2013年08月02日

霊学112

神秘学という学問は、・・・われわれの魂がこの世の現実の中にはない、という前提から出発する学問です。したがってこの世の現実ではなく、その背後にあるべき第二の現実を求め、どうしたらそれが認識可能になるか、を考えます。そうしますと、神秘学の考え方とユングの考え方と非常に共通してくるわけです。ユングも現実世界と快楽原則の世界だけにあきたらないで、別な第二の現実の世界を求めようとしました。
高橋巌

そして、ユングは、超現実の世界に向かい合うことのできる、論理を、退行的な論理の中に、求めた。

退行的思考を徹底的に訓練し、魂の奥底に、どのような仕方で未知の、第二の客観的世界が現れるのかと・・・

さて、ヨーロッパには、意識の変化という、考え方がある。
それは、キリスト教、更にユダヤ教の、旧約聖書と、新約聖書からの、発想である。

これは、高橋氏と、私の考え方の違いであるが・・・
言うことは、同じである。

つまり、聖書の、父と子と聖霊である。
最初は、父の時代、次に、子の時代、そして、第三に、聖霊の時代が訪れるという、考え方である。

意識の発達史という、考え方。

父、子の時代は、省略する。
聖霊の時代の始まりである。

それを第三の時代という。
霊的意識が個人の内部だけでも、体験できる時代である。

霊的な意識そのもの、つまり、聖霊を、各自が自分の内部に、それぞれの仕方で見出すことが出来る時代が来るという。

これが、皮肉で、その第三の時代になると、教会も、聖書も必要ではなくなる。

重要なのは、ひとりひとりが自分の内部に眼に見えぬ祭壇を作ることです。ひとりひとりの人間に、一切の聖霊の働きが内在化しているとすれば、自分の内部を探求していくと、自分の内部から必要な行動の指針が必ず出てくるはずです。
高橋巌

ここで、面白いのは、聖霊という、キリスト教の三位一体の、父と子と聖霊の、聖霊ということである。

これは、無意識ということである。

無意識の時代、それを、第三の時代というのである。

ユングにおける、意識界と、個人の無意識界、集合的無意識界という、三区分の時代である。

神秘学の論理は、対象を、三つの部分に分けることから、始まる。

二分説の場合は、物質と心、物質と意識、肉体と魂と、二つに分けて考える。その場合は、神秘学には至らない。
更に、そこからは、唯物論のみ、発生する。

勿論、これも、キリスト教の考え方からきているのである。
つまり、肉体と魂を持っていても、教会に属し、教会に忠誠を誓うことで、恩寵として、客観的な真理、霊界の認識が伝えられるという、考え方である。

だが、この二分説で考えると、心、魂は、物質の所産に過ぎなくなる。脳細胞という物質が、心や魂の動きを生み出すということになる。

そこでは、肉体が無くなれば、心も、魂も無くなるということになる。

三分説の立場に立つと、人間の本性における、肉体と魂ではなく、霊、魂、体という、三つの領域が、問題になるのである。

ただし、霊、魂、体という、言葉は、学問の世界では、使用しない。
霊は、精神、魂は、心、または、一般に学術用語は心理という言葉を使う。

体も、身体、肉体となる。

心理という場合は、霊と、魂という意味になるのである。
これは、学問の世界のことである。

だが、実際に、精神と心という二つの概念は、哲学、心理学でも、実に曖昧に使われているのである。

三分説の立場になると、肉体以外の言葉を、心理という、一つの概念にまとめてしまうわけには、いかないのである。

霊と、魂は、それぞれ独立して、固有の領域を持った概念となる。

それでは、肉体、身体、体というものが、明確にされているのかと言えば、これも、実に不安定である。

われわれの身体は、それ自身が決して自己同一性を保っていないからです。
高橋巌

高橋氏は、
肉体というのは、決して矛盾なしに調和して存在するものではなくて、そもそも肉体くらい矛盾だらけの存在はありません。
と、言う。

互いに、自律的に作用する三つの部分の結合体である。
神経感覚系を代表する、頭部。
循環系を代表する、胸部。
代謝系を代表する、腹部。ということになる。

この三つは、それぞれ同じ肉体に属していながら、それぞれ全く異なった固有の働きをしている。

それが、統一されているように、錯覚しているのである。

だが、思考、感情、意志と肉体との関係を、どのように考えるのか・・・
これが、肉体の思想における重要な問題になる。



posted by 天山 at 05:36| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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