2013年08月05日

霊学115

ではなぜ意識が過去と未来からの表象と情動とのぶつかり合いによって生じるのかと言えば、自我が現在のこの時点で鏡のようにこの渦を反映させているからだと考えるのです。したがって現在におけるこの意識の座は同時に自我の座でもあります。
高橋 巌

自我という鏡を通して、意識化されるとき、その意識の成立過程は、同時に、自意識の成立過程でもある。

ただ、自我というものを、否定する人たちもいる。
自我は、そのときそのときの、意識内容の連続であり、自我というものは、無いのだという、考え方である。

大乗仏教にも、そのような考え方がある。
私というものは、無いのである。
今の私は、次の私とは、別物であり、私というものは、存在しない・・・

神秘学では、何事も、注意力を持って見ることから、見えるという、その注意力を自我と名づける。

哲学者は、その注意力を、志向性と名づけている。
志向性が、働かない限り、感覚的知覚体験は、出来ないと考えるのである。

つまり自我とは、魂がある一定の方向に向ってエネルギーを向けるときの、その基本的な意志の主体を言うのです。ですからもしその自我が存在していないとすると、この注意力そのものも一貫性をもっていないということになってしまうのです。
高橋

意志の主体を自我と名づけると、自我は、感覚と不可分に結びついているということになる。

更に、自我は、感覚と共にあらわれ、感覚と共に、消えるともいえる。

表象は、自我の存在が、次第に、曖昧になり、希薄になる状態である。

夢体験と、表象体験は、非常に良く似る。
それで、感覚体験が強ければ、自我体験も強くあわられる。

神秘学では、魂の重要な働きを、表象と情動であるとする。

もう一方は、感覚である。
感覚的知覚については、普通、五つの感覚を問題にするが、それ以外に、第六感というものも、加えて考える。

ルドルフ・シュタイナーは、それを十二に分けるという。
十二の感覚である。

占星術にある、黄道十二宮のように・・・

視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚、熱感覚、均衝感覚、運動感覚、生命感覚、言語感覚、概念感覚、個体感覚である。

意識が直接受けるところのできる、体験内容を、すべて感覚と呼ぶ。

この場合は、外側の外界に向う感覚を、外部感覚とし、内部に向ってひらかれる感覚を、内部感覚という。

面白いのは、熱感覚である。
熱というのは、触覚だけではなく、非常に霊妙なものとの認識である。
熱の問題は、霊学にとって、非常に重要であるとのこと。

例えば、人に出会う。温かい感触を受ける。
あるいは、その逆に、冷たい感触を受ける。

集中すると、体が熱いと感じ、更に、体温も上がるなど・・・

生命感覚も、自分自身の生命の営みを感じるもの。
調子がいい、不調だなど・・・

言語感覚は、言葉の力によって、肉体にまで、影響するもの。
日本の言霊に近い感覚である。

概念感覚とは、特定の思想内容を、判断を通さず、じかに体験するという。
一つの思い込みの場合もあるだろう。

だが、神秘学にとって、概念感覚は、重要であり、霊的体験とは、すべて概念の体験であるとする。


兎も角、十二のすべてが、それぞれ独立した感覚であると、考えるのである。

その感覚の座の中に、七つの生命活動が働きつつ、感覚を支える。
七つとは、呼吸、体温、栄養分の摂取、成長、生体の維持、排泄と分泌、そして、生殖、再生作用となる。

情念、表象、判断が、更に一層、魂の営みをしている。
思考と感情と意志とが、魂の内部で働いて、その中心に自我がある。

そして、その外部に感覚と生命が、働くのである。

霊、魂、体という場合は、このすべてを含めて、霊、魂、体でなければならない。
知覚としての体、魂、霊であり、生命活動としての、体であり、魂、霊である。

知情意としての、体、魂、霊であり、そして、自我である。

このようにして、人間を捉えるというのが、神秘学であり、そうでなければ、具体的な把握にはならないという。

感覚が、互いに融合して、オカルティズムで言うところの、霊的体験が可能になると、解説するのである。

そして、自我によって、統制されることのない、霊的体験は、何らかの意味で、病的なものになるという。

幻覚と、知覚との区別が、つかなくなるのである。

霊的な体験の、最もなものは、夢であるという、見解を持つ神秘学である。
夢を見ている限り、人間は、すでに、霊的な世界と関わりを持つという。

その夢を、どう理解するのか・・・
それは、知覚の問題と関連して具体的に見て行くのである。




posted by 天山 at 05:18| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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