2013年12月17日

慰霊と支援の旅は続く4

中野さんの、慰霊を終えて、次に向うのは、森の施設である。
私が、通称名として、名付けた。

ミャンマー難民孤児施設である。
今回で、六回目。
その間、子供たちが替わる。

15歳になると、施設を出る。そして、メーソートの街で、働く。
あるいは、うまく行けば、バンコクに出られる子もいるだろうが・・・
国籍が無いので、非常に難しい。

タイでは、国民が皆、国民カードを所持していなければならない。
そこを、どうするかである。

タイ国籍を目指すなら、勉強して、兎に角、大学に進学し、優秀な成績を収めることだ。そして、タイの国籍を取る。
勿論、大学へは、ボランティア団体からの、支援金、奨学金が必要である。

だが・・・
彼らは、頑張る。

幾人も、そういう頑張る子を見た。
医者の資格などを取ると、すんなり国籍を貰えるのである。

私達が、到着した時、すでにメーソートの支援団体が、昼食の支援に来ていた。
もう、昼時なのだ。

ボランティアの人たちは、私達にも、ご馳走してくれた。
それが終わると、子供たちが、歌を披露する。

代表の先生は、留守だったが・・・
世話役の女性が、私達を迎えてくれた。
更に、すでに顔見知りの子供たち・・・

昼食を終えた、テーブルの上に、支援物資の衣類を載せて、子供たちを集める。
まず、小さな子からである。

大きな子は、それを十分に知っているから、絶対、我さきにはならない。

私は、まず、ぬいぐみを取り出して、小さな子に渡した。
それから、衣類の手渡しである。

白倉さんはじめ、全員が、手伝う。
その子に合ったサイズを探す。

矢張り、着たきりスズメの子もいる。
遠慮がちな子・・・
男の子と、女の子を、別々に並ばせて、一人一人に、手渡す。

この触れ合いが、最も大切である。

ただ、残念なことに、あまり時間が無いために、子供たちを、一人一人と、触れることが出来ない。
本当は、一人一人を抱きしめる時間が必要だ。

子供は、触れて欲しいのである。
人のぬくもり・・・
それも、与えるべきものである。

私達が、支援を始めると、食事を差し上げていたグループの人たちが、静かに、去っていった。

大きな子供たちの衣類が、少ないので、彼らを車の傍に呼び、車の上から、衣類を取り出して、渡す。
サイズの合うものを探す。
その間も、年長の子は、最後まで待つ。

これ、お前に合うよ・・・
これは、お前だ・・・
そんな会話が、聞えるようだった。

ようやく、全員に渡った。
と、思いきや、色白の男の子が、一人、ぽつんと、見ている。
アレッ・・・
まだ、貰っていないの・・・
日本語である。だが、通じる。彼は、頷いた。

少し大きめのシャツを取り出した。
すぐに、大きくなるからと、私は、彼にシャツを着せた。
笑顔で頷く、男の子。

一番、年長の子が、私に、フェニッシュと訊く。
フェニッシュ・・・
すると、その子が、皆に伝える。

彼らは、隙間板の部屋で、寝る。
寒い夜も、毛布、下に敷くものも無い。
衣類が多ければ、それを重ね着して寝るのである。

自分の持ち物は、衣類のみ、である。

今回は、ミャンマー側に渡るので、早々に戻らなければならない。
後ろ髪を引かれる思いで、子供たちに、さようなら、を言う。

また、一年後である。
その時、もうそこにいない子もいる。
この場所から、プロテスタントのチャペルの横に作られた、ホームに引き取られる子もいる。
その規準は、解らない。

この森の施設は、知る人ぞ知る場所である。
何せ、何回来ても、道が定かではない。

現地の人でなければ、解らない。
そういう意味では、私は、大変貴重な支援活動をしているのである。

いつか、大きくなった子が、メーソートの街で、働く姿を見ることもあるだろう。
そして、一緒に、街の食堂でご飯を食べる。
そんな想像をする。




posted by 天山 at 03:09| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月18日

慰霊と支援の旅は続く5

森の施設を後にして、向うは、自由戦死の碑である。

以前の日記に、その内容を書いているので、省略する。
兎に角、お寺の前に建てられた、慰霊碑に慰霊を行なう。

皆、二十代の青年である。

その目の前に、タイとミャンマーの国境を分ける、川が流れる。
その川が、今年の八月に、氾濫した。
豪雨被害である。

世界の至る所、自然災害が多く、報道されることは、無かったが・・・
ミャンマー側では、800名以上の死者数である。
タイ側では、四名の死者が出た。

タイ政府は、即座に支援に乗り出したが・・・
ミャンマーは、手遅れ。
そこで、ミャンマーの人々が、タイ側へ逃げて来た。
難民である。

それでも、ミャンマー側に人がいる。

今回は、その一つの貧しい集落を紹介されて、出掛けたのである。

さて、慰霊を終えた私達は、次の施設に向った。
その施設は、一度、訪れたことがある。
だが、その時は、大勢の子供たちが、チャペルに出掛けて、幼児たちだけが、昼寝をしていた。
その子供たちに、衣類をそっと、寝ている傍に置き、ビスケットを山盛りにして、去った記憶がある。

今回、その施設の、名前を確認した。
フューチャー・ライト・ホーム・スクール、である。

要するに、孤児たちを寝泊りさせ、学習させる施設である。

到着して、年長の男の子が対応してくれたが・・・
写真を禁止と言われた。
そこで、説明すると、代表を呼ぶので待って欲しいと、言われた。

その間の、時間が、20分ほど。
そこで、私は、子供たちと話した。
話した・・・言葉が通じない・・・

だから、近づく子供を抱き寄せた。
私が抱いた子は、丸坊主のハナという名である。
初めは、男の子と思ったが、聞くと、女の子であるという。
驚いた。

そして、納得した。
さらわれて、児童買春の犠牲になる女の子もいるのだ。
そこで、丸坊主にする。

ハナちゃんは、何と、ずっと私の膝の上にいた。
そして、ニコニコと、微笑んでいる。
辻さんには、三歳の男の子が、やって来て、その膝に乗る。

二人とも、とても、嬉しそうである。
親に甘えたい時期・・・
触れ合うことが、最も必要な時期。

私は、ハナちゃんの頬に何度も、キスをして、アイラブユーと、繰り返した。
ハナちゃんは、慣れてくると、私の手を取り、色々と遊ぶ。

子供の体温は、高いので、私の体が熱くなる。
代表が来るまで、ハナちゃんは、私に抱かれていた。

そして、辻さんの、トミーも、そうだった。
名前が英語である。
つまり、名前が無かったのである。

この20分で、子供たちが、私達を受け容れた。
代表が戻ると、写真は、オッケーとなり、即座に、子供たちに、衣類を一人一人、手渡す。

この施設も、プロテスタント系の支援により、成り立っていた。

次回は、学習支援が必要だと、思った。
寝泊りする隣の建物が、学習の場所である。

子供たち皆に、衣類が行き渡り、支援は終わり。
そして、すぐに、さようなら・・・である。

代表は、丁寧に私にお礼を述べた。
来年も、来ますから・・・

写真を撮り、この施設への寄付を募るという、詐欺に合わないようにとの配慮なのである。
私は、日本の支援者に証明するために、写真が必要ですと言うと、納得した。

最後は、子供たちが、入り乱れて・・・
ハナちゃんが、何処にいるのか、解らない。
だが、皆で写真を撮る時、ハナちゃんは、私の横に来た。

兎に角、日本語、英語、タイ語で、さようなら・・・

急ぎ、次の施設に向うことにする。

何とも、後ろ髪が引かれる。
もっと、子供たちと、触れ合いたい・・・
それが、最も理想的な支援だ。

そして、一度では、終わらない。
毎年訪れて、顔馴染みになり、その成長を見る楽しみ。

白倉さんが、子供たちに、沢山勉強しなさいと、言う。
勉強すれば・・・将来が明るい。

子供は、保護と、学習が必要である。
必ずその中から、ミャンマーを立ち上げる子が現れると、私は思う。
不幸な環境は、乗り越えられるのである。

posted by 天山 at 00:02| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月19日

慰霊と支援の旅は続く6

いよいよ最後の施設である。
その施設は、辻さんの、思い入れが深い。
チャームート施設と言う。

前回、辻さんは、さくらさくら、を歌った。
その声に感動した、男の子が、辻さんに英語話し掛け、とても辻さんを尊敬した。
だが、その子は、今回は、施設に居ない。

彼は、学業が優秀で、バンコクの大学に入学した。
西欧のボランティア団体からの、奨学金を受けたのである。

最初、その施設は、ミャンマーの子供たちに、学習する場所としてあった。
子供たちは、自分の生活を自分で賄う。
ゴミ山で生活し、ゴミを拾い、換金して、何とか生活していた。

しかし、いつからか、施設で暮らす子供も出て来た。
今回は、全員が施設で暮らし、学習を受けていた。

施設の中でも、比較的豊かな所である。といっても・・・
衣類が一枚しかない・・・と言う施設の子より、少し増しだという程度だ。

土曜日で、お休みの日である。
子供たち全員が、揃っていた。

私達が到着すると、全員が出て来た。
更に、男性教師と、代表の高齢の女性である。

支援に訪れるのは、私達のみだということが、今回、解った。

まず、ジュースを配り、それを一緒に飲みつつ、互いに歌を披露する。
それが、いつものこと。

今回も辻さんは、さくらさくら、を歌った。
新しい子もいるからだ。

それから、衣類と文具の支援である。

それぞれ、一人一人に手渡す。
私は、学習する子たちに、文具を手渡した。

小学生程度は、鉛筆を使い、中学生くらいから、ボールペンを使う。
そして、今回は日本から持参したノート類である。

このノートは、見事なものだ。
タイのノートは、紙の質が悪く、ページも少ない。
日本のものは、ピシッとしていて、ページも多い。

全員に渡せたので、ホッとした。
更に、年長の子が、小さな子に、鉛筆を配っているのを見て、感動する。

決して、独り占めする子はいない。

無理をして、持参して本当に、良かった。

私が、更に感動したのが、私が持参した、日の丸を必ず、誰かが、掲げていることである。写真を見れば解るが、子どもが順に、日の丸を掲げている。

写真撮影も、必ず忘れず、日の丸を掲げるのである。

私は、高齢の代表に、これから、バンマ、ミャンマーに入り支援に行くと言うと、何度も、お礼を言われた。
本当に・・・本当に・・・ありがとうございます・・・
我が事のように言う。
私は、これからは、毎年、バンマに入りますと言った。

ビルマをバンマと発音する。

ビルマは、ビルマ族の国という意識があったが・・・
少数民族の人たちが、それに対抗して、内戦が起こった。

軍事政権下では、特にそれが酷かった。
人として、扱わないのである。

現在は、次第に和解を目指して、政権と話し合いが行なわれている。

名残惜しいが、私達は子供たちに、さようなら、をして、いよいよ国境へ向うことにした。
本当は、昼食を取り、休憩してからという予定だったが、森の施設で、ご馳走になったので、休憩無しで、国境に向う。

半日程度の入国であれば、ビザはいらない。
タイから出国して、ミャンマーに入国する。
その際に、ミャンマーのイミグレーションに、パスポートを預ける。
入国料は、500バーツである。
だが、タイ人は、無料で入国出来る。

白倉さんの、娘さんは、タイの国籍と、日本の国籍を持つ。
であるから、日本国籍の、三名分だけを支払う。

その前に、手続きを、タイ側で行った。
そんなことが出来るということも、知ることができた。

更に、車の手配である。
手続きをすると、車の勧誘があった。
自分ですると面倒だが、それを頼むと、すべての手続きをしてくれ、車もそのまま出入国出来るのだ。

1000バーツかかるといわれたが、便利なので、それにした。
全員が、その車に移動して、国境を越える。
つまり、私達は、タイ側のイミグレーションのみに出て、ミャンマー側には、運転手が全員の手続きをするというものだ。

これも、知らなければ、時間がかかり、大変なことだった。

スムーズにミャンマーの町、ミャワディに入った。
見事というしかない。

ミャワディの町は、一本道である。
しかし・・・
私達が向ったのは、町の郊外の集落である。

posted by 天山 at 07:33| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月20日

慰霊と支援の旅は続く7

ミャワディの町に入り、少し待つ。
私達を案内してくれる、白倉さんの奥さまの、お姉さんである。

その方を乗せて、町から郊外に向う。
それからの道は、デコボコである。
揺られ揺られて・・・

更に、道は、酷くなるばかり。
こちらは、どのくらいの時間かかるのか、解らない。
勿論、一日もいられないので・・・

と、ようやく、一つの集落に着いた。

子どもたちの姿、そして、若い男たちが、道端にいた。
あらかじめ、私達が来ることを伝えていたのかと、思った。

日の丸を手にして、車から降りる。

そして、小さな建物を示された。
そこで、衣類を渡すのだと、私達は、荷物を下ろす。

そのうちに、どんどんと人の数が増す。

私は、ビスケットの缶の蓋を開けて、子どもたちに渡すことにした。
それからである。
どこから湧いて来るのか・・・
子どもたちが、どんどんと、押し寄せる。

出来るだけ、大量に子どもたちの手のひらに、ビスケットを載せる。

大人たちは、建物の中に入って貰い、辻さんや、白倉さん、案内の婦人が、皆々に、衣類を渡す。
更に、一人の男性も、私達を手伝う。
兎に角、多くの人に行き渡るようにと、辻さんが声を掛けている。

私は、衣類の支援が、どのように行なわれているのか、解らない。
二つ目の缶の蓋を開けて、渡し続けた。
その半分ほどで、ようやく、子どもたちの手渡しが終わり、次は、インスタントラーメンを、女性たちに配ることにした。

私の言葉を、白倉さんの娘さんが伝える。
すると、次から次と、女性たちが、やって来た。

三箱のインスタントラーメンも、あっという間に無くなる。

どのくらいの時間を要したのか・・・

ようやく、衣類の手渡しも終わり、私が持参した、バック、二つを欲しい人に差し上げることにした。
スポーツバッグと、大きな、旅行用バッグである。

その時、一つアイディアが浮かんだ。
欲しい人は、私の頬にキスをするように、ジェスチャーで伝えた。
すると、集落の人たちが、声を出して笑った。
これは、いいと、私は、大げさなジェスチャーをして見せた。

一人の若者が、私の頬にキスをした。
どっと、皆が笑う。

更に、インスタントラーメンが、まだ残っていたので、再度、キスを求めると、子どもたちが寄って来て、私の頬にキスをする。
そうして、最後・・・

大きな旅行用のバッグが欲しいと、家の中から、男性が出て来た。
彼は、私にキスをしないので、私が催促すると、村人が、大声で笑い、男性も、戻って来て、私の頬にキスをした。
村人たちは、うわーーーと、声を上げる。

何とも、そこで笑い声が響き、私達と村人の距離が接近したようである。

最後に私は、英語で、バンマ、カレンは、日本のベストフレンドと、言うと、村の女性が、大声で、それを通訳した。
そこは、カレン州であり、カレン族の人たちも多いと思ったのである。

そして、再会の約束をする。
皆々、夢み心地の表情である。
一体、何が起こったのか・・・

突然の訪問である。
こんなことがあるのか・・・
子どもたちも、全員が笑顔である。

別れる際は、私も、どんな状態なのか、解らなかった。
車に乗り込み・・・
体が熱い。
興奮して、言葉が出ないのである。

後ろを振り向き、手を振る。

また、車は、ガタゴトと走り出した。
道を覚えようと思うが・・・無理・・・
興奮している間に、町のメインストリートに出た。

そして、国境を越える。
タイ側のイミグレーションで、車から降りて、入国手続きを済ませた。
そして、ようやく、一息ついた気分である。

元の道を戻り、車の乗り換えをする。
そのまま、食事に行くことにした。
白倉さんに場所は、任せた。

皆で食事をするのである。
以前の中華料理店である。

ホテルに戻ったのが、六時頃で、何と、十時間が過ぎていた。

何事も、終われば、あっという間である。
部屋に戻り、本日の記憶を辿るが・・・
ようやく、疲れという感覚を抱いた。
どっと、疲れを感じた。

よくぞ、やったものである。


posted by 天山 at 07:14| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月21日

慰霊と支援の旅は続く8

疲れを取る暇もなく、私達は、翌日、チェンマイに向った。
今年最後の、慰霊となる、野戦病院跡の、慰霊である。

ちなみに、メーソートのホテルには、以前ベッドメークをしていた女の子が、昇進して、フロントの受付を行っていた。
顔馴染みである。
ミャンマー、カレン族である。

今回は、彼女が結婚をして、男の子がいることが、解った。
だが、一足の靴を上げるだけしかなかった。
とても、喜んだが・・・

今年から、メーソートからチェンマイ行きの、飛行機が飛ぶので、それを利用した。
荷物が無くなり、実に楽になった。

最後まで、白倉さん、その娘さんが、私達を見送ってくれた。

ところで、旅日記を書いているが、私達が滞在していた時、バンコクは、騒乱だった。
反政権、つまり、反タクシン派が、デモを繰り広げていた。

最大は、200万人のデモと言われた。
空港のテレビでは、バンコクのデモの様子が、延々と映し出されていた。

そして、遂に、学生二人が死亡し、45名ほどが、重軽傷という事態になる。

更に、反タクシン派は、抗議活動を活発化させて、ブルトーザーを使い、警察本庁の一階部分を破壊した。
バリケードも、壊すという。

何故、ここまでエスカレートしたのか・・・
それは、メーソートにその大元の原因がある。
つまり、今も、メーソートは、麻薬の世界的売買の拠点なのである。

タクシンは、首相時代、パフォーマンスとして、千名以上の麻薬取締りとして、殺害したが・・・
実は、今も、その利権を握り、華僑を通して、世界に麻薬を売るのである。
その莫大な金・・・

更に、その裏には、中国が控えている。
簡単に言えば、中国は、タイランドを属国化したいとの、意向なのである。

そのことが、知識人たちに気付かれて・・・
急速に危機感が募り、バンコク騒乱となった。

ここでは、書けないこともあるが・・・
大筋の話である。

そして、タイは王国である。その王様の誕生日が近づいていた。
その日、国王のメッセージがある。
タイ国民は、それに注目していた。

タクシンは、王制廃止を口に出していたから、なお更、国王の言葉が、待たれていたと思う。

本来なら、国王は、対立する両者を呼んで、解決の糸口を探るというが・・・
国王も、口出し出来ない状況なのであると、聞いた。
それは、中国の存在である。

これも、それ以上は、書けない。

タイ各地では、国王誕生を祝う準備が進んでいた。
チェンマイも同じく。
私も、チェンマイの前夜祭に参加して、国王に対するメッセージを書かせて貰った。

前夜祭から、誕生日当日は、デモは無く、タイは、王様誕生日のお祝いで、平静だった。

私は、バンコクで、王様の、メッセージをテレビを通して聞いた。
タイ語なので、意味は解らないが・・・
帰国して、その内容を知る。

タイが平和だったのは、国民が一致団結して、である。だから、これからも、一致団結して、平和を・・・という、内容である。

意味深い言葉だ。

だが、翌日から、デモは再開されて、更に激しくなる。
ついに、タクシンの妹である、現首相が、下院を解散して、総選挙を行なうとの、メッセージを発した。が、そんな問題ではないと、更に、デモが続く。

要するに、タンシンとクローンである、現首相の退陣を要求している。つまり、タクシン派の崩壊を願うのである。

それほど、タンシン派が台頭しているのは、票田が大きい、東北部、北部の支持が高いからである。
それ以外の地は、皆、反タクシンである。

東北部、北部の票は、金で買っているというのが、現実である。

南部の人から聞いたが、一番税金を納める南部のためには、何一つ、タンシクはしていないと言う。
更に、一度も、タクシンは南部を訪れていないのである。
南部に行けば、確実に、射殺されると、聞いた。

海外逃亡をしているタクシンは、今も、大金が入る仕組みである。
要するに、国を食い物にしているのである。

中華系らしい・・・やり方・・・

反タクシン派は、特に国王支持派である。
勿論、タイ国民は、国王を崇敬する。
だが、それと、政治とは、別物となる。

国王は、86歳を迎える。
高齢であることが、タイ国民の心配である。

現国王が亡くなることが、混乱を増すことになることを、国民は知っている。
国王が、飾り物になり、そして、王制廃止となれば・・・
それを、恐れ、危機感を持つ人たち・・・
国が、乗っ取られるという、恐れである。

ラオス、カンボジアを懐に入れ、更に、タイにも迫る、中国の手・・・
中国の覇権主義が、ここでも、見られるのである。


posted by 天山 at 03:38| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月22日

慰霊と支援の旅は続く9

チェンマイに到着して、空港から即、ホテルに向う。
夜、小西さん一家に会うまで、休憩である。

チェンマイは、メーソートより、北にある。
朝夕が涼しい。
実に、過ごしやすい時期である。

日本で言えば、冬に当たる時期。
だが、二月頃から、ぐんぐんと気温が上がる。

一泊、600バーツ程度の古いホテルである。
それでも、円安で、2000円程度になる。
2、300円程度、値上がりである。

昨日の疲れは、相当なものだった。
ホテルの部屋で気付く。
温シャワーを浴びて、一息付き、そのまま部屋で休む。

夜、六時半に小西さん一家が、ホテルまで来てくれる。
今年二月以来である。

早速、新しいデパートが出来たということで、そこで食事をすることにした。
タイは、今、経済上昇期である。成長期でもある。

驚くことに、そのデパートのレストラン街では、日本の店が多くて、何とも変な気分がした。
有名店が続々と進出している。
ラーメン屋も、二軒である。

更に、日本食の店では、タイ人が並んでいるのだ。

私達も、日本食の空いている店に入った。
味付けは、タイ人好みに、全体的に少し甘い。

小西さんご夫妻と、話が進む。
いつものことで、最後は、私の饒舌である。

ただ、タクシンの話題の時に、小西さんが、少し制してくれた。
色々な人が居るので・・・
チェンマイは、タクシン派も多いのである。

二時間ほどを過ごし、一階の売り場に戻り、小西さんの娘さんの、なっちゃん、五歳に、お菓子を買って上げた。
ついでに、私用も、買う。

この慰霊の旅の、最初のチェンマイ当時から、小西さんにお世話になっている。
七年の付き合い。
奥さまの、カレン村にも、三度出掛けた。

その翌日、あるいは、翌々日に、野戦病院跡の慰霊の予定である。
今回は、小西さんに迷惑をかけず、自分たちで行くことにした。

だが、翌日は、一日、休んでいた。
加齢のせいか・・・疲れが取れないという・・・

人は誰でも、年を取る。という、当たり前のことに、気付く。

ただ、日本では、一日二食だったのが、タイに来て、三食になった。
帰国すると、体重が二キロ増えていた。
これは、酒を飲まないせいもある。
兎に角、アルコール類は、一切欲しないのだ。

時々、コーラを買って飲む程度。
後は、水である。時々、搾りたてジュースを屋台で買う。

結局、チェンマイ最後の日、慰霊を行なうことになった。
ホテルからトゥクトゥクで向う。
バイクに荷台をつけたもので、風を受けて走るのが楽しい。

その野戦病院跡の寺は、ホテルから近い。
というより、車では、時間がかかるが、トゥクトゥクは、小道を入り、近道をするので、早く着く。

運転手に待っていてもらい、慰霊碑の前で、祈り、黙祷を捧げる。
すると、僧侶が出て来て、中を開けてくれると言う。
小さな博物館のようになっている。

日本兵の遺留品や、写真などが展示されてある。
若い僧侶が、鍵を開けて、私達に付き添ってくれた。

そして、再度、慰霊碑に頭を下げていると、後ろから声がする。
私の耳には、ありがとう、と聞えたが・・・

タイ人のおじいさんである。
何と、彼は、日本軍に、従軍したという。

タイ語なので、詳しいことは解らないが・・・そのゼスチャーで、理解した。
一緒に戦ったようである。

確かに、タイ人たちも、荷物持ちとして、日本軍と共にした人たちも多い。
ミャンマー国境の遺体は、日本兵だけではなく、タイ人の遺体も多いのである。

だから、祈りは、すべての戦争犠牲者である。

朝の十時頃でも、日差しは、強い。だが、暑さをあまり感じない。
ホテルに戻り、汗だくなのを知る。

書けばキリが無いが・・・
タイ・ビルマ戦線のことは、以前の旅日記に多く書いている。

兎に角、これで、すべての計画を終えた。
安堵感。

その日は、国王誕生日の前夜祭である。
夕方、私達は、その式典のターペー門広場に出掛けた。

式典は、すでに始まり、そして、長い布が用意されて、そこに、皆、国王に向けてのメッセージを書きつける。
私も、国王バンザイと、書きいれ、日本よりと、名前を書いた。

ホテルの帰り道、オープン食堂に入り、外で食事をしていると、突然の花火である。
丁度、私の席から、全体が見えた。

前夜祭の、最後だと、解る。


posted by 天山 at 06:12| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月23日

慰霊と支援の旅は続く10

チェンマイから、騒乱のバンコクへ。
二日過ごして、帰国するのである。

国王誕生日にバンコクであるから・・・
バンコクは平和だった。

そして、タイ国民は、王様のお言葉を待っていた。
それを、私は、テレビで見ていた。

お言葉を発する王様の、一言一言が、やっとの様子。
間合いが、とても長いのである。

椅子に座り・・・
何とも、痛ましい姿だった。

私は、ナナという界隈の、猥雑な場所のホテルに宿泊した。
その夕方、買い物をするために、外に出ると、体を売る女性たちが、蝋燭を用意している。
私は、どうするの・・・と、問い掛けた。
すると、キング・バースディと答える。

道端に、蝋燭を灯すのである。

これぞ、タイの風物である。
仏教と、王様・・・

王様は、大変である。
国民からの、支持を得て、国民のことを、心に懸ける。
王様のお言葉を、手を合わせて聞く、少女の姿。

一年前も、私は、チェンライにて、その日に遇っている。
その時は、物乞いに、キング・バースディと言い、少し多くのお金を、差し出した記憶がある。

さて、この旅日記も終わる。
つまり、活動七年目の旅の終わりである。

死ぬまで続けると、決心した。
これで生きてゆくしかないと、決めた。
その他の生き方は、私には、無い。

この世に欲しい物が無い。
この世に、未練も無い。

ただ、何か、誰かの必要なことを・・・
死者に対する慰霊の行為を。

全くの、アウトサイダーである。
野垂れ死ぬ覚悟である。

七年を振り返ると・・・
実に重い。

激戦地での慰霊は、特に、重い。
時代の不可抗力に生きた人たち。
そして、私もまた、時代の不可抗力に生きる。

生まれて生きることが、あはれ、である。
生きていることが、あはれ、なのである。

何故か・・・
人は死ぬために、生まれて生きる。
行く先は、明確に決まっている。

未知ではない。
人は死ぬのである。

それを得心し、確信し、更に、我が内に受け容れる。
あはれ

その死ぬ間の、人生を生きると、人はいう。

その、間、を不可抗力の最大である、戦争により、生きた人々を、実に、あはれ、に思う。

国のために・・・
それは、後付の意味である。

そんなことで、死にたくなかった人が、どれほど、いたことか・・・

では、今、本当に納得して、死ぬために、生きているのか。
解らない。

私は、日本よりも、貧しい国々に出掛けている。
その、貧しいという意味・・・
実は、その現場でなければ、解らない。
絶対的に貧しいのである。

貧しいという時、日本にいる場合と、貧しい場にいる場合とでは、意味が違う。
貧しさの意味が、違うのである。

簡単に言う。
食べ物の選択肢が無い。
日本人は、決して、そんな状況に大勢は、陥らない。

更に、道端で眠る子どもたち・・・
日本では、決して見ることのないものである。

一日一食を食べられれば、それで幸せだ・・・
日本では、考えられない。

だから、私は笑う。
健康維持のために・・・
医療費を抑えるために・・・
食事法を云々、運動は、何とか・・・

馬鹿もいい加減に・・・
分配することなく、我が身のみに向う精神的、病。

体の健康より、精神が病んでいるのである。
豊かさは、不幸である。これを説明する長くなるので・・・
だが、お金は、命の次に大切である。
その使い方が問題なのである。

そのツケが、環境破壊、そして、世界的気候変動、自然災害、人間の精神を病ませるのである。
自然から得る、タダのものを、金にして、堂々と生きる人たち。
必ず、天罰が下る。

お金というもの、これも、不可抗力になった。
歴史が、お金に換算される、不幸。

おしまい


posted by 天山 at 06:50| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月24日

もののあわれについて647

承香殿の東面に御局したり。西に宮の女御おはしければ、馬道ばかりの隔てなるに、御心のうちは遥かに隔たりけむかし。御方々いづれとなくいどみ交し給ひて、内わたり心にくくをかしき頃ほひなり。ことにみだりがはしき更衣達あまたも侍ひ給はず、中宮、弘微殿の女御、この宮の女御、左の大殿の女御など侍ひ給ふ。さては中納言の御女、二人ばかりぞ侍ひ給ひける。




承香殿の東側を、お局にしてあった。
西側には式部卿の宮の、女御がいらしたので、馬道だけの隔てだが、御心中は、ずっと遠くに隔たっていたことだろう。どの方も、お互いに、競争し合って、御所の中は、何かと奥ゆかしく、趣のある時分である。
取り立てて、ごたごたする更衣たちは、多くもいず、中宮、弘微殿の女御、この宮の女御、左大臣の女御などが、お仕えしている。
そのほかには、中納言と宰相の御娘二人ほどが、お仕えしていられる。

中宮とは、秋好む中宮である。
弘微殿の、女御とは、内大臣の娘。




踏歌は、方々に里人参り、様異にけに賑ははしき見物なれば、誰も誰も清らを尽くし、袖口の重なりこちたくめでたく整へ給ふ。東宮の女御も、いと華やかにもてなし給ひて、宮はまだ若くおはしませど、すべていと今めかし。御前、中宮の御方、朱雀院との参りて、夜いたう更けにければ、六条の院には、この度は所せしと省き給ふ。朱雀院より帰り参りて、東宮の御方々めぐる程に夜明けぬ。




踏歌には、局々に里から、家族が参上して来て、普段とは違い、格別に賑やかな見物なので、どの方も、どの方も、綺羅を尽くして、袖口の重なりも仰々しく、立派に、用意される。東宮の女御も、たいそう華やかになさり、東宮は、まだ若いが、あらゆる点で、現代的である。
主上の御前、そして中宮の御方、朱雀院という順番で参って、夜も深く更け、六条の院には、今度は、たいそうだからと、省略される。
朱雀院から帰り、東宮の御方々の局を廻るうちに、夜が明けた。




ほのぼのとをかしき朝ぼらけに、いたく酔ひ乱れたる様して、竹河謡ひける程を見れば、内の大殿の君達は、四五人ばかり、殿上人の中に声すぐれ、容貌清げにて打ち続き給へる、いとめでたし。童なる八郎君は、むかひ腹にて、いみじうかしづき給ふが、いと美しうて、大将殿の太郎君と立ち並びたるを、尚侍の君もよそ人と見給はねば、御目とまりけり。やむごとなく交らひ慣れ給へる御方々よりも、この御局の袖口、大方の気配今めかしう、同じ物の色合ひ重なりなれど、ものよりことに華やかなり。正身も女房達も、かやうに御心やりてしばしは過ぐい給はましと思ひ合へり。皆同じごとかづけ渡す中に、錦の様もにほひことに、らうらうじうしない給ひて、こなたは水馬なりけれど、気配賑ははしく、人々心げさうしそして、限りある御饗などの事どももしたる様、殊に用意ありてなむ、大将殿せさせ給へりける。




ほんのりと、白んで、趣ある夜明けに、酷く酔った様子で、竹河を謡うところを見ると、内大臣の君達が、四も五人ほど、殿上人の中で、特に声がよく、器量も美しく、並ぶところは、本当に、素晴らしい。
童姿の八郎君は、嫡子で、とても大事にしていて、とても可愛らしく、大将殿の長男と並んで立つのを、尚侍の君、玉葛も他人とは思わないゆえ、目が留まった。
身分が高くて、宮仕えをしなれた方々よりも、こちらの局の、袖口や全体の感じが、何となく現代的で、他と同じ色合い、重ね具合だが、普段よりも、ひときわ華やかな感じである。ご自分も、女房達も、こうして気晴らしをして、暫くいたいものだと、お互いに思うのである。どこでも、同じように、お与えになるのだが、中でも、錦の色艶も格別で、品のあるされ方で、こちらは、水馬であるが、何となく感じが賑やかで、女房達は、特別な心遣いをして、しきたり通りの、ご馳走などを用意してある様子は、特別の注意が払われて、こうしたことは、大将殿が、させたことだった。

水馬とは、湯漬けに、酒を出す、簡略なもてなしの場所。




宿直所に居給ひて、日一日聞え暮らし給ふことは、大将「夜さりまかでさせ奉りてむ。かかるついでにと思し移るらむ御宮仕へなむ、安からぬ」とのみ、同じ事を責め聞え給へど、御返りなし。侍ふ人々ぞ、「大臣の、心あわただしき程ならで、まれまれの御参りなれば、御心ゆかせ給ふばかり、許されありてをまかでさせ給へ、と聞えさせ給ひしかば、今宵はあまりすがすがしうや」と聞えたるを、いと辛しと思ひて、大将「さばかり聞えしものを、さも心にかなはぬ世かな」とうち嘆きて居給へり。




宿直所にお出でになり、大将が一日中、おっしゃることは、暗くなったら、退出させよう。こういう折に、宮仕えをしようと気が変わられては、たまらないからとばかりに、同じ言を繰り返して、矢の催促をするのだが、返事は無い。
お傍の女房達は、大臣が、急いで退出するような真似をせず、ほんの少しの、御参内なのだから、主上が、十分満足していただき、お許しを戴いて、退出なさい、とおっしゃるので、今夜というのは、あっさり過ぎませんか、と、申し上げるのを、大将は、酷く辛いと思い、あれほど、申し上げたのに、思い通りにならない方だと嘆いている。




兵部卿の宮、御前の御遊びに侍ひ給ひて、しづ心なく、この御局のあたり思ひやられ給へば、念じ余りて聞え給へり。大将はつかさの御曹司にぞおはしける。それよりとて取り入れたれば、しぶしぶに見給ふ。

兵部卿
深山木に 羽うち交し いる鳥の またなくねたき 春にもあるかな

囀る声も耳とどめられてなむ」とあり。いとほしう面赤みて、聞えむ方なく思ひ居給へるに、上渡らせ給ふ。




兵部卿の宮は、御前の管弦の御遊びにいらしたが、気が落ち着かず、この君の、お局の方角が気になって、たまらない。とうとう辛抱できず、お手紙を差し上げた。大将は、近衛府にいらした。近衛からと、女房が取り次いだので、いやいやながら、御覧になる。

兵部卿
奥山の木に、羽を打ち交わして止まる、鳥のように仲が良いので、またとなく、嫉ましい春です。

鳥の鳴き声も、耳について、気になります。と、ある。
申しわけない思いで、顔が赤くなり、なんとも、返事のしようがないところへ、主上が、お出であそばした。

つかさ、とは、右近衛府。
宿直所も、ここを言う。

posted by 天山 at 06:34| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月25日

もののあわれについて648

月の明きに、御容貌はいふ由なく清らにて、ただかの大臣の御気色に違ふ所なくおはします。かかる人はまたもおはしけり、と見奉り給ふ。かの御心ばへは浅からぬも、うたて、物思ひ加はりしを、これはなどかはさしも覚えさせ給はむ。いと懐かしげに、思ひし事の違ひ恨みを宣するに、面おかむ方なくぞ覚え給ふや。顔をもて隠して、御答へも聞え給はねば、帝「あやしうおぼつかなきわざかな。喜びなども、思ひ知り給はむと思ふ事あるを、聞き入れ給はぬ様にのみあるは、かかる御癖なりけり」と宣はせて、


などてかく はひあひがたき 紫を 心に深く 思ひ染めけむ

濃くなり果つまじきにや」と仰せらるる様、いと若く清らにはづかしきを、違ひ給へる所やはある、と思ひ慰めて聞え給ふ。宮仕への労もなくて、今年加階し給へる心にや。




月が明るくなり、お顔は、何ともいえぬほどに、綺麗で、そのまま源氏の大臣のご様子に、そっくりであらせられる。
こんな方が、二人もいらっしゃるのだ、と拝する。大臣のご寵愛は、浅くは無く、嫌な思いをさせられたが、こちらのお方には、どうしてそのように、思い上げよう。大変に優しく、そのつもりでいたことが、うまく運ばなかったこと、恨み言を仰せられるので、顔のやり場なく、扇で隠して、お返事も申し上げないので、帝は妙に黙っていらっしゃる。叙位などで、私の気持ちは、解ってくださると、思っていたのに、問題にされない風でいらっしゃるのは、そういう癖なのですね、と、おっしゃり


どうして、こんなに一緒になりにくい、あなたを、深く心に思い染めて、しまったのだろう。

これ以上に、酷なことは、もうないのでしょうか。と、仰せられるご様子は、若々しく、美しく、きまりが悪いほどだが、大臣と同じでいられる心を静めて、お返事をされる。宮仕えの功績もないのに、今年は、位を賜ったお礼の、つもりなのだろうか。

紫は、三位の位に当たる。
玉葛は、位を賜ったのである。
最後は、作者の言葉で、お礼の、つもりで、答えたのかと、言う。




玉葛
いかならむ 色とも知らぬ 紫を 心してこそ 人は染めけれ

今よりなむ思ふ給へ知るべき」と聞え給へば、うち笑みて、帝「その今より染め給はむこそかひなかべい事なれ、憂ふべき人あらば、ことわり聞かまほしくなむ」と、いたう恨みさせ給ふ御気色の、まめやかに煩はしければ、いとうたてもあるかなと覚えて、「をかしき様をも見え奉らじ。むつかしき世の癖なりけり」と思ふに、まめだちて侍ひ給へば、え思す様なる乱れ事もうち出でさせ給はで、やうやうこそは目なれめ、と思しけり。




玉葛
どのような色かとは、知りませんでした。この紫色は、あなた様の特別の思し召しで、下さったのですね。

只今から、ご恩に感謝致します。と、申し上げると、微笑んで、そうして、今から染めようとされるのでは、何の役にも立たないでしょう。聞いてくれる人がいるなら、判断を聞きたいもの、と酷く恨みになるご様子が、本当に困るので、とても嫌なことだと思い、愛想の良い態度を見せまい。男の方の困った癖だと、思うもので、真面目に控えていられる。思い通りの冗談も口にされず、だんだんと親しくなろうと、思し召した。

やうやうこそは目なれめ
これは、帝の思いだ。
玉葛が、生真面目にしているので、だんだんと、親しくなろうと、帝が考えた。




大将はかく渡らせ給へるを聞き給ひて、いとど静心なければ、急ぎ惑はし給ふ。自らも、似げなき事も出で来ぬべき身なりけりと心憂きに、えのどめ給はず、まかでさせ給ふべき様、つきづきしきことつけども作り出でて、父大臣など、賢くたばかり給ひてなむ、御暇許され給ひける。主上「さらば。物懲りしてまた出だしたてぬ人もぞある。いとこそ辛けれ。人より先に進みにし心ざしの、人に後れて、気色とり従ふよ。昔の某が例も引き出でつべき心地なむする」とて、まことにいと口惜しと思し召したり。




大将は、このように、主上が渡りあそばしたことを聞いて、いよいよ、気が気でなく、退出をむやみに急がせる。ご自身でも、似つかわしくないことが起こりそうな形勢の、我が身と、情けなく、落ち着いていられない。退出させる、もっともらしい口実を作り出して、父の内大臣などが、うまく取り繕い、やっと、退出を許された。
主上は、それでは、これに懲りて、二度と参内させない人があっては、困る。酷く辛い。誰よりも、先にあなたを思ったのに、人に先を越されて、その人のご機嫌をとるとは。昔の誰かの例を、持ち出したい気がする、と、心底から、残念に思いあそばす。




聞し召ししにもこよなき近まさりを、初めよりさる御心なからむにてだにも、御覧じ過ぐすまじきを、まいていと妬う飽かず思さるれど、ひたぶるに浅き方に思ひ疎まれじとて、いみじう心深き様に宣ひ契りてなつけ給ふもかたじけなう、我は我と思ふものをと思す。御て車寄せて、こなたかなたの御かしづき人ども心もとながり、大将もいとものむつかしう立ち添ひ騒ぎ給ふまで、えおはしまし離れず。主上「かういと厳しき近き守りこそむつかしけれ」と憎ませ給ふ。

主上
九重に 霞隔てば 梅の花 ただ香ばかりも 匂ひ来じとや

ことなる事なきことなれども、御有様けはひを見奉る程は、をかしくもやありけむ。「野をなつかしみ明いつべき夜を、惜しむべかめる人も、身をつみて心苦しうなむ、いかでか聞ゆべき」と思し悩むも、いとかたじけなしと見奉る。

玉葛
香ばかりは 風にもつてよ 花の枝に 立ち並ぶべき 匂ひなくとも

さすがにかけ離れぬ気配を、あはれと思しつつ、返り見がちにて渡らせ給ひぬ。




かねて、お耳にあそばしたよりも、傍では、遥かに美しかったので、初めから、そのような気持ちが無かったとしても、とても見逃すことはないだろう。それどころか、妬けて癪でたまらない思いがあるが、浅はかな者と嫌がられまいと、心をこめてお約束になり、優しくしてくださるのも、恐れ多く、夢路に迷う我が身と、思う。
御車を寄せて、あちらこちらのお供の人々が、待ち通しそうに、大将も、うるさいほど、お傍を離れず、急がせするので、離れあそばされずにいらっしゃる。
主上は、こんな厳重な傍を離れない見張りは、不愉快だ、と憎みあそばす。

主上
幾重にも、霞が隔てたならば、梅の花は、香りさえも、匂って来ないだろう。

何ということのない歌であるが、主上のお顔や、ご様子を拝している時なので、結構に思ったことでしょう。主上は、野が懐かしさに、このままで、夜明けを待ちたいが、夜を惜しんでいる人も、身につまされて、気の毒だ。どうやって、お手紙を差し上げようか、と思い悩んでいらっしゃるのも、もったいないと、拝する。

玉葛
香りばかりは、風にでも事告げて、下さいませ。美しい方々と並ぶことの出来る、身ではありませんが。

さすがに、離れる、切れるというでもない様子で、可愛いと、思し召し、振り返りつつ、お帰りあそばした。

あはれと思しつつ
この場合は、愛しい、可愛い・・・

三人称的書き方もあり、文章としては、実に面倒である。


posted by 天山 at 05:01| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月26日

もののあわれについて649

やがて今宵かの殿にと思し設けたるを、かねては許されあるまじきにより、漏らし聞え給はで、大将「俄にいと乱り風の悩ましきを、心安き所にうち休み侍らむ程、他々にてはいとおぼつかなく侍らむを」と、おいらかに申しない給ひて、やがて渡し奉り給ふ。父大臣、にはかなるを、儀式なきやうにやと思せど、あながちにさばかりの事を言ひ妨げむも人の心置くべし、と思せば、大臣「ともかくも、もとより進退ならぬ人の御事なれば」しぞ、聞え給ひける。六条殿ぞ、いとゆくりなく本意なしと思せど、などかはあらむ。女も塩やく煙の靡きける方を、あさましと思せど、盗みもて行きたらましと思しなずらへて、いと嬉しく心地おちいぬ。かの入り居させ給へりし事を、いみじう怨じ聞えさせ給ふも、心づきなく、なほなほしき心地して、世には心解けぬ御もてなし、いよいよ気色あし。かの宮にも、さこそたけう宣ひしか、いみじう思しわぶれど、絶えて訪れず。ただ思ふ事かなひぬる御かしづきに、明け暮れ営みて過ぐし給ふ。




そのままに、今夜、あちらの邸にとのつもりだったが、前もって、お許しが出ないだろうから、一言も言わず、大将は、急に、おかしな風邪を引いて気分が悪いものですから、気の置けないところで、ゆっくりしようと、思いますが、その間、離れていては、気がかりですので、と、穏やかに、申されて、そのまま、邸にお連れする。
父の内大臣は、急な事で、儀式もないようでは、と考えるが、無理にそれくらいのことで、反対すると、大将が、気を悪くするだろと思い、どうでも、よろしいように。元々、私の自由にできないお方のことです。と、お返事された。六条殿、源氏は、あまりに急で、不本意に思うが、どうしようもない。女も思いがけない身の上になったことと、呆れる思いがするが、大将は、盗み取ってでも来たように、嬉しくてたまらず、やっと安心した。
主上が、お渡りあそばしたことに、とてもやきもちを焼くにつけても、気に食わず、下賎の者がすることのような気がして、玉葛は、更に、うとうとしい態度で、ますます、機嫌が悪い。
式部卿の宮も、あれほど、きつい口を利いたものの、実は、酷く思い悩んでいるが、一行に訪ねることもない。大将は、玉葛を、念願かなって大事にし、そのお世話に明け暮れて、かかりっきりになっている。




二月にもなりぬ。大殿は、さてもつれなきわざなりや。いとかうきはぎはしうとしも思はで、たゆめられたる妬さを、人わろく、すべて御心にかからぬ折なく、恋しう思ひ出でられ給ふ。宿世などいふものおろかならぬ事なれど、わがあまりなる心にて、かく人やりならぬものは思ふぞかし、と、起き臥し面影にぞ見え給ふ。大将のをかしやかにわららかなる気もなき人に添ひ居たらむに、はかなき戯言もつつましう、あいなく思されて、念じ給ふを、雨いたう降りて、いとのどやかなる頃、かやうのつれづれも紛らはし所に渡り給ひて、語らひ給ひし様などの、いみじう恋しければ、御文奉り給ふ。右近が許に忍びて遣すも、かつは思はむ事を思すに、何事もえ続け給はで、ただ思はせたる事どもぞありける。

源氏
かきたれて のどけき頃の 春雨に ふるさと人を いかに忍ぶや

つれづれに添へても、恨めしう思ひ出でらるる事多う侍るを、いかでかは聞ゆべからむ」などあり。




二月になった。源氏は、あのようなやり方は、酷いと思う。まさか、こんなにはっきり出ようとは考えず、油断させられたのが残念であり、きまり悪いほどまでに、玉葛のことが、何から何まで、気にならない時がないほど、恋しく思い出される。
運命などとは、馬鹿にならないものだが、自分があまりに、のんびりしているから、誰のせいでもない苦労をするのだと、覚めても、寝ても、玉葛が朧に浮かぶ。
大将のような、風流のない、無愛想な人に、連れ添っているのでは、ちょっとした冗談を言っても、憚られる。つまらなくて、我慢しているが、雨が酷く降り、手持ち無沙汰の頃、こんな時の退屈しのぎに、玉葛の部屋に出掛けて、おしゃべりしたことなどが、恋しくてたまらないので、お手紙を差し上げた。
右近宛に、そっと出すが、それも、右近が何と思うか憚られて、長々と書くことは出来ず、本人の推測に任せた書き方をする。

源氏
春雨が降り続いて、所在無い頃、お見捨てになった私を、どう思っていらっしゃるのですか。

何もすることがないのにつけて、恨めしく思い出されることが多く、どうしたら、申し上げられるでしょう。などと、ある。




ひまに忍びて見せ奉れば、うち泣きて、わが心にも、程経るままに思ひ出でられ給ふ御様を、まほに、「恋しや。いかで見奉らむ」などはえ宣はぬ親にて、げにいかでかは対面もあらむとあはれなり。時々むつかしかりし御気色を、心づきなう思ひ聞えしなどは、この人にも知らせ給はぬ事なれば、心ひとつに思し続くれど、右近はほの気色見けり。いかなりける事ならむとは、今に心え難く思ひける。御返り、玉葛「聞ゆるも恥づかしけれど、おぼつかなくやは」とて書き給ふ。

玉葛
ながめする 軒の雫に 袖濡れて うたかた人を 忍ばざらめや

程ふる頃は、げにことなるつれづれもまさり侍りけり。あなかしこ」といやいやしく書きなし給へり。




人のいない時に、そっとお見せすると、涙をこぼして、自分の心にも時が経つにつれて、思い出されてならない、あの方のご様子、誠に、恋しい、どうかして、お目にかかりたい、などと、おっしゃらない親であるから、おっしゃる通り、どうして、お会いすることができよう、と思い、悲しい。時々、嫌な素振りを見せたので、気に染まなかったことなどは、この右近にも、話していないので、一人心の中で、あれこれと考え続けているが、右近は、うすうす事情を知っていた。だが、どの程度のことだったのかと、今でも、納得ゆかなく思っていた。御返事は、申し上げるのも、恥ずかしいことですが、ご心配をかけてはと思い、とお書きになる。

玉葛
この春雨の軒の下に、物思いにふけっている、袖が濡れました。少しの間も、あなた様を思わずに、いられましょうか。

時が経つと、おっしゃる通り、格別寂しさも募ります。あなかしこ。と、わざと、礼儀正しく、書くのである。



posted by 天山 at 06:04| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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