2013年09月14日

神仏は妄想である。439

われわれはもはや、受難物語全体から、イエスの死の歴史的真相を正確に再現することは、断念しなければならない。それはこれまで述べてきたように、あまりにも強く教団神学の描く祭儀のキリスト、すなわち死と復活のキリスト像におおいつくされてしまっている。ユダヤ教のファリサイ派や律法学者が、一貫して、イエスの敵に仕立て上げられる受難の図式は、先に指摘したように、一部は明白に、後の教団神学の虚構にすぎない。
山形孝夫

作り上げられた嘘の上にあるもの・・・
それが、イエスは、キリストである。

さて、政治的な状況を見れば、イエスの出現は、当時、10年もの長きに渡り、体制ユダヤを脅かし、その後、紀元66年、ユダヤ戦争の導火線となり、70年、エルサレム陥落の引き金となった、反体制メシア運動と、確実に二重写しになる。

イエスは、この状況下で、反逆罪に問われたのである。

イエスもまた、そのことを知る。
エルサレム入りを目の前に、イエスは、それを知り、恐れおののくのであるが・・・

それが、一切合切、受難物語として、語られるのである。
付け入る隙が無い。

ルカ、マタイの福音では、イエスが、自分を、神からつかわされたもの、天からやってくる、人の子として、語るのである。

そこでは、イエスを受け入れることは、イエスが神からつかわされたもの、だけではなく、イエスの言葉が神からのもの、それを事実として、受け入れる。
歴史を変革する決定的な出来事として、受け入れるのである。

そして、マタイは、
わたしにつまずかない人は幸いである。
と、書き添える。

最初の教会は、その福音書の作者の求めに、決断を持って、受け入れた人たちの、信仰共同体としての、信仰告白である。
つまり、福音書は、信仰告白の何物でもないのである。

創意工夫された、福音書なのである。

ヨハネや、パウロは、イエスの告知の内容を大胆に無視する。
何故か・・・
すでに、結論が見えているからである。
イエスは、キリストであると・・・

答えが先にあるのだ。

そこに、推論や、推測は無い。
イエスは、キリストであるという、結論である。

信じてしまえば、話は早いのである。

そこで、通俗的に言えば、その福音書は、誰に向って書かれたのかである。
ユダヤ人である。
ローマの支配を受けていた、ユダヤ人たちに書かれたものである。

よって、世界的云々という話ではない。
福音作家たちの、世界観は、どの程度のものだったのか・・・

人類の救い主、イエス・キリストではない。
彼らのための、イエス・キリストだったのである。

キリスト教が、世界的になったのは、白人主義と絡み、世界制覇に乗り出してからである。

つまり、白人のキリスト教に変容してから、世界的キリスト教となったのである。

であるから、福音書というものは、
彼らはイエスの生涯の出来事を、ありのままの姿において描き出すことに、ほとんど関心を示さなかった。しかもそれは福音書記者だけに限られない。パウロなどは、単にイエスの地上的生涯を知らなかったというだけではなく、知ろうともしなかった。
と、山形氏は言う。

信じた者が、信仰告白として、福音書を書けば・・・
何とでもなる。

実際、福音書は、それぞれの作家によって、バラバラである。
マルコの奇跡物語、マタイのユダヤ的メシア待望論と、終末論的キリスト論、パウロの贖罪論的キリスト論、ヨハネの、光の子キリスト論・・・

それらが、統一されたのは、313年、コンスタンティヌスの宗教寛容令によって、非合法化されていたキリスト教が、公然と布教活動を開始する時である。

ローマの教会が、白人に取って代わられた時である。

すでに、初期ユダヤ人キリスト教徒は、殺されていたのである。

更に、聖典編纂により、新約聖書が、ローマ教会により、認められた。
その際に、捨てられた多くの書物は、外典、異端として、今に至る。

キリスト教徒は、ローマ教会以来の、聖典を聖書として、受け入れている。
そして、それを、正統とする。

根拠は、ローマ教会の権威である。
ただ、それだけである。

信仰は、各自それぞれの、極めて個人的な情緒である。
しかし、キリスト教の場合は、教会が支配する。
カトリック、プロテスタントに関わらず・・・

新興キリスト教も、そうである。
人の心を、支配する。

権威主義的宗教である。
そこには、人道的な宗教の姿は無い。

イエスの、受難は、あれは、政治的なものである。
それも、信じる人たちによれば、神の子が人類の救いのために、十字架につけられた、ということになる。

宗教における、何とでも、言えるというからくりは、おぞましい程である。

そして、それが、後に、白人主義と結びつき、世界的強奪の歴史が生まれる。
その一面を見ても、キリスト教が、邪教であることが理解出来るのである。




posted by 天山 at 05:48| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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