2013年11月24日

天皇陛下について165

常々、気になっていたことが、ある。
敗戦に至るまでに、天皇、つまり、皇居の空襲被害である。

そこで、見つけた記事がある。
平成25年7月31日の、読売新聞朝刊、日本史家の、磯田道史さんの、記事である。
古今をちこち、という題名のエッセイで、天皇の馬車を司る宮内省主馬寮の職員の書いた、皇居の中の敗戦までの日々を綴ったものを、紹介していたのである。

その中から、抜粋して、書く。

この職員は、当時の皇太子、現今上天皇と、義宮様、後の、常陸宮殿下の、乗馬教習係りであった。

その日誌には、戦火が皇室に迫る様子を記していた。

1月4日、B29が、数発の爆弾を豊受大神宮神域に、落とされた。
「斎館二棟・神楽殿五棟崩壊す。一億怒り心頭に発す」
これは、伊勢神宮の外宮である。

2月に入ると、皇居でも、爆撃対策についての、懇談が始まる。

9日、昭和天皇は、判任官待遇以上の、防空組織員に、襟衣、つまり防空服の上下を下賜して士気を鼓舞する。

19日、主馬寮の庭に、敵機の破片一メートル、長方形型が、落下する。
皇居にも、破片が落ちてきた。

更に、皇居の空襲被害は、想像以上である。

「主馬寮分団・厩舎区に焼夷弾約百五発落下」
「火災を発生せる箇所、御裁縫所・済寧館・内閣文庫・御局等焼失」

3月10日の大空襲。
「庁舎に対しては集団的焼夷弾の落下あり」
宮内省主馬寮は、全焼した。

4月13日、皇室一家にミルクを提供する、御料乳牛場の、飼料庫などが、焼けた。
この日、雅楽奏者の職員らが、焼死し、霊柩車が二つ、宮内省に並んだ。

4月29日、天皇誕生日の拝賀行事も度々の空襲警報発令のため、取止めとなる。

5月25日の大空襲では、
「大宮御所・各宮邸にも火災」
「遂に宮城、つまり皇居と、表御座所外、烏有に帰し多数の犠牲者を出すに至る」
その数は、33人。

皇居は、四度の空襲で、宮殿を、ほぼ失う。

そして、8月15日、この日誌の著者は、東京で、玉音放送を聞いて、泣いたのである。

そして、翌月、ふとしたことから、宮城県栗原郡の、鈴木徳一、46歳が、皇居を訪れた。
予想を超えた、あまりの荒廃に対し、皇居外苑の草刈でもと、思い立つ。

彼の郷里の、栗原郡の人々は、草刈上手で知られていた。
戦時中の、全国草刈大会でも、たいてい優勝していた。

11月下旬、再び宮内省を訪れた鈴木は、当時の総務課長に、その考えを訴える。
総務課長、筧素彦の独断にて、その申し入れを受けた。

それが、今も存在する、勤労奉仕である。

郷里に戻った鈴木は、直ちに、みくに奉仕団を結成する。
その年の、12月8日、栗原郡の男女およそ、60名が、皇居を訪れ、四日間に渡り、勤労奉仕をする。

初日、天皇皇后両陛下が、「ご苦労」と声を、お掛けになった。

この時、御戻りの天皇陛下に向けて、期せずして、「君が代」の歌声が湧き起こる。
天皇は、じっとして、歌に聞き入られた。

現在も、万歳と、君が代が、歌われる。

みくに奉仕団のことが、報道されると、全国から、さまざまな団体が、宮内省に奉仕を申し込み、現在に至っている。

現在の勤労奉仕は、原則として、四日間で、うち二日間は、赤坂御用地の日程。

内容は、除草、清掃、農園作業などである。
交通費、宿泊費は、参加者負担である。

申し込みは、15名以上60名以下の団体であり、個人、宗教団体は、不可。
年齢は、15歳以上65歳以下。
申し込みは、希望の半年前から。団長の住所、氏名、略歴、捺印、他の参加者の直筆による氏名、年齢、職業を書いた名簿を、返信料同封で提出する。

提出先は、東京都千代田区千代田1-1
宮内庁長官官房総務課長、まで。

矢張り、国民からの、自発的行為から始まったものである。

一般国民が、天皇陛下に、お目に逢うことは、これが一番である。

最初の奉仕団の際に、昭和天皇は、彼らに、語り掛けている。
列車の旅は、大変であろう・・・
など

参加した一人は、天皇の素の姿に、呆然としたという。
あまりにも、普通の人だった。

陛下と、皇后陛下は、毎日、彼らに会ったという。
お二人で、お一人、お一人で・・・

その時の、昭和天皇の、心中を察することは、出来ない。
その肩に、日本という国を負われていた。

それから、七年間、アメリカ軍の占領政策が続く。
綱渡りの時間である。




posted by 天山 at 06:15| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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