2013年09月12日

神仏は妄想である。437

マタイ、ルカ、ヨハネの福音書は、イエスが神の子であることを、立証することから、はじまる。

マタイの場合は、アブラハムから、ダビデ、ソロモンを経て、マリアの夫ヨゼフに至る。
42代の連綿たる、正統ユダヤ系図である。

そして、一挙に神の子、キリストと続くのである。

ここで、疑問である。
あくまでも、マリアの夫ヨゼフの系図である。
マリアではない。

マリアは処女降誕である。
それを信じられなければ、イエス・キリストは、有り得ない。

マリアのみの子であれば、ユダヤ系図ではない。

ルカの場合は、手が込んでいる。
系図は無いが、神話的衣裳に彩色されている。

天使のお告げ。ザカリアの予言、天の軍勢の合唱する讃歌。
イエスの誕生は、神の子の降臨なのである。

まさに、創作である。

ヨハネは、有名な神話的表象による。
初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。・・・

だが、一番古いマルコだけは違う。
神の子の誕生が無いのである。

更に、復活の物語が無い。
それは、ヨルダン川の荒野に叫ぶ預言者ヨハネの群集の一人から、始まる。

ありのままのイエスに、近い形である。

であるから、19世紀に隆盛する、イエス伝は、マルコを基礎にして書かれたのである。

その後の、マルコは、独自の着想により、書き続けた。

それでも、マルコも、全く史実性に欠けるという、結論である。

つまり、マルコの福音を構成する伝承群は、受難物語の、ただひとつである。
その他は、断片的、バラバラになったものを、ストーリーとして、再構成されたものである。

マタイやルカは、それ以上に、かなり高度な段階を踏んでいる。

彼らは、限られた量の伝承に、大幅なヴァリエーションをもたせるために、ひとつの事件から次の事件へ、たえず新しく場面をセットする。そうした方法にしたがって、福音書は作成されたのである。
山形

例えば、イエスの語る言葉を、背景の違う、様々な場面にセットするのである。
場面がセットされると、登場人物が問題となる。
そこにも、作家たちの、好みがある。

これ以上の詮索は、省略する。

結果的には、原始教団のキリスト像創作の、手法を示すことの手の内が解ったのである。

福音書を歴史的書物と、見ることは出来ないということだ。
また、イエスの、実像にも、遠いものである。

福音書に限らず、一般に口承文学に関して、ある物語が、口から口へ伝承されていく過程において、もっとも変化をうけやすい部分は、物語の様式や全体の構造ではなく、むしろ細部の付随的部分である。それは、人間の好奇心と結合したイマジネーションの結果であるが、好奇心というものは、つねに物語の核心よりも、その細部の明確化にむかって働く傾向をもつからである。
山形

これに関しても、今は、詮索しない。
後で、聖書のイエスの言葉が、イエスのものか、作者のものかと、論じる。

ただ一つ取り上げる。
山上の垂訓といわれる、イエスの説教である。
マタイとルカにある。

心の貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。・・・
と、全部で、8つある。

一つ一つがリズムを持つ、美しい言葉である。
全体は、三章に渡り続く。

マタイ、ルカは、この説教を、情景描写からはじめている。
物語を仔細に、分析すると、イエスは、群集に向って、語りかけているが如くに見えるが・・・
違う。

正確には、イエスはこの群集を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き・・・

ルカは、イエスは山で祈られて、それから、山を下り、平地に立たれた。そこで群集に取り囲まれた。

よくよく、読み込むと、大衆に語る言葉と、近くの者たちに語る言葉というものがある。

マタイは、群集に相応しくない言葉、更に矛盾する言葉は、それを回避するために、聴衆を二段構えにしているのである。

つまり、群集向けと、弟子向けの二つに、仕切られるのである。
そこに、マタイの工夫がある。

実に手の込んだ、明細化である。

私が言いたいことは、福音書は、創作されたものであるという、一点である。
それは、史実でも、事実でもないということだ。

仏教の大乗に多く見られる形である。

すべて、作者の思いのまま・・・
作者の考え方、ものの見方を描くのである。

どこにも、仏陀の言葉は無い。
同じように、福音書にも、どこにもイエスの言葉が無い可能性もある。

だから、法華経のように、日蓮が、仏陀最後の教え、これにより、救われるという、勘違いが、多々起こる。
法華経が、東方基督教の影響を受けて、創作されたものだとは、知る者しか、知らないのである。

これぞ、仏法・・・
などと、言われると、私は、笑う。



posted by 天山 at 07:08| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。