2013年08月11日

神仏は妄想である。432

さて、ここで一端、イエスの詮索を留めて、書くことがある。

ナザレのイエスは、一人の男である。
地の民の男である。

それが、何故、キリスト、救世主とされたのか・・・
あるいは、キリストと称されて・・・
何故か・・・

その初め、ローマの国教とされてからである。
ユダヤ人キリスト派が、全員殺されてから、ローマ教会が建てられる。
ローマ・カトリックである。

その姿を見ると、今では、イエスは、とんでもない、怪物になっている。
磔にされた、十字架を掲げて、ミサを行う。
更に、その教会内部には、多くのイエスの弟子たちが、使徒として、祭られ、更には、聖人とされた人たちが、祭られて・・・

形骸化どころの話ではない。
完全に、ナザレのイエスは、捨て置かれた。

司祭は、そして、その長たち、ローマ法王は、派手派手な衣装により、金の杖を持ち、信者を祝福するという。

イエスが、聞いたら、泡を吹く。

そして、更には、プロテスタントという派閥は、様々な解釈により、驚くべき、教義を掲げる。
その中には、熱心過ぎて、カルトと化している派閥もある。

彼らの、新旧キリスト教は、排他的で、非寛容をモットーとする。
つまり、異教徒は、悪魔からのもの、だと・・・

イスラム国に、布教に出掛けるという、勘違いも甚だしい、キリスト教徒もいる。

更には、キリスト教同士の対立、対決。
彼らは、平和、調和というものを、一切、拒否する。

イスラムの方が、酷い・・・
そんなことは、無い。
キリスト教の排他性は、世界一である。

世界に、戦争というものを、教えたのも、キリスト教である。

つまり、ナザレのイエスは、単なる、飾り物とされたのである。
イエスは、キリストではない。
勝手に、後の人たちが、都合よく、キリストに仕立てたのである。

でなければ、キリスト教は、これほどまで、堕落していないはずだ。

寝る場所も、持たなかった、ナザレのイエスを、キリスト教指導者たちは、受け入れないだろう。
司祭、牧師は、ぬくぬくとしたベッドに寝て、毎日、たらふく食い、隙あれば、セックスもする。

説教は、妄想の極みを行く。
何とでも、言う。

脅し、すかし、罪の許しまでも、行う。
誰の、命令か・・・
罪の許しを与えられるのは、何ゆえか・・・

イエスの神を、旧約聖書の神と同じだと、考えている程の者たちである。

地の民という、最低の民の中から、だからこそ、救われなければならないのだ、と、叫んだ、イエスの姿は、そこに無い。

はっきり言うが、天の国などは、無い。
幻想、妄想の世界である。

信じる者は、死ぬまで、騙され続ける。

騙されても、いいから、信じたい・・・
という、人々を、私は多く見た。
何かを信じていないと、やってられないのである。
不安症などというものではない。
その、あまりに厳しい生活苦の中で・・・

更に、恐ろしいことは、その知性も、理性も、信仰のために、利用される。

神という、妄想の産物のために、一生、知性と理性をかけて、生きた人たち・・・
あまりにも、哀れである。

人間は、我が手の内にあるものしか、解らないのである。
そして、手の内にあるものをこそ、信じられるのである。

神という、妄想は、手に余る。

イエスは、一体、何を言ったのか・・・
それは、いずれ、最新の研究成果から、紹介する。

聖書の言葉は、イエスの言葉ではない。
聖書作家の言葉である。

作家の言葉を、そのまま信じて、信仰だとは、笑わせる。
作家は、嘘つきの初めである。

イエスの名を使い、自分の考え方を、表現したものが、書き物である。
そして、書かれたものがあるということは、書かれなかったものもあるということである。

イエスは、何を言ったのか・・・

ある時代の、ある場所・・・
その狭い世界の中で・・・
全人類に関わるほどのことを、言える訳が無い。

全人類の救いなどというものは、全くの妄想である。
つまり、神仏は妄想である、のだ。



posted by 天山 at 05:51| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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