2013年11月08日

神仏は妄想である。450

マルコ福音書は、西暦65年から70年頃に書かれたことが、19世紀に突き止められた。そして、それが、最も古いものであることも。

マタイとルカは、その15年から20年後に、書かれたが、多くの部分を、マルコに依拠している。

マルコによる物語の大半が、マタイ、ルカに載っている。
三つの福音書が、一字一句まで同じ箇所が見えるのは、そのためである。

場合によっては、二つの福音書が、同じ文言を用いる場合もあるが、それは、後世の記者が、マルコの文章に手を入れたからである。

例えば、マルコとルカに、同じ物語が出て、その記述に違いがあるとすると、それは、ルカが、文章を改変し、言葉や句を削除したり、付け足したり、エピソードを丸々書換えているためである。

それでは、イエスの死について・・・

マルコを見ると、ポンショ・ピラトによって、死の宣告を受け、ローマ兵から嘲られ、暴行された挙句、磔刑に処せられるために、連衡される。
その際に、キレネのシモンが、十字架を担ぐ。
イエスは、始終無言である。兵士がイエスを磔にするが、それでも口を開かない。
イエスと共に、磔になった二人の盗賊が、イエスを侮辱した。
通りすがりの人たちも、彼を馬鹿にした。
ユダヤ人指導者も、嘲笑した。
それまで沈黙していたイエスは、瀬戸際になって、悲痛な叫びを上げた。
エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ、という、アラム語の言葉で、マルコは、わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか、と、訳す。
誰かが、イエスに、布に染み込ませた、ぶどう酒を飲ませようとした。
すると、イエスは、息を引き取る。

そこで、すぐに、神殿の垂れ幕が半分に避け、傍観していた百人隊長が、本当に、この人は神の子だった、と認める。

マルコは、ここで、何を伝えたかったのか・・・

彼は、神がその場におり、イエスの肉体的な苦痛を取り除いたと書くことによって、読者が安堵することを嫌った。イエスは、なぜ自分が死ななければならないのか分らないまま、激しい苦悩のうちに死んだのである。
アーマン

しかし、読者は彼の死の理由を知っている。イエスの死の直後、垂れ幕は真二つに裂け、百人隊長が信仰告白をするのだ。裂けた垂れ幕は、イエスの死によって、ユダヤ教の祭司が神殿に生贄を供えなくとも、神が人々の手の届く存在になったことを暗示している。イエスの死は贖罪をもたらしたのだ。
アーマン

そして、そのことを瞬時に悟った人間がいた。
それは、イエスを十字架にかけた、異教徒である、兵士だった。

イエスは、死を持って救済をもたらし、そのことに気付くのは、非ユダヤ教徒なのである。

このような記述は、イエスが死んだときに、「本当は」何が起きたのかと言うことについての公平無私な描写とは言えない。これは、物語形式の神学なのである。
アーマン

結論として、マルコは、キリスト教徒が迫害される現状を、理解するモデルを提示しているのである。

イエスの信者も、何故、このような苦痛や、苦悩を耐えなければならぬのかと、理解に苦しんでいた。
それを、マルコは、自信を持つように、励ますのである。

神の目的は、信者が苦痛を避けて通らずに、引き受けることによって、達成されるのだ。たとえ、こうした目的が、そのときにははっきりと分らなくても。
アーマン

このように、福音書とは、それぞれの目的に合わせて、書かれているものである。
つまり、信仰告白であり、信者のための、手引書である。

実際の、イエスが、何を考えていたのか・・・
分らない。

イエスは、ユダヤ教徒であり、そのユダヤ教の一派の指導者であった。
全人類の罪を贖う・・・
そのような、存在ではない。

それは、後世、教会が勝手に意味づけしたことであり、白人主義と合わさり、異教徒を迫害し、虐殺する教えとして、使用された。

更に、為政者は、キリスト教を有効に利用して、世界制覇を目論んだ。
宗教改革以前の、カトリック教会、その法王は、絶大な権力を有していた。
権威ではない。

後に、権威的になるが・・・

西欧では、ローマ法王が、最も強い権力を保持していたのである。

故に、法王に、破門されることは、国、国王の滅亡ともなった。
宗教が、このように政治的な力を持つことの、愚劣が、カトリック教会によって、証明されたといっても、いい。

そして、宗教改革後の、宗教戦争・・・

凄まじい程の、憎悪と虐殺が、続いた。
そこに、イエスの教えは、皆無である。

イエスを、キリストに仕立て上げて・・・
人間が、勝手な解釈をほどこし、更に、勝手な行動に至るという、愚昧。

西暦とは、イエス誕生からを言う。
そして、そのイエスを山車にして、キリスト教が起こると、西欧をはじめ、世界的に、人類虐殺の歴史が始まる。

それは、あたかも、旧約の神が、人間に憑依して、行なった悪行のようであった。
異教徒のみならず、人種差別の、差別の対象となった人種が、大量に殺され、あるいは、奴隷として、苦悩の底に沈められたのである。

キリスト教が、邪教である、ゆえんである。




posted by 天山 at 07:06| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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