2013年09月30日

国を愛して何が悪い95

明石総督は、高雄港の自由港や日月譚ダムなどの、巨大インフラ建設のプロジェクトに取り組んだ。

日月譚ダムは、台湾で一番長い河川である、濁水渓を上流から、トンネルや地下水路を掘り、導き、低地に堰堤を築いて、日月譚をダムとして、最大10万キロワットの電力を、北は台北から、南は高雄まで送電する、一大綜合プロジェクトである。

総工費は、4800万円。完成までは、五年。
結果的に、総工費は、6800万円になり、当時の台湾総督の、年間予算を超える、大プロジェクトになった。

だが、明石は、就任した、翌年の大正8年10月、特別演習の陪観のため、東京に戻る途中で、病気が重くなり、郷里の福岡で下船し、10月24日、死去した。
56歳である。

明石は、台湾を離れる前に、もし身上に万一のことがあれば、必ず台湾に葬るように・・・と、遺言を残した。

余は死して護国の児となり、台民の鎮護たるざるべからず

そのようである。
昔の日本人は、そのような気概があった。

更に、もう一人、烏山頭、オスアタムダムを建設した、八田与一を紹介する。

東洋一といわれる、巨大ダムを建設した、中心人物である。
土木技師であった。

このダムの完成により、一面荒れ野だった、嘉南平野が、潤い、台湾の全農地の、六分の一にあたる、15万ヘクタールが、豊かな農地となったのである。

このダムは、農民に測り知れない利益をもたらし、60万台湾農民の心に深く刻まれた。

現在も、八田の命日である、5月8日には、水利組合の役員をはじめ、農民たちによって、八田を祀る祭礼が行なわれている。

建設当時は、ダムの寿命が、50年といわれたが、70年以上を経た今も、貯水能力は三分の二を維持し、竣工当時と同じように、水をたたえている。
現在は、珊瑚譚という名称で、観光地として賑わう。

昭和17年5月5日、八田は、フィリピンの綿作灌漑の視察を命じられ、広島県宇品港から、太平丸に乗り込み、南を目指した。
しかし、五島列島の南を航海中、アメリカの魚雷攻撃で、撃沈され、海の藻屑となった。その、一ヵ月後、遺体は、漁船の網にかかり、引揚げられた。
56歳である。

台湾には戦後もずっと一日も休むことなく「君が代」が歌われているところがある。それは台南の飛虎将軍廟である。この廟に祀られているのは、太平洋戦争の末期、昭和19年10月11日、台南近郊の上空で米軍機に体当たり攻撃をして果てたゼロ戦パイロット杉浦茂峰ら三名の海軍航空隊兵士である。空中戦を観戦していた農民たちは、畑に墜落した彼らの遺体を収容し、護国の神として廟を建てたのである。「君が代」と「海ゆかば」が祝詞となった。
黄 文雄

敗戦後は、国民党政府によって、祭事の中止が強制されたが、廟を守る農民たちは、一丸となり、抵抗して、今日まで、守り抜いているのである。
意味なくして、そんなことは、有り得ない。

国民党は、台湾の伝統的な民間信仰を迷信として、また地方の祭りを浪費として、禁止をした。
全く、日本の統治時代とは、逆である。

さて、日本人警官が、神様として、祀られている場所がある。
苗栗獅頭山勧化堂、嘉義県東石富安宮である。

勧化堂は、広枝音右衛門警部、富安宮が、森川清治郎巡査である。

広枝は、昭和18年末、海軍巡査隊長に任命され、2000人の台湾人志願兵、軍属を連れて、マニラに渡り、巡査隊の訓練と、治安維持の任務に当たった。
しかし、昭和22年2月、米軍上陸が伝えられると、巡査隊は、フィリピン派遣軍軍司令部から、手榴弾が配られ、全員玉砕が命令された。

だが、広枝は、苦慮したあげく、台湾人の命を保障するようにと、ひそかに米軍と交渉し、2000人の隊員に言う。

諸君はよく国のために戦ってきた。しかし、今ここで軍の命令どおり犬死にすることはない。祖国台湾には諸君らの生還を心から願う家族が待っている。私は日本人だから、責任はすべて私が取る。全員、米軍の捕虜となっても、生きて帰ってくれ。

敗戦後、台湾人たちは、全員、帰国した。
そうして、広枝は、神として、祀られたのである。

森川巡査は、家族と共に、台南市の村に赴任した。
明治30年である。

治安維持に当たる警官だったが、力で抑えることはなかった。
仕事熱心で、教育熱心で、小学校がまだ作られていない時代、派出所の横に、寺子屋を建てて、子供たちに勉強を教えた。

農民には、農業指導をし、病気の人には、薬を調達する。人々の生活全般に渡り、心を配った。
更に、農業と漁業を兼業している貧しい村のために、税金の免除を何度も、総督府に嘆願した。

しかし、現地住民から慕われた森川巡査を、上司は、反動的人間とみなし、懲戒処分とした。
森川は、そこで抗議の自殺をする。
42歳であった。

村人は、森川巡査の徳を讃え、生前の姿を模して、神体を作り、義愛公として、祀ったのである。

ちなみに、日本の統治政策は、教育にも、力を入れたということである。
日韓併合の際、当時、学習児童は、14万人ほどである。
総人口の1パーセント。台湾も同じようだった。

しかし、韓国では、昭和18年に、就学率は、61パーセントに達し、昭和19年には、国民学校が、5213校、生徒数は、239万8千人あまりである。
同じ頃、台湾では、就学率、92,5パーセントにも達した。

京城帝国大学が創設されたのは、1924年、台北帝国大学は、1928年に創設である。
つまり、日本の内地の、大阪帝国大学より、早いのである。
1931年、昭和6年である。
名古屋大学は、昭和14年、1939年である。

今日の韓国、朝鮮人は、日帝時代は、愚民化政策がとられたと言うが、何を根拠にしているのか・・・

韓国も台湾も、日本が、創ったのである。
植民地政策・・・
欧米のそれとは、全く別物である。




posted by 天山 at 05:30| 国を愛して何が悪い2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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