2013年11月10日

神仏は妄想である。452

マルコ、マタイ、ルカの福音書は、共観福音書と言われる。
物語性がある。
更に、マタイとルカは、マルコを拠点として、書いている。

それゆえ、共通点が多い。
しかし、ヨハネの福音書は、別物である。

だが、多くのキリスト教徒は、それを見逃す。

受難物語を除外すると、ヨハネは、三つの福音書の物語は、見当たらないのである。

また、類似の事柄を取り上げていても、ヨハネの物語は、全く違うものになっている。

それを統一したものとして、読むという行為は、気違いじみている。
更に、福音書として、同じ位置にあることも、不思議といえば、実に不思議である。

イエス教団、ヨハネ派ということになるのである。

今、一々、共観福音書の物語を書くつもりは無い。
ただ、その共観福音書の骨子となる物語が、ヨハネには、ほとんど無いのである。

イエスが、ベトレヘムで生まれたことも、処女マリアも、洗礼を受けたことも、荒野で、誘惑されたことも、無い。

また、そこでは、神の国の到来についても、例え話も無い。
悪魔も、追い払わない。
変容の記述についても、無い。

エルサレムに到着したイエスは、神殿を清めない。
主の食事をすることもなく、最高法院で正式な裁判にかけられることもない。

それでは、ヨハネは、何を書いたのか。
特徴的なのは、その序文で、神の言について、神秘的な表現で、説明する。

神の言葉は、初め神と共にあり、それ自身が神である。神は、その言葉を通して、天地創造をしたとされる。
この言が、一人の人間として、体現されるのだ。それが、イエスである。
いや、すでに、イエス・キリストとなっている。

神の言は、血肉となったのである。
このようなことは、他の福音書には、無いのである。

更に、ヨハネの場合は、奇跡を力ではなく、「しるし」と呼ぶ。
つまり、イエスとは、何かを示す、印である。

イエスは、彼を信じる全ての人に、永遠の命を授けるために、天から遣わされた存在なのである。

ヨハネには、七つのしるしについて、書いてあるが・・・
それらは、共観福音書には、無い話である。

ただ、水面を歩く、民に食べ物を与える話は、例外的に、他の福音にも載っている。

ヨハネに出てくる、しるしの話は、水をワインに変えた、目の見えない男を癒した、ラザロを生き返らせた、である。

更に、イエスは、神の国の到来ではなく、自分自身について、語る。
自分は、何者か、何処から来て、何処へ行くのか。そして、いかに、永遠の命をもたらすことが出来るのか。

そして、特徴は、わたしは・・・である、という、表現である。

わたしは命のパンである。
わたしは世の光である。
わたしは復活と命である。

他の福音には、無い表現である。

ここで、ヨハネは、ある成熟した、イエス教団の記者が書いたと言える、前提が、明確である。

私が言いたいのは、「ヨハネ」と共観福音書は矛盾しているだけではなく、イエスの人物像がかけ離れているという点である。
アーマン

更に、アーマンは、
何世紀も前から受容されてきた正統なキリスト教教義によれば、キリストがこの世に出現したことをめぐる解釈は次のようなものである。すなわち、キリストは、父なる神と同一ではないが同等であり、神性を有する存在として先在していた。そして、処女マリアから生まれて人間になることで、「受肉」したのだという。ところが、このような教義は、どの福音書にも書かれていない。イエスが先在し、人間になった聖なる存在だと書かれているのは「ヨハネ」だけである。
と、言う。

処女懐胎は、マタイとルカだけが、言及している。

福音書の記者にとって、処女懐胎やイエスの受肉といった考えは、とても奇異なものだったわけである。
アーマン

マルコは、どちらの説も、採用していない。

初期キリスト教会では、一部のキリスト教徒にとって、マルコだけが、唯一の福音書だった。
つまり、母親が処女だったり、イエスが地上に現れる以前から、存在していたという考えは、生まれなかった。

こうして、探ると、次から次と、福音書の手口が、分ってくる。
創作される、福音書であり、創作された、聖書をマジに信じる、キリスト教徒である。
更に、信じ切ると、蒙昧に沈む。
更に、妄想に陥る。

騙されたままに、キリスト教の霊性などと、言い、祈りを唱える。
その、霊性というもの・・・何処からのものか・・・

それらも、幻想、妄想の域を出ないのである。
同じ言葉を繰り返していると、人間は、自己暗示にかかる。
その、自己暗示、つまり、信仰ということになる。

更に、神学というものから、知性、理性、感性・・・
嘘である。

単なる、思い込みである。
そして、思い込んだが最後、騙される。

ヨハネの妄想は、甚だしい。
その、黙示録である。

人間の観ているものは、その今しかない。
しかし、あたかも、それが、存在するような気持ち、感覚に陥ると・・・
信仰という、美辞麗句に陥る。

イエスを信じるとは、イエスに成りきることである。
未だかつて、イエスに成りきった者は、いない。
勿論、キリストにも・・・

ただ、精神病院には、キリストであると言う人がいるかもしれない。




posted by 天山 at 13:31| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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