層偉大にして真実なる自己信頼、一層高次の勇気と持久力、新しい種類の魂の偉大さを獲得すること、これこそが「火の試練」の目標である。
シュタイナー

この調子で、シュタイナーの筆が進む。
シュタイナーの著作は、膨大である。

火の試練を通過したあと、神秘修行をさらに続けようとするなら、今度は通例、秘密文字のさまざまの体系が神秘修行と結び付いている。
シュタイナー

この文字体系の中で、本来の神秘教義が開示される。本当に「隠れた」(オカルト的な)ものは、直接通常の言語で語ることも、通常の文字で表記することもできない。
シュタイナー

霊的知覚を獲得すれば、常に、オカルト文字は、魂に語り掛けるという。

世の中には、様々な、不思議がある。
そして、それらは、秘義などと、呼ばれる。
そして、多くは、宗教の中に、見られる。

隠され文字が、魂に語り掛ける・・・
そういう表現は、それでよしとしても、危ういのである。

霊学とは、日常生活の中に、生きていることが、正しい。
だから、シュタイナーの修行に関しても、否定はしないが・・・

もし、その秘密文字を通して、魂が、何事かを聴いた、あるいは、導く、教えるなどということは、おかしいのである。

植物と、心を通わせる。
それは、正しい。
正しいが、そこから、霊界参入などという心境に至るのは、危険であるという。
何故なら、すでに、人間は、霊界の中に住んでいるというのが、霊学の見方である。

ここも、この世も、霊界なのである。
次元の別が存在するだけである。
そして、別次元の世界に、導通する必要は無い。


posted by 天山 at 06:58| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月18日

霊学141

秘密文字の記号は、勝手に作り出されたものではなく、宇宙に作用している諸力に対応している。この記号によって事物の言語が理解できるようになる。志願者はその記号が形、色、音など準備と開悟の段階で知覚できた霊的事物に対応していることにすぐに気が付く。
シュタイナー

そして、高次の世界の観察に確実さが、加わる。

導師と志願者との間に正しい意志の疎通が可能となる。

これは、導師が日常生活の中で、どれ程親しい関係を結んでも、高次の認識を直接的な形で、語ろうとすると、その記号法によるしかないのである。とのこと、である。

しかし神秘修行なしでもこのような行為を、意識することなしに、果たすことのできる人たちがいる。
シュタイナー

その人たちと、神秘学徒との相違は、意識的に、全体の関連を考慮しつつ行なうか否かに過ぎないらしい。

この人たちが霊界の諸存在から世界救済のために授けられたものを、神秘学徒はまさに修行によって獲得する。
シュタイナー

しかし、修行の道を余計なことだと、見做すことは、出来ないらしい。
矢張り、修行をした方がいいのである。

さて、次に、また新たな試練である。

今度は、高次の世界の中で彼が自由に確実な行動をとれるかどうかが証明されねばならない。通常、人は外からの刺激に応じた行動をとる。周囲の事情が命じる義務に応えて、彼は仕事に従事する。
シュタイナー

そして、その外の仕事を、怠ってはならない。

義務を真っ当に行なうこと。

その段階に達した者には、ある種の義務が課せられる。
その際には、何も外的誘因が存在しない。

「隠れた」言語が教えてくれるあの規準によってのみ、それらの義務を遂行しなければならない。
シュタイナー

それは自分で手に入れた秘密文字の解読法によって認識されなければならない。
シュタイナー

正しく義務を認識し、正しく行為をすれば、この試練に合格したことになる。

その結果、霊眼、霊耳が知覚する形、色、音に変化が現れる。
シュタイナー

この試練を、水の試練、と呼ぶ。

これにより、多くの転生を必要とすることが、必要なくなる。
超感覚的な知覚と、秘密文字の解読により、得た事柄を頼りとする。

その場合、試練の最中に、何らかの個人的な願望、意見が混ざると、その瞬間に、正しい認識から得た法則ではなく、恣意に従ってしまう。
そうすると、生じるべきものではないものが、生じてしまう。

この試練によって、自制心を育成することが大切なのである。

気まぐれや恣意にではなく、崇高な理想や根源的な命題に従う能力を獲得した者、個人的な好みや性向が義務を忘れさせようとする場合にも、常にその義務を遂行できる人は、意識しなくても、すでに日常生活の中での霊界参入者である。
シュタイナー

高次の世界の事物に対して、相応しい仕方で働きかけようと欲するなら、自分を完全に支配しなくてはならない。
決して、勝手な欲求に負けてはならない。

西欧の哲学、思想は、語り尽くすのである。
シュタイナーも同じく、語り尽くそうとする。

霊界参入のこの段階において特別重要な人間の特質は、無条件に健全で確実な判断力である。
シュタイナー

実体のない幻影を、迷信を、あるゆる種類の眩惑物を、真の現実から区別できるのみ、更に、進歩ができる。

それは、低次の段階におけるより、高次の段階における方が、一層困難である。

いかなる偏見も、執着も、存在する事が、許されない。

ひとえに、真実だけを、規範とする。

もし論理的に考えてみて、どうしても必要であるなら、直ちに自分の思想、自分の観点または傾向を棄てる用意が完全にできていなければならない。自分の意見に固執しないときにのみ、人は高次の世界における確実な立場を獲得するからである。
シュタイナー

これは、禅なども、そうである。
徹底的に、自己放下するのである。

道元に言わせると、仏の家に、身を投げ入れるという。

空想や迷信に陥りやすい人は神秘修行の小道において進歩することができない。
シュタイナー

こうして、神秘修行は、矯正されて行くのである。

最終的に、ことの判断は、シュタイナーの見た、霊界の様相である。
とっいても、もし、すべての、霊界を見るというならば、それは、ウソである。

シュタイナーの霊界である。
決して、万人、あるいは、すべての霊界の有様を言うのであれば、狂っている。

posted by 天山 at 04:52| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月19日

もののあわれについて652

梅枝 うめがえ

御裳着の事思し急ぐ御心おきて、世の常ならず。東宮も、同じ二月に、御冠の事あるべければ、やがて御参りもうち続くべきにや。




明石の姫君の、御裳着の事を、準備されるご配慮は、並々ではない。東宮も、同じ二月に、御元服の式があるはずなので、そのまま、御参内の事も、引き続いている。




正月のつごもりなれば、おほやけわたくしのどやかなる頃ほひに、薫物合はせ給ふ。大弐の奉れる香ども御覧ずるに、なほ古へのには劣りてやあらむと思して、二条の院の御倉開けさせ給ひて、唐の物ども取り渡らせ給ひて御覧じ比ぶるに、源氏「錦綾なども、なほ古き物こそなつかしう細やかにはありけれ」とて、近き御しつらひの物の覆、敷物、褥などの端どもに、故院の御世の初めつ方、高麗人の奉れりける綾緋金錦どもなど、今の世の物に似ず、なほ様々御覧じあてつつせさせ給ひて、この度の綾うすものなどは人々に賜はす。




正月の行事が、一通り終わり、月末なので、公私共に、お暇な時に、薫物を調合される。太宰の大弐が献上した、香などを御覧になると、矢張り昔の香には劣っているであろうかと、二条の院の倉を開けさせて、唐の渡来の品々を色々取り出して、持って来させ、見比べると、源氏は、綾錦などでも、矢張り、昔の物の方が、親しみもあり、上等であった、と、おっしゃり、お傍の道具類のカバーや、敷物、座布団などの縁といった物に、亡き上皇治世の初めのころに、高麗人が献上した緋金錦など、近頃の物には似ないで、それぞれ、適当な物を、あれこれと、鑑定して、矢張り使われ、今度の、大弐が献上した綾羅などは、女房達に御下賜になる。




香どもは、昔今の取り並べさせ給ひて、御方々に配り奉らせ給ふ。源氏「二種づつ合はせさせ給へ」と、聞えさせ給へり。贈り物、上達部の禄など世になき様に、内にも外にもこと繁く営み給ふに添へて、方々に選り整えて、かな臼の音、耳かしがましき頃なり。




数々の香は、昔の物や、今の物を、目の前に取り揃えて、ご婦人方に、お配りする。源氏は、二種類ずつ香を作ってください。と、申し上げる。裳着の時の、贈り物、上達部への、禄の品物など、またとないほど結構で、六条の院の内でも、外でも、忙しく作られる。更に、あちこちのご婦人方のところでも、材料を選び、準備して、鉄臼の音が、喧しく聞える、この頃です。




大臣は寝殿に離れおはしまして、承知の御いましめの二つの方を、いかでか御耳には伝へ給ひけむ、心にしめて合はせ給ふ。上は、東の中のはなちいでに、御しつらひ、ことに深うしなさせ給ひて、八条の式部卿の御方を伝へて、かたみにいどみ合はせ給ふ程、いみじう秘し給へば、源氏「匂ひの深さ浅さも、勝ち負けの定めあるべし」と、大臣宣ふ。人の御親げなき御争ひ心なり。




大臣、源氏は、寝殿に、紫の上と離れて、御座所を構え、仁明天皇御櫃秘伝の二つの調合方を、どうして耳にされたのか、熱心に作られる。
紫の上は、東の対のお部屋で、設備を厳重に整え、仁明天皇の八条指式部卿の御秘法を伝えて、互いに競争して、調合されている間、酷く秘密にしているので、源氏は、匂いの深さ浅さも、二人の間で、勝負を決めようと、おっしゃった。子を持つ親御らしくない、競争心である。




いづ方にも、御前に侍ふ人あまたならず、御調度どもも、そこらの清らを尽くし給へる中にも、香ごの御箱どものやう、火取の心ばへも、目なれぬ様に、今めかしう、やう変へさせ給へるに、所々の心を尽くし給へらむ匂ひどもの、すぐれたらむどもを、かぎ合はせて入れむと思すなりけり。




殿様も奥方もどちらも、お傍に控える女房は多くなく、お道具の品々も、多く善美を尽くし、特に、香壺を入れるお箱の作り方、香壺の恰好、香炉の意匠といった物も、見慣れたものではなく、今風で、趣向を変えてお作りになったが、御婦人方が、一生懸命に御苦心されている、香の中で、優秀な物の幾種かを、一度聞いてみた上で、香壺に入れようと思うのである。




二月の十日、雨少し降りて、お前近き紅梅盛りに、色も香も似る物なき程に、兵部卿の宮渡り給へり。兵部卿「御いそぎの今日明日になりにけること」と、とぶらひ聞え給ふ。昔よりとり分きたる御仲なれば、隔てなく、その事かの事と聞え合はせ給ひて、花をめでつつおはする程に、前斎院より、とて、散り過ぎたる梅の枝につけたる御文もと参れり。宮、聞し召す事もあれば、宮「いかなる御消息のすすみ参れるにか」とて、をかしと思したれば、ほほえみて、源氏「いとなれなれしき事聞えつけたりしを、まめやかに急ぎものし給へるなめり」とて、御文は引き隠し給ひつ。




きさらぎの十日、雨が少し降って、庭先の紅梅が花盛りで、紅の色も、香りも、またとない時分に、兵部卿の宮がお見えになった。宮は、御裳着の支度が、一両日の中に迫り、お忙しいでしょう、と、お伺い申し上げる。
昔から、特に仲の良い御二人の間柄なので、隠し隔てなく、何かのことにつけて、ご相談されて、梅の花を観賞なさっているところへ、前斎院からといって、花がわずかに残る、梅の枝につけたお手紙を持って来た。
宮は、お耳にされていることもあり、どのような手紙が、あちらから参ったのでしょうか、といって、面白がる。微笑んで源氏は、たいそう無遠慮なことを、お願いしたのですが、几帳面に、早速お作りになったのでしょう。と、おっしゃり、お手紙を隠された。

posted by 天山 at 05:29| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月20日

もののあわれについて653

沈の箱に、瑠璃の杯二つすえて、大きにまろがしつつ入れ給へり。心葉、紺瑠璃には五葉の枝、白きには梅を選りて、同じく引き結びたる糸の様も、なよびかになまめかしうぞし給へる。宮「えんなるものの様かな」とて、御目とどめ給へるに、

前斎院
花の香は 散りにし枝に とまらねど 移らむ袖に 浅く染まめや

ほのかなるを御覧じつけて、宮はことごとしう誦し給ふ。宰相の中将、御使尋ねとどめさせ給ひて、いたう酔はし給ふ。紅梅襲の唐の細長添へたる女の装束かづけ給ふ。御返りもその色の紙にて、お前の花を折らせてつけさせ給ふ。宮、「うちの事思ひやらるる御文かな。何事の隠ろへあるにか、深く隠し給ふ」と恨みて、いとゆかしと思したり。源氏「何事かは侍らむ。くまぐましく思したるこそ苦しけれ」とて、御硯のついでに、

源氏
花の枝に いとど心を 染むるかな 人の咎めむ 香をば包めど

とやありつらむ。




沈香木製の箱に、瑠璃の香壺を二つ置いて、大きく丸めて、入れてある。糸飾りは、紺色の瑠璃の壺には、五葉松の枝、白い壺には、白梅を彫って、同じような糸の結び方でも、優しく女性的に作られていた。
宮は、優雅な出来栄えです。と、おっしゃり、御目を、じっと留められると、

前斎院
散ってしまった、梅の花の枝には、香りは、留まりませんが、たきしめる姫君の袖には、深く残ります。

薄墨であるのを見つけて、宮は、わざとらしく、口ずさむ。宰相の中将は、お使い者を探し出して、引きとめ、十分に酒を振舞う。紅梅襲の唐織物の細長を添えた、女の装束一揃えを、お与えになる。
ご返事も、その紅梅色の色紙で、庭先の紅梅の花を折らせて、お付けになった。宮は、中味が気になるお手紙ですね。どんなことが書かれているのか、深く隠していますと、恨んで、酷く見たがっている。
源氏は、何事がありましょう。隠しているように思われるのが、迷惑です。と、おっしゃり、お筆のついでに、

源氏
一が、咎めることがあってはと、隠していますが、美しい花の枝のお便りには、ひとしお心を惹かれました。

と、あったような・・・

最後は、作者の言葉。

今回は、上記の文を、分析してみることにする。
源氏物語が、如何に、難しいか・・・いや、滅茶苦茶なのか・・・

まず、登場人物である。
源氏、宮とは、兵部卿の宮、宰相の中将とは、夕霧である。
そして、手紙は、前斎院の、朝顔。
その使者であり、最後が、作者である。
書かれていないが、お付の者どももいる。

手紙と共に、香が、前斎院の朝顔から、贈られてきた。
その様を、書き記す。

なよびかになまめかしうぞ・・・
優美で、女性的で・・・
それが、朝顔の贈ってきた、香の様子である。

更に、歌が添えてある。
花の香は 散りにし枝に とまらねど 移らむ袖に 浅く染まめや
はなのかは ちりにしえだに とまらねど うつらむそでに あさくそまめや

花の香りは、枝枝に散って、留まらないが、焚き染める姫君の袖には、染まります。

それに対して、兵部卿の宮が、
ほのかなるを御覧じつけて・・・ことごとしう誦し給ふ、のである。
その歌を、口に出して、読むのである。

そして、夕霧が、使いの者に、
尋ねとどめさせ給ひて・・・

誰かと、探して・・・
いたう酔はし給ふ。のである。
つまり、酒を振舞い、いたく酔わせた、のである。

源氏は、その手紙の返事に、庭の花を折らせて、硯を取る。つまり、筆を取る。

その際に、源氏は、宮に隠すように書くので、宮が、恨みを言う。

源氏の歌は、
花の枝に いとど心を 染むるかな 人の咎めむ 香をば包めど
はなのえに いとどこころを しむるかな ひとのとがめむ かをばつつめど

はなのえ、とは、朝顔が贈った、梅の枝を受けて、贈り主の朝顔を指す。
香は、朝顔に対する、源氏の、慕情である。

そして、最後に、作者が、
とや ありつらむ

そのようでした。
そのように、あったようです、と、説明を付けている。

物語なので、わざわざ書く必要がないが、そのように聞いたのです、の調子である。

と、いうように、とても、難解な、物語、つまり、書き方が定まっていない時代の、小説なのである。

だが・・・
面白い。
物語、書き物の、価値は、面白いか、否か、である。
 

posted by 天山 at 03:29| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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