2013年12月27日

もののあわれについて650

引き広げて、玉水のこぼるるやうに思さるるを、人も見ばうたてあるべし、と、つれなくもてなし給へど、胸に満つ心地して、かの昔の尚侍の君を、朱雀院の后の、せちに取り籠め給ひし折など思し出づれど、さしあたりたる事なればにや、これは世づかずぞあはれなりける。すいたる人は、似げなき恋のつまなりや、と、さましわび給ひて、御琴搔き鳴らして、なつかしう弾きなし給ひし爪音、思ひ出でられ給ふ。あづまの調べをすががきて、源氏「玉藻はな刈りそ」と謡ひすさび給ふも、恋しき人に見せたらば、あはれ過ぐすまじき御様なり。




手紙を広げて、軒の玉水のように、涙がこぼれる気がするが、傍にいるに女房達に見られては、良くないと、平静を装う。だが、涙が胸いっぱいになる気持ちがして、あの昔、朧月夜の尚侍の君を、朱雀院の后が、無理矢理会わせまいとした時のことなどを、思い出したが、目の前のことだからか、こちらは世間に無い話だと、感動するのだった。
色好みという者は、自分から苦労の種を蒔くことをするものなのだが。今となっては、何のために、女の苦労をすのるか、不相応な恋の相手だと、冷静にと努めるが、できかねて、お琴を搔き鳴らす。すると、優しく弾いた、あの音色が思い出される。和琴の曲を、すが掻きして、玉藻はな刈りそ、と遊び半分に歌うのを、恋しい人に見せたら、感動せずには、いられない御様子である。

すいたる人、とは、色好みの者。
だが、それは、精神と肉体との、美の探求者である。

好き者ではない。色好みである。
江戸時代になり、井原西鶴によって、再び、描かれる色好みである。




内にも、ほのかに御覧ぜし御容貌有様を、心にかけ給ひて、「赤裳たれ引きいにし姿を」と、憎げなる古言なれど、御言種になりてなむ、眺めさせ給ひける。御文は忍び忍びにありけり。身を憂きものに思ひしみ給ひて、かやうのすさび事をもあいなく思しければ、心とけたる御答へも聞え給はず。なほかのあり難かりし御心掟を、方々につけて、思ひ染み給へる事ぞ、忘られざりける。




帝におかせられても、わずかに御覧になった、御様子を、お忘れにならず、赤裳たれ引きいにし姿を、と嫌な古歌だが、口癖になってしまい、物思いに沈んであそばす。お手紙は、そっと、時々、遣わされた。自分を不運な身であると、思い込んでいらっしゃるので、このようなお手紙のやり取りも、つまらなく思いになり、打ち解けたお返事も、差し上げない。やはり、大臣の、またとないほどであった、ご好意を、何かにつけて、ありがたいと、思い込むのである。その殿様のこと、源氏を、忘れられないのだった。

玉葛の心境である。




三月になりて、六条殿の御前の、藤、山吹の面白き夕映えを見給ふにつけても、先づ見るかひありて居給へりし御様のみ思し出でらるれば、春の御前をうち捨てて、こなたに渡りて御覧ず。呉竹のませに、わざとなう咲きかかりたるにほひ、いと面白し。源氏「色に衣を」など宣ひて、

源氏
思はずに 井手のなか道 隔つとも 言はでぞ恋ふる 山吹の花

顔に見えつつ」など宣ふも、聞く人なし。かくさすがに、もて離れたる事は、この度ぞ思しける。げにあやしき御心のすさびなりや。




三月になり、六条の院の御前で、藤と山吹が夕日に美しく映えているのを、御覧になるが、何よりも先に見る目にも、玉葛が、美しい姿で座っていた、ご様子ばかりが、思い出される。こちらにいらして、御覧になる。呉竹の垣根に、自然に咲きかかる山吹の、色艶が美しい。源氏は、色に衣を、などと、口ずさんで、

源氏
思いがけず、二人の仲は、離れているが、口には出さないで、恋い慕う山吹の花の身よ。

面影に見えて、忘れられない。などと、おっしゃるが、誰も聞く人はいない。このように、さすがに、すっかり離れてしまったことを、今こそ、はっきりと知るのだ。本当に、変な、遊び心である。

山吹の花は、玉葛を、象徴する。




雁の子のいと多かるを御覧じて、柑子、橘などやうに紛らはして、わざとならず奉れ給ふ。御文は、余り人もぞ目立つるなど思して、すくよかに、源氏「おぼつかなき月日も重なりぬるを、思はずなる御もてなしなりと恨み聞ゆるも、御心ひとつにのみはあるまじう聞き侍れば、ことなるついでならでは、対面の難からむを、口惜しう思ひ給ふる」など、親めき書き給ひて、

源氏
同じ巣に かへりしかひの 見えぬかな いかなる人か 手に握るらむ

などかさしもなど、心やましうなむ」などあるを、大将も見給ひて、うち笑ひて、大将「女は、まことの親の御あたりにも、たはやすくうち渡り見え奉り給はむ事、ついでなくてあるべき事にあらず、まして、なぞこの大臣の、折々思ひ放たず恨み言はし給ふ」と、つぶやくも、憎しと聞き給ふ。




雁の卵が沢山あるのを、御覧になり、みかん、橘に見えるように作り、何気ない風にして差し上げる。お手紙は、あまり人目に立つと気遣い、生真面目に、源氏は、御目にかからない月日が経ちますのを、意外な仕打ちとお恨みしていますが、あなたお一人の、考えではないように聞きます。特別の機会でなくては、お会いできそうにないのを、残念に思います。などと、親らしく、書かれて、

源氏
せっかく、私のところで、孵った雛が、見当たりません。どんな人が、持っているのでしょうか。

どうしてこのようにと、嫌な気がします。などとあるのを、大将も御覧になり、微笑んで、女は、実の親のお傍であっても、簡単に行って、お会いする事は、ちゃんとした場合以外は、してはいけないことだ。まして、どうして、実父でもないこの大臣が、時々、諦めもせず、恨みがましいことを、おっしゃるのだ、と、呟くのを、玉葛は、憎らしいと、聞いている。





posted by 天山 at 05:24| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月28日

もののあわれについて651

玉葛「御返り、ここにはえ聞えじ」と、書きにくく思いたれば、大将「まろ聞えむ」と代はるもかたはらいたしや。

大将
巣がくれて 数にもあらぬ かりの子を いづ方にかは とり隠すべき

よろしからぬ御気色にて驚きて。すきずきしや」と聞え給へり。源氏「この大将のかかるはかなし言いひたるも、まだこそ聞かざりつれ。珍しう」とて笑ひ給ふ。心の中には、かく領じたるを、いと憎しと思す。




玉葛は、お返事は、私には、書けません。と書きづらく思っていると、大将が、私が書こう、と代わるのも、どうかと思う。

大将
巣の片隅に隠れて、兄弟の中にも数えられない私を、何処に、誰が、隠すのでしょうか。

機嫌が悪いので、驚きました。懸想文めいておりますでしょうか。と、申し上げた。源氏は、この大将が、こんな冗談を言ったことを、まだ聞いたことがない。珍しい、と言って、笑う。しかし、心の中では、このように、全く自分のものにしているのが、憎いと、思うのだ。




かのもとの北の方は、月日たるままに、あさましとものを思ひ沈み、いよいよほけ痴れてものし給ふ。大将殿の大方のとぶらひ、何事をもくはしう思しおきて、君達をば変はらず思ひかしづき給へば、えしもかけ離れ給はず、まめやかなる方の頼みは、同じ事にてなむものし給ひける。姫君をぞ、堪へ難く恋ひ聞え給へど、絶えて見せ奉り給はず。若き御心の中に、この父君を、誰も誰も許しなう恨み聞えて、いよいよ隔て給ふ事のみまされば、心細く悲しきに、男君達は常に参り馴れつつ、尚侍の君の御有様などをも、おのづから事にふれてうち語りて、君達「まろらをもらうたく懐しうなむし給ふ。明け暮れをかしき事を好みて、ものし給ふ」など言ふに、羨ましう、かやうにても安らかにふるまふ身ならざりけむを嘆き給ふ。あやしう、男女につけつつ、人にものを思はする尚侍の君にぞおはしける。




あの大将の、元の北の方は、月日が経つにつれて、あまりな仕打ちと、物思いに沈み、いよいよ、気が変になっている。大将家は、一通りのお世話を何事につけても、細かく気を配り、子供達を相変わらず大事にしているので、北の方も、すっかり手を切ってしまわずに、生活上の厄介は、今まで通りにしていらした。
姫君を、たまらなく、恋しがっていられるが、全然、会わせることがない。姫君は、子供心に、どなたもどなたも、お父様を許すことなく、恨んで、ますます自分から遠ざけようとするばかりなので、心細く悲しく思うが、男の子たちは、始終行き来しているので、尚侍の君の噂も、自然何かにつれて話し出して、私達も可愛がって、優しくしてくださいます。一日中、面白い遊びをして、暮らしています。などと、言うので、姫君は、羨ましい。こんな風にして、自由に振舞える、男の身に生まれてこなかったのを、嘆くのである。妙に、男にも、女にも、それぞれ。物思いをさせる、尚侍の君でいらしたのである。




その年の十一月に、いとをかしき児をさへ抱き出で給へれば、大将も、思ふやうにめでたし、と、もてかしづ給ふ事限りなし。その程の有様、言はずとも思ひやりつべき事ぞかし。父大臣も、おのづから、思ふやうなる御宿世と思したり。わざとかしづき給ふ君達にも、御容貌などは劣り給はず、頭の中将も、この尚侍の君をいとなつかしき兄弟にて、睦び聞え給ふものから、さすがなる気色うちまぜつつ、宮仕へにかひありてものし給はましものを、と、この若者の美しきにつけても、頭中「今まで皇子達のおはせぬ嘆きを見奉るに、いかに面目あらまし」と、あまりごとをぞ思ひて宣ふ。公事はあるべき様に知りなどしつつ、参り給ふ事ぞ、やがてかくてやみぬべかめる。さてもありぬべき事なりかし。




その年の、十一月に、玉葛が、可愛い子供をお生みになったので、大将も、念願がかなった。幸運だと、この上なゆく、大事にされる。その当時の様子は、言わずとも、お察しのことでしょう。
父大臣も、そのまま、思い通りの幸運と、お喜びである。格別大事にされている、姫君たちに比べても、御器量なども、負けていないし、頭の中将も、この尚侍の君を仲の良い妹として、親しくしていらっしゃるが、それでも、諦めきれない素振りを見せないでもない。入内されていたら、その甲斐があろとう思うが、この若君の美しさを見るにつけても、頭の中将は、今まで男の皇子様がいらっしゃらない嘆きを拝しているので、どんなに名誉なことか。と、虫のよいことを言うのである。
尚侍の職務は、立派にしているが、参内されることは、あのままで終わりになってしまいそうだ。それで、良いはずのことでしょう。

最後は、作者の言葉。




まことや、かの内の大殿の御女の、尚侍望みし君も、さる者の癖なれば、色めかしうさまよふ心さへ添ひて、もてわづらひ給ふ。女御も、つひにあはあはしき事、この君ぞひき出でむ、と、ともすれば御胸つぶし給へど、大臣の、「今はな交らひそ」と、制し宣ふをだに聞き入れず、交らひ出でてものし給ふ。いかなる折りにかありけむ、殿上人あまた、覚えことなる限り、この御女の御方に参りて、物の音など調べ、なつかしき程の拍子打ち加へて遊ぶ、秋の夕べのただならぬに、宰相の中将も寄りおはして、例ならず乱れて物など宣ふを、人々珍しがりて、「なほ人より異にも」とめづるに、この近江の君、人々の中を押し分けて出で給ふ。「あなうたてや、こな何ぞ」と引き入るれど、いとさがなげに睨みて、はり居たれば、わづらはしくて、「あうなき事や宣ひ出でむ」とつきかはすに、この世に目なれぬまめ人をしも、「これぞな、これぞな」とめでて、ささめき騒ぐ声いとしるし。人々いと苦しと思ふに、声いとさわやかにて、

近江
沖つ船 寄るべ波路に 漂はば 棹さし寄らむ とまり教えよ

棚なし小船漕ぎかへり、同じ人をや、あな悪や」と言ふを、いとあやしう、この御方には、かう用意なき事聞えぬものを、と思ひ廻はすに、この聞く人なりけり、と、をかしうて、

夕霧
寄るべなみ 風の騒がす 船人も 思はぬ方に 磯伝ひせず

とて、はしたなかめりとや。




そういえば、内大臣様の、ご息女で、尚侍希望の方も、あの調子の癖で、この頃では、変に色っぽく、そわそわし出して、大臣は、持て余していらっしゃる。女御も、今に、軽はずみなことを仕出かすのではと、何かというと、はらはらしていらっしゃる。大臣が、もう人中に出てはいけない、と諌めるのも聞かず、人中に出ている。
あれは、いつのことだったか、殿上人が大勢、それも立派な方々ばかりが、この女御の所に集まり、色々な楽器を奏し、騒がしくない程度に拍子を取ったりして、遊んだことがあった。
秋の夕暮れの、何となく風情のある頃で、宰相の君も御簾近くにいらして、常になく冗談をおっしゃるのを、女房達が珍しがり、矢張り、他の方と違うと、誉めていると、この近江の君が、女房連中を押し分けて、出て来た。あら嫌だ、これは、どうなさるつもり、と引っ張り入れようとするが、とても意地の悪い目つきで睨み、頑張るので、困りきって、変なことをしないか、とお互いに、突っつき合っていた。
すると、この世にも、珍しい真面目な、夕霧を、近江は、この人よ、この人よ、と誉めそやす声が、囁きだが、御簾の外まで、はっきりと聞える。女房たちは、困りきっているのに、声もはっきりと、

近江
沖の船、寄るべがなくて、波に漂っているなら、漕ぎ寄せます。行き場を教えてください。

棚なし小船のように、一人の方ばかり思っていらっしゃるの。あら、ごめんなさい、と言うので、酷く驚いて、こちら様には、こんな不躾なことを言う人など、聞いたこともないが、と、考えて、あの評判の姫君なのだと、おかしくて、

夕霧
寄るべがなくて、風にもてあそばれている船人でも、心にもない方に、磯伝いは、しません。

とおっしゃったので、女は、引っ込みがつかなくなった、という、お話。

最後は、作者の言葉。

真木柱を終わる。


posted by 天山 at 05:52| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月29日

沈黙を破る81

フィリピンを、史上最大の台風が襲った。
それが、フィリピン中部とは、ビサヤ諸島である。

私が、出掛ける、島々がある。
セブ島、ネグロス島、レイテ島、パナイ島・・・

被害は、その他の島、サマール島、ボホール島にも、及ぶ。
ボホール島は、地震の被害で、百名以上の死者を出したばかり。

その、ボホール島に、出掛ける予定を立てていた。

ネグロス島の、バコロドには、テラの会支部がある。
連絡がつかず、心配したが・・・
ようやく、連絡がついた。

矢張り、レイテ島が一番の被害を出したという。

私の出会う人たちは、スラムの人たち、ストリートチルドレンである。
つまり、一番、弱い立場の人たち。
そして、被害も多く受ける。

レイテ島、タクロバンの子供達は、全滅だろうと、思った。
皆々、港、ビーチの近くに寝泊りしているからだ。

最初は、支援のプロたちが、行く。
国連、日本、アメリカ、イギリス、オーストラリア・・・
それぞれが、軍である。
そして、医療チーム。

数ヶ月ほどして、落ち着いてから、私が出掛ける。

身の程を知るべきなのだ。
出来ることをする。

被災者達は、食べ物と、着る物が無いという。
私は、着る物を持参出来る。

更に、現地で、食べ物を調達して・・・
ストリートチルドレンに上げられる。

その後、台風は、ベトナム北部を通過した。
数十名の死者を出した。

被害の様子は、現地に行かなければ、解らない。
だから、現地行く。

通常の支援活動とは、自然災害の場合は、異なる。
ボランティアが、足手まといになることもある。

落ち着いてからが、ボランティアの出番なのだ。
それは、長期的なものになるべき。

一度や、二度なら、簡単である。

東日本大震災の場合も、同じ。
継続した、支援活動が必要なのだ。
更に、政府の支援である。

あまりに、大き過ぎる災害であるから、政府が問題である。
政治と行政、そして、民間である。

民間が、分を知ることは、難しい。

私は、決して、全能感を持たない。
出来ないことは、出来ないのである。

そして、ボランティアは、密かにするべきなのだ。
たまたま、通り掛った者、という意識である。
それ以上のことは、傲慢になる。

余力を三割ほど、残して行なう。
全力投球をして、倒れては、何も成らない。

他者の支援も、受けるが、他者に迷惑をかけないのである。

平成26年2014年は、活動八年目に入る。
長く続けるために、無理は禁物である。



posted by 天山 at 07:07| 沈黙を破る2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月30日

神仏は妄想である。453

ユダヤ教の知識人であるマタイは、イエスの誕生、人生が、すべて旧約聖書の預言通りだということを、証明するのに、力を注いでいる。

それが、イザヤ書である。
ところが、マタイは、イザヤの言葉を、誤って解釈しているのである。

おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。

イザヤは、若い女が、妊娠して、男児を産むと言うが、それは、未来のメシアの誕生を言うのではなく、イザヤが生きていた時代の、近い将来に起こることを、預言しているのである。

旧約聖書がギリシャ語に翻訳される際に、若い女、という言葉は、ヘブライ語の処女に相当する。そこで、ギリシャ語の、処女に置き換えられた。

マタイは、ギリシャ語の旧約聖書を読み、イザヤ書で預言されていると、勘違いしたのである。

更に、イザヤ書には、メシアという言葉は、無い。

ルカも、処女から生まれたとみなしているが、旧約聖書の預言を引用しない。
その代わり、もっと直接的な説明をしている。

要するに、天使ガブリエルに告げられる形を取った。

聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。

だが、この二人は、イエスが誕生する前から、存在したとは、言っていない。

マタイ、ルカは、生まれた瞬間から、イエスが存在を獲得したということ。

だから、永遠から存在したというヨハネとは、全く別物である。

ヨハネは、マリアが処女というより、先在する神的存在が、受肉することによって、この世に生を受けたと、説明する。

イエスの存在は、神と共にあり、神と同等の存在であり、全宇宙は、神の言を通じて、創造された。

万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。

それは、つまり、ヨハネの神学である。
そして、ヨハネの妄想である。

ヨハネは、ユダヤ教の伝統を継承する人びと同様、神の言葉それ自体が、独立した実体を持ったものだと考えていた。神の言葉は、一度発せられると神の手から離れるため、神と「共に」ある。と同時に、神が発する言葉は、神の実存の一部であるという意味で、神自身でもある。
アーマン

ユダヤ教の伝統・・・
ここまで、雁字搦めにするという、姿勢は、矢張り、砂漠の宗教である。
こうした教義を元に、虚偽のような、理屈を考えつくのである。

ヨハネによると、イエスは、この世が創造される前にあった、神聖な神の言が、人間になったとされる。

であるから、最初の福音マルコのように、突如登場する、単なるユダヤ人の預言者ではなく、神によって、受胎した女性の、妊娠の瞬間に出現した、聖なる人間でもなく、初めに神と共にあり、一時的に地上に降り、永遠の命の可能性をもたらした、神の言、そのものなのである。

だが、ヨハネは、どのように言が、この世に顕在化したのか、説明していない。

ルカは、イエスが、ある歴史上の時点で、誕生した。ヨハネは永遠から、存在した。

もうこれで、十分だろう。
福音書とは、それぞれの作者の、思い込みによって、書かれたものであり、細部を分析すればするほど、矛盾していくのである。

キリスト教の正統的教義は、処女マリアから生まれたイエスとなり、この福音書の矛盾は、流されたままである。

つまり、信者は勝手に、自分の物語を作り、キリスト教徒として、信仰の道に入り、嘘か本当かなど、問題ではなくなる。

信じてしまえば、こっちのもの・・・なのである。

もっと言えば、福音書など、どうでもいい。どちらの福音書にも書かれていない教え、というものを、信じ込むという、体たらくである。

聖書研究家、学者でなければ、ムードの信仰に浸れる訳であり、教会も、それで信者が増えて、更に金が入れば、それで、いい。
宗教団体というものは、皆々、その程度なのである。

更に、哀れなのは、宗教家である。
聖職者と呼ばれて・・・
信者よりも、深い深い、悩みと、迷いを持つ者。

第一、 嘘なのである。
説いていることが、嘘であるから、毎晩、寝るに寝られぬ・・・

永遠の命・・・
成仏・・・
悟る・・・

皆々、妄想なのである。
勘違いに浸れる人は、救われる。

教義、教えに酔うということである。
更に、自分が救われる者だとの、甚だしい思い込みは、救えないのである。

天国も、極楽も、信じるから、在る。
いつも、心に、その蜃気楼を抱いて、安心立命を得ている。

そのうちに、死ぬ。
宗教の蒙昧の中に、浸りきって、死ぬ。

天地、あめつち、に、寄せる命の、孤独である、人間の本当の姿を知らぬままに・・・
死ぬ・・・

故に、寛容もなければ、慈悲も無い、人間となる。


posted by 天山 at 06:37| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月31日

神仏は妄想である。454

最初の福音書、マルコでは、イエスは、神ではなく、自分が神だとも、主張していない。

つまり、自分を神聖な存在であり、生まれる前から、存在して、神と同等であるとは、語っていないということである。

マルコでは、
時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。
と、イエスは、説教をする。

実際、イエスの誕生の一世紀半ほど前に、ユダヤ教の黙示思想が形成された世界観である。

イエスの時代は、ユダヤ教の間で、広く共有されていたものである。
世が終わる・・・というのは、新興宗教の得意な言葉・・・
それと、似ている。

この、黙示的世界の到来を予言する人々は、神の民が、この世で何故、これほどの苦痛や、苦悩に苛まれるのかという、疑問に答えることに、熱心だった。

更に、邪悪な人間が苦しむのは、理解できるが、何故、正しき人間が苦しむのかという、疑問。それどころか、邪悪な人間よりも、正しい人の方が、苦しみが大きいのは、何故か。そして、どうして、それを神は放置しているのか。

その現状は、今も変わらない。

そして、今も、当時と同じように、説明される。
神や、その民に歯向かう勢力、悪魔、その手下が、この世を支配している。更に、神は、その神秘的な理由により、それらを許している。
しかし、神が、その邪悪な勢力を駆逐し、新しい王国をもたらす時代が、到来するというものだ。

苦しみを引き起こす、悪魔、悪霊は、駆逐される。
神が、至高の支配者になる。

と、マルコのイエスは、黙示的思想である。

神の国が近づいた・・・
更に、その時代が到来するのだ。
だから、悔い改めて、福音を信じよ・・・

神が時代に介入し、悪の勢力や、ローマ帝国のような、彼らが支えている王国を打倒することを、意味している。

そして、そのためには、イエスの教えを受け入れることで、来るべき、神の国に、備えるというものである。

イエスは、
はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力溢れて現れるのを見るまで死なない者がいる。
と、言う。

更に
はっきり言っておく、これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。

マルコによれば、「人の子」、すなわち地上の宇宙的な審判者によってもたらされる、救いである。それが、イエスの教えに従っているか、どうかを基準で裁くという。

イエスも、新興宗教の、通俗的な教祖と、変わりない。
あるいは、頭のイカレタものである。

イエスは、「マルコ」の中で、あまり自分自身について語っていない。彼は、神や来るべき王国やいかに人びとがそれに備えるべきかということばかり説いている。自分自身を人の子と呼ぶときには、常に歪曲的な言い方をしており、決して、「私は人の子である」と明言していない。また、大司祭がメシアかどうか誓わせる終わりに近い場面まで、未来の王国の支配者として選ばれたメシアであるとも言っていない。
アーマン

マルコにとっては、神の子とは、ユダヤ教の伝統に則った、神の意思の媒介となるために、特別に選ばれた人間のことである。

イエスは、そういう人間だったと、マルコは、説明している。

教会の正典に選ばれた、福音書は、あまりの矛盾に、後々、大変な議論が起こるのであるが・・・

だから、これらから漏れた、多くの聖書外典を入れれば、支離滅裂になるだろう。

一体、キリスト教徒は、何を信じているのか・・・
私も、中学、高校と、カトリック信者だった。
だから、分るが、それは、自分のイエスを信じていたのである。

つまり、物語を自分で作り上げて、信じていた。

福音書にある、多くの矛盾も、自分で、何となく、不問にして・・・
ただ、信じるのである。

イエスが言う。
見ないで信じる者は、幸いである、という、言葉に、救いを見出して・・・

そして、信じてしまうと、疑問も、不問にしていたことも、忘れる。
本当か、嘘かも、判断せずに、ただ、単純に信じる。
それで、いいのだと、教会が言う。

と、ところで、他の宗教も、同じである。
まず、信じることでるあると・・・

そう、信じさせれば、宗教側の勝ちである。

信じさせれば、思考停止になり、兵隊になる。
どの宗教も、信じさせるべく、人を勧誘させる。
信者を兵隊にして、人を勧誘させるのである。

この恐るべき、蒙昧から抜け切れなければ、いつまでも、人間と、人類の歴史は、悪のまま続く。
何故なら、悪とは、宗教が作り上げた、観念である。

一神教の場合は、異教徒が悪である。
更に、同じ宗教でも、別宗派は、悪である。

これほど、恐ろしい、考え方があるのか・・・

宗教対立ほど、人類史に憎悪の感覚を植え付けたものは、無い。
それが、恐るべき、蒙昧であり、迷いなのである。



posted by 天山 at 05:40| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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