2013年09月01日

国を愛して何が悪い89

湾岸戦争の後日談である。

1991年、戦争メーカーとしてのアメリカを見ることが出来る。

イラクのフセインに、米の在イラク大使が、クウェートを進攻しても、米は無視するという内容を伝えた。

フセインは、安心して、クウェートに進出する。と、アメリカは、これを侵略として、世界に宣伝し、待ってましたと、すでに準備していた50万の軍隊と、新兵器をもって、フセイン討伐の大戦を勃発さたせ。

弾薬を砂漠に打ち込み、在庫をすべて消費させ、パトリオットなどの新兵器の実験を、世界に見せた。

世界中から集まる、死の商人たちに、披露したのである。

戦場を見本市に仕立てたわけである。
戦争は、一週間で終わったが、持ち込んだ、大量の兵器を、すべて高値で売りさばいた。

更に、アメリカは、聖戦と称して、世界中から、冥加金を集めた。
日本は、騙されて、一兆円である。
更に、日本の場合は、人員を出さなかったとして、全く感謝されず・・・

英国での計算によると、この戦争で、アメリカの収支は大変な利益を上げたとのこと。

アメリカは、まさに戦争屋であり、戦争で、大儲けをする国だということだ。

もっと、凄いことは、フセインを戦争犯罪人として、処刑することなく、次の戦争の火種として、生かしておいたことである。

ある識者の言葉がある。
アメリカは、戦争を煽り、武器を売り、次に支援物資で、救援活動をする。

つまり、前甲板には、武器を、後ろ甲板には、赤十字の印をつけた、援助物資が積まれている。

アメリカは、そういう国である。

思い出して欲しい。
インディアンを皆殺しにした時の、契約、そして、その破棄を。
如何様にでも、屁理屈をつけて、誤魔化すというより、騙すのである。

アメリカの基準が世界の基準である如くに・・・
そして、不利益と見ると、勝手にルールを変更する。

アメリカの繁栄は、日本の稼ぎによる。
搾取、横領である。

決して、バイキング精神、海賊精神から、抜けられないのである。

核兵器廃絶を訴えて、オバマは、ノーベル平和賞を受賞した。
しかし、無人攻撃機を使って、居ながらにして、人殺しをする。

現在のアメリカの唯一の、弱点は、法律である。
法律に則り、日本に対する違法を追求して、勝利すべきだ。

アメリカ的詭弁ではなく、国際法上の正論で、アメリカのアンフェアを白日の下にさらして、必ず勝利すると確信を持っている。この快挙を国民挙げて応援すべきである。超大国アメリカが過去になした人類に対する平和と人道の罪を反省、謝罪しないかぎり、人類の未来はないからである。
清水

ところが、今、現在、この歴史を出すと、中国との尖閣諸島問題など、進まない可能性がある。
歴史の検証をして、一番困るのは、イギリス、アメリカである。

同じ人種である。

兎に角、アメリカの対しては、いつも警戒が必要である。
日米同盟・・・
これは、解消出来ないほど、大きな同盟である。

中国のような、ゴロツキを阻む手立てとして、私は、見ている。

毒をもって、毒を制するのである。
それ以外に、方法が無い。

アメリカは、戦争の国であるから、まだまだ、戦争には強い。
利用する以外に無い。

再度言うが、キリスト教とは、邪教である。
如何様にも、理屈をつけて、利益にならない者、邪魔物がいれば、殺せるのである。

イスラエルが、そのアメリカの裏に居るというのが、理解出来る。
一番、弱い民族であるから、一番強いアメリカを抱き込む。

イスラエル、つまり、ユダヤ教である。
ユダヤ・キリスト教という、宗教が、如何に、戦争が好きか・・・

イスラムに聖戦の火を着けたのも、ユダヤ・キリスト教である。

テロは、世界の敵とは、アメリカの宣伝である。
テロリストたちが、生まれた背景には、何があるのか・・・
問題は、何処なのか・・・

互いに、聖戦と呼んで、戦うという、矛盾は、如何ともし難いのである。
更に、人殺しの好きな、共産主義も、キリスト教から、生まれ出た。

ユダヤ人たちが、自分たちの神を掲げたのも、利益のためである。

イスラエル王国が、滅びた時点で、イスラエルは無く、その神も死んだのである。
これに関しては、神仏は妄想である、という、別エッセイで論じている。

アメリカのキリスト教は、プロテスタントが最初。
その熱心な、信仰も、人殺しのために、利用される。

邪教は、排他的で、非寛容なのである。
アングロサクソンに変容させられたキリスト教でもある。

posted by 天山 at 05:48| 国を愛して何が悪い2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月02日

霊学116

神秘学における、理性と感性について・・・

哲学から見れば、理性は、思考の能力であり、感性は、この能力のために、素材を提供するもの、という、大雑把な定義になる。

更に、精神的な欲求としての理性に対する、動物的な欲求としての、感性とも考える。

理性的な側面とは、まず外的な対象が感覚の世界に働きかけて、そしてそれを表象として内部で再生産し、それを判断の力によってなんらかの結論としての概念に変える、そのプロセスにほかなりません。
そうすると感性とは、人間の無意識の奥底から或る内的な欲求が、それが身体に基づくものか、あるいは魂や霊に基づくものかはともかくとして、心の奥底から欲求があらわれてきた場合に、それが記憶像と結びつき、言葉と結びついて、表象となり、その表象が更に発達して感覚的な知覚と同じくらいの明瞭性を伴ったイメージ、ヴィジョン、病的な場合は幻覚、霊的な場合には霊的知覚を生み出すというプロセスになります。
更に理性的な活動は過去から未来へと方向づけられるのに対して、感性は逆に、未来から現在の方向へ向う、と考えることができます。
高橋 改行は、私

私が、霊的という場合は、感受性と同じように扱う。
ここで言う、感性は、感受性ということになる。私の場合は。

理性による学問を、ロゴス、感性による場合を、ソフィアと名づける。
西欧の思想である。

理性と感性の対立は、ロゴス学と、ソフィア学の対立となる。

そして、ソフィア学は、現代の学問体系には、組み込まれないのである。
すべて、ロゴスによるものである。

そこで、当然、神秘学は、ソフィア学に結びつくということになる。

ソフィアは、古代文献では、プラトンに出てくる。
つまり、古代ギリシアでは、ソフィア学だったのである。

古代ギリシアの智恵は、そのまま、ソフィアである。
最高の叡智を表わす言葉としての、ソフィアである。

その意味は、第一に、汝自身を知れ、ということ。
第二は、分を越えるなかれ、である。

これを総称すると、中庸の精神と、対象を、外的な対象を知ることではなく、自分自身を知ることになる。

旧約聖書でも、箴言の書には、智恵をソフィアと呼ぶ。
そして、ここでは、ソフィアが人格化されているということ。

人格化された、ソフィアという神の概念は、ヘブライが最初である。

そして、ヨーロッパ神秘学のグノーシスの中に、具体的な体系が出来上がる。

神的ロゴスは、流れのように、ソフィアの泉からあふれ出て、善を愛する魂の天上の草木に水を注ぐ・・・

人間の、天使たちの魂の中に、善なる部分の土地に咲く、天上の花に養分を注ぐもの、それが、ロゴスであり、そのロゴスの水は、ソフィアの泉から出てくる、という、考え方である。

更に、グノーシスの書には、
ロゴスには両親がある。神なる両親が存在していた。そして父は神そのもの、万物の父なる神であり、母はソフィアである。
と、ある。

後に、キリスト教によって、ソフィアは、マリアと、結び付けられるが・・・

更に、それが、マリアーソフィアとなり、聖霊と結論づけられる。

そこで神秘学の場合には、・・・、ロゴスが生まれてくる以前の精神の根源的な営み、言葉や概念や表象等々が心の中にあらわれる以前の、それらを生み出すものになる働き、それをソフィアと考えるわけです。したがってソフィアとは、本質的にイメージの存在です。イマジネーションもしくは想像力をとおして働くのです。それに対してロゴスは、概念と言葉をとおして働きます。
高橋

と、いうことで、面倒な説明を一切省いた。

次に、ソフィアの精神、イマジネーションの精神が、同時に、融和の精神でもあるという。
これは、つまり、西欧の人間社会からの説明で、妥協的に生きることを、言う。

少し、イメージとしては、妥協出来ないが・・・

西欧では、妥協の精神に則った、学問が生まれてきます、と、言うが、それが野蛮な人種が、生きる術であった。
どこかに、妥協の余地がなければ、彼らは、まとまることも出来なかったのである。

高橋氏は、
ヨーロッパの学問には、そもそも「ゲバルト」の思想、暴力論はありません。
と、書くが・・・
それは、蒙昧である。

民主的な、平和主義が、前提になっているのです。
とは、信じられないのである。
西欧の歴史をよくよく、見るべきである。

そして平和主義的なヨーロッパの学問の本質というのは、ロゴス的なのです。
となると、疑問を呈さざるを得ない。

ロゴスの精神にのっとって、ロゴス的に機能しているわけです。
と、書く。

この人は、シュタイナーの著作の翻訳もされているが・・・
その辺りにしか、目が行かないようである。

西欧が、平和的でないことは、歴史を見れば、一目瞭然である。
だが、西欧思想を紹介する学者は、いつも、そこが、浮つく。

そこで、西欧的に、何が一番優れているかと問うと、感性ではなく、理性であるという、ことになる。
理性は、理性以外の、諸々の、心の働きをも、自分の支配の対象にする。

そのような立場をはじめて、哲学的に語ったのが、デカルトである。
それを、合理主義という。

この合理主義が、白人の自我に与えた影響は、計り知れない。
自己主張が、自国を超えて、他国への、侵略と化したのである。

いずれは、シュタイナーの考え方に行くが、足元を見ずに、修行をするという。つまり、一つの壮大な妄想の世界を、作り上げたといえるのである。
神秘学という、妄想である。

posted by 天山 at 05:22| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月03日

霊学117

合理主義は、自分の中にある主体、もしくは主人を理性と考えています。
高橋

そして、理性が、人間の中の感情、本能、イマジネーションなどを支配できたとき、理性人として優れた存在、優れた人間となるのである。

理性的に優れた存在は、社会的にも、優れた存在になり、そして、試験に合格して、最高の地位を獲得する。

このように、優劣を判定するロゴスの精神は、同時に、批判の精神であり、存在と存在とを、結びつける精神ではなく、その逆に、それらを相互に区別する精神だと、いえる。

デカルトにより、個人の意識というもの、自我というものが、拡大した、西欧の人たち。それが、自己主張をはじめ、更に、国家的に、他国を侵略しても、平然としていられるようになったのである。

ロゴスにとって、批判ほど大切なことはない。
批判が出来ない人間は、市民としては、一人前ではないと、考える。

批判の精神と畏敬の念を対比させた場合、前者の精神はロゴスであり、後者の畏敬の念はソフィアであると、いえる。との、解説である。

そして、合理主義の精神の中からは、畏敬の念は出てくる可能性は無い。

畏敬の念は、対象に対して、絶えず接近しようとする、姿勢であり、帰依の念とも言う。

批判は、対象と自分との間に、距離をおかないと批判にならない。対象を、絶えず、特定の距離に置いて眺めるのである。

したがって愛の働きが、どちらの側に結びつくかを考えればおのずと明らかなように、ロゴスと批判の精神の働くところには、冷たい世界しか生まれようがないので、近代社会というのは本質的に冷たい社会にならざるをえなくなってくるのです。
高橋

突然、飛躍であるが・・・

だが、畏敬の念と、帰依の念だけでは、文明の成り立つ余地がなくなり、フロイトなどは、畏敬の念だけではなく、ロゴス以外のすべての魂の機能には、文明を創造する能力が無いと、言わざるを得なかった。

畏敬の念をソフィアの働きとして考え、それが認識の機能になり得るかどうか、というのが、神秘学の最重要な問題になる。

異質なものを、二つ並べたときに、これとこれは、違うというのが、ロゴスであり、それでは、今まで、誰も、二つのものを結びつけたことが無いが、それを結びつける、融合させるという、態度が、ソフィア的といえる。

このようにして、高橋巌氏は、神秘学を説明し続けるが・・・

このまま進めて行くと、洗脳される恐れがあるので・・・

デカルトの、合理主義に対する、反合理主義の運動を見る。

デカルトによって、近代が開けたことは、確かである。
それ以前は、実に暗い世界観だった。
何故か、大半が宗教によって、抑えこまれていた時代である。

無知蒙昧の、神学の時代。
デカルトは、そこで、数学を尊び、ストア学派と、スコラ神学を、徹底的に、攻撃している。
更に、時代性が、デカルトを推し進めた。

実践を伴わない、議論のための議論、空論をデカルトは、徹底的に嫌った。
デカルトに関して書くと、先が進まないので・・・

そのデカルトの、合理主義も、いよいよ、反合理主義によって、再確認されるようになるのである。

歴史的に見れば、シュタイナーを主にして見ると、彼が活動をはじめた頃は、1904年頃である。
第一次世界大戦の前夜、13年、14年である。

その頃の、白人社会は、帝国主義全盛の時代であり、地球上の四分の三を、イギリス、フランス、ロシア、アメリカで支配するという時代である。
植民地時代。

暴力的、専制的時代である。

自然科学、技術もそれに伴い、発達した。
白人社会は、理性万能の風潮を、極端なところまで、推し進めていた。

その流れの中に、マルクス主義、ダーウィン、ヘッケルの進化論もある。

すべてが、合理主義的発想で、宇宙までも、解明できるという、考え方が生じていた。
しかし、1905年頃から、非合理的というより、意識的な反合理主義的芸術運動が、至るところで、はじまる。

要するに、感性の立場に立ったものである。

そのための、強力な思想的武器として、ブラヴァツキーの神智学と、フロイトの深層心理学を取り上げた。

ブラヴァツキー夫人に関しては、以前も書いたが・・・
要するに、神智学を踏まえて、新しい感性の文化を創ろうとしたのである。

そして、神智学、後に、人智学と名乗る、シュタイナーが登場する。

ここで、高橋氏は、
二十世紀の初めに出てきた反合理主義的な霊的衝動は、それまでとは違った時代意識をあらわしていました。二十世紀初頭の人たちは、一様に、ヨーロッパ文化が崩壊寸前の状態にある、と痛感していました。そしてヨーロッパ文化の崩壊寸前を生きる自分たちの道というのは、一人ひとりが伝統に頼らず、一切の外的な権威にも頼らずに、自分だけを唯一の頼りにしながら生きていく以外に、それを乗り越える方法はないと、考えました。伝統を否定して、まったく自分だけで、いわば一人ひとりが自分を権威者にして、その権威だけに頼って、新しい文化を生み出そうとする態度をとったのです。
と、言う。

神秘学では、時代、時代の変化変容を、霊的衝動と言う。

この、神秘学の、霊的とか、魂という、概念に関して、更に進んで、如何なるものかを、問わなければならない。
これを、理解しないと、神秘学というものが、解らないのだ。


posted by 天山 at 05:29| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月04日

霊学118

二十世紀初頭の新しい反合理主義運動というのは、近代の精神史の流れを辿っていくと、とつぜんなにかぜんぜん違ったニュアンスと香りと雰囲気と、それからある種の基本姿勢みたいなものを感じさせるのです。ちょうど十八世紀末の頃に、シュトゥルム・ウント・ドラング運動とか、シラー、ゲーテ以来の古典主義運動や浪漫主義運動が起こったときにも同じ感じがあり、ヨーロッパの精神史を辿ってこの時期にいたると、急になにか一種独特の、いわば親和的な雰囲気が現れてきます。今までとは違った霊的衝動が突然表に現れてくるような感じの一時期に出会うのです。それは十八世紀の80年代から十九世紀にかけてでしょうか。
高橋 巌

このように、神秘学から見ると、霊的衝動ということになる。
どんな表現方法を使っても、いいのだが・・・

霊的衝動となると、その説明が必要である。
それが、神秘学を学ぶということ。
更に、神秘学を身に付けるということ。
その、行を行なうことになる。

さて、同じように、十九世紀末から、二十世紀初頭のヨーロッパの思想も、今までとは違う形相になる。

それも、神秘学から言うと、一種の霊的雰囲気のようなもの・・・
との、表現になる。

一人ひとりがまったく孤立し、独立して、外にではなく、自分自身の個性の奥底に新しいものを求めようとする姿勢です。
高橋

リルケの書簡や伝記、ハンス・カロッサの自伝的な小説、カンディンスキーの「芸術における霊的なもの」など・・・
それだけ、である。

象徴的なものを取り上げて、その時代精神と考える。
本当だろうか・・・

そして、シュタイナーが予言した、三回の波・・・
それを、歴史的に、当て嵌めて見るのである。
当たり・・・

だから、シュタイナーの云々を言う訳ではない。

その歴史的事実は、省略する。

問題は、シュタイナーの考え方である。
彼は、大きな歴史の流れを辿り、古代ギリシアの頃から、イタリア・ルネサンスの始まるまでの文化を、基本的に、悟性魂、つまり、個別的な人格と知性の、文化だという。

それ以降、15,16世紀から、次第に、その悟性魂の上に、意識魂を発達させたという。

日本でいいますと、だいたい戦国時代の頃から意識魂が目覚める時代に入るのですけれども、その後儒教の悟性魂的側面だけを取り上げて、それを政治権力のイデオロギーに仕立ててきましたから、抑圧する力として、悟性魂の文化が明治の頃まで生きつづけます。
高橋
と、いうことになる。

そして、明治、大正、昭和に渡り、意識魂と、悟性魂との闘いが、続き、第二次世界大戦以後、やっと、日本における、意識魂の文化を手に入れるところであると、する。

そういう、分析をするということである。

ヨーロッパでは、二十世紀の初頭になり、非常にはっきりした形で、悟性魂から、意識魂への、移行があるとする。
それは、理性の文化から、感性の文化であるという。

悟性魂の特徴として、ある権威というものが、必ず存在する。
それが、自分の外にあるもの。

国家、教会、指導者、伝統、家・・・

それぞれの権威に、適応させることで、社会人として、受け入れられるというもの。
そういう、魂のあり方を、悟性魂という。

あくまでも、シュタイナーの定義である。

礼儀作法や、規則なども、悟性魂的な態度を、求められるという。

そこで、意識魂が、目覚めたら、どうなるのか。
それは、個性を生きることである。簡単に言うと。

すると、社会、職場、学校から、はみ出すのである。

シュタイナーは、悟性魂の時代が、何千年も続いたと、考えている。
二十世紀初頭から、悟性魂から、抜けようという、強い衝動が現れてきた。

もっと、高いレベルの、魂のあり方という。それが、意識魂である。

合理主義の文化は、その意識魂を否定して、支配し、支配される関係、あるいは、優劣が常に問題とされる関係を作り続ける。
本質的に、人間の、悟性魂だけを、優先させる。

ゆえに、意識魂の文化を創ろうとしたら、合理主義を克服して、新しい、反合理主義を打ち立てる必要がある。

それが、感性であると、相成った。

その場合の、感性とは、意識魂の感性であるということ。
悟性魂の感性ではない、ということである。

シュタイナーは、悟性魂よりも、進化した魂の在り方で、それは、内的に、自分自身の存在の根拠を自覚できる、魂であるとする。

自覚とは、自己を意識することで、自分自身の存在の根拠を、一人一人が、自分で意識化することのできる、魂の働きであるとする。

意識魂は、外に権威が無くても、自分の内部に、行動の基準を見出せる、魂である。

例えば、レンブラント、ベートヴェン、ゲーテなどのように・・・
そういう人たちが、二十世紀初頭に、多くの人たちに、広がったのである。

自分自身だけを頼りに生きることに本来の生きがいを感じるようになるのです。
高橋

意識魂の文化は、常に、自由と愛情とによる、自己確認を求めるというのである。


posted by 天山 at 05:27| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月05日

霊学119

この新しい感性の文化は、シュタイナーによれば、太古の文化の復活を意味するのですが、その場合の太古の文化とは、神殿文化のことです。神殿文化とは、宗教と芸術と科学がひとつのものとして存在できるような文化のありかたです。
高橋

ある行為が、宗教的な行為であり、祈りの行為にもなり、同時に科学的な認識の行為にもなるというものである。

宗教と芸術と科学の新しい統一である。
そうすれば、合理主義がぎりぎりのところまで発達した、現代の文化状況の中に生じさせれば、理性を否定することなく、太古の時代に戻るのでもない、新しい時代の出発点になると、考える。

太古の神殿文化・・・
そこでは、常に、何らかの仕方で、芸術と宗教が結びついていた。

その認識では、唯物論的な意味ではなく、人間や宇宙を巡る目に見えないものに対する、認識である。

太古の神殿文化は、未知のものに対する、畏敬に溢れていた。
それを、新しい時代に、再度取り入れることで、感性の時代へという。
何とも、へんてこない話だが・・・

改めて、太古の神殿文化などを持ち出さなくても、いいと、思うが・・・

その名残は、西洋ではなく、東洋にあるという、解説である。
東洋の中で、より具体的に、体験出来ると言う。

ヨーロッパの白人主義の文化には、二つの側面があります。ひとつは悟性魂の文化を生み出した白人文化として、宗教的権威主義、政治的権力主義を育ててきた流れです。けれども同時に、この白人文化の中でこそ、はじめて意識魂と悟性魂との闘いが非常に徹底した仕方で遂行されてきたのです。
高橋

西洋以外の、東洋、その他の諸地域では、悟性魂と意識魂の闘いが起こると、必ず悟性魂によって、意識魂が、潰されてきた。
そこで、意識魂と、悟性魂は、ヨーロッパにおいて、初めて、遂行されたという。

だから、我々は、ヨーロッパ志向が、どうしても生まれてくると言うのである。
これが、西欧礼賛の注目すべき、感情なのかもしれない。

意識魂の学習のためには、どうしても、ヨーロッパを通過する必要があった。
私は、そうは、思わないのである。

シュタイナーは、西洋における、意識魂の成立過程を非常に重要視する。
それが、他の世界では、見出せないので、ヨーロッパを、どこまでも、出発点としようとした。

更に、従来の白人主義を否定するためにこそ、そうしたのだと、言う。

ところが、シュタイナーが二十世紀初頭で、その問題に関わっていた時、大部分の西欧のオカルティストは、悟性魂のオカルティズムを復興させようとしていた。

ただ、唯一、ブラヴァツキーの書いたものが、はっきりした、意識魂的、反白人主義的な、オカメティズムを感じさせるとの、弁。

そのブラヴァツキーのものでさえ、それを読み取らず、再び、悟性魂的オカルティズムに戻った。

白人主義、つまり、アーリア主義・・・

シュタイナーは、そのアーリア主義を克服する道具として、ヨーロッパの意識魂=ヨアキム主義的側面を、取り上げた。

この辺になると、突然だが・・・
日本の親鸞に、非常に近くなってくるのである。
突然だが・・・

シュタイナーは、普遍的な、人間主義を生かすため、意識魂による、愛の思想と、自由の思想とを最後まで、守り通そうとしたと、言うが・・・

高橋氏は、
うっかり東洋の認識の立場に立つと、悟性魂の立場に立ってしまうので、ヨーロッパの白人主義の否定する武器を持つことができないので、もうひとつの人種差別主義を東洋の側から生み出すだけだと、考えたのです。
と、ある。

親鸞は、救いようの無い身が、救われるなら・・・
どうせ、地獄が棲家である。
弥陀の本願を信じる以外に無いということを、ああでも、こうでもと、思索し続けた。
今までの、信仰である、自力を捨てて、絶対他力の信仰を、徹底的に、深めようとした。しかし、それは、単なる、一人相撲であった。

シュタイナーも、実によく似ている。

親鸞を説明していると、先に進まないので・・・

シュタイナーも、一神教と多神教について、考える。
彼は、多神教である。

それは、本当に高級な神は、人間に関わる必要か無い。
地上に関わる神とは、最高神の委託を受けて、物質の世界と、関わろうとする。

もし、神と人間の間に、結びつきようのない、深淵があり、それが両者を隔てて、人間の側から、神の方に、橋をかける可能性は無い。
ひたすら、神に祈る以外に、神に向き合う方法が無い。

それは、神と人間との関係は、優者と劣者との関係になる。
つまり、ロゴスの論理、理性の論理でしか神を、考えられないのだ。

そうではなく、出発点を、人間にして、その人間の上に、高次の存在でありながら、まだ宇宙を創造する力がないような、そういう霊的存在、例えば、かつて地上に生きた死者たち、天使のような霊的存在たちをも、肯定することが、可能となるような、存在である。

そしてそういうさまざまな霊的存在といえども、過去から現在までの過程で進化しなかったはずはないし、霊的存在が進化していくとすれば、さらにそれ以上高い位階にある霊的存在も当然存在するはずだから、そのようなさらに高次の霊的存在についても問題になります。
高橋

実は、これが、大問題である。

悟性魂、意識魂と、言ううちは、理解出来るが、そこから、神の云々となると、おかしくなる。

更に、霊的存在・・・
死者の霊、天使の云々・・・

彼が、説く、神秘学、人智学・・・
それらも、ロゴスであり、悟性魂の、賜物であるはず。

西洋と東洋との間を、霊的意識的に、深く結び付けるというのも、シュタイナーの大事な思想である、とする。

ここで、私の霊学と、衝突する。
西洋と、東洋、そして、日本の霊的意味は、全く違う世界の問題である。
だが、続けて見てゆく。


posted by 天山 at 06:36| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月06日

霊学120

最高の唯一神とは、人間と神の間には、虚無しかないと考える、神秘学、シュタイナーである。

そして、その間の、ものは、すべて悪魔となる。
確かに、キリスト教では、そのようである。

そうすると、人間はどんなに進化したところで、いつまで経っても人間だ、ということになってしまうので、人間の進化は意味もそこからははっきり出てきません。逆にいうと、どんな優れた人間も、まったく劣った人間と同じただの人間に過ぎないし、これから何万年、何十万年、あるいは何十億年人類が地上に生きていたとしても、それが人間である限り今の人間と本質的に変わりない、という発想になってしまうのです。
高橋

そこで、そのような考え方は、西洋よりも、東洋にある。
道教、仏教、神道・・・

シャマニズムを基底に持つ宗教は、人間と神の間に、無数の霊的存在を考えて、それぞれが、一つの調和した全体をなしていると、考える。

西洋と東洋の間を、霊的意識的に、深く結び付けようとするのも、シュタイナーの大事な思想である。

神秘学から、西洋と、東洋の結び付きを考えるという、試みである。

そこには、霊的存在があるということが、前提である。
そして、霊的存在も、進化する。
とすると、更に、高い階位にある、霊的存在も、同然存在するはずである、となる。

人間を出発点として、考える形である。

だが、ここで、東洋と一口に言うが・・・
東洋は、広い。
更に、東洋でも、多くの無明がある。

日本と、朝鮮半島でも、中国でも、インドでも、違うのである。
細部に至ると、別物である。

日本は、インドをはじめ、中国、朝鮮半島、更には、チベット、ビルマなどの、仏教、密教が伝わるが・・・
それらが、すべて日本流にされている。
日本にて、咀嚼されて、別物になっているのである。

霊的存在があるとし、更に、高次の霊的存在についても、問題になるというが、その高次の霊的存在の、有無をいかに判定するのか。

問題は、それである。

例えば、霊的存在の自己申告を、そのまま、鵜呑みに出来ないのである。
それを、鵜呑みにしてしまうと、蒙昧になる。

さて、再度、理性と、感性についてを、見ることにする。

十二の感覚と、七つの生命活動というもの・・・
シュタイナーの考えたものである。

それを、融合という、ソフィア的考え方をとる場合の、判断についての具体的、考え方である。

高橋氏の、講義で行くと、
唯物論があり、それと対立するのが、唯神論となる。

万物は、神によって作られたという、立場。
一切は、もともと物質として、物として存在して、それが複雑な変化、発展の中で、意識が生まれ、精神が生まれ、最後に、神が生まれたという、考え方。

その唯物論が、素朴実在論に留まらず、知的な認識批判が、唯物論と結び付いていくと、カントが述べた発想になる。
それは、学問は、数学が存在する限りにおいて、学問である。

つまり、数学的な原理に基づかない学問は、本質的に学問とはいえない。
数学的に表現されるものが、はじめて厳密な意味での、科学になるうる。

感覚的に把握されうる物質そのものというより、むしろ数量的関係の方が、基本である。
数学的に把握できるときに、はじめて、ものの本質が、とらえられるという、数理論が、唯物論から、派生してゆく。

だが、数理論からは、決してその存在が、数だけでは、説明がつかないのである。
数以外にも、様々な概念が、物質の構造と、結び付いている。

その存在の中に、どのくらいの、イデーが含まれているか、それによって、はじめて存在の本質が把握できるという考え方になれば、デカルトの合理論が生まれる。

更に、それを深めてゆくと、理想論になってゆく。
つまり、それぞれの概念を、考え続けてゆくと、である。

理想論が出てくると、その対極に、現実論が出てくる。

理想論により、ユングのような思想家が出てくるのである。
つまり、すべは、心にすぎない。自然学者が発見したことでも、それは、心が作り出したものであると、なる。

もし、心の存在が、幻想であれば、この現実の一切も、幻想になる。
存在の、根拠を辿ると、心に行き着く。すると、それは、唯心論になるのである。

だが、ユングは、心は、物質のように、なまなましい現実としては、捉えていなかった。しかし、そこまでに至ると、霊が存在しているのではないか。
更に、物質の世界とは、それとして存在しているが、物質と別の世界が、現実として存在するのではないかと、なる。

別の現実の世界、つまり、霊的世界である。
この世は、別現実の、霊的世界が、関与して、成り立つというところまで行き着くのである。

霊的なある形を知ると、それが、いつか現実の世界で、実現するだろうということで、予言が可能になる。

創造のプロセスから言っても、霊界があり、そして、現実の世界があると、考えるのである。
すると、それは、唯霊論になる。

posted by 天山 at 05:57| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月07日

伝統について62

里遠み 恋ひわびにけり 真澄鏡 面影去らず 夢に見えこそ

さととおみ こひわびにけり ますかがみ おもかげさらず いめにみえこそ

里を遠く離れて住んでいるので、恋しさに萎れてしまった。真澄鏡のように、いつも面影が、夢に見えて欲しい。

恋ひ わびにけり
恋に萎れるのである。
わび、という言葉の原型がある。

そこから、侘しい、そして、侘びという、心象風景を創るのである。

それが、芸術の一つの形となると、侘びは、単なる、萎れる様子ではなく、風情として甦る。
侘びという哀感ではなく、哀感美感である。

剣刀 身に佩きそふる 丈夫や 恋とふものを 忍びかねてむ

つるぎたち みにはきそふる ますらおや こひとふものを しのびかねてむ

剣、太刀を身に帯びる丈夫も、恋と言うものに、堪えられないのだろうか。

丈夫という、男らしいものでも、恋と言うものには、堪えられぬのである。

そして、その男であれば、こそ、歌をも詠むのである。
文武優れたる者も、歌詠みをする。

歌の道は、床しいだけではないのである。
武き者も、歌詠みをする風情を持つ。

剣刀 諸刃の上に 行き触れて 死にかも死なむ 恋ひつつあらずは

つるぎたち もろばのうえに ゆきふれて しにかもしなむ こひつつあらずは

剣、太刀の諸刃の上に当たり、触れて、死ぬなら死んでもよい。これほど恋に苦しむなんて。

恋の苦しみは、死ぬほど、辛いもの。
どんなに、力の強い男でも、恋には、適わないのである。

強い男を優しくする、恋と言うものである。

うち鼻ひ 鼻をそひつる 剣刀 身にそふ妹し 思ひけらしも

うちはなひ はなをそひつる つるぎたち みにそふいもし おもひけらしも

大きく、くしゃみをした。剣、太刀のように、わが身に添う妻が、私を思っているのだ。

くしゃみ・・・それを、妻が自分を思っていると感じる。
万葉人ならではの、考え方である。

何気ない、所作の中にも、人の思いを感じ取る感性・・・
原始的であろうか。
現代でも、似たようなことを、感じているはず。

梓弓 末の原野に 鷹狩する 君が弓弦の 絶えむと思へや

あづさゆみ すえのはらのに とかりする きみがゆづるの たえむとおもへや

梓弓の末、スエの野原で鷹狩りするあなたの弓弦のように、仲が絶えるなどとは、思えません。

弓の弦は、絶えないもの。
それに掛けている。

弦が絶えないように、二人の仲も、絶えないという願いである。

日常の行為の中に見る、歌の数々。
皆々、恋というものに、かけて、詠う。

大らかで、素直で、実に良い。

posted by 天山 at 06:15| 伝統について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月08日

神仏は妄想である。433

ギリシャの著名な雄弁家であり、アスクレピオスの熱烈な崇拝者だった、アイリオスのアリスティデスは、紀元前2世紀頃の、ローマ、アテネの、驚くほど多くの、病気治しの神々の活躍について、語っている。

その神殿には、難病、奇病にとりつかれた病人で、一杯だったという。

病気は、すべて、神々によるものだと、信じられていたのである。

例えば、アポロの投げ矢は、ペスト、蛇のような髪をしたフリスの女神は、人を狂気に駆り立てる。オリンポスのゼウスは、アテネでは、守護神であるが、ロードス島では、医神であった。

女神アテネも、同じく。彼女は、スパルタでは、眼病の癒しを得意とした。
アポロは、薬の発明者であり、その力は、難産の治療、予防、救助である。

アリスティデスの掲げた治癒神は、十指に余るという。

その中でも、アスクレピオスの治癒力は、抜群であるという。

アテネが、素性の知らない、アスクレピオスを崇拝したのは、碑文によると、紀元前350年の頃である。
その理由は、ペストの流行を止めたという功績が記録される。

だが、アスクレピオスの隆盛の背後には、オリンポスの神々の衰退という事実がある。

つまり、アテネの神々との競合に、勝ったのである。

これにより、ヘレニズム諸都市への、拡散がはじまる。

さて、1世紀から、2世紀にかけて、キリスト教が、ヘレニズム世界へと浸透するために、このような状況下では、治癒神の競合として、開始されなければならなかったという、理由がある。

ヘレニズムの多くの、治癒物語伝承・・・
それは、恐ろしい疫病の直撃により、崩壊に晒される都市の人々の不安がある。

ヘレニズム諸都市における、キリスト教の急速な浸透の背景には、このような、都市化に伴う、疾病の流行に苦しむ、民衆が存在したということだ。

日本に仏教が伝来した際も、病気治しの意味が次第に、強まっていった。
同じことである。
まだ、医学というものが、無い時代である。

治癒神、アスクレピオスは、ポリスからポリスへと、病ある人を求めて、訪ね歩く神であった。

そして、イエスも、その一人になる。
イエスも、村でも、都市でも、病人を求めて、歩く神として、登場するのである。

福音書に描かれた治癒神イエスの遊行的性格は、こうした背景から理解されねばならない。そこでは国家的祭儀としての宗教は、もはや存在の根拠がなかったのである。福音書は、その豊かな史料である。
山形孝夫

歴史的に神々の競合の時代に、突入した・・・
それは、アレクサンダーの東征以降である。紀元前334年・・・
ポリス国家に支えられた、ギリシャの没落から、ローマの覇権が、東部地中海に確立するまでの、三百年間、ヘレニズムの時代である。

脅威と不思議の病気なおしの神々は、アーカイックな死と再生の痕跡に加えて、彷徨し、遊行する神々の明白な特徴をおびて活躍する。治癒神の競合と葛藤の時代であった。こうした中での治癒神イエスの勝利には、ローマ帝国の権力機構の裏打ちがあった。
山形

ただ、この時期、すでに、医術というものが存在していた。
そして、医術自体の競合もあったのである。
治癒力の優劣は、そのまま、医術の技術的優劣にも、直結しているのである。

そこで、当時の、医術のヒポクラテスに関して、記述するかどうか、迷う。
多くを書くことは出来ないが・・・

簡単に言えば、色々に説があるが、紀元前420年頃、ヒポクラテスは、医学と宗教を分離していたことを、明確にしているということだ。

彼の告発がある。
かかる魔術師や祈祷師は、生計に窮して、策を弄し、人をたぶらかす者であり、本病の原因を、さまざまな神々に押し付けることによって、おのれの腹を肥やす詐欺師なのである。彼らは、病人の前では敬神をよそおいながら、その実、そうした虚偽の行為において瀆神の罪をおかしている・・・

更に、癲癇の原因については、神にあるのではなく、脳にあり、それは治療されるという。

大脳生理学にある、治療法を言う。
わたしたちの快楽も歓喜も、笑いも戯れも、悲しみも苦悩も、憂うつも涙も、そうしたすべては脳以外からは生じない。わたしたちは、脳によって思考し、視覚、聴覚をはたらかせ、美醜、善悪、快不快を識別する。

この同じ脳により、わたしたちは狂気錯乱し、夜昼の別なく不安と恐怖におそわれ、不眠や徘徊、とりとめない心配、常軌を逸した思考や行動が生ずる・・・

ヒポクラテスは、すべてを脳の機能の働きと、見たのである。

ところが、彼が亡くなると、時代は一気に、神殿治療が勃発するのである。

ただし、アスクレピオスの治療は、加持祈祷ではなく、大胆な医術の採用によって、民衆の間に、拡大していったはずだ。
というのは、ヒポクラテスも、その門下の医師として、修行をしていたのである。

このエッセイの主ではないので・・・
以下、省略する。

さて、イエスである。
その問題は、福音書に書かれた、治癒物語である。
イエスは、医術を用いたのか・・・

福音書を分析すると、まず、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書から、脅威の治癒物語を見ると、50話ある。

その治癒物語の他に、散りばめられている、癒しの話は、46である。
弟子たちの話も、19ある。

その中で、どのようなものが多いか。
汚れた霊に取りつかれた男で・・・そういう話が、48ある。

それらの霊は、一括して、悪霊である。

中には、口を利けなくする霊、ものも言わせず、耳も聞えさせない霊。悪魔憑きか・・・
更に、癲癇をはじめ、広義のすべての、精神疾患である。

盲人の話、13。重い皮膚病、9。足の悪い者、7。耳の聞えない者、6。中風の者、5。病名の明確ではないもの、熱病、出血、水腫、毒蛇の被害など、それぞれ、1から2。

驚くのは、死者の蘇生が、9もある。

アスクピオレスの場合は、外科的疾患の治療に、本領を発揮している。
イエスは、悪霊が多い。

面白いのは、アスクレピオスは、宗教的タブーに触れる病気には、一例も報告が無い。

イエスが、何かしら、医術を駆使した記述は、無い。
イエスの用いたものは、古い、呪術の域を出ないのである。

つまり、言葉である。

明確なことは、イエスには、医術の方法は皆無である。
ただ、言葉によって、マイナスをプラスにしているのみ。

また、それは、福音書を書いた者の、記述である。
イエスが、自己申告したものではない。

これから、その世界、イエスの奇跡物語の是非について、分析する。
更に、イエスが、キリストにされて行く過程である。

ローマ帝国の権力と共に、ローマ教会の権威と共に。

posted by 天山 at 05:54| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月09日

神仏は妄想である。434

あくまでも、福音書の中では、イエスの治癒物語は、言葉によるものである。

更に、福音書には、イエスが、病人を汚れた者、罪人としては、扱わないのが、
特徴である。

マルコでは、
医者を必要とするのは、健康な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。
と、語らせる。

しかし、この表現も、不思議だ。
罪人を招くため・・・
ここに、マルコの考え方がある。
それは、以前にも書いた通り。

福音書の中での、イエスの言葉は、強烈である。
その強烈な言葉によって、イエスは、癒しを行う。

そこで、問題なのは、歴史的なことである。

驚異の治癒神アスクレピオス崇拝と、キリスト教との競合の歴史からすると、四世紀はその最後の決着のための激しい攻防の世紀であったようにおもわれる。
山形

そこに政治力、権力が関わることになる。

つまり、
すでに歴史に登場した若々しい治癒神イエスの優位は、動かなかったが、それを確認する権力基盤は、いぜん不確定なまま事態は進行していた。最後の決着はローマ皇帝の権力に握られていたのである。いったい、病気なおしの神は、権力にとって何であったか。治癒神イエスの登場には、始終一貫、この問題がからみついているようにおもわれる。
山形

313年、コンスタンティヌスの宗教寛容令により、それまで、非合法化されていた、キリスト教が、ローマ、アテネの各都市で、市民権を獲得する。

更に、公然と布教活動が開始された。

それは、同時に、都市化に伴う悪疫の流行に苦しむ民衆にたいする、活発な治癒活動の解禁をも意味していた。
山形

問題は、ここである。
コンスタンティヌスが、キリスト教への改宗の証のために、それまで勢力を振るっていたキリスト教以外の宗教に対して、破壊の厳命を下したことである。

勿論、アスクレピオスの神殿も。

アスクレピオスは、治癒神の座から引き摺り下ろされ、詐欺師として、告発される。
勿論、告発には、権力が必要である。

エーゲ海の町の治癒神は、イエスへと、交替したのである。

その間の、様々な資料もあるが・・・
省略する。

結論だけを言えば、すべて、権力によるものである。
イエスが、治癒神として、成功したのも、権力の介入によるのである。

そこに、正統、異端という言葉が、出てくる。
これも、後々まで、中世に至るまで、続く・・・
そして、その後も・・・

更に、その頃、すでに教会、そして、司祭たちが、姿を現しているのである。

その後の、歴史は、使徒権と、一つになっていた、治癒権が、法衣をまとう、教皇、枢機卿たちの操作する、権力により、迅速に収束されてゆくのである。

如何に、作為があるかということだ。

何一つ、所持するものがなかった、イエスと、その弟子・・・
それが、いつの間にか、位階制度が生まれ、国家権力と結合し、一大権力機構にまで、発展するのである。

そこに、イエスは、もはや、存在していないのである。

山形氏は、
313年のミラノ勅命によるキリスト教公認によって、早くも、その最初の一歩が踏み出されたということで、あの驚異と不思議の治癒神イエスは、次第に精巧なドグマのキリスト像に仕上げられ、四世紀をすぎる頃には、癒しの宗教としての原初の姿を急速に失っていくことになる。治癒神イエスの驚異の奇跡は、新しい礼典主義に閉じ込められてしまうのである。
と、言う。

ところが、民衆の方は、別である。
教会の礼典主義に飽き足らず、密かに、あるいは、公然と、治癒に対する、思いを行為していたのである。

それが、イコン崇拝と、聖母マリア信仰である。

イコンとは、像である。
イエス、マリアの像・・・

カトリックは、もとより、ギリシャ正教、コプト教、エチオピア正教・・・
そこには、イコン崇拝と、マリア信仰がある。

そこにも、忘れられた、カナン神話の原型がある。
歴史は、断絶してあるのではない。

それが、移行する、取って代られるのである。

カトリックのマリアに対する、思想は、悲しみのマリアと、祝婚のマリアがある。
中世の教会教父たちは、二つのマリア像を、教会の一つの理念として、如何に、定着させるかと、神学的に、努力したのである。

マリア神学・・・
権力により、葬られた、カナンの女神の、悲嘆と歓喜の花嫁の似姿・・・
キリスト教の基盤は、実際、多くの葬られた、歴史的神話によって、形作られてゆくのである。


posted by 天山 at 06:09| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月10日

神仏は妄想である。435

ナザレのイエスが、何故、キリストになったのか・・・
実に、不思議であり、不可解である。

歴史家の眼からすると、イエスはまったくのところユダヤ教の預言者、あるいはしばしば奇跡や病気なおしをおこなうユダヤのラビとして、人々の前に姿をあらわし、十字架の上に死んでいったにすぎないからである。
山形孝夫

イエスは、当時の、ユダヤ預言者の枠を超えるものではなかったのである。

神の国、天の父なる神について、語ったに過ぎない。

とすると、新約聖書の作者たちは、何を必死で、神の子、キリストという、証言をするのか。

イエスの使命は何か・・・
それは、来るべき、神の国について、人々に告知するという、ことだけである。
だが、その、神の国も、到来しなかった。

イエスの使命は、告知する使命である。
ところが、イエスは、告知する者から、告知される者へと、変容した。

ヨハネ、パウロは、イエスの語った言葉を無視する。
イエスの告知のみに、始終するのである。

福音書の作家たちは、イエスの個人的魅力、そして、ありのままの生涯については、関知しないのである。
兎に角、イエスは、キリストであると、語るのみ。

聖書外典、異端とされた物語には、イエスの子供時代からの、話もあるが・・・
あまりの奇想天外な話に、それは、聖典とされなかった。
しかし、そのような書き物が存在したということ。

福音書のうつしだされたイエスの生涯は、けっして完結的な物語でもなければ、ナザレのイエスの復原を意図する、福音書記者の歴史的関心によって、描きだされたものでもない。福音書の原型は、イエスの言葉に、決断をもってこたえた最初の信仰共同体の、キリスト告白を中心に結集された。
山形

要するに、結論が先にある。

イエスは、キリストである。

そこで、ユダヤ教である。
イエスは、ユダヤ教の信徒である。
そして、原初キリスト教は、ユダヤ教の一派だった。

だから、福音書は、ユダヤ教の朗誦と同じく、祭りにおいて、朗誦されるべきものだったのである。

仏教経典を読経するのに、似る。

マルコでは、イエスが言わなかったと思える、
人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、司祭長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活する。
と、書く。

使徒行伝のペトロの説教には、
イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレのイエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。そのイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存知のうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。
と、ある。

形骸化した、ユダヤ教、すでに、滅びたユダヤ教、そして、ただ、既得権益に生きる、ユダヤ教の指導者たちには、イエスの存在は、我慢できないものだった。
現在も、ユダヤ教は、イエスを、キリストとは、認めない。

だが、作為が多過ぎるのである。
新たなる宗教が、作られる過程を、ここで、よく見られることになる。

証言が、伝言ゲームとなり、語り継がれるうちに、どんどんと、語り継ぐ人たちの、妄想が加味されてゆく。
それが、福音書である。

人々の記憶するイエスの言葉の断片が、一定の手法によって挿入添加され、マタイはマタイ、ルカはルカと、それぞれ独自の内容をそなえた福音書へ拡大されていった。
山形

それは、それぞれの教団の、取捨選択がある。

だが、その中でも、イエスの受難物語、復活物語は、共通している。

後に、福音書の中のイエスの言葉とされるものを、分析するが・・・

すべて、作られた、作為あるもの、それが、福音書である。
そして、信じる者は、そこから、騙され続けるのである。

ユダヤ人たちの、初期キリスト教団は、まだ、人道的だったが・・・
それが、ローマ皇帝と結びつき、権力を得ると、実に歪なものと変わり果ててゆく。

その世俗的な、変転を見ると、ナザレのイエスは、アジア人であるが、いつの間にか、白人となっている。

ここに、明確に言えることは、白人主義のキリスト教に変容したことである。
ユダヤ人キリスト教徒を、皆殺しにして、白人主義キリスト教の出来上がり。

これを、イエスの教えと、信じている者は、白人主義のキリスト教に騙されているのである。

そこには、イエスの教え、言葉などは、何の意味も無い。
愛の教え・・・
とんでもない。
彼らに、愛の教えなど無い。
同胞愛のみである。世界的宗教と言われるが・・・
違う。

世界的に、騙しの宗教である。
キリスト教により、どれほどの民族が根絶やしになったか・・・

勿論、日本のアホのキリスト教信者は、そのまま・・・
何も知らない。
知らないから、信じて騙されている。


posted by 天山 at 05:55| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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