2013年09月11日

神仏は妄想である。436

宗教史的にみると、初期キリスト教史は、カナンの再生の神々が、復活の花婿キリスト像に集合し、受難と復活の祭りをとおして、福音書に結晶化していく歴史であった。
山形孝夫

卓見である。
さまに、研究家である。

歴史とは、そういうものである。
突然、断絶してしまうものではない。

であるから、イエスの最後の晩餐・・・
それは、イスラエルの過越しの祭り、ペサハから出たものである。

ペサハの記憶が、イエスの最後の晩餐に、突如として、生き生きと、再現される。
その相違点は、ペサハの祭りでは、初子の、子羊がほふられるのであるが、主の晩餐では、イエス自身のこととなる。

マルコが書く。
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の地である。」

まさに、マルコの、イエス観である。
神との、契約の動機が、付加されている。

イエスの食事が、神との契約のための、祭儀行為になるのである。

旧約と、新約をつなげるもの・・・
それは、福音書作家たちの、苦心の作である。

ルカは、明確に、過越しの食事と名づけている。
更に、イエスは、そこで、この世における、最後の食事であると、明言する。

神の国で過越しが成し遂げられるまで、神の国が来るまで、イエスは、再び、食べないと言う。
言わしめている。

原始教団では、主の晩餐は、神の国がすべてに到来した、その結果、再開された食事ということになる。

それは、イスラエル的ではない。
復活の歓喜の食事となる。

ルカは、そこで、復活したイエスに弟子たちが、エマオの村で会うという、不思議を書き付けている。

弟子たちは、ヘレニズムの伝統的な、祭儀に従い、イエスを、祭りの主として、再現したのである。

弟子たちの心には、イエスの復活が存在したのである。
生き返ったものではない。
心に、イエスが甦ったのである。

それでは、福音書の虚構について・・・
最初のマルコである。

マルコの福音書が、描く、イエスの生涯は、純粋に史実であるという確信から出発した、イエス伝神学から、打ち破られたのは、20世紀初頭の、ドイツ宗教史学派の特記すべき、功績に属している。

ブレスラウ大学の、W・ヴレーデと、ゲッテイゲン大学の、J・ヴェルハウゼンの果たした、見事な役割である。

ヴレーデは、1901年、福音書におけるメシヤの秘密、を、世に出し、マルコ福音の、イエスのメシヤ自覚の仔細な検討を試みた。
それは、極めて、否定的結論に終わった。

メシヤに関するイエスの言葉は、正確な歴史的伝承ではなく、マルコ記者の神学的創作にすぎないことが、明らかになったのである。

最初、教団は、イエスの生涯に、メシヤ性を認めることをしなかった。
それは、もっぱら、復活と再臨に限られていた。
ところが、イエスのメシヤ性をイエスの地上的生涯にわたり、認めるべきだとする見解が、教団内部に支配的となるのだ。

そこで、マルコが、福音書執筆の動機を持つのである。
マルコの大胆な、着想は、イエスは、そもそもメシヤであった。しかしイエスは、そのことを民衆に公然化することを、望まなかった。少なくとも、ある時期がくるまで・・・

ヴレーデは、マルコの中に、メシヤであることを隠そうとする、着想、メシヤの秘密の動機があることを見たのである。

この発想により、マルコは、二つに分裂した、メシヤ理解を、一つに統合することに成功したという。

復活と再臨・・・
そして、メシヤ・・・
統合・・・

それが、最初の福音書となる、マルコであり、その後、マタイも、ルカも、それを下敷きに、書き上げるのである。

つまり、結果的に、マルコの非史実性が、暴露されると・・・
イエスの言葉の最古の伝承を、引き継いではいるが、そのまま、引き継いだのではなく、マルコの解釈によって、受け取りなおし、引き継いだ。

それを、更に、ヴェルハウゼンは、綿密な分析により、再確認し、史的イエスの復原というテーマに、終止符を打った。

最古の伝承は、そのほとんどすべてが、イエスの言葉の断片からなりたっていた。それは、文字通りバラバラの断片的な言葉の収録にすぎず、それ自体では、けっして、まとまりをもった物語を、かたちづくるものではなかった。しかしやがて、これらの断片が集成され、イエスの生涯の物語として、まとめられることになったとき、はじめは、つながりを持たなかった伝承群の闇に、いく本かの糸が通され、それぞれ完結した物語が生み出されていった。

たしかに、マルコ伝承は、イエスの語録集「イエスの言葉の集録、ロギアと呼ばれる」よりも古く、しかもよりたしかな伝承にもとづいてはいる。しかし、結局のところ、福音書の伝えるイエス伝は、このようにして編纂された。いわば虚構なのであるから、史的イエスの史料としては、第二史料たらざるをえない。ロギアについても、事情は同様である。当時、口承文学が、次々に新しいイエスの言葉を創作しつつあった段階において、その集成であるロギアが、多分に虚構的傾向を有していることは、どうにも否定のしようがない。結局、これも、第二史料的である。

要するに、福音書をとおして知ることができるのは、史的イエスの実像ではなく、原始教団のつくりだした虚構だということになる。
山形孝夫

であるから・・・
まだまだ、話はある。




posted by 天山 at 05:12| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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