マタイの場合は、アブラハムから、ダビデ、ソロモンを経て、マリアの夫ヨゼフに至る。
42代の連綿たる、正統ユダヤ系図である。
そして、一挙に神の子、キリストと続くのである。
ここで、疑問である。
あくまでも、マリアの夫ヨゼフの系図である。
マリアではない。
マリアは処女降誕である。
それを信じられなければ、イエス・キリストは、有り得ない。
マリアのみの子であれば、ユダヤ系図ではない。
ルカの場合は、手が込んでいる。
系図は無いが、神話的衣裳に彩色されている。
天使のお告げ。ザカリアの予言、天の軍勢の合唱する讃歌。
イエスの誕生は、神の子の降臨なのである。
まさに、創作である。
ヨハネは、有名な神話的表象による。
初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。・・・
だが、一番古いマルコだけは違う。
神の子の誕生が無いのである。
更に、復活の物語が無い。
それは、ヨルダン川の荒野に叫ぶ預言者ヨハネの群集の一人から、始まる。
ありのままのイエスに、近い形である。
であるから、19世紀に隆盛する、イエス伝は、マルコを基礎にして書かれたのである。
その後の、マルコは、独自の着想により、書き続けた。
それでも、マルコも、全く史実性に欠けるという、結論である。
つまり、マルコの福音を構成する伝承群は、受難物語の、ただひとつである。
その他は、断片的、バラバラになったものを、ストーリーとして、再構成されたものである。
マタイやルカは、それ以上に、かなり高度な段階を踏んでいる。
彼らは、限られた量の伝承に、大幅なヴァリエーションをもたせるために、ひとつの事件から次の事件へ、たえず新しく場面をセットする。そうした方法にしたがって、福音書は作成されたのである。
山形
例えば、イエスの語る言葉を、背景の違う、様々な場面にセットするのである。
場面がセットされると、登場人物が問題となる。
そこにも、作家たちの、好みがある。
これ以上の詮索は、省略する。
結果的には、原始教団のキリスト像創作の、手法を示すことの手の内が解ったのである。
福音書を歴史的書物と、見ることは出来ないということだ。
また、イエスの、実像にも、遠いものである。
福音書に限らず、一般に口承文学に関して、ある物語が、口から口へ伝承されていく過程において、もっとも変化をうけやすい部分は、物語の様式や全体の構造ではなく、むしろ細部の付随的部分である。それは、人間の好奇心と結合したイマジネーションの結果であるが、好奇心というものは、つねに物語の核心よりも、その細部の明確化にむかって働く傾向をもつからである。
山形
これに関しても、今は、詮索しない。
後で、聖書のイエスの言葉が、イエスのものか、作者のものかと、論じる。
ただ一つ取り上げる。
山上の垂訓といわれる、イエスの説教である。
マタイとルカにある。
心の貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。・・・
と、全部で、8つある。
一つ一つがリズムを持つ、美しい言葉である。
全体は、三章に渡り続く。
マタイ、ルカは、この説教を、情景描写からはじめている。
物語を仔細に、分析すると、イエスは、群集に向って、語りかけているが如くに見えるが・・・
違う。
正確には、イエスはこの群集を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き・・・
ルカは、イエスは山で祈られて、それから、山を下り、平地に立たれた。そこで群集に取り囲まれた。
よくよく、読み込むと、大衆に語る言葉と、近くの者たちに語る言葉というものがある。
マタイは、群集に相応しくない言葉、更に矛盾する言葉は、それを回避するために、聴衆を二段構えにしているのである。
つまり、群集向けと、弟子向けの二つに、仕切られるのである。
そこに、マタイの工夫がある。
実に手の込んだ、明細化である。
私が言いたいことは、福音書は、創作されたものであるという、一点である。
それは、史実でも、事実でもないということだ。
仏教の大乗に多く見られる形である。
すべて、作者の思いのまま・・・
作者の考え方、ものの見方を描くのである。
どこにも、仏陀の言葉は無い。
同じように、福音書にも、どこにもイエスの言葉が無い可能性もある。
だから、法華経のように、日蓮が、仏陀最後の教え、これにより、救われるという、勘違いが、多々起こる。
法華経が、東方基督教の影響を受けて、創作されたものだとは、知る者しか、知らないのである。
これぞ、仏法・・・
などと、言われると、私は、笑う。