2013年11月01日

霊学127

「土星紀」という言葉を使うと、いろいろなこだわりが生じると思いますが、そういう特殊な用語を一切捨て去って、そもそも存在の始まりはどういうものだったのかということを考えると、シュタイナーの宇宙論からたいへん重要なイメージが引き出せるのです。たとえば土星紀とか、太陽紀とか月紀とか地球紀とかいう言葉を全部捨てて、その内容だけを取り出して、ヘーゲルの論理学と並べてみると、ほとんど同じことを言っていることがわかります。ところがヘーゲルの論理学はひたすら抽象概念に徹しており、無とか有とか、存在と非存在とかという言い方をしているのに対して、シュタイナーはもっと具体的にイメージできる用語で、それを説明しているのです。私たちがぎりぎりにイメージすることのできる究極の存在根拠、存在の発生過程を語るときのシュタイナーの考え方はすごいと思います。
高橋 巌 現代の神秘学

意志の力が働かない限り、宇宙には進化という、契機が存在しない。

シュタイナーは、意志がそもそも、物質に関わり始めた最初の存在形態を「熱」と考え、霊的実体が、熱となって現れるまでの、流出の過程を、土星紀と、記した。

意志であった世界が、更に進化発展してゆく過程で、次にシュタイナーが問題にしているのは、意志が自分と他者との関係を意識するようになり、そして意志が、感情にまで進化するようになる過程である。

感情が、発現するまでの過程を、太陽紀、という言葉で、表わした。

更に進化してゆくと、思考が感情と意志の中から生み出される。
それが、月紀、の時代。

月紀に、意志と感情と思考に対応する、外界が創られた。

そして、これらの内的存在のほうが、更に進化発展して、地球紀に入る。

地球紀は、内的存在、つまり魂の在り方として、更に新しい何かを加えたということに関して、シュタイナーが語ることは、また、面白い。

シュタイナーは、地球紀においてはじめて生じたのは「愛」だ、といっています。地球紀は愛を実現するための進化期である、というのが、シュタイナーが民族を考えるときの基本的な考え方なのです。
高橋

意志、感情、思考、愛という、四つの魂の要素という。
実は、この考え方は、すでに、神道にある。
魂とは、和、荒、奇、幸、である。

それぞれが、それぞれの働きをする。
魂の四区分である。
更に、それぞれが、独立している。

さて、シュタイナーは、今日の人類が、地球紀において、実現すること、この基本的な課題に応えるために、人類の指導霊として、キリストと呼ぶ、形態霊、あるいは、人類霊が現れて、現在の人類を導いているという。

更に、人類史の、それぞれの時代に、人間が愛を実現するのに、相応しい、在り方をすることが、できるように、それぞれの時代を導く、霊的な力を、人格霊、時代霊という。

そのように、考えているのである。

ここまでくると、一種の宗教的な、形相を帯びてくる。

シュタイナーは、地球紀の進化の歴史は、大きく二つの時期に、分かれるという。
アトランティス期までの、地球と、アトランティス以後の地球紀である。

アトランティス期は、今から、一万年前に終わった。
その時までの、約百万年間、つまり、第四洪積世の時期が、アトランティス文化期である。

その頃の、人類は、五つの人種に分かれて、存在していた。
それらが、霊的存在の導きの下に、秘儀を通して、それぞれ固有の文化を生み出した。

アトランティス大陸が没落した後、この五大人種は、様々な、民族大移動を繰り返して、今日に至る。

その人類進化のプロセスには、二つの人類文化の流れが現れている。
北方系と、南方系である。

兎に角、シュタイナーの考え方を、受け入れてみるしかない。

まず、北方からは、ヨーロッパ北部、中部、黒海、カスピ海北側を通り、タリム盆地に入り、南下して、原インド文化、原ペルシャ文化、エジプト=ローマ文化、そして、第五後アトランティス文化、つまり、現代ヨーロッパ文化を形成する。

アトランティス大陸中南部からは、南方の流れがある。
アフリカ、アラビア、原スメル文化、そして、北上して、イラン文化、北方系の、原ペルシャ文化と、合流する。
それが、南方系の第二期に当たる。

それから、アラル海周辺のツラン低地を通り、北上する。
ウラル山脈、アルタイ山脈の間で、東西に分かれ、一方は、シベリアからベーリング海峡を越えて、北アメリカへ移動し、または、モンゴル、ツングース、更に、朝鮮半島から、日本。
または、中国東北部から、華北平原へ南下した。

西に進んだグループは、フィンランド、エストニア、ハンガリーにまで、移動する。

これが、南方系の第三期ツラン文化期である。

そしてこの時期に、主として、黄色人種系の文化の流れが、アジア大陸の広大な地域に、シャーマニズムという言葉で、特徴付けられる、共通の霊的文化を、生み出した。

北方系が、エジプト=カルデア期に秘儀の文化を生み出した時期に対応する。

更に、北方系が、ギリシア=ローマ文化を形成した頃、南方系は、中国を中心として、比類ない、中国文化、漢字文化を形成した。

そして、15世紀前後から、南方系と、北方系が必然的に合流し、対立し、融合すべき、現代文化期を、生じさせている。

それぞれの流れには、また、色々な特色がある。

結局、そのお話の行く着くところは、愛、という、考え方である。
この、愛、という言葉は、深く考察しなければならない。
通常の、愛という、概念とは、違う。


posted by 天山 at 05:52| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月02日

霊学128

北方の流れを見ると、最初に、インドで、集中的に、新しい世界観、新しい人生観を生み出した。
それは、南方系の、中国、朝鮮、日本の文化にまで、影響を及ぼした。また、ペルシャの文化、宗教、エジプト=カルデアの占星術、ミイラ崇拝、そして、ギリシア=ローマ時代に至る、アーリア=コーカサス系の白人文化の基礎となる。

それは、基本的に、ロゴス、理性を大切にする文化の中に、現れて、現代まで、続く。

意志が感情にまで発展したときには、感情だけではなく、感情と意志が同時に存在していますし、感情から思考が生まれたときにも、思考と感情と意志とが同時に存在したように、たとえばエジプト=カルデア期には、エジプト=カルデア文化だけではなく、原インド文化も原ペルシャ文化も同時に含んだエジプト=カルデア期だと考えられるのです。
高橋

南方の流れは、中国、蒙古、中国東北地方、韓半島、日本、そして、トルコ、フィンランド、ハンガリー、ウラル=アルタイ系の言語を話す、ソ連と中国に居住する数多くの、百を超える少数民族を通して、今日まで、その文化が、受け継がれている。

その大部分が、アジア全土に広がる、黄色人種系、モンゴロイド系の人たちは、アトランティス文化を比較的、純粋に伝えてきたという。

アトランティス文化の特徴は、エーテル体を高度に発達させることのできた、生命文化である。
今日では、漢字文化の中で、気の文化として、生きている。

エーテル体は、リズムと、繰り返しを基本的な動きとして、太鼓と歌と舞踊を生活の大事な要素としている。

エーテル体に憑依する、霊たちとの結び付きも深く、その在り様は、シャマニズム、アニミズムとなり、今日までも、諸民族の宗教生活の根底を支えている。

この南方系の諸民族は今日、その大部分が独立した国家を形成せず、他民族の支配する少数民族となっていますが、それはこれらの文化形成力が劣っているからではなく、エーテル体文化の本質が、強大な国家権力や近代技術文明のような物質文明を限りなく追求する方向を求めないからです。それどころか、環境破壊が地球そのものの生存を脅かすにいたった現在、少数民族のシャマニズム精神から発するさまざまな問題提起が、今日の「時代霊」の求めにもっともよく応じているような状況が生じています。
高橋

何となく、勝手な解釈のような、気がするが・・・

人智学から見た現代は、北方、南方の流れを含んだ、過去の様々な文化が合流する、時代特徴を持っているという。

つまり、複合性、多様性である。
そして、その多様性の統一を、シュタイナーは、「愛」と呼んでいる。

何故、多様性の統一が必要なのか・・・
それも、融合の思想なのか・・・

多様性を統一する必要はないと、思うが・・・

だが、統一を、愛と、呼ぶという考え方である。

地球紀の課題が、多様性の統一で、愛という、考え方になる。
それは、調和でもある。

思考と感情と意志だけでは、達成することが、出来ない。そこで、愛の力を必要とする。

愛を、感情の一種と考え、感情と愛情を区別しないが、シュタイナーの愛とは、第四の魂の能力だという。

高橋氏は、
ヨーロッパの「愛」に、中国の「仁」が加わった概念です。
というが・・・

シュタイナーの愛は、人間自我の根源的な、そして高貴な自己表現であるとし、意志とも、思考とも、感情とも違う、没我的な愛の働きを、とても大切にするという。

それを未来への衝動であり、・・・共同体における「悪」の働きの対極である、と考えたのです。
高橋

ヨーロッパの愛・・・
それは、キリスト教に根ざしたものであろう。
ヨーロッパの愛というならば・・・
神の愛と、同じ意味合いか・・・

中国の仁という、思想は、孔子の思想にあるが・・・

愛の能力というのは、利己的な感情と結び付くと、いくらでも退化していきますが、機会があるたびに甦り、そして自己をよりよく発揮したいと願います。そういう地球人に基本的な衝動を、抑えるのか、促すのかによって、人間の生き方は二つに分かれてしまいます。ある人びとは思考や感情や意志が働くのは肯定できても、愛情が芽生えると、すぐにそれを抑えようとしますが、他の人びとは思考や感情や意志の働きだけでは満足せず、第四の愛の働きを求め続けます。多様性を統一する能力は、この愛の力以外にないので、この力が民族存在の根底に横たわっているのです。
高橋

その考え方は、解る。
だが、このままシュタイナーの思想を見ていると、次第に、一つの宗教のように堕落してゆく可能性がある。

本人には、意味深い、意義深いが・・・
果たして、それを現実生活と、現在の世界の在り様に、着いて行くことが、出来るのか・・・

勿論、個人的に、行として、その方法を実行することには、反対も反論も無い。

霊的存在が、深く関わるという割には、中々、その成果が見えないが・・・
霊的世界から見るという、試みは、肯定する。

それも、一つの、物の見方の方法である。
行については、書く必要が無いので、紹介しないが・・・
自己満足に陥る危険がある。
更に、自己催眠と、自己暗示である。

例えば、空のコップが二つある。
一つのコップに半分の水がある。
それを、空のコップに注ぐと、注いだコップの方には、水が一杯になっている。
そういうイメージ訓練である。

そうすると、心が、魂が、溢れる豊かさを得る。

潜在意識のイメージトレーニングなどは、ここからヒントを得たのかと、思われる。
潜在意識のトレーニング・・・
それは、無意識の世界の入り口である。

もし、誤れば・・・
狂う。


posted by 天山 at 07:01| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月03日

霊学129

今私たちの眼の前には、世界中の諸民族のもっているさまざまな喜びや悲しみ、あるいは進歩発展のためのさまざまな願いが現れています。その中での民族の在り方は、内に多様性を含んでいればいるほど、現代的であるといえます。
高橋

そして、自分の中に、異質なものを、抱え込んでいればいるほど、その人の、民族への関わり方、民族の一員としての、在り方が、深くなるという。

一人の内部においても、民族の内部においても、多様な要素が少なくなり、単一的になると、必ず、没落への傾向を辿ることになる。

自分の中に、異質なものをどこまで、取り込むか、取り込むほど、シュタイナーの、愛の力が、それによって、刺激され、目覚めてくる。

グローバル化といわれる、現代は、多様化を求めれば、いくらでも、求められる。そして、その多様化が、愛の力を、刺激するならば・・・
だが、現実の世界は、そのように、動いているのか、疑問だ。

さて、民族霊は、土地、風習、言語、宗教、文化という、横糸であり、時代霊は、目的、思考、感情、意志、感覚の、縦糸として、考えると、良くわかる。

そこで、シュタイナーは、その織物の、織り方を、愛と呼ぶ。

縦糸が、多様であれば、あるほど、愛の結果である、織物は、美しい。
単一であれば、味気なくなる。

多様性というものを、考えると、それぞれの民族の言語であり、それぞれの民族の特徴であり・・・
多様性があるから、その差別や不平等を乗り越えて、真の人類愛に目覚める、目標が与えられるのだという。

ここに至ると、教えになるのである。

現在、私たちにとって人種というのは、だんだん意味のないものになっています。たとえば二百年前と現在とでは、人種の意味が非常に違ってきています。今では、それぞれの人種が、自分の肌の色を誇りに思って生きています。そうすることができないような、特殊な地域があったとしても、人びとが団結してそれに反対するようになったのは、現代が地球的な規模での人類愛に目覚めてきた証拠です。
高橋

そして、益々、民族が人種から、自由になる。
文化にとっての、人種は無意味なものになる。

その代わり、民族が益々、個性を発揮するようになる。

シュタイナーが、霊界入りできる人間を、自分の属している民族共同体に対する感謝の気持ちと、民族に奉仕しようと、決意できたときだと、言う。

それは、国家ではない。
国家とは、ある民族集団が、その生存の不安を解消するために、権力集団となり、他の集団を攻撃して、それを自分の中に取り込む過程の中で、限りなく勢力を拡張してゆくとき、国家が形成される。

なぜ民族と国家とをこのように区別するのか、といいますと、霊的存在・民族霊は物質界の中に働きを及ぼすことができないからでもあります。
高橋

しかし、民族霊は、その民族集団の一人一人の心の中に、必ず関わりを持つ。
一人一人の内部が、民族霊に対して、開かれていれば、民族霊は、親和力を通して、その人の心に関わっていくことができる。

さて、ここで、民族霊とか、時代霊とか、霊的存在に関して記述しているが・・・
どうも、ピンとこない状態になる。
そこで、シュタイナーの最初の、試みについて、書くことにする。

神秘学とか、人智学というものが、何故必要なのか・・・
そこで、シュタイナーが、答えることは、死者との結び付きを持つためだという。

この世を去った人たちと、この地上に残っている我々との間に、一種の、社会的な人間関係を作るというのである。
つまり、死者の霊を、信じることの出来ない者は、とうてい、受け入れられないものである。

死者と地上に生きている者との関係は、密接であり、それをいい加減にするということは、地上を生きることの意味をも、否定するものである。

死者と自分のとの関係が、ほとんど意識できなくなってしまった時代の中で、シュタイナーは、人智学を立ち上げたのである。

そして、再び、地上の人間が、霊界の人間と、結び付きを持てるようになれば、その時、はじめて現代文化の、改新が可能になると、考えたのである。

では、どうしたら、死者との関係が、持てるのか・・・
第一に、死者が現実に存在している、と考えない限り、無理なことである。

シュタイナーは、死者が死後の生活をしている様を、多く著作にしている。
神秘学、神智学、人智学、そして、霊学は、死後の世界を否定しては、成り立たないのである。

霊的存在というとき、民族霊、時代霊というより、身近な死者の霊を、考える方が易しい。

だが、問題がある。
シュタイナーは、死後の世界の、何処の霊界を見たのか、である。

死後の世界、あるいは、霊界というもの、多くの人が、書き付けているが、その霊界は、何処の霊界なのか、である。

神秘学から言えば、
今の私たちの人生で、死者たちからの霊的な恩恵を受けて生活している場合はむしろ少ないくらいです。ただそのことを地上に生きている人間は知らないで、自分だけでこの人生を送っていると思っています。
高橋

ということになる。
つまり、これも、一つの信仰に似る。

だから、神秘主義者ということになる。
シュタイナーの見た、霊界を判断する必要がある。
しかし、その前に、シュタイナーの思想は、見るに価すると思う。

ものの見方、考え方の一つとして、評価できる。


posted by 天山 at 07:04| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月04日

霊学130

それでは、先に進むことにする。
それは、シュタイナーの、歴史学である。

歴史は、時間という問題がある。
時間の経過が歴史である。

シュタイナーは、その時間に関して、独自の見解を持つ。

シュタイナーが時間というときには、いつでも内面世界のことなのです。
高橋

空間について語るときには、外的な世界を問題にするのですけれど、内面世界を問題にするときには、ほとんど常に、それは時間の問題として考えられるのです。
高橋

存在は、時間形式の中でも存在し、空間形式の中でも、存在している。
そして、時間の流れの中で、人と出会うたびに、その流れを、そのつど他の人の時間の流れと同一空間の中で、交差させる。

それぞれが、違った時間の流れを持つという、考え方である。

だが、その流れは、シュタイナーにとっては、時間形式ではなく、空間形式に結び付く。
その時間の流れは、人間の外部に存在する機械が、空間の中で刻む、数量的な単位に従っているからだと、言う。

その時々の、質が、多様に変化するのが、本来の時間の在り方であるとする。

外で刻まれる時間の、尺度に自分を従わせるということになると、それは本来の時間体験にはならない。

これは、心理学的に時間を考えるときの、常識でもある。

文学にも「意識の流れ」という方向があり、そこでもやはり、意識と時間とをほとんど同じものと考えています。
高橋

文学作品の中で、人物の意識の流れを辿ろうとすると、それは時間の本質にも、通じることになる。
シュタイナーの時間論は、そのような文学的体験を、人生全体に広げるものだ。

人生というものは、すべてそういう意識の流れの中でしか把握できない、という立場を徹底させようとするのです。
高橋

その人生の中には、歴史も含まれるという、考え方だ。

ですから、時間を体験するということは、感情を体験するということと同じ事であると同時に、歴史を体験するということも、過去の感情の世界を体験するということと同じことなのです。
高橋

感情が具体的なかたちをとって現れてくるときには、いつも夢のようなヴィジョンとなって現れてきますので、感情を具体的に把握しようとするとーーー感情というのは目に見えないものですけれど、それを目に見えるものにしようとするとーーー光や色や音を伴った夢の形象のような形式をとるしかないのです。ですから歴史の世界というのは、いわば人類の夢の世界と同じものなのです。
高橋

時間即感情の世界・・・
それを実現するイマジネーションの世界と同じように考える。それが、神秘学そのものの、考え方である。

シュタイナーは、時間即感情の世界を、アストラル界という。

アストラル界、アストラル体とは、時間と感情の世界のことである。

更に、イマジネーションの世界である。

そういう意味では、歴史の問題は、霊学の本質の問題にもなるらしい・・・
らしいとは、私は確認できないのである。

勿論、霊学としての、歴史の、見方というものがあるが・・・

それは、シュタイナーの論述を信じるしかない。
そういう見方もあるという、教養とする。

そのような、考え方で、様々なことを、考えるという、一つの方法である。
ここで、霊学と、書いているが・・・

神秘学、人智学、そして、霊学と、合い成り立つのか・・・
更に、心霊主義・・・

同じく、霊学と言っても、人やそれぞれの国によっても、違うだろう。

更に、宗教の世界でも、それは、違う。

高橋氏は、
シュタイナーの人智学も、本質的に歴史学であり、感情を基本にした時間の再体験もしくは追体験を問題の中心に据えているのです。
と、書く。

千年前、二千年前というと、果たして、現在の意識と、その頃の人たちの意識との間に、どれくらいの根本的な変化が生じているのか・・・

そういう、問題に関して、シュタイナーの思想では、明確に答えられているというが・・・

それが、果たして、本当の答えか。
分らない。
シュタイナーを信じるしかない。

さて、同じように、意識の変化の問題を考えるとき、一方に、進歩史観という、考え方がある。

人類は、進歩しているという、考え方である。
それが明確に意識されるようになったのは、ヘーゲル以降だというが、高橋氏は、中世、13,14世紀の頃に、そういう意識があったと、言う。

歴史の変化に関しては、様々な見方がある。
例えば、末世に向って下降する。進歩し、上昇する。
下降するとは、宗教が多いが、上昇するとは、近代科学的な考え方である。

その根拠は、ダーウィンの進化論、ヘーゲルの、精神の進化論である。

神秘学、人智学のテーマである、融合は、それを、どのように融合させるのか。
それが、問題であり、楽しみである。


posted by 天山 at 06:04| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月05日

神仏は妄想である。447

世の、クリスチャン、キリスト教徒は、聖書を聖典として、受け入れている。
だが、聖典とは、何か・・・

教会、最初は、ローマカトリックが、定めたもの。
それを、プロテスタントも、使う。

しかし・・・
本当に、聖典という意味があるのか・・・
誰が、聖典として、選んだのか・・・

聖書には、多くの外典がある。
何故、聖典にならなかったのか・・・

更に、どうして、単に、教会が、選んだものを、聖典として、受け入れているのか・・・

つまり、それを問い詰めると、信仰が、揺らぐ。

仏教になると、更に、酷いのである。
それぞれの、宗派により、聖典が違うという・・・

問題の大きさからいえば、私たちが、神の啓示の言葉がどのようなものだったのか分らないことよりも、聖書に記された言葉が、神の啓示だと考えることのほうが深刻だ。加えて、神が、現在私たちの手元にある聖書を、本当に聖典として認めたかどうか、知ることもできない。正しい文書だけが聖書に収められていると、どうして言えるだろうか? 神から霊感を授けられた書など、他には存在しないと、どうして断言できるのだろうか?
アーマン

聖書が、昔から、今の状態にあったことは、無い。
事実は、どの文書を聖書に入れるかを巡り、実に長く激しい論争が、繰り広げられたのである。

そして、世界中のすべての教会が、最終的な合意に達したことは、ただの一度も無いのである。

新約聖書の、27からなる書が、聖典とされたのは、16世紀の宗教改革に対して開かれた、トリエント公会議まで、いかなる公会議によっても、承認されたことは無い。

この公会議は、旧約聖書外典を、旧約聖典から外そうとする、プロテスタントの運動に対抗して、同時に聖典に入れることを、決定した。

もし、プロテスタントが、現れなければ・・・
今も、決定した、聖書は無かった。

更に、驚くべきは、ユダヤ教の聖典である、旧約聖書を、キリスト教の聖典とする、根性である。
今なら、著作権侵害の、何物でもない。

前回も書いたが、ユダヤ人は、聖書解釈を誤っている・・・
などという、屁理屈をつけて。

ユダヤ王国が、崩壊した時点で、すでに、イスラエルの神話は終わり、その伝承も、終わったのであるが・・・

神に選ばれた民などは、この世に存在しない。

ところが、イエスを信じて受け入れる、キリスト教徒が、神から、選ばれた民となったという、屁理屈である。

その、イエスは、ユダヤ教だった。

さて、
奇妙なことに、聖典は、ある時点ではっきりと採択されることなく、誰が決を採ったわけでもないのに、出現したのだ。
と、アーマンは言う。

それは、当時、キリスト教集団が、現実的で、切羽詰った状況が、聖典の論争を激しくしていた。

要するに、教会の成立後、あまたの集団が、竹の子のように、多種多様にして、混在していたということである。

更に、それらの集団は、最も根本的な問題について、全く異なる主張を展開していたのであるから、統一など出来ないのである。

例えば、
神は何人いるのか・・・
イエスは人間か・・・
そして、神性を有するのか・・・
この物質世界は、善なのか、悪なのか・・・
救済は生きた人間に訪れるのか、肉体を脱したことによって、得られるのか・・・
イエスの死は、救済と、どのような関係にあるのか・・・

全くもって、その疑問自体が、妄想なのであるが・・・

イエスの死後、150年も経ると、我こそが、イエスと使途たちの教えを正しく継承しているという、キリスト教集団が、乱立した。

現在、教会で、聞く説教は、本当は何の根拠のないものかもしれないのである。
更に、イエスの教えとは、遥かに遠い。

イエスは、キリスト教の、開祖ではない。

ナザレのイエスは、存在するが、イエス・キリストは、存在しないのである。
後世の人たちで、その妄想により、作り上げられたもの・・・
それが、イエス・キリストであり、キリスト教である。

だから、嘘なのである。
大嘘である。

それでは、初期キリスト教集団の、それらを紹介しつつ、その嘘を丁寧に見て行くことにする。

ナザレのイエスは、ユダヤ人であり、アジア人である。
決して、白人ではない。
更に、ユダヤ教徒であり、旧約の神の契約である、メシアの出現と、神の歴史への関与を、待っていた一人である。

イエスも、信者の一人。
そして、ユダヤ教に騙されていた一人である。


posted by 天山 at 06:33| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月06日

神仏は妄想である。448

初期キリスト教会の様は、驚くべき、多様性に溢れていた。

イエスに端を発し、パウロが解釈を加え、中世の教会を経て、現在に至る・・・
そんなものではない。

イエスと、その使徒の教えを正しく継承しているという、集団は、数多存在した。

その一つに、エビオン派がある。
彼らは、改宗した、ユダヤ人の一派である。

ユダヤ人らしくあることに拘り、ヘブライ語の旧約聖書に記される、神がモーゼに与えた律法を、守った上で、イエスは、世界を救うために、神から遣わされたメシアであるとの、考え方だった。

おそらくこの一派は、「使徒言行録」に描かれているイエスの最初の信者たちに倣い、自ら進んで貧しい暮らしをしていたと思われる。
アーマン

最初の信者の精神的な後継者を称し、イエスへの信仰は、ユダヤ教との決別を意味するものではなく、ユダヤ教を、正しく理解することにあると、考えていた。
私から言うと、真っ当な、集団である。

イエスのユダヤ教徒としての、考え方を引き継いでいるのである。

彼らにとって、ユダヤ教とは、シナイ山で、神がモーゼに示したものだった。

イエスの兄弟、ヤコブや、後世のエビオン派は、イエスは、ユダヤの律法を実現すべく、ユダヤの神によって、メシアになったと、みなしていたのである。

従って、イエスに従おうとする者は、誰もが、ユダヤ教徒でなければならなかった。

異教徒が、改宗した場合は、割礼を受ける必要があると、求めていた。

しかし、パウロ違う。
彼らとは、正反対である。

パウロは、イエスは、万人の神であり、イエスを信じる異教徒は、ユダヤ教徒になる必要は無いのである。

パウロは、律法を守っても、神に正しく向き合うことは、出来ないと説く。
更に、救われることも無い。
最終的に、パウロは、この論争で勝利したが・・・

その後も、パウロに異議を唱える集団が、何世紀もの間、絶えることがなかったのである。

だから、彼らにとって、パウロは、偉大な使徒ではなく、信仰の何たるかを誤った者として、見た。

更に、エビオン派は、イエスの神性を否定していた。
彼らにとって、神は唯一神だった。

イエスは、メシアとして、神に選ばれた人間である。
彼は、処女から生まれたのではなく、ヨゼフとマリアの子で、神が息子として、認めた。
そして、人々の罪を救うため、十字架での、死を引き受けたというものである。

彼らは、新約聖書を読まなかった。
つまり、まだ、新約聖書は、書かれていなかったのである。

エビオン派が持っているのは、ヘブライ語聖書と、自分たちの考えを裏付ける聖なる書物だった。

その中には、処女懐胎が抜けた、現在の、マタイに近い、福音書が含まれていた。

マタイの福音は、聖典福音書では、最も、ユダヤ的なものである。

後に、彼らは、異端として、退けられる時期がくる。

余計なことを言えば、パウロが、最悪のキリスト教徒だった。
イエスは、パウロによって、捻じ曲げられた。
その、パウロの教えを、教義としているのが、カトリックである。

正統と言うが・・・
正統というなら、エビオン派のことであろう。

エビオン派と、対極にあったのが、マルキオン派である。
この一派は、二世紀に、小アジアで生まれた。
著名な説教家で、神学者だった、マルキオンに追従する人たちの派閥である。

マルキオンは、ローマで数年間過ごしたが、教会から追放され、小アジアへ戻り、数多くの教会を建てた。

マルキオンは、パウロを、イエスや、イエスとユダヤの律法の関係を正しく理解する、信仰深い偉大な英雄として、評価した。

つまり、モーゼによる、律法は、救いをもたらさず、イエスによる、福音こそが、それを可能にするというもの。

律法と福音を明確に、区別したのである。

更に、旧約聖書の神と、イエスの神は、別物である。
前者は、憤怒と復讐心に燃えた、審判の神であり、イエスの神は、愛と慈悲に満ちた救いの神である。

イエスの神は、イスラエル、律法とは関係なく、旧約の神から、人々を救うために、この世に介入した。神の怒りを一身に受けたイエスが、十字架で死ぬように計らうことにより、救済をもたらしたという。

イエスを信じる者は、ユダヤの神の報復を免れることが出来る。
そして、イエスは、人間ではない。
彼が肉体を持つということは、創造主の被造物となるからである。
マルキオンは、イエスは、外見上は、人間の姿をしていたが、実際には、純然たる、神性を有する存在であるとする。

イエスの信者は、イエスを理解していた、パウロにのみ、従うべきであると・・・

彼の聖典は、十通のパウロの書簡と、一種のルカの一部を使用していた。
旧約を福音書から見て、改竄されたものとの認識で、自分の聖書を作り上げた。
マルキオンの聖典は、イエスと創造主である神とのつながりを示す記述を、すべて、排除したのである。

兎も角も、こうして、キリスト教の初期は、それぞれが、それぞれで、作り上げていったものである。

人間の、迷いの様が、うかがい知れる。
正統、異端というものも、結局、為政者、政治的権力により、介入され、作り上げられるものなのである。

人間とは、愚かな者である。


posted by 天山 at 06:57| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月07日

神仏は妄想である。449

結局、事実を突き詰めて行けば、それらが、皆々、人間の妄想から、はじまったものである。
しかし、時代が下ると、それを唯一として、信じる団体、教会権威が現れる。

ローマカトリックは、その際たるものである。
更に、そのカトリックが、多くの新興宗教から、目指すべき団体として、認められるのである。

カトリックのように・・・
それが、人間の浅はかさであり、欲望である。

信者を獲得するというのも、商売のように、製品を売る、保険のように、勧誘するという、堕落に陥るのである。

一人でも、信者が多いと、上がりが多くなる。
金儲けには、最高のシステムになる。

人間の魂の、救済などという、嘘を掲げて、実は、その欲望を丸出して生きるもの、それが、宗教の姿である。

人間が、自然発露として、天地自然に畏敬し、それに手を合わせるという、自然な姿を、宗教は、打ち壊すものである。

バート・D・アーマンの、キリスト教成立の謎を解く・・・
実に、大きな、研究の成果である。

歴史的・批判的アプローチは、「正典」たる聖書が、成立した当時の形で残っていない、つまりオリジナルではないとい考えに根ざしている。
アーマン

つまり、手を加えられているのである。
それも、都合よく。

正典とは、ある意味信者にとって権威がある、一冊の書物に編纂された一連の書のことである。パウロが教会に向けて書簡を書いていたときは、聖書を書いているという意識はなかった。彼は、その時々の必要に迫られて、自分の考えや信仰や説教に基づいて、手紙を書いているつもりだった。これらの書簡がまとめられ、それに霊感が吹き込まれていると考えられるようになったのは、後世になってからのことだ。福音書についても事情は同じだ。
アーマン

マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ・・・も、同じである。
であるから、それ自体をそれ自体として、読まなければ、誤読するのである。

記者の伝えたいことをほかの記者のメッセージと同一視し、新約聖書を27の書からなる書物としてではなく、一つの本として読むことに固執すると、私達は間違った解釈をしてしまう。聖書を構成する書は、異なる時代や地域の様々な状況下で、別個の問題を論じるために書かれている。記者もばらばらなら、彼らの見方、信仰、思い込み、伝統、出典もばらばらだ。そして、肝心要の事柄をめぐる見解も、一つとは限らない。
アーマン

だから、同じ事柄を扱っても、その解釈が全く違うということも、多々あるのである。

実際、新約の四つの福音書でさえ、矛盾だらけなのだ。
ところが、その矛盾を感じさせないように、教会神学・・・その他、大勢は、勝手な解釈、勝手な、思い込みで、信者を騙すのである。

思い込み・・・というのは、実に恐ろしいことで、それは、初期キリスト教から始まっている。

そして、その思い込みが、深ければ深いほど、信仰深くなるという・・・
思い込みは、別名、迷いである。
だから、迷いが、深ければ深いほど、信仰が深くなるのである。

信仰とは、迷いなのである。

知性も、理性も、感性も、超えたところのもの・・・という、アホな考え方が、支配的になるという、迷いなのである。

確かに、思い込んだ人間は、強いと言われる。
それは、火事場の馬鹿力と同じなのである。

だから、信仰にも、休息が必要で、その休息の間に、とんでもない、罪を犯したりする。
伝道師が、売春するとか・・・

独身の神父が、女性と性的関わりを持つ・・・
あるいは、少年に性的暴力を行なう・・・

日本の仏教愛好家である、僧侶は、平然として、贅沢三昧に暮らす。
その、信念も、信仰も、棚上げして、のうのうと、既得権益の上に、いるという、図である。

神仏を利用しての、放蕩三昧であるから、救いようがない。
つまり、神仏は、妄想なのである。

それを彼らは、実際に、見事に、暴露してくれている。

さて、イエスの、死に関して、福音書は、全く同じ視点で書いているのか・・・
そんなことは、有り得ない。

アーマンも、
実は福音書の間の違いはずっと深刻で根源的なのである。
と、言う。

マルコと、ルカによる、イエスの、死というものは、どのように違うのか。

更に、その解釈と、思い込み・・・

何度も言うが、イエスの死は、政治的なものである。
旧約聖書に書かれた、メシアの思想の実現などというものではない。

明らかに、政治的に殺された。
何せ、初期キリスト教は、ユダヤ人イエス一派だったが・・・

白人に乗っ取られて、白人キリスト教と相成ったのである。
勿論、それも、政治的権力による。

それほど、甘いものではない。
正しい教え、神の救いがあるから・・・ではない。
それは、人間が、勝手に、思い込んだだけである。



posted by 天山 at 06:13| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月08日

神仏は妄想である。450

マルコ福音書は、西暦65年から70年頃に書かれたことが、19世紀に突き止められた。そして、それが、最も古いものであることも。

マタイとルカは、その15年から20年後に、書かれたが、多くの部分を、マルコに依拠している。

マルコによる物語の大半が、マタイ、ルカに載っている。
三つの福音書が、一字一句まで同じ箇所が見えるのは、そのためである。

場合によっては、二つの福音書が、同じ文言を用いる場合もあるが、それは、後世の記者が、マルコの文章に手を入れたからである。

例えば、マルコとルカに、同じ物語が出て、その記述に違いがあるとすると、それは、ルカが、文章を改変し、言葉や句を削除したり、付け足したり、エピソードを丸々書換えているためである。

それでは、イエスの死について・・・

マルコを見ると、ポンショ・ピラトによって、死の宣告を受け、ローマ兵から嘲られ、暴行された挙句、磔刑に処せられるために、連衡される。
その際に、キレネのシモンが、十字架を担ぐ。
イエスは、始終無言である。兵士がイエスを磔にするが、それでも口を開かない。
イエスと共に、磔になった二人の盗賊が、イエスを侮辱した。
通りすがりの人たちも、彼を馬鹿にした。
ユダヤ人指導者も、嘲笑した。
それまで沈黙していたイエスは、瀬戸際になって、悲痛な叫びを上げた。
エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ、という、アラム語の言葉で、マルコは、わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか、と、訳す。
誰かが、イエスに、布に染み込ませた、ぶどう酒を飲ませようとした。
すると、イエスは、息を引き取る。

そこで、すぐに、神殿の垂れ幕が半分に避け、傍観していた百人隊長が、本当に、この人は神の子だった、と認める。

マルコは、ここで、何を伝えたかったのか・・・

彼は、神がその場におり、イエスの肉体的な苦痛を取り除いたと書くことによって、読者が安堵することを嫌った。イエスは、なぜ自分が死ななければならないのか分らないまま、激しい苦悩のうちに死んだのである。
アーマン

しかし、読者は彼の死の理由を知っている。イエスの死の直後、垂れ幕は真二つに裂け、百人隊長が信仰告白をするのだ。裂けた垂れ幕は、イエスの死によって、ユダヤ教の祭司が神殿に生贄を供えなくとも、神が人々の手の届く存在になったことを暗示している。イエスの死は贖罪をもたらしたのだ。
アーマン

そして、そのことを瞬時に悟った人間がいた。
それは、イエスを十字架にかけた、異教徒である、兵士だった。

イエスは、死を持って救済をもたらし、そのことに気付くのは、非ユダヤ教徒なのである。

このような記述は、イエスが死んだときに、「本当は」何が起きたのかと言うことについての公平無私な描写とは言えない。これは、物語形式の神学なのである。
アーマン

結論として、マルコは、キリスト教徒が迫害される現状を、理解するモデルを提示しているのである。

イエスの信者も、何故、このような苦痛や、苦悩を耐えなければならぬのかと、理解に苦しんでいた。
それを、マルコは、自信を持つように、励ますのである。

神の目的は、信者が苦痛を避けて通らずに、引き受けることによって、達成されるのだ。たとえ、こうした目的が、そのときにははっきりと分らなくても。
アーマン

このように、福音書とは、それぞれの目的に合わせて、書かれているものである。
つまり、信仰告白であり、信者のための、手引書である。

実際の、イエスが、何を考えていたのか・・・
分らない。

イエスは、ユダヤ教徒であり、そのユダヤ教の一派の指導者であった。
全人類の罪を贖う・・・
そのような、存在ではない。

それは、後世、教会が勝手に意味づけしたことであり、白人主義と合わさり、異教徒を迫害し、虐殺する教えとして、使用された。

更に、為政者は、キリスト教を有効に利用して、世界制覇を目論んだ。
宗教改革以前の、カトリック教会、その法王は、絶大な権力を有していた。
権威ではない。

後に、権威的になるが・・・

西欧では、ローマ法王が、最も強い権力を保持していたのである。

故に、法王に、破門されることは、国、国王の滅亡ともなった。
宗教が、このように政治的な力を持つことの、愚劣が、カトリック教会によって、証明されたといっても、いい。

そして、宗教改革後の、宗教戦争・・・

凄まじい程の、憎悪と虐殺が、続いた。
そこに、イエスの教えは、皆無である。

イエスを、キリストに仕立て上げて・・・
人間が、勝手な解釈をほどこし、更に、勝手な行動に至るという、愚昧。

西暦とは、イエス誕生からを言う。
そして、そのイエスを山車にして、キリスト教が起こると、西欧をはじめ、世界的に、人類虐殺の歴史が始まる。

それは、あたかも、旧約の神が、人間に憑依して、行なった悪行のようであった。
異教徒のみならず、人種差別の、差別の対象となった人種が、大量に殺され、あるいは、奴隷として、苦悩の底に沈められたのである。

キリスト教が、邪教である、ゆえんである。


posted by 天山 at 07:06| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月09日

神仏は妄想である。451

ルカの福音書の、イエスの死は、マルコとは、別物である。
つまり、ルカの解釈が違うということだ。

ルカでも、イエスは、ユダに裏切られ、ペトロに知らないと言われ、ユダヤ人指導者に拒絶され、ポンショ・ピラトによって、有罪判決を受ける。

ルカは、ピラトがガリラヤのヘロデ王に、イエスの処遇を委ねようとした話にしか触れない。
ピラトが判決を下す前に、イエスを侮辱したのは、ヘロデの兵士たちである。
これが、矛盾である。

ピラトの兵士達には、侮辱されたり、殴られたりはしないのである。
ピラトは、ローマ総督である。

ヘロデは、ガリラヤのヘロデ大王の息子である。
ここに、作為がある。

だが、先に進む。

矢張り、ルカでも、キレネのシモンという男が、イエスの十字架を背負う。
ここで、マルコとの違いは、イエスが、言葉を発することである。

イエスは、数人の女達の嘆く姿に、エルサレムの娘達、私のために泣くな。むしろ、自分と自分の子供達のために泣け、と言う。

つまり、イエスは、自分の運命よりも、彼等を取り巻く人々の身を案じている。
更に、イエスは、冷静である。

そして、十字架に打ち付けられている間に、口を開いた。
父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。と、祈る。

更に、イエスと一緒に、十字架につけられる、二人の男と、話をする。
一人は、イエスを馬鹿にした。
しかし、もう一人は、自分たちが、罰せられることは、当然だが、この方に、罪は無いと言わせる。
その男は、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください、と言う。

それに対して、イエスは、
はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。と、言う。

この記述では、イエスは、自分に降りかかった災難やその理由について、全く困惑していない。彼は完全に平常心を保っており、状況を把握していた。自分の身に何が起きるか承知しており、その後どのようなことになるか分っていた。神の統べる天国で目覚めるのだ。そして先の罪人も、彼と共に天国に行く。「ルカ」に出てくるイエスは、「マルコ」で描かれている、最後に神に見放されたと絶望したイエス像からは程遠い。
アーマン

地上が暗くなり、神殿の垂れ幕が裂けたとき、イエスはまだ生きており、これも「マルコ」の記述と一致しない。ここでは、破れた垂れ幕は、イエスの死が贖罪をもたらさなかったことを意味している。
アーマン

イエスが死んでいないからである。

イエスの死は、ルカでは、太陽が光を失うときである。
そして、ユダヤ人に対して、神の審判が下ることを、明確に示している。

引き裂かれた幕は、神が、神殿に象徴される、ユダヤ教の宗教制度を、拒否したことを、物語る。
ここに、ルカの作為がある。

最も、重要なことは、イエスが、神に大声で、
父よ、わたしの霊を、御手にねだます。
と、言ったことである。

マルコとは、全く違う。

二つのイエスの死の描写は、強調してもしきれない。「マルコ」の記述は、迫害に苦しむ信者に希望を与え、目に見える現実がどうあれ、神が彼らを救済するために、背後から働きかけていることを知らしめる目的で書かれたという学説がある・・・
「マルコ」の描写に修正を加え、イエスが苦悩と絶望のうちに死ななかったことにしたルカの目的はなんだろうか?
アーマン

これに、更に、マタイや、ヨハネを加えると、イエスは、多重人格になる。

本当の物語というものは、無いというのが、結論である。
それぞれの、記者によって、それぞれの解釈によって、福音書が成り立っているということ。

わたしから言わせれば、皆、嘘である。
そして、皆、本当である。
事実は、一つであるが・・・
真実は、人の数ほどある。

イエスが、キリストとして、作られてゆく過程・・・
それを、福音書を通して見る事が出来る。
神の霊感に導かれて書かれたもの・・・とは、嘘である。

ユダヤ教の信者であった、イエスが、死んで、反ユダヤ教として、作り上げられたということだ。

福音書を含む全ての聖書は別個のものであり、同じことを伝えていることを前提に読まれるべきではないという点が肝心である。これらの書は、同じ話題について論じていてもその見解は決定的に違う。磔の物語を水平的に読めば合点がいくように、マルコの主張はルカのそれとは隔たりがあり、マタイの主張もヨハネのそれとは異なる。福音書を歴史的観点から読むと、個々の記者の声に耳を傾けることができ、それぞれが強調している事柄を無味乾燥なものに貶める一つの特大の福音書に集約することが無意味であることが分る。
アーマン

これこそ、冷静な聖書研究である。
さて、そこで、信仰の経典としての、聖書、福音書のあり方とは・・・
支離滅裂である。

キリスト教の神とは・・・
ヤハゥエでも、エホバでも、何でもない。
イエスが、神なのである。

それは、すべての宗教に言える。
生きていた人が、神に奉られるのである。

日本に、キリシタンが入ってきた時は、神を、ゼウス様と言った。

古典文学としての価値は、高い。
宗教の経典でなければ、何の問題も無いものである。

それを、信じるから、おかしくなる。

初期キリスト教の、典礼は、ユダヤ教の延長だった。
教会音楽、グレゴリオ聖歌・・・皆、ユダヤ教の朗誦からのものである。


posted by 天山 at 06:19| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月10日

神仏は妄想である。452

マルコ、マタイ、ルカの福音書は、共観福音書と言われる。
物語性がある。
更に、マタイとルカは、マルコを拠点として、書いている。

それゆえ、共通点が多い。
しかし、ヨハネの福音書は、別物である。

だが、多くのキリスト教徒は、それを見逃す。

受難物語を除外すると、ヨハネは、三つの福音書の物語は、見当たらないのである。

また、類似の事柄を取り上げていても、ヨハネの物語は、全く違うものになっている。

それを統一したものとして、読むという行為は、気違いじみている。
更に、福音書として、同じ位置にあることも、不思議といえば、実に不思議である。

イエス教団、ヨハネ派ということになるのである。

今、一々、共観福音書の物語を書くつもりは無い。
ただ、その共観福音書の骨子となる物語が、ヨハネには、ほとんど無いのである。

イエスが、ベトレヘムで生まれたことも、処女マリアも、洗礼を受けたことも、荒野で、誘惑されたことも、無い。

また、そこでは、神の国の到来についても、例え話も無い。
悪魔も、追い払わない。
変容の記述についても、無い。

エルサレムに到着したイエスは、神殿を清めない。
主の食事をすることもなく、最高法院で正式な裁判にかけられることもない。

それでは、ヨハネは、何を書いたのか。
特徴的なのは、その序文で、神の言について、神秘的な表現で、説明する。

神の言葉は、初め神と共にあり、それ自身が神である。神は、その言葉を通して、天地創造をしたとされる。
この言が、一人の人間として、体現されるのだ。それが、イエスである。
いや、すでに、イエス・キリストとなっている。

神の言は、血肉となったのである。
このようなことは、他の福音書には、無いのである。

更に、ヨハネの場合は、奇跡を力ではなく、「しるし」と呼ぶ。
つまり、イエスとは、何かを示す、印である。

イエスは、彼を信じる全ての人に、永遠の命を授けるために、天から遣わされた存在なのである。

ヨハネには、七つのしるしについて、書いてあるが・・・
それらは、共観福音書には、無い話である。

ただ、水面を歩く、民に食べ物を与える話は、例外的に、他の福音にも載っている。

ヨハネに出てくる、しるしの話は、水をワインに変えた、目の見えない男を癒した、ラザロを生き返らせた、である。

更に、イエスは、神の国の到来ではなく、自分自身について、語る。
自分は、何者か、何処から来て、何処へ行くのか。そして、いかに、永遠の命をもたらすことが出来るのか。

そして、特徴は、わたしは・・・である、という、表現である。

わたしは命のパンである。
わたしは世の光である。
わたしは復活と命である。

他の福音には、無い表現である。

ここで、ヨハネは、ある成熟した、イエス教団の記者が書いたと言える、前提が、明確である。

私が言いたいのは、「ヨハネ」と共観福音書は矛盾しているだけではなく、イエスの人物像がかけ離れているという点である。
アーマン

更に、アーマンは、
何世紀も前から受容されてきた正統なキリスト教教義によれば、キリストがこの世に出現したことをめぐる解釈は次のようなものである。すなわち、キリストは、父なる神と同一ではないが同等であり、神性を有する存在として先在していた。そして、処女マリアから生まれて人間になることで、「受肉」したのだという。ところが、このような教義は、どの福音書にも書かれていない。イエスが先在し、人間になった聖なる存在だと書かれているのは「ヨハネ」だけである。
と、言う。

処女懐胎は、マタイとルカだけが、言及している。

福音書の記者にとって、処女懐胎やイエスの受肉といった考えは、とても奇異なものだったわけである。
アーマン

マルコは、どちらの説も、採用していない。

初期キリスト教会では、一部のキリスト教徒にとって、マルコだけが、唯一の福音書だった。
つまり、母親が処女だったり、イエスが地上に現れる以前から、存在していたという考えは、生まれなかった。

こうして、探ると、次から次と、福音書の手口が、分ってくる。
創作される、福音書であり、創作された、聖書をマジに信じる、キリスト教徒である。
更に、信じ切ると、蒙昧に沈む。
更に、妄想に陥る。

騙されたままに、キリスト教の霊性などと、言い、祈りを唱える。
その、霊性というもの・・・何処からのものか・・・

それらも、幻想、妄想の域を出ないのである。
同じ言葉を繰り返していると、人間は、自己暗示にかかる。
その、自己暗示、つまり、信仰ということになる。

更に、神学というものから、知性、理性、感性・・・
嘘である。

単なる、思い込みである。
そして、思い込んだが最後、騙される。

ヨハネの妄想は、甚だしい。
その、黙示録である。

人間の観ているものは、その今しかない。
しかし、あたかも、それが、存在するような気持ち、感覚に陥ると・・・
信仰という、美辞麗句に陥る。

イエスを信じるとは、イエスに成りきることである。
未だかつて、イエスに成りきった者は、いない。
勿論、キリストにも・・・

ただ、精神病院には、キリストであると言う人がいるかもしれない。


posted by 天山 at 13:31| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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