2013年11月09日

神仏は妄想である。451

ルカの福音書の、イエスの死は、マルコとは、別物である。
つまり、ルカの解釈が違うということだ。

ルカでも、イエスは、ユダに裏切られ、ペトロに知らないと言われ、ユダヤ人指導者に拒絶され、ポンショ・ピラトによって、有罪判決を受ける。

ルカは、ピラトがガリラヤのヘロデ王に、イエスの処遇を委ねようとした話にしか触れない。
ピラトが判決を下す前に、イエスを侮辱したのは、ヘロデの兵士たちである。
これが、矛盾である。

ピラトの兵士達には、侮辱されたり、殴られたりはしないのである。
ピラトは、ローマ総督である。

ヘロデは、ガリラヤのヘロデ大王の息子である。
ここに、作為がある。

だが、先に進む。

矢張り、ルカでも、キレネのシモンという男が、イエスの十字架を背負う。
ここで、マルコとの違いは、イエスが、言葉を発することである。

イエスは、数人の女達の嘆く姿に、エルサレムの娘達、私のために泣くな。むしろ、自分と自分の子供達のために泣け、と言う。

つまり、イエスは、自分の運命よりも、彼等を取り巻く人々の身を案じている。
更に、イエスは、冷静である。

そして、十字架に打ち付けられている間に、口を開いた。
父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。と、祈る。

更に、イエスと一緒に、十字架につけられる、二人の男と、話をする。
一人は、イエスを馬鹿にした。
しかし、もう一人は、自分たちが、罰せられることは、当然だが、この方に、罪は無いと言わせる。
その男は、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください、と言う。

それに対して、イエスは、
はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。と、言う。

この記述では、イエスは、自分に降りかかった災難やその理由について、全く困惑していない。彼は完全に平常心を保っており、状況を把握していた。自分の身に何が起きるか承知しており、その後どのようなことになるか分っていた。神の統べる天国で目覚めるのだ。そして先の罪人も、彼と共に天国に行く。「ルカ」に出てくるイエスは、「マルコ」で描かれている、最後に神に見放されたと絶望したイエス像からは程遠い。
アーマン

地上が暗くなり、神殿の垂れ幕が裂けたとき、イエスはまだ生きており、これも「マルコ」の記述と一致しない。ここでは、破れた垂れ幕は、イエスの死が贖罪をもたらさなかったことを意味している。
アーマン

イエスが死んでいないからである。

イエスの死は、ルカでは、太陽が光を失うときである。
そして、ユダヤ人に対して、神の審判が下ることを、明確に示している。

引き裂かれた幕は、神が、神殿に象徴される、ユダヤ教の宗教制度を、拒否したことを、物語る。
ここに、ルカの作為がある。

最も、重要なことは、イエスが、神に大声で、
父よ、わたしの霊を、御手にねだます。
と、言ったことである。

マルコとは、全く違う。

二つのイエスの死の描写は、強調してもしきれない。「マルコ」の記述は、迫害に苦しむ信者に希望を与え、目に見える現実がどうあれ、神が彼らを救済するために、背後から働きかけていることを知らしめる目的で書かれたという学説がある・・・
「マルコ」の描写に修正を加え、イエスが苦悩と絶望のうちに死ななかったことにしたルカの目的はなんだろうか?
アーマン

これに、更に、マタイや、ヨハネを加えると、イエスは、多重人格になる。

本当の物語というものは、無いというのが、結論である。
それぞれの、記者によって、それぞれの解釈によって、福音書が成り立っているということ。

わたしから言わせれば、皆、嘘である。
そして、皆、本当である。
事実は、一つであるが・・・
真実は、人の数ほどある。

イエスが、キリストとして、作られてゆく過程・・・
それを、福音書を通して見る事が出来る。
神の霊感に導かれて書かれたもの・・・とは、嘘である。

ユダヤ教の信者であった、イエスが、死んで、反ユダヤ教として、作り上げられたということだ。

福音書を含む全ての聖書は別個のものであり、同じことを伝えていることを前提に読まれるべきではないという点が肝心である。これらの書は、同じ話題について論じていてもその見解は決定的に違う。磔の物語を水平的に読めば合点がいくように、マルコの主張はルカのそれとは隔たりがあり、マタイの主張もヨハネのそれとは異なる。福音書を歴史的観点から読むと、個々の記者の声に耳を傾けることができ、それぞれが強調している事柄を無味乾燥なものに貶める一つの特大の福音書に集約することが無意味であることが分る。
アーマン

これこそ、冷静な聖書研究である。
さて、そこで、信仰の経典としての、聖書、福音書のあり方とは・・・
支離滅裂である。

キリスト教の神とは・・・
ヤハゥエでも、エホバでも、何でもない。
イエスが、神なのである。

それは、すべての宗教に言える。
生きていた人が、神に奉られるのである。

日本に、キリシタンが入ってきた時は、神を、ゼウス様と言った。

古典文学としての価値は、高い。
宗教の経典でなければ、何の問題も無いものである。

それを、信じるから、おかしくなる。

初期キリスト教の、典礼は、ユダヤ教の延長だった。
教会音楽、グレゴリオ聖歌・・・皆、ユダヤ教の朗誦からのものである。




posted by 天山 at 06:19| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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