高橋
西欧の思想史は、すべて、この問題が主となり、展開されている。
そこで、唯神論の立場をもっと、概念的に捉えようとした、ライプニッツという、哲学者のモナード論である。
存在は、すべて、単子であると、考える。つまり、モナードである。
モナードとは、それぞれ発展段階を異にした、しかも、それぞれが完結した、表象体、表象する存在であるということ。
表象と存在が、一つである存在を、神と言う。
対して、地上の世界では、人間の表象力が活発である。
人間よりも、表象力が暗い、人間でいえば、夢のような意識しか持っていない存在が、動物であり、眠っている、夢の無い眠りを眠る存在が、植物である。
更に、死んだような存在が鉱物である。
すべてを、そうして、表象する存在として、考えるのである。
それぞれ、夢の無い眠り、夢のような表象を営むという、モナードと、全宇宙の存在のヒエラルキアを説明するのが、単子論である。
ライプニッツは、そういうモナードが、無限に複雑に結び付いて、宇宙が出来上がっていると、考えた。
だが、そのヒエラルキアは、抽象化されたものである。
単子論は、抽象化された、唯神論であると、いえる。
さて、次に、単子ではなく、すべてを、エネルギーとして、捉える考え方もある。
物質の波長のエネルギーとか、引力、重力等々の力の、相互作用などによって、あらゆる種類のエネルギーを考察することによって、宇宙の本質に迫ろうとする立場である。
この立場を、力動論、ダイナミズムと呼ぶことができる。
そうすると、これは、現実論に非常に近くなる。
エネルギーは、すべて現実界に顕在化したものであり、力として、作用するもの。
この思想は、近代科学の中では、ロベルト・マイアの、エネルギー恒存の法則、として、自然認識の基本原理と、考えられるようになった。
以上、十二の世界観の座に対して、七つの生命活動が結び付くように、七つの認識上の、基本的な態度が、結び付きを持っていると、神秘学では、講義する。
その世界観の中でも、神秘学が重要にするのは、感覚論の立場である。
占星術を知る人は、もう気付くと思うが、黄道十二宮と七つの惑星との、マクロコスモス的関係の、ミクロコスモス、つまり人間における、対応物であると、シュタイナーは、考えたのである。
占星術から考えると、実に易しい。
さて、七つの基本態度の、第一は、グノーシスである。
ユングが、人間の基本的態度を、思考、感情、感覚、直観という四つの機能の相互関係を論じた、その直観に当たるものが、グノーシスである。
対象を見るとき、その対象の本質を直観するという、働きである。
様々な世界観のパターンと共に、それぞれの世界観の本質を、どこまで具体的に、深く把握するのか・・・
その際の、あり方を、グノーシスという。
第二の、立場は、論理主義である。
それは、対象の内的構造を、因果的に捉える能力。
次に、主意主義である。
すべてを、意欲的に、すべてを、意志の発動のものに行なおうとする態度。
意志は、ユングの場合、外向的に働いたり、内向的に働いたりとして、四つの機能とは、別に考察される。
第四に、経験主義的な態度。
これは、現実論や、現象論と似ているが、ここでは、唯物論にも、数理論にも、唯神論にも、力動論にも、当てはまる。
たとえば経験主義的な立場の理想論者というのは、あくまでもその理想が、自分にとって大事な経験だったからこそ、理想論の立場をとるのであるし、現実論の場合も同様です。経験的に把握できるかできないかということだけが大事だとする立場は、経験主義的といえるわけです。
高橋
五番目が、神秘主義の立場である。
ミスティークとは、ユングで言えば、感情の領域に属する。
自分自身にとって、内的に、意味があるかどうかを、感情の体験として、把握しょうとする、そのことに、生きがいを感じる立場を、ミスティークという。
ここでも、色々な神秘主義者がいる。
唯物論的な、神秘主義者・・・
六番目が、先験主義である。
ミスティークは、すべてを内的な体験内容に置き換えることで、自分との関係を考える。しかし、先験主義は、対象の背後に、本質を見ようとする。
カントは、先験哲学者であった。
向かい合う存在に本質があるのではなく、本質は、その背後にあると、考える。
七番目が、オカルティズムである。
対象と自分との関係を考える場合、従来の関係とは、全く違った関係を持つ。あるいは、別様に、ものを把握しようとする。
日常的な認識の仕方とは違う、別様な認識の仕方に、絶えず関心を持つ。
日常的に持つ、認識の仕方では、満足せず、そうでない見方があるのではないかと、絶えず気になるのである。
その最低の場合は、日本で言う縁起である。
縁起がいい・・・
縁起が悪い・・・
迷信に迷う姿である。