2013年12月19日

慰霊と支援の旅は続く6

いよいよ最後の施設である。
その施設は、辻さんの、思い入れが深い。
チャームート施設と言う。

前回、辻さんは、さくらさくら、を歌った。
その声に感動した、男の子が、辻さんに英語話し掛け、とても辻さんを尊敬した。
だが、その子は、今回は、施設に居ない。

彼は、学業が優秀で、バンコクの大学に入学した。
西欧のボランティア団体からの、奨学金を受けたのである。

最初、その施設は、ミャンマーの子供たちに、学習する場所としてあった。
子供たちは、自分の生活を自分で賄う。
ゴミ山で生活し、ゴミを拾い、換金して、何とか生活していた。

しかし、いつからか、施設で暮らす子供も出て来た。
今回は、全員が施設で暮らし、学習を受けていた。

施設の中でも、比較的豊かな所である。といっても・・・
衣類が一枚しかない・・・と言う施設の子より、少し増しだという程度だ。

土曜日で、お休みの日である。
子供たち全員が、揃っていた。

私達が到着すると、全員が出て来た。
更に、男性教師と、代表の高齢の女性である。

支援に訪れるのは、私達のみだということが、今回、解った。

まず、ジュースを配り、それを一緒に飲みつつ、互いに歌を披露する。
それが、いつものこと。

今回も辻さんは、さくらさくら、を歌った。
新しい子もいるからだ。

それから、衣類と文具の支援である。

それぞれ、一人一人に手渡す。
私は、学習する子たちに、文具を手渡した。

小学生程度は、鉛筆を使い、中学生くらいから、ボールペンを使う。
そして、今回は日本から持参したノート類である。

このノートは、見事なものだ。
タイのノートは、紙の質が悪く、ページも少ない。
日本のものは、ピシッとしていて、ページも多い。

全員に渡せたので、ホッとした。
更に、年長の子が、小さな子に、鉛筆を配っているのを見て、感動する。

決して、独り占めする子はいない。

無理をして、持参して本当に、良かった。

私が、更に感動したのが、私が持参した、日の丸を必ず、誰かが、掲げていることである。写真を見れば解るが、子どもが順に、日の丸を掲げている。

写真撮影も、必ず忘れず、日の丸を掲げるのである。

私は、高齢の代表に、これから、バンマ、ミャンマーに入り支援に行くと言うと、何度も、お礼を言われた。
本当に・・・本当に・・・ありがとうございます・・・
我が事のように言う。
私は、これからは、毎年、バンマに入りますと言った。

ビルマをバンマと発音する。

ビルマは、ビルマ族の国という意識があったが・・・
少数民族の人たちが、それに対抗して、内戦が起こった。

軍事政権下では、特にそれが酷かった。
人として、扱わないのである。

現在は、次第に和解を目指して、政権と話し合いが行なわれている。

名残惜しいが、私達は子供たちに、さようなら、をして、いよいよ国境へ向うことにした。
本当は、昼食を取り、休憩してからという予定だったが、森の施設で、ご馳走になったので、休憩無しで、国境に向う。

半日程度の入国であれば、ビザはいらない。
タイから出国して、ミャンマーに入国する。
その際に、ミャンマーのイミグレーションに、パスポートを預ける。
入国料は、500バーツである。
だが、タイ人は、無料で入国出来る。

白倉さんの、娘さんは、タイの国籍と、日本の国籍を持つ。
であるから、日本国籍の、三名分だけを支払う。

その前に、手続きを、タイ側で行った。
そんなことが出来るということも、知ることができた。

更に、車の手配である。
手続きをすると、車の勧誘があった。
自分ですると面倒だが、それを頼むと、すべての手続きをしてくれ、車もそのまま出入国出来るのだ。

1000バーツかかるといわれたが、便利なので、それにした。
全員が、その車に移動して、国境を越える。
つまり、私達は、タイ側のイミグレーションのみに出て、ミャンマー側には、運転手が全員の手続きをするというものだ。

これも、知らなければ、時間がかかり、大変なことだった。

スムーズにミャンマーの町、ミャワディに入った。
見事というしかない。

ミャワディの町は、一本道である。
しかし・・・
私達が向ったのは、町の郊外の集落である。



posted by 天山 at 07:33| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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