2013年12月15日

慰霊と支援の旅は続く2

メーソートには、午後二時頃に到着した。
すでに、白倉さんが、娘さんと待っていた。

その娘さんは、日本名、友子さんという。
私たちは、ともちゃん、と呼んでいた。

更に、バンコクから、そのお姉さんも、バスで駆け付けて、私たちの活動を手伝うというから、ありがたい。
白倉さん一家が、最大の協力者である。

そして、最後の日本兵として有名な中野さんの、息子さん、お孫さん・・・
今回は、その中野さんに、息子さんの奥様の、姉妹の男子を養子にしたという方が、運転の手伝いをしてくれた。

更に、ミャンマーのミャワディでは、白倉さんの奥様の、お姉さまが、手伝うことになっていた。
こうして、多くの人たちに、支えられて、私たちの活動も充実したものになった。

荷物を運ぶ、ソンテウという、乗り合いバスを一台チャーターして、私たちを待っていた。
そのソンテウ一杯の、支援物資である。

そのまま、ホテルに直行する。
ともちゃんは、日本語専攻で、日本語で話せるのが、救いだった。

いずれ、日本の語学留学を一年して、更に、日本の大学に進学する予定である。

お姉さんは、タイの東大といわれる、最高学府の大学で、文学を学んでいる。
英語、フランス語が堪能な、才女である。

まず、ホテルに荷物を下ろし、チェックインする。
そして、いつもの通り、麺類を食べるために、白倉さんお勧めの店に行く。

そこで、打ち合わせしつつ、タイの汁麺を食べる。

明日は、朝八時に、出発する予定であると、白倉さんが言う。
廻る箇所は、四箇所の孤児施設と、メータオクリニックである。

そして、休憩と食事をして、ミャンマー側のミャワディに入国する。

私には、予想がつかない。
ミャワディは、初めて入るのである。

一つの貧しい集落に行くと言う。
白倉さんの奥さんの、お姉さんが、案内する。
実は、当初、白倉さんの奥様が、お寺に人々を集めて、支援をする予定だったが、体調が悪く、病院に出掛けることになって、お姉さんが、協力してくださることになった。

麺を食べて、私たちは、ホテルに戻り、少し休んで、着替え、早速、食糧支援の物資を買うために、市場に出掛けることにした。

何せ、明日、一日で、すべてをこなすのである。

時間も、どれくらいかかるのか、解らない。

兎に角、ビスケットや、飲み物、インスタントラーメン・・・
差し上げる施設や、場所を考えて、買い付けする。

昼間は、日差しが強く、暑いのである。
ただ、朝夕が、涼しく救われた。

夜は、エアコンを切って寝るほど、丁度良い温度だ。

大量に買い付けするので、ホテルまで、運んでくれる。
その、運ぶ青年たちが、皆、ミャンマーの青年たちだった。

矢張り、着ているものが、破れていたりして、私は、一人の青年に、ズボンとTシャツを明日、プレゼントすると、言った。

すでに郵送してある支援物資には、男物もあったからだ。

彼らは、すぐに、私を信頼して、英語の出来る青年と、色々と話すことが出来た。
ヤンゴンから来たと、きいて驚いた。
仕事が無いのだ。

家族と一緒に、タイ側に出て来た青年もいた。
民主化といえど、まだまだ、先は遠いのである。

ホテルのロビーの隅に、支援物資を置いて、準備万端である。

ようやく、私たちは、部屋でくつろぐことが出来た。
まず、シャワーを浴びる。
ところが・・・前回は、温シャワーだったが、水シャワーになっていたから、驚く。

部屋の料金が、来るたびに、安くなっていたのは、そのせいである。
新しいホテルが建ち、どんどんと、そちらにお客を取られているらしい。

何せ、一泊、400バーツである。
1300円程度。

矢張り、暑い国でも、シャワーは、温シャワーがいい。

ただ、顔馴染みのベッドメークさん、フロントの女の子は、変わらない。
懐かしく、挨拶を交わす。
英語の出来る子とは、色々と近況を話す。

私たちの目的を知るので、実に好意的だ。

今回は、ミャワディに行くよ・・・
ありがとう・・・
ビッグレイン大変だったね・・・
ええ、沢山の人が死んだは・・・

私の、訪問は、六度目である。
最初の年は、二度訪れているから、五年目。

兎も角、早めに夕食を取り、休むことにした。
その食堂も、馴染みの店である。

ホテル並びの、安いタイ利用李の店である。
ただ、イスラム教徒のオーナーなので、豚肉は、無い。

チキン、ビーフ、シーフード類である。

この街は、思った以上に、イスラム教徒が多いのである。




posted by 天山 at 06:48| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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