2013年08月14日

天皇陛下について162

日本の皇室の思想的伝統には、専制の権威を正当化するような、哲学は発展しなかった。

明治の帝国憲法の、第一条では、
大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す
と、ある。

この場合の、統治とは、治、しらす、という、古語にある、治らす、という意味である。

この時、これを外国語に翻訳する時に、不自由を感じるだろうと、統治という言葉を使ったのである。

治らす、は、知らすと、同じで、知るの敬語である。
知らす、そして、知るのである。

日本の統治という意味は、日本の国民の情をよく知り尽くして、それをまとめ、安らかに、定めて行くという意味になる。

立憲以前も、以後も、天皇の御つとめは、変わらないのである。

立憲君主制という場合は、専制君主制からの、移行がある。
日本が、立憲君主制を取り入れたと、考える人がいるが、天皇の存在は、西欧の言う、立憲君主制とは、意味が違う。

国際的に、理解させるために、その名称を使用したのである。

天皇が、独裁的政治を行ったことは、一度もない。

神武東征の際も、臣僚に相談し、満場一致で、決定されたのである。

更に、その後の、政治も、国民の声を聞くという、方針である。

立憲制では、国民一般の権利と義務が、法的に明らかにされて、あらゆる国家機関の権限が明示された。
それで、天皇が、国情を知り、民心を知り、それを統合して、国を安定させるのに、有効な基準を得たということである。

西欧の立憲君主制とは、その成り立ちが違うのである。

ただそれが、明確になったことは、とても良いことだった。
天皇は、元から、それだったのである。

それで、天皇は、政策の利害是非の判断をなさるより、それ以前の問題、つまり、政策を考える、政論をする人たちに対して、清め高めて、天下の人心をまとめ上げるという、御仕事となる。

つまり、政治を執る者は、天皇に相応しい者たれ、ということである。
更に、政治に関わる人たちも、同じく、天皇に相応しくあれ、ということである。

天皇は、祭主として、日々の生活をされている。
その姿から、発せられる、高貴さ、精神的気風に、相応しくあるのが、政治に関わる人たちの、本分である。

敗戦後の、憲法は、ただ、国および国民統合の象徴、とある。
これでは、天皇の祭主としての、肝心な、思想信条が、抜けているのである。

天皇は、私無し
という、歴代の伝統がある。

それは、天皇は、国民に添うという意味である。

人心が乱れた際に、天皇の、お言葉により、それを収めるという、大切な要素が抜けている。

日本の政治は、祭りの精神が、統治の基底である。

祭りは、政でもある。
その祭主が天皇であるから、すべからく、人々の意見、心情を尋ねて、それを統合されるという、貴い存在である。

世界には無い、天皇の存在であるから、ここが、憲法学者の、腕の見せ所である。
このような、君主が、世界の何処に存在したか・・・

日本の地政学的見地からも、研究すべきである。

島国というだけではない。
その列島の自然・・・
日本民族の、精神の成り立ち。

様々な要素を鑑みても、天皇の存在は、欠くことが出来ないものである。

例えば、推古天皇時代に、蘇我王朝が出来た場合は、権力による。すると、その権力を倒し、新しい王朝を創る者が、現われ、更に、また、それを倒しと、続く。
しかし、そうならなかった。
それが、日本の幸運である。

権力者も、天皇に許されて、臣下として、政治を担当する。
それは、国民が納得する形だった。

朝敵となる場合は、必ず、多くの者たちが、それを撃つ。
こうして、いつも、朝廷に戻る形を取った。

最後の武家政治、徳川幕府が、大政奉還を申し出た。
そして、新しい、日本、近代日本として、歩み出した。
それも、天皇の存在があるからだった。

明治維新も、天皇のおわす、京都から始まったのである。
江戸では無い。

鎌倉幕府から始まった、武家政治の終焉が、近代化には必要だった。
武家政治も、天皇の許しによって、成されたのである。

武家の中に、天皇になろうとする者は、一人もいなかった。
当然である。
天皇を亡き者にすれば、国民のすべてを、敵に回すことになるのである。

何故か。
天皇は、国民の側に立つお方だからである。
民の竈を、いつも気にかけておられるお方が、天皇である。



posted by 天山 at 05:21| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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