2013年10月01日

霊学121

それでは唯霊に対する唯神論とは、どういう立場でしょうか。唯神論になってきますと、霊的な存在がただ存在するというのではなくて、そこにヒエラルキアを考えます。そして造物主の存在を考え、造物主と救済の問題とを宇宙全体の基本におく考え方になってくるのです。これと唯霊論とはちがいます。唯霊論は霊主体従ではありますが、その場合に創造の目的とか、人間が一種の造物主なのか、それとも被造物なのか、等の問題は出てきません。これらはヒエラルキアを問題とする唯神論にとっての問題です。したがって唯神論の「唯」も、神だけがすべてだというのではなくて、存在の基本に創造する神の意志が、造物主の意志が働いているという考え方であるととってください。
高橋

西欧の思想史は、すべて、この問題が主となり、展開されている。

そこで、唯神論の立場をもっと、概念的に捉えようとした、ライプニッツという、哲学者のモナード論である。

存在は、すべて、単子であると、考える。つまり、モナードである。

モナードとは、それぞれ発展段階を異にした、しかも、それぞれが完結した、表象体、表象する存在であるということ。
表象と存在が、一つである存在を、神と言う。

対して、地上の世界では、人間の表象力が活発である。
人間よりも、表象力が暗い、人間でいえば、夢のような意識しか持っていない存在が、動物であり、眠っている、夢の無い眠りを眠る存在が、植物である。

更に、死んだような存在が鉱物である。
すべてを、そうして、表象する存在として、考えるのである。

それぞれ、夢の無い眠り、夢のような表象を営むという、モナードと、全宇宙の存在のヒエラルキアを説明するのが、単子論である。

ライプニッツは、そういうモナードが、無限に複雑に結び付いて、宇宙が出来上がっていると、考えた。

だが、そのヒエラルキアは、抽象化されたものである。
単子論は、抽象化された、唯神論であると、いえる。

さて、次に、単子ではなく、すべてを、エネルギーとして、捉える考え方もある。

物質の波長のエネルギーとか、引力、重力等々の力の、相互作用などによって、あらゆる種類のエネルギーを考察することによって、宇宙の本質に迫ろうとする立場である。

この立場を、力動論、ダイナミズムと呼ぶことができる。

そうすると、これは、現実論に非常に近くなる。
エネルギーは、すべて現実界に顕在化したものであり、力として、作用するもの。
この思想は、近代科学の中では、ロベルト・マイアの、エネルギー恒存の法則、として、自然認識の基本原理と、考えられるようになった。

以上、十二の世界観の座に対して、七つの生命活動が結び付くように、七つの認識上の、基本的な態度が、結び付きを持っていると、神秘学では、講義する。

その世界観の中でも、神秘学が重要にするのは、感覚論の立場である。

占星術を知る人は、もう気付くと思うが、黄道十二宮と七つの惑星との、マクロコスモス的関係の、ミクロコスモス、つまり人間における、対応物であると、シュタイナーは、考えたのである。

占星術から考えると、実に易しい。

さて、七つの基本態度の、第一は、グノーシスである。
ユングが、人間の基本的態度を、思考、感情、感覚、直観という四つの機能の相互関係を論じた、その直観に当たるものが、グノーシスである。

対象を見るとき、その対象の本質を直観するという、働きである。

様々な世界観のパターンと共に、それぞれの世界観の本質を、どこまで具体的に、深く把握するのか・・・
その際の、あり方を、グノーシスという。

第二の、立場は、論理主義である。
それは、対象の内的構造を、因果的に捉える能力。

次に、主意主義である。
すべてを、意欲的に、すべてを、意志の発動のものに行なおうとする態度。

意志は、ユングの場合、外向的に働いたり、内向的に働いたりとして、四つの機能とは、別に考察される。

第四に、経験主義的な態度。
これは、現実論や、現象論と似ているが、ここでは、唯物論にも、数理論にも、唯神論にも、力動論にも、当てはまる。

たとえば経験主義的な立場の理想論者というのは、あくまでもその理想が、自分にとって大事な経験だったからこそ、理想論の立場をとるのであるし、現実論の場合も同様です。経験的に把握できるかできないかということだけが大事だとする立場は、経験主義的といえるわけです。
高橋

五番目が、神秘主義の立場である。
ミスティークとは、ユングで言えば、感情の領域に属する。
自分自身にとって、内的に、意味があるかどうかを、感情の体験として、把握しょうとする、そのことに、生きがいを感じる立場を、ミスティークという。

ここでも、色々な神秘主義者がいる。
唯物論的な、神秘主義者・・・

六番目が、先験主義である。
ミスティークは、すべてを内的な体験内容に置き換えることで、自分との関係を考える。しかし、先験主義は、対象の背後に、本質を見ようとする。

カントは、先験哲学者であった。
向かい合う存在に本質があるのではなく、本質は、その背後にあると、考える。

七番目が、オカルティズムである。
対象と自分との関係を考える場合、従来の関係とは、全く違った関係を持つ。あるいは、別様に、ものを把握しようとする。

日常的な認識の仕方とは違う、別様な認識の仕方に、絶えず関心を持つ。

日常的に持つ、認識の仕方では、満足せず、そうでない見方があるのではないかと、絶えず気になるのである。

その最低の場合は、日本で言う縁起である。
縁起がいい・・・
縁起が悪い・・・
迷信に迷う姿である。


posted by 天山 at 06:28| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月02日

霊学122

基本的な姿勢と十二の世界に対する見方とが結びつくと全部で八十四種類となりますが、そのさまざまの結び付きの中で、われわれひとりひとりの判断力が形成されているわけです。ですから神秘学を研究する場合の基本は、まず十二の世界観、それから七つの姿勢のそれぞれを具体的に自分の中に生かすことです。
高橋

つまり、オカルト的な生き方である。

ところがロゴス的な立場は、このひとつひとつをできるだけ具体的に、かつ確実に理論化していって、それによって自分の立場が他の立場よりもすぐれているということをなんとか論証しようとします。しかしロゴス的な態度に始終するかぎりは、そのロゴスを生み出した源泉、つまりロゴスの母である自分なりのソフィアが今どの座に位置しているかということを問題にはしないのです。ですからロゴス的な個々の立場を真に生かすためにも、ここで問題なのは、それぞれのロゴスがどの座に位置しているかです。
高橋

確かに、そういう人は、多い。
特に、高学歴の人たち・・・

この思想は、シュタイナーが、1916年頃に、長い時間をかけて作り上げた。
ただ、外見上理解できるものと、全く違った意味も、その中に含まれているということだ。

それが、神秘学的、占星術である。
ロゴスの黄道十二宮である。
そして、グノーシスから順次、土星、木星、火星、太陽、金星、水星、月、の惑星を、それぞれ対応させる。

これは、少し占星術の知識が必要である。
生まれたときの場所と、時間による、出生天宮図というものがある。
天空にどのような星座がかかり、その上昇点に、どの惑星があるか。その時に、七つの惑星が、どこに位置するかを、問題とする。

それを対人関係、思想、哲学、などを見る時、どういう星座に位置し、どこにどの惑星が影響するのかと、シュタイナーは、考えるようにと言う。

つまり、精神の天空全体の位相が、どのようになっているのか、それを考えるということである。

そこには、肯定も否定も無い。
十二感覚と、七つの生命活動のように、いつも自由に、心の中に、浮かび上がらせること。

すでにその人にオカルト的な生き方を始めていると言えるわけです。
高橋

それは、融和の、つまり、ソフィア的な精神を、生き始めるということになる。

そこで、判定したり、鑑定したり、否定、肯定などの行為は、ロゴス的になるのである。

ということで、神秘学の、イニシェーションや、行という行為がある。
であるから、突然、目覚めて、メディテーションや、ヨガの呼吸法などをすると、よく病気になったり、する。

それは、エネルギーの一部が、肉体や魂の機能を健全に維持する方向へ流れず、別な方向に流れてゆくからである。

高橋氏も、指摘するが、十分に強靭な認識の力を作る前に、ある誰か、そういう能力の持つ人に、外側から能力を付けて貰うなどというのは、実に危険であるということ。

更に、ドラッグ、薬物系を使い、そういう体験をするというのは、論外である。

多くの、新興宗教系にいえることだ。
勿論、多くは、騙しのテクニックではあるが・・・

それを防ぐためには徹頭徹尾意識的でなければなりません。
高橋

その通りだ。
その、意識を、相手に、与える、または、その意識を、奪う行為は、邪道であり、実に罪深いものである。

自分自身が自分自身の心の動きを明確に認識できるような道具を身に付けることができなければならないのです。
高橋

この部分は、私の霊学も、全く同じである。

教祖になる人たち・・・
特に、精神衛生の発展が無かった時代の人たち・・・

皆々、憑依する霊に導かれて、宗教を起こした。
そして、妄想全開である。

現在も、存在する多くの新興宗教は、見ての通りである。

我が意識を、明け渡してしまった、成果である。
そして、信者からの、搾取を欲しい侭にする。
巨大な神殿を建てて・・・

更に、搾取を繰り返し、組織が大きくなる。
信じる者は、騙されるから、建物を見て、また、騙される。

神秘学・・・
それは、自分が自分で、制御して、行なう霊的方法である。
その行がある。

秘儀と行法ということになる。
だが、それについては、省略するつもりである。

人間学として、評価するが、シュタイナー見た霊界というものに、疑問を覚えるのである。その霊界が、何処の世界に属するのか・・・
不明である。

死者の霊に対する、所作というものがあり、実に、有益な情報なので、それは、紹介するが・・・
それ以上の世界になると、判断が出来ない。

勿論、否定も、肯定もしない。
ただ、批判する。
それも、ロゴス的だろうか・・・
ロゴスの精神は、批判的である。

だが、融合のソフィアを説明するにも、ロゴス、言葉が必要である。

このように書くと、私が神秘学の何も、理解していないように、感じると思うが・・・


posted by 天山 at 06:17| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月03日

霊学123

シュタイナーは、初め、神秘学、そして神智学から、人智学を名乗る。

ギリシア語の神という語の、theoとsophiaとを結び付け合成語が、神智学である。
人間という、anthroposとsophiaとを結び付けたのが、人智学である。

Theosophiaという言葉は、聖書のパウロがはじめて用いた言葉で、後に、ルネサンス時代になり、オカルティズムを言う時に、使われた。

16世紀後半から、17世紀のバロック時代にかけては、anthroposophiaという言葉も、並行して使われるようになる。
一種の、神秘学である。

オカルティズムとは、大宇宙と小宇宙の対応を考える思想であるが、古代人は、大宇宙を重点にして、宇宙論的なオカルティズムを打ちたてようとする傾向があった。

近世のオカルティズムは、マクロコスモスと、ミクロコスモスの対応を考える時に、重点をミクロコスモスのほうに、置いて、人間の中に、宇宙的なものを見ようとする傾向が強かった。

19世紀になると、それが、人類学、人間学という雰囲気で、使われるようになる。

そして、シュタイナーが、Anthroposophieという言葉を使うようになってゆく。
それは、その認識の山の頂上にTheosophia、神智学があり、それから麓のところにAnthroposologie、人間学があるとすれば、この人間学あるいは人類学もみえるし、神智学もみえるような、そういう立場の学問をつくりたいので、その学問をAnthroposophieと名づけた、と言う。

その、人智学は、以前書いた通り、感覚を十二の分野にし、この十二の感覚を深めることが、新しい感性を打ち立てることになるという。
感覚論が、人智学の出発点であり、基本である。

そして、生まれ変わりの思想、カルマ論である。

さて、シュタイナーの立場、人智学からの立場としての、民族の問題を俯瞰する。
そこでは、民族と、自我のあり方が、問われる。

民族共同体に共通の特徴としては、血の繋がり、言語、土地、風俗、習慣というものがある。
それでは、オカルト的、霊的に見て、血、言語、風俗、習慣などは、何を意味するのか。

その、オカルト的、霊的な共通の概念が、人間は、少なくとも、肉体と、エーテル体、アストラル体と、自我とから、成り立つということである。

その、四つの部分は、それぞれ全く違った方向性と、全く違った在り様を持ち、存在していると、考える。
ゆえに、人間は、その四つの部分を、調和させたいと思い、生活しているということになる。

そこで、それぞれ説明について・・・
自我の存在とは、それ自体が複雑で、わかりにくい存在である。
同じ自我でも、意識の層と、無意識の層とでは、全く違うこともある。

意識の自我は、建前の自我であり、無意識の自我は、本音の自我である。
意識の自我が、何故と問うことに対して、無意識の自我は、その答えを知る。

今まで、自我に関しては、色々と書いてきた。

高橋氏は、
ところがなんらかの機会に肉体からはみ出してしまったときの自我は、悪魔的な存在になりかねません。
と、書く。

非常に激しい破壊衝動を持つ、妬み、怒りの発作に襲われる・・・
自分にとって、好ましくないものを破壊、自分以外のものを支配する・・・

通常は、肉体と自我が、自然に結び付いているが、精神疾患に陥れば、自我、人格と自分の肉体が乖離するのである。

アストラル体は、自我のように、一つの意図を持った在り方ではなく、受身で、その代わり、環境と自分との関係に対しては、敏感に反応する。

自我とは、全く違うアストラル体が、求めずとも、自我が求めれば、歯止めがかかる。

対象と自分との関係が好ましいか、好ましくないかを表現する働きをアストラル体と言うとすると、目的を設定して、それに向って進もうとするのが自我の働きです。
高橋

エーテル体は、アストラル体のように関係を作るのではなく、ひたすら、対象と融合しようとする。
一方で、肉体とひたすら結び付いて、肉体をただの物質的存在から、生命のある、有機的な存在に変える。

エーテル体は、環境の中のエーテル体と一体化している。
土地のエーテル体と、土地の気と、融合しようとする。

年を取ると、エーテル体の力が弱まり、新しい環境に適応し、融合することが、難しくなる。

エーテル体は、必ず、場所の雰囲気や気の流れ、眼に見えるような見えないような微妙な動きと、融合する。

そして、肉体である。

人間は、この四つの異なる要素が、絶えず一緒に働く。
そして、その肉体の共同体との、関わりである。

エーテル体は、最初は、家族関係の共同体から、影響を受ける。
一緒に住む人たちの、無意識の部分も、影響を受けて、気の身体を通して、無意識的に、家族共同体のエーテル体と共に、成長する。

更に、肉体にも、家族特有の特徴を刻み込んでゆく。

同時に、住んでいる、土地の気も同じである。
更に、成長するにつけて、学校、社会、会社等々の、エーテル体の影響を受ける。

一人一人は、個人のエーテル体を持つ他に、家族、土地、クラスメート、人間関係、そして、日本人であれば、日本と、日本語のエーテル体の影響を受けるのである。

ここで、人智学、シュタイナーは、共同エーテル体を自分の身体として、そこに、受肉、受エーテル、している高次の霊的存在がいると、考える。

それが、人智学の民族論的、最も大事な観点である。

実は、日本では、すでに大昔から、その土地の神という意識を持っていた。
それを、産土、うぶすな、と、改めて呼んだ。
産土の神である。

むすびの思想は、縄文期から存在する。
むすび、とは、シュタイナーが言う、共同エーテル体のことである。


posted by 天山 at 05:02| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月04日

霊学124

神秘学でいうところの、霊的存在とは、何か・・・

たとえば人の集まる部屋は、人びとのいろいろな想いが立ち籠めています。その立ち籠めている想いがあるために、その部屋が一種独特の雰囲気を持っているわけです。そこにいる人が、みんな善意を持ち、なんとなく楽しそうであれば、その場の雰囲気は明るくなります。みんなが悪意を持っていたり、なんとなくつまらなそうだったりすると、暗くなります。そういう心の動きが眼に見えるような、見えないような力になるのです。同じ場所にいる人たちがみんな気持ちを一つにして、一つのことに集中しますと、その想いは四方八方にバラバラに流れるのではなく、一つの流れに合流します。そして、そのように集中したとき、そこに霊的存在の実体化が、眼に見えない実体化が生じるのです。
高橋

みんながてんでんバラバラなことを考えると、霊的存在は力を働かせることができません。霊的存在の中には、この世から去った死者たちもいます。死者たちはもちろん、肉体をもっていませんが、それでもその死者たちの籠められた想いは独立して存在しています。死者たちの個性、つまり「自我」も存在しています。
高橋

ということで・・・
それを、信じられるか、否か・・・

シュタイナーが言う、霊的存在とは、上記を言うとの、説明である。

更に、その霊的存在の中に、高次の存在がいる。
個人のエーテル体にではなく、人々の間に共通の、エーテル体が形成された時点で、その集合エーテル体の中に、人間の個性が肉体に受肉するように、受エーテル、つまり、憑依してくる。

集合エーテル体がないと、その霊的存在は、地上に働きかけることができないのである。

これが、実に、想念の問題なのである。
人の想念が、作り出す、想いのエーテル体・・・
例えば、観音様、菩薩様・・・神様・・・

集合エーテル体である。

つまるところ、人間が必要なのである。
そして、人間の想い、想念が必要なのである。

私が言う、霊的存在とは、その想念のことである。
想念を霊と、呼んでもいい。

死者の想念が、消滅するまで、霊として、存在すると、私は言う。

神秘学では、霊的存在は、眼に見えないエーテル体を通して、媒介して、受肉するという。それは、物質体、人間、動物、植物、鉱物でも。

植物、鉱物のエーテル体と、そこに作用する霊的存在を問題にすることを、アニミズムと言う。

エーテル体は、特に人間の場合、個人においてだけではなく、共通の想いを複数の人間が担うとき、特定の土地で人々が、特定の雰囲気を生み出すとき、その雰囲気の中に受肉するという。

共通の血を持った子孫たちが、血のつながりで結び付いたときも、その共通の血の中に、受肉する。

これが、民族霊の出来上がりになるのだ。

ここで言う、受肉というのは、存在と、同じ意味で、私は考えている。

シュタイナーは、その民族霊を、二つの種類に分けて考えている。

民族霊は二種類、互いに異質な在り方をして存在している霊たちなのです。
高橋

民族霊は、人間に言語を与えた。その民族霊は、今でも、日本語を通して、コミュニケーションをしているときに、その日本語を通して、働きかける。
その一方では、異なった土地、環境、人間関係、あるいは気質なりの中に働きかける、民族霊である。

一方の民族霊は、言葉を通して、つまりあらゆる民族成員に共通する言語を通して、一様に働きかけてきます。ところがもう一方には多様に働きかける民族霊もいるのです。
高橋

更に、高次の霊は、民族霊だけではない。
民族をも超越した、もっと高い次元が幾つもある。
人類とか、世界という、次元である。

共通の時代についての想いを吹き込んでくれる高次の霊的存在は、民族霊とは別に「時代霊」と呼ばれています。
高橋

その時代霊の、背後には、大きな進化の流れの中の、人類全体と関わる、霊的存在がある。
それが、人類霊であると、言う。
または、形態霊・・・

いったい、民族霊というものが仮に存在するとして、その民族霊の衝動は一人ひとりの人間の中からどのように表面に表れてくるのでしょうか。シュタイナーの観点から考えると、それは三重の仕方で、個々の人間の内部から現れてくるのです。
高橋

それは、一人一人の気質を通して、エーテル体の在り方を通して、働く。

一番簡単な例として、四つの気質、粘液質、胆汁質、多血質、憂うつ質、である。
憂うつ質は、衝動を表面に表わさないので、胆汁質と多血質と、粘液質が、個人の中に持つもので、それを通して、民族霊が、働きかけるという。

気質、つまり、エーテル体となる。
だから、民族霊が、それを通して、一人一人の人間に働きかけるのである。
媒体となるのが、気質、エーテル体である。

実に、壮大な思索・・・または、妄想・・・
信じる前には、知る行為が必要である。

知る、ということも、それぞれの理解度による。
この問題を、どのように、理解するのか・・・
あるいは、批判するのか・・・
融合を旨とする、神秘学であるから、融合を考えるべきか。

これらを、図にすると、非常に解りやすいが・・・
解りやすいから、理解出来るわけではない。


posted by 天山 at 05:47| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月05日

霊学125

神秘学では、古来東洋と西洋を区別して、東洋のほうへ移るに従って、民族が若返り、西のほうに向うに従って、民族が老いていく、と考えています。どうしてそう考えるのかというと、たぶん、それは太古に大きな霊的な力が文化形成力となって、西から東のほうに流れていったからだと思います。太古の時代です。
高橋

しかし、これに対する、説得力は弱い。
その根拠は無いのである。
だが、そのように考えるという。

有史時代に入ると、むしろ東の文化が西へ流れていきますから、「光は東方より」と言うように、東のほうが古い文化をもっていることになりますが、オカルティズムでは昔から東方が若さを代表し、西方が老いを代表している、と考えています。
高橋

オカルティズムでは・・・
それは、信じるしかない。
そのように、捉える、考えるということだけである。

その場合、東方のギリギリのところに位置するのが、日本、朝鮮、中国などの東アジア圏です。日本や中国や朝鮮が共通の太古の霊的文化を最終的に受容し、さらにそこからいろいろな形で西のほうに文化を送り出していったと考えています。そして東方の極にある中国、朝鮮、日本の文化を生み出した根源的はシュタイナーの言う「アトランティス文化」なのです。
高橋

さて、そのアトランティス文化は、その大陸が、何処にあり、その大陸が没落した後で、どういう経路を辿り、文化が伝播したのかということが、問題になる。

一応、ここでは、アトランティスを大きな単位の時代を表わす名前であると、考えるとの説である。

ほぼ紀元前百万年くらいから、前一万年くらいまでの、厖大な時代である。

有史時代の文化の発祥の地である、メソポタミア、エジプトなどの、諸文化のルーツも、洪積期や、氷河期といわれている、アトランティス期にあった、と考える。

東方は、このアトランティスといわれる太古の文化を、最後に、それだけ純粋に継承していったとのことである。

シュタイナーは「アジア」という言葉は元々「いちばん霊界に近い土地」という意味だ、と述べています。そこで「光は東方より」という言葉も生じたのですが、この考えからいうと、東方は「若い土地」ということになります。文化の古さからいえば逆にいちばん古いということになりますが、ここでは文化の性質が若い、つまりその文化が地上的にならず、むしろ「霊界」に近い、という意味です。そして、その「若さ」の東の極に、日本や朝鮮が位置付けられているのです。
高橋

オカルト的に、日本を考える時、太古に遡ることのできる、根源の姿を、その地域の民族文化は、何処かに、留めていると、考える。

アラビアでも、メソポタミアでも、エジプトでも、また、ヨーロッパでも、かつて保持していた、太古の文化の匂いのようなものを、現在の民族の魂の中に感じることは、難しいと言う。

現在でも、東アジアには、太古の痕跡が存在する。
生活の中にまで、それが、浸透しているとは、大変なことである。

途方もなく、大きな歴史の連続性の中で、現在まで生き続けてあるという。

それが、オカルト的、霊的に、どんな意図が秘められているのか・・・
そこで、時代霊のことになる。

同じ時代に、世界中のあらゆる人びとに、同じような衝動を与える時代霊にも、二つの側面があるようなのです。
高橋

その時の、状況下にあって、有機的に時代を、変化発展させてゆく、働き。
もう一つは、時代の必然性とは、無関係に、それまでとは、異なる考え方を、人類にもたらす働きである。

突然、革命的に、新しい考え方を吹き込む場合は、たいていの場合は、個人に働きかけ、個人にまったく新しい世界観、人生観、あるいは、新しい発明を可能にする。

大きな着想を与える時代霊、歴史的必然性の中で、より保守的な働きをする、時代霊もあるという。

それらを、関連付けて、民族とは、何かを考える時、より具体的になる。

自分の自我が民族とどう関わっているか、自分のアストラル体が民族とどう関わっているか、エーテル体はどうか、肉体はどうか。肉体の場合の民族問題とは、むしろ人種問題のことになるわけです。
高橋

言語、生活習慣、土地、人間関係の中で、民族を考える。そして、様々な、時代霊の働きを、民族を通して、体験する。

同じ民族霊といっても、無意識的な部分で働くもの、言語のような、意識的な部分で働く霊も存在する。

オカルト的、霊的に、民族を考える場合、神秘学は、そう言うのである。

眼に見えない働きを、霊と、総称することは、問題はないが・・・

つまり、現実の世界は、眼に見えない、霊の世界との、関わりで、成り立っているということになる。
それが、神秘学であり、神智学であり、シュタイナーの人智学であるということになる。

そして、融合の思想である。
異質なものを、融合させる・・・
それを、霊的なものとして、解釈するということだ。

日本には、祖霊文化がある。
先祖を総称して、祖霊が存在し、祖霊が、現在の人間に関わると、考えるのである。
その、祖霊も、高い位と、低い位がある。
高い位の霊を、神と呼んだりする。
というより、日本の場合は、死者を、神として、御祀りするのである。

だが、それは、人間側のことである。

低い位の霊は、それなりに、働きかけるが、高い霊、霊位になると、全く、その働きかけは、見えない。
それを、民族霊、時代霊と、考えることも出来るが・・・

霊媒にかかる、あるいは、姿を見せる幽霊・・・
低い位の霊たちである。

明らかに、コンタクトする霊は、低い位である。


posted by 天山 at 06:19| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月06日

性について240

テレビ覧を見ると、毎日、料理番組がある。

だが、セックス番組は、ひとつもない。
いずれ、今夜のセックスとか、今日のマスターベーションなどの番組が出来て、おかしくない。

それほど、セックスの世界が開かれているのである。

性教育・・・
しっかりと、取り組められているのか・・・
自然に、覚えるものとの、意識が強い。

だが、受験勉強に明け暮れていた男子学生が、マスターベーションを知らなかったという。

未来の性は、いかなるものか・・・
時代は、いつも激動している。

それは、性に対しても、である。

また、性は、社会の変化とともに、変化する。

一夫一婦制は、すでに、崩壊しているようなものだ。
性の制度である、結婚形態も、変化する。

これまでは、もっとも自然で、好ましいと思われてきたが・・・
これから、違うだろう。

芸能人が、結婚、離婚を繰り返している。
いや、芸能人ではなくても、そうである。

結婚そのものは、一夫一婦制をとるが、結婚と離婚を繰り返すのは、継時的一夫一婦制と、呼ばれる。

結果的に、多くの配偶者と結婚するため、継時的ポリガミーとも、呼ばれる。
そして、時代は、それに向かっている。

今までの形態は、社会的条件の故なのである。
社会的状況が変化すれば、結婚形態も、変化する。

特に、女性の経済的地位が、確立されれば、それは、早い。

後は、子供の問題である。
が、子供は、国家が育てるという、観念が生まれれば、それもクリアする。

つまり、色々な結婚形態が、出来上がるということである。

さらに、性の多様化である。
そして、性の快楽的追求である。

もはや、性は、生殖とは、結びつかない未来である。
つまり、性を、性そのものとして、楽しむ。
だから、セックス番組の登場なのである。

欧米では、すでに、セックスに関する、専門家、スペシャリストが、どんどんと、登場している。

随分前に、書いた、マルチプルオーガズムを男も、得られるということを書いて、その指導者の著書を紹介した。

さらに、マスターペションについて・・・
より、豊かな性生活を作り上げるために・・・

一夫一婦制が、崩壊して、新しい形の男女、いや、同性同士でも、性生活が、まったく異なるものになる。

結婚、離婚を、繰り返しても、それは、単なる多夫多妻ではなく、一時的には、一夫一婦制を取る。

家庭生活は、共同生活の形態に移行する。

特に、性病、妊娠の心配がなくなれば、もっと、それが、加速するだろう。

もちろん、性が人間に関わるものである限り、無差別、無制限な性は、ありえない。フリー・セックスといっても、そこには、モラルが必要になる。

だが、その新しいモラルは、今までにないものである。

そして、性的快楽の追求が、当然のようになる。
もちろん、その中には、禁欲というものも、含まれるだろう。

禁欲の快感というものもある。

生殖と分離した性的快楽というものは、人間だけが可能となった、最も人間らしい、行為である。

東洋の場合は、性的快楽が、自然に受け入れられてきた経緯がある。
西洋の場合は、キリスト教という、宗教が、人間の性生活に大きく関与したが・・・

それも、時間の問題である。

未来は、更に、科学、電気技術などにより、性的快楽を高める道具が工夫されることだろう。

ホルモン学も、性的能力に貢献するはずである。

更に、脳学である。
大脳の部位を刺激することにより、性的快感が得られることから、それに準じた方法が開発されるだろう。

アメリカで、前立腺肥大の治療具が、日本にては、男の性感を高めるものとして、利用されるように・・・

更に、性の専門家、スペシャリストの登場である。
医者ではない。

より豊かな性を楽しむことを、指導する人たちの存在。
セックスセラピスト・・・
セックスカウンセラーである。

posted by 天山 at 06:15| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月07日

性について241

今年、2013年の国際美人コンテスト、つまり、ミスコンテストが、インドネシア、ジャカルタで、開催されることになったが・・・

インドネシアは、イスラムの国である。
即座に、イスラム教徒による、反対運動が起こった。

女が肌を露出するのは、イスラム法に反している。
更に、エロスである・・・

未だに、そのような世界がある。

そこで、大会は、イスラム色の少ない、ヒンドゥーのバリ島に変更になった。

さて、本当に、イスラムの人たちは、性的なものを、拒絶しているのか・・・
事実は、全く逆である。

世界的、歓楽街と言われる、タイ、パタヤには、多くのイスラム教徒が、遊びに来ている。
勿論、セックスを求めて・・・

自国では、決して出来ない遊びが出来るのである。
つまり、イスラム国は、時代と、相当に乖離しているのである。

更に、イスラムでは、肌の露出も禁止ならば、衣に隠された女の姿を見ても、欲情するのだろう。
また、その少年愛、ゲイの多数も、存在する。

時代に逆行する、イスラムの世界は、性に関して、混迷を増すばかりになるだろう。

ゲイの死刑などは、論外である。
世界的に、受け入れられるものではない。

長い性的抑圧が、何をもたらしたのか・・・
それは、欲情である。

だが、一度、それが開放されると、性的関係を求めないという、人種が現れるようになった。

日本の夫婦では、セックスレスという言葉が、定着した。

更に、草食系男子・・・
そして、若い女も・・・

共に、セックスを好まないという状態である。

抑圧された時代では、人間にとって、性がすべてであるという、意識さえ、生まれた。

これは、誤りであり、性は、一つのファクターでしか、有り得ないのである。

人間は、多くのファクターを有することが出来る。

性的快感、快楽は、最早人の手を離れて、大脳生理に行き着く。
電気刺激によって、性的快感が得られる時代である。
性は、本人だけの問題になる可能性もある。

この現代でも、性の手ほどきを受けることなく、手探りで、セックス、性的快感を求めている。

時代は、激動である。

よりよい性的快感を得るための、指導・・・
そんな時代が、近づく。

現在の売春行為とは異質のものとして、性的快感を与えてくれる男女のスペシャリストが出現することも十分に予想されよう。人間が、すぐれた芸術家によって情動的快感を受けたり、すぐれた調理家によって美味を味わうように、すぐれた性のスペシャリストによって性的快感を体験するのは、ごく自然であり、またそうすることは人間の権利の一部でもある。
巻 正平

もし、性的抑圧が、無くなれば・・・
性は、もっと、自由で、人間性としての、武器になるだろう。

それは、開放されることにより、性的放縦、耽溺などということが、無くなるからである。
性的精神疾患で無い限り、性は、解放により、選べるのである。

飢えている者が、満腹に満たされると、それ以上に食欲は無くなる。
性も、同じである。

つまり、性の自由が、放逸を生むなどというのは、幻想である。

性も、一つの選択肢になるのである。

レジャー時代の、リクレーションは、数多く存在する。
その中の、一つとなるのが、性である。

更に、肉体の意味が変容する。
イスラムのように、肉体を即、性的なものと、決め付けることは、なくなる。
肉体は、美であるという、意識に変容する。
すでに、そのようになっている。

裸が、性的なものとしてのみに、理解されるのは、性的異常の世界である。

未来生活の中で性が地味な存在となるだろうとする予測は、それがむしろ正常な性のすがたであることを表現したものといえよう。性の未来学はどうやら、今日の性的状態からは予測しにくい多くの未知のファクターによって構成されるべきもののようである。
巻 正平

巻氏の、人間にとって性とは何か、という本は、昭和48年の発行である。
すでに、昔のお話である。

その当時は、性教育に関しても、十分な研究がなされていなかった。
つまり、問題の核心に届いていなかったのである。

更に、性モラルの崩壊が、印象的な時代である。
性モラル・・・
それでは、イスラムのような、モラルが必要かといえば、全く逆である。

抑圧は、歪な性感覚を生む。
開放と、自由は、より人間的な、性的関係、性的快感を得ることになる。

セックスが、個人に帰結するということである。
百人百様のセックスが、認められるということである。


posted by 天山 at 06:43| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月09日

沈黙を破る77

エジプト騒乱の問題は、結局、宗教に帰する。

前大統領の支持者は、ムスリム同胞団である。
つまり、政治に宗教を強く反映させるべくの、団体。

それで、イスラム法に、徐々に近づけて行く方法を、取った。
そこで、比較的開かれた、イスラム教徒たちが、抵抗した。

もし、エジプトが、厳格なイスラム国家になれば・・・
あらゆることが、先祖返りする。

時代錯誤は、甚だしい。

日本人でさえ、アラブ人と、会話するのは、難しいのである。
それが、白人キリスト教徒と、会話など、出来る訳もない。

それほど、分断しているのである。

だが、キリスト教が、話し合いの出来る連中と言う訳ではない。
彼らも、根は、同じである。

何せ、一神教である。
唯一の神・・・

互いに、それを譲らない。
と、喧嘩するしか、方法がない。

どんなに、愛溢れる、キリスト教徒も、イスラム教徒に対しては、愛を溢れさせないのである。

それは、至る所で、見た。

兎に角、相手の神を、受け入れない。

オーストラリア、アボリジニ特区に出掛けた際に、ボランティアのキリスト教徒がいた。
私が、アボリジニの戦争犠牲者のために、祈りますと、言うと、そのクリスチャンは、彼らは、キリスト教徒ですと、言う。

つまり、他国の宗教で、祈りを上げても、意味がないと、言いたかったのだろう。

アボリジニを散々な目に遭わせたのも、キリスト教徒であり、その後、今度は、ボランティアをするという偽善に気付かない程、信仰というものに、やられているのである。

アメリカ軍が、表は、アメリカ国旗を、そして、後ろに、赤十字の旗を持参するが、如くである。

とても、ずるい。

イスラムが、攻撃的なのは、キリスト教が、攻撃的なのと、同じである。

政治に、宗教の全面を出すと、酷く混乱する。
今時、イスラム法などで、国を操るなど・・・

時代が違う。

キリスト教国の多くが、同性婚を認めた。
だが、イスラム国は、絶対に認めないし、まだ死刑に相当するだろう。

恐ろしいほどの、蒙昧なのである。

タブーが多く、それを守ること。
それで、何とか、自制していられるのだと、思っている、私は。

それほど、野蛮なのである。

ユダヤ教に似る、規則。
キリスト教は、そんなことを、言っていられなかった。

何せ、世界侵略のために、出掛けて、その土地に合わせて行動しなければ、ならなかったのである。

イスラム帝国は、栄えていた。
しかし、キリスト教徒が、戦いを挑み・・・
そして、彼らを目覚めさせた。

同じく、野蛮な本性である。

ユダヤ教と同じく、兎に角、利益に拘るイスラム。

この三つの、宗教がある限り、戦いは、終わらない。

共倒れを願うしかないのである。



posted by 天山 at 05:42| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月10日

神仏は妄想である。441

ヨハネの福音書に関して・・・

学者は、長年この疑問に頭を悩ませてきた。そして、ある種のコンセンサスが、過去25年から30年のうちに、「ヨハネ」の解釈者の間で出来上がった。このコンセンサスは、新約聖書の解釈で世界的に有名な二人の大家が、20世紀末に提議したものである。
一人はプロテスタント、もう一人はローマン・カトリックで、どちらもニューヨークのユニオン神学校で教鞭を執っていた。
この二大巨頭、すなわちJ・ルイス・マーティンとレイモンド・ブラウンは、イエスの神性を強調している「ヨハネ」のキリスト論が、この福音書が書かれる以前に、ヨハネの属していたキリスト教共同体の仲間内で変化したキリスト観を踏襲しているのだと主張した。こうした変化は、この共同体の社会的経験の影響を受けていた。
アーマン

共同体であるために、自分たちにまつわる、伝承を有していたということである。
共同体は、同一の物語を共有している。
物語が、語られる手法は、当該の共同体に起きた、出来事と、連動しているのである。

さて、ヨハネの特徴である。
イエスの神性を、ことさら強調するのとは、対照的に、キリストが、全く、人間的な言葉で、語られているということである。

それを、高いキリストと、低いキリストと、呼ぶ。

低いキリストは、全く神性を感じさせず、地上での使命を果たすために、神によって、選ばれた人間である。

高いキリストは、その冒頭にあるように、高いキリストを書き付ける。

マーティンとブラウンは、人間味溢れる言葉でイエスが描かれている箇所は、福音書が、具現化している、最古の言い伝えであり、高められた存在としてのイエスは、後世の産物だと、考えた。

高いキリストは、彼らの共同体が、体験した経験を通して、イエスが、この世のものではなく、神の世界に属する者だと、考えるようになった。

ヨハネの共同体は、元々、シナゴーグに属する、イエスがユダヤのメシアであることを、受け入れていた、ユダヤ教の一派だった。
だが、この信仰のために、彼らは、シナゴーグを去ることを強いられた。
そして、イエスを信じる、信者からなる、共同体を作ったのである。

彼らは、自らを納得させる、必要があった。
何故、私たちは、拒否されたのか・・・

何故、家族や友人は、イエスの真実が見えないのか・・・
何故、イエスを理解できないのか・・・

そして、遂に、共同体は、共同幻想を抱く。
真実を知るのは、我々であり、他の共同体は、その真実が見えないのだ。

そして、その真実は、天から授けられたものだ。
共同体以外の人は、地上の思考に囚われている。
ヨハネの共同体だけが、この真実を獲得した。
他のすべての人間は、間違っている。

とうとう、共同幻想のとりこになったのである。
カルトに似る。

遂には、われわれには、天から降臨したものを、識別できる力がある。他の人たちは、それが、無い。

こうなると、妄想全開である。

この共同体が、シナゴーグを追われた我が身について説明するために編み出したイエス観は、どんどん高められていった。ついには、神と正しい関係を結ぶには、神が遣わしたこの者を受け入れなければならないと言い始めた。
すなわち、人は、「霊的」に新たに生まれなければならない。共同体の外部の人間は、生きてはおらず、命を得ることは、決してない。彼らは神の子ではない。彼らは悪魔の子だ。
アーマン

最終的に、ヨハネの福音書が書かれた時には、作者は、共同体で語られていた、様々な伝承を合体させた。

だから、イエスを完全なる人間とみなす本来の伝承と、彼を神とみなす、後の伝承がごた混ぜになっているのだ。かくして、イエスが神であるという思想が誕生した。
アーマン

ヨハネの共同体は、他の共同体が、イエスは神であるという道に至る、それを獲得した方法とは、異なるのである。

それぞれが、異なる道を辿る。
そこで、色々な軋轢もある。

主導権争いもある。
何せ、信じる者たちの、共同体である。
どこの宗教も、その争いが付きまとうのである。

何故か。
妄想だからである。

妄想のぶつかり合いである。
より信じる者が、頑固になり、排他的になり、非寛容になる。

ただ、政治的作為により、後に、教会として、統一されるのである。
それが悲しい。

ローマ皇帝の、一つの駒として、キリスト教が出来上がるのである。
それが、ローマカトリックである。
ローマと冠が付くのが、おかしい。

カトリックとは、公教会と、訳されるが・・・
実際は、ローマ皇帝によって、統一されたキリスト教という意味になるのである。

だが、そこに行き着くまで、初期のイエス共同体は、乱れる。
更に、非ユダヤ人の信者の獲得である。

そこに、反ユダヤという思想も、生まれてくる。
イエスは、ユダヤ教の一人の革命家だったはずだ。

イエスは、ユダヤ教の人々の中での、宣教を行ったのである。


posted by 天山 at 05:37| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月11日

神仏妄想である。442

当初は、イエスを信じるという、共同体は、多数存在していた。

であるから、イエスを、神の子と、呼ぶ口承は、存在していた。
だが、神の子に対する、認識は、それぞれの共同体で違ったのである。

イエスを信じる、一部のユダヤ人は、ダビデ王をはじめとする偉人と同じように、イエスが、神と密接な関係があると、考えた。

神は、イエスを通じて、この世に働きかけ、イエスは地上で、神の意志を仲介する者という、意識である。

しかし、キリスト教に改宗した、非ユダヤ人にとって、イエスが神の子とは、どんな意味を持つのか。
非ユダヤ教徒の神話には、神の子とみなされた多くの登場人物がいる。
彼らは、不死身の親と、そうではない親の間に生まれたため、半神半人と信じられた。

だから、彼らの異教の伝説に照らして、イエスを理解するのである。

つまり、それは、イエスが半神だと、思い込むものであり、完全なる人間である、ユダヤ的神の子とは、別物である。

さて、もう一つは、イエスが人の子であるという、発想である。
イエス自身が、福音書で、旧約のダニエル書に書かれる、この世の宇宙的審判者である、人の子がやってきて、この世に裁きを下すと語る。

しかし、イエスが復活したと信じた者は、地上で審判を行うために、イエス自身が、降臨すると、考えた。

パウロも、そのように語る。
パウロは、イエスこそが、未来の裁き人として、天から降りてくる、人の子であると、理解していた。

更に、もう一つは、イエスが生きていた間、彼の信者は、イエスのことを、主とみなした。
奴隷、僕が、主人を主と呼ぶのと同じである。

ところが、復活を信じるようになると、その主が、変容する。

イエスは、地上だけではなく、天の国における、支配者となるのである。

初期キリスト教徒は、旧約聖書の中で、主と呼ぶのは、神自身であると、気付く。
そうすると、もしイエスが、神ならば、地上に出現する以前から、存在していたという結論に達した。

この見解は、パウロが特に言うことだった。

イエスが神だという考えは、すべての初期キリスト教共同体で、同時期に、あるいは同じ道を辿って形成されたわけではない。何世紀もの間、エピオン派のように、このような考えを持たない共同体が存在し続けた。
アーマン

パウロの共同体は、早い時期から、それを認めていた。
マルコ、マタイの共同体では、そのような認識が生まれた形跡が無い。
ヨハネの共同体では、その認識に至るまで、数十年かかった。

だが、二世紀、三世紀になると、様々な共同体で、論争が起きる。
その結果、イエスが神であるという信仰が、かなり一般的になったのである。

そして、驚くべきことに、イエスが、復活のときに、神がその地位を引き上げて、単なるユダヤの神の子から、イエス自身が神になった。
それは、初期教会が考え出した、神学論のなかでも、最も息の長いものとなった。

このように、イエスが、神の子であり、神であるという、過程、創作が行われたことが、見えてきた。

そして、異教徒、異邦人にまで、イエスを伝えることから、ユダヤ教を飛び出したのである。

だが、問題は、山積みである。
初期キリスト教の神学者は、イエスの神性を信仰することで、大きな壁に当たった。

神は大勢いるという、異教の教えを排除し、ユダヤ教の堅固な一神教の伝統を、守り抜こうとしたからである。

イザヤ書には、
わたしは初めであり、終わりである。
わたしをおいて神はない。

神も神、イエスも、神・・・

実に馬鹿馬鹿しい議論であるが・・・

ユダヤ教的キリスト教徒だった、エピオン派は、神は一人しかいない、だから、キリストは、神ではないと、頑固に主張した。

すでにこの時、原罪という意識があり、エピオン派は、イエスはメシアであり、原罪を背負って、死ぬことにより、この世で神の意志を実現するために、神によって選ばれた人間である。
彼は、神にとって、特別な人間であり、その息子として、迎えられた。しかし、彼は、最初から最後まで、人間である、という。

ユダヤ社会では、メシアが神と、みなされることは、一度もなかった。

つまり、ユダヤ教では、メシアは、神ではなく、人間なのである。

現在も、ユダヤ教は、イエスをメシアとは、認めない。
何故か・・・
それは、何度も言うが、イエスの死は、政治的なものであり、更に、反ユダヤ教と、認識されたからである。

ユダヤ教の体制批判をする者である。
だが、イエスは、ユダヤ教徒として、説教を繰り返した。
ユダヤ教の刷新である。

イエスの思いと、信じる者たちの思い、ユダヤ教の人たちとの、思いが、バラバラである。

イエスは、世界人類のための説教は、していないのである。
イエスの世界観は、ユダヤ社会のみである。
人類の罪のために・・・
とは、全く、馬鹿げた話である。

まだまだ、このイエス論争は、続く。


posted by 天山 at 07:00| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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