2013年10月12日

神仏は妄想である。443

イエスは人間であると、主張した、エビオン派と、全く逆は、マルキオン派である。

イエスは、神であるから、人間である事は無いという。

しかし、マルキオン派は、イエスと、父なる神が、二人の別々の神とは、考えていないのである。
彼らにとって、二人の神とは、ユダヤ教の神、旧約聖書の怒れる神と、イエスの神、慈愛の神だった。

イエスが、後者の神と、どのような関係なのか・・・
全く解らないのである。

しかし、一部地域では、イエスが受肉した、神自身であると、考えられていた。

さて、グノーシス派の様々な集団は、キリストが、神だと、宣言することに、何の抵抗もなかった。
というのは、彼らには、神性を示す存在は、山ほど存在していたからである。

自分だけが、神であり、他にはいないという神は、本当の神ではなく、この世界を創った、下位にいる、劣った神であるとなる。
そして、この嫉妬深く、無知な神の上には、神性を有する、すべての存在が住む、より神聖な領域が存在すると、考えた。

勿論、後に、異端として、退けられるが・・・

初期キリスト教研究史では、正統、正しい信仰というのは、非正統、異なる信仰に、対置されてきた。

非正統とは、異端である。

キリスト教が発展するにつれて、イエスの神性を、どう説明すべきかと、人々は試行錯誤を繰り返した。

多くの試みは、時代、場所によって、受け入れられだが、結局は、淘汰された。

さて、今度は、パトリパッシアニズム、天父受苦説である。
これは、アリウス派によるもの。

二世紀、三世紀に、自覚的、強引に、神の唯一性を奉じる見方が、キリスト教思想家や教父の間で、大流行した。

神は一人のみで、イエスは、神が受肉した姿であるというものだ。
神の子は、受肉した、父なる神であるということになる。

一人の神が、異なる存在形態を有しているため、モダリズムと呼ばれることもある。

一人の者が、他者との関係性において、異なる定義を与えられるということである。
サベリウス主義とも呼ばれる。

だが、このサベリウスは、歴史的には大した人物ではない。
この説を唱えたことで、波紋された。

二世紀末、テルトゥリアヌスが、父なる神と、神の子の、ペルソナ、位格は、別物だと考えるようになった。
彼によれば、二人とも神だ。しかし、神は唯一である。

その時代以降、この考え方が、洗練され、大幅に整えられて、後に、正統教義になるのである。

キリストは、神だ。父なる神も、神だ・・・
しかし、この二人は、一つである。

次に問題なのは、聖霊である。

ヨハネでは、
イエスが天に帰った後で、別の弁護者である、聖霊が、地上に降りると書いた。
この聖霊も、父なる神、神の子とは、別物である。

ついに、三位一体説が、出来上がる。

テルトゥリアヌスの理屈では、
実体の意味においてではなく位格の意味においてであり、分割のためではなく区別のためである。
私は固く結び合わされた三つの中に一つの実体があるという立場をつねに維持している・・・

時の経過とともに、この種の微妙な区別は、どんどん技巧的になっていった。テルトゥリアヌスは、同時代のモダリストへの反駁のなかで、すでに、三つの別個の位格として顕示した一人の神、すなわち三位一体について言及していたのである。
アーマン

だが、彼は、その中でも、ヒエラルキーが存在すると、考えていた。
つまり、父なる神と、神の子が、実体は同じでも、父なる神が優位にあるのだ。
父なる神、だから・・・

そのことで、一世紀以上も、議論を続けたのである。

この問題は、四世紀初頭に、アリウスが巻き起こした、論争の核心部分だった。

アリウスは、神学が盛んだった、エジプト、アレキサンドリアの、著名なキリスト教教師だった。
アリウスの時代までに、原始正統派は、エピオン派、マルキオン派、その他、種々のグノーシス派の集団という、初期キリスト教の異端派を一掃し、少なくとも、完全に、傍流派へと、弱体化させた。

そして、キリスト教教会に属していた人々は、イエスは神であるが、神は一人しかいないという、考え方を持っていた。

アリウスは、キリストは神だが、その力と本質において、父なる神の下位にあるとした。

本来、神は一人しかいなかったが、永遠の昔に、神は、第二の神である息子、つまりキリストを産んだ。神は、キリストを通して、宇宙を創造した。そして、この世に顕現する際、受肉したのはキリストだった。
アーマン

この考えによれば、永劫の過去には、キリストが存在しなかった期間があることになる。彼は、ある時点で生まれたのだ。加えて、彼は神性を備えているものの、父なる神と同等ではない。彼は息子であるため、父なる神に従属しているのだ。両者は、「同一の実体」を有していない。彼らは、ある意味で、「類似の」実体を有しているのだ。
アーマン

何とも、ご苦労なことである。

人間の頭で、捏ね繰り回した、考え方の見本である。
どうしても、超越した存在を持つということは、このような、とんでもない、議論を続けて、作り上げるのである。

勿論、妄想である。
更に、幻想でもある。




posted by 天山 at 05:57| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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