2013年08月01日

霊学111

ユングの深層心理学・・・

理性ではなく、感性のために、未来に渡り、一番有力な方法を提供したと思われる。

無意識の世界の認識を、いかに獲得するのか・・・
ロゴスではなく、感性による学問を立てた。

感性の学問の基本的な立場とは、ファンタジーである。
ファンタジーとは、構想力のことである。

構想力の論理が言葉による概念の論理と別なところで、何を認識できるかということになる。

ユングは、人間に内向的な人間と、外交的な人間がいるように、論理にも、内向的と外交的があり、構想力の論理は内向的であるに反して、言葉による概念の論理は、外交的論理であるという。

言葉は、外に向ってのみ生きるものではなく、我が身の内でも、内なる心の営みに必要とされる。

更に、言葉は、方向付けを通して、思考以外の心の諸機能をある意味で、抑圧する。

言語とは、特定の方向へ方向付けて、他の方向へ向おうとする思考習慣を抑えつつ、一つのことに、集中させようとする。
これが、言語の重要な特徴である。

それにより、思考内容が、他の人に解るように、客観性を持つものとなる。

他の機能の抑圧とは、思考と感情、感覚と直感の四つが、それぞれ互いに上下左右の関係において、結びつきを持っていると考える。

例えば、思考の働きの強い人は、感情の働きが弱いなど・・・

更に、ユングは、
意識の生活において、日常の覚醒時の生活において思考の発達している人は、無意識の生活において感情が発達している、意識の生活において感覚の発達している人は、無意識の生活において直感が発達している。
高橋巌 神秘学講義
と、なる。

日常生活において、思考型の人が、あまりに思考中心の生活を送ると、無意識の中から、その人が気付かない部分に、非合理的な感情の爆発が起こる。
そして、突然、思いがけない行動を取る。

思考が外交的に働き、その結果外交的な論理が人間の心の、諸機能を支配するようになると、その言語的な論理により、感情が抑圧され、さらに、感覚と直感も抑圧される。

外界とは、環境の世界であり、それが、自然環境でも社会的環境でも、同じである。この外界と自分との境界で、感覚的な知覚が、外界と向かい合う。
この知覚を通して、外界が人間の心の中に写し出されると、そこに表象、観念、そして、観念連合が現れる。

表象に言葉が結びつき、概念を作る。
そして、記憶が始まるのである。

その記憶は、忘れられるが・・・
いつか、突然、現れることがある。

それらの記憶により、世界内容が、概念体系として、心の中に記憶される。

このようにしてわれわれが外界に対するとき、まず外界から印象が感覚的知覚を通って入ってきます。この印象は、それから、われわれの内部で表象を生み、記憶像を生み、最後に概念というかたちで人間の心の中におさまります。このようなプロセスこそ、理性による論理の根拠であると言えると思います。なぜならこの過程の中で体験された事柄が他人に伝達するのに必要な内容となったとき、それを表現するための言葉が求められ、論理が求められるからです。しかも以上のプロセスのどの部分が欠けても、言葉はそもそも機能できません。
高橋巌

ユングは、これとは、正反対の、逆の方法を取る。

概念へ至る逆の方向である。

内なる世界から、ある情念の働きが生じる。
広い意味での、情念である。
本能、欲望、憧れ、不安、期待感・・・

無意識の奥底から、ある種の興奮が、波紋のように表面に上がってくる。

この情動の作用が、心の中に潜む記憶像と結びつく。
無意識的な欲求が、これまでの人生で得た概念内容と中の、何かと結びつく。
そして、意識の表面で表象を、呼び起こす。

この表象ははじめ夢のようにはかない、非現実的な形式をとるようになってきますが、更にプロセスがすすんでいきますと、最後には感覚的知覚と同じくらい明瞭な形式をとるようになってきます。つまり幻覚があらわれてきます。
高橋

この幻覚が、感覚的知覚と同じくらいに、明瞭なものになることもある。
そこまで至ると、精神病理学の妄想、ある種の宗教的な人たちの、ヴィジョン、幻視など。

言葉を使う時より、実に曖昧である。
更に、全く別の心理状態である。

ユングは、内向的な論理と名づけた。

フロイトは、この状態を退行状態として、ネガティブなものと、考えた。しかし、ユングは、この退行状態から、新しい文化を生み出す際の、基本的な論理になるのではないかと、考えたのである。

フロイトは、この退行を、死に対する願望が結びついていると、考え、更に、退行の欲求は、生殖作用から独立した、セックスの要求と結びつき、セックスを通して、存在の根源に帰ろうとする。

つまり、退行とは、死への願望であり、同時に、セックスの願望でもあると、考えたのである。
フロイトは、エロスとタナトスが、いつも結びついていたのである。
タナトスとは、死、である。

ユングは、フロイトと袂を別ったのが、これである。
ユングの退行とは、フロイトとは、全く逆の方向に働くものとなったのである。

ユングの場合、対立するものとは、より高次の現実だった。
この現実世界を表象させている、人間の魂の中にある、別世界、超現実的世界、形而上的世界、霊界・・・
オカルトである。

純物質の世界、命ある魂の世界、そして、霊的世界の三つの世界。
その三つ目の世界・・・
神秘学に至る世界である。


posted by 天山 at 05:48| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月02日

霊学112

神秘学という学問は、・・・われわれの魂がこの世の現実の中にはない、という前提から出発する学問です。したがってこの世の現実ではなく、その背後にあるべき第二の現実を求め、どうしたらそれが認識可能になるか、を考えます。そうしますと、神秘学の考え方とユングの考え方と非常に共通してくるわけです。ユングも現実世界と快楽原則の世界だけにあきたらないで、別な第二の現実の世界を求めようとしました。
高橋巌

そして、ユングは、超現実の世界に向かい合うことのできる、論理を、退行的な論理の中に、求めた。

退行的思考を徹底的に訓練し、魂の奥底に、どのような仕方で未知の、第二の客観的世界が現れるのかと・・・

さて、ヨーロッパには、意識の変化という、考え方がある。
それは、キリスト教、更にユダヤ教の、旧約聖書と、新約聖書からの、発想である。

これは、高橋氏と、私の考え方の違いであるが・・・
言うことは、同じである。

つまり、聖書の、父と子と聖霊である。
最初は、父の時代、次に、子の時代、そして、第三に、聖霊の時代が訪れるという、考え方である。

意識の発達史という、考え方。

父、子の時代は、省略する。
聖霊の時代の始まりである。

それを第三の時代という。
霊的意識が個人の内部だけでも、体験できる時代である。

霊的な意識そのもの、つまり、聖霊を、各自が自分の内部に、それぞれの仕方で見出すことが出来る時代が来るという。

これが、皮肉で、その第三の時代になると、教会も、聖書も必要ではなくなる。

重要なのは、ひとりひとりが自分の内部に眼に見えぬ祭壇を作ることです。ひとりひとりの人間に、一切の聖霊の働きが内在化しているとすれば、自分の内部を探求していくと、自分の内部から必要な行動の指針が必ず出てくるはずです。
高橋巌

ここで、面白いのは、聖霊という、キリスト教の三位一体の、父と子と聖霊の、聖霊ということである。

これは、無意識ということである。

無意識の時代、それを、第三の時代というのである。

ユングにおける、意識界と、個人の無意識界、集合的無意識界という、三区分の時代である。

神秘学の論理は、対象を、三つの部分に分けることから、始まる。

二分説の場合は、物質と心、物質と意識、肉体と魂と、二つに分けて考える。その場合は、神秘学には至らない。
更に、そこからは、唯物論のみ、発生する。

勿論、これも、キリスト教の考え方からきているのである。
つまり、肉体と魂を持っていても、教会に属し、教会に忠誠を誓うことで、恩寵として、客観的な真理、霊界の認識が伝えられるという、考え方である。

だが、この二分説で考えると、心、魂は、物質の所産に過ぎなくなる。脳細胞という物質が、心や魂の動きを生み出すということになる。

そこでは、肉体が無くなれば、心も、魂も無くなるということになる。

三分説の立場に立つと、人間の本性における、肉体と魂ではなく、霊、魂、体という、三つの領域が、問題になるのである。

ただし、霊、魂、体という、言葉は、学問の世界では、使用しない。
霊は、精神、魂は、心、または、一般に学術用語は心理という言葉を使う。

体も、身体、肉体となる。

心理という場合は、霊と、魂という意味になるのである。
これは、学問の世界のことである。

だが、実際に、精神と心という二つの概念は、哲学、心理学でも、実に曖昧に使われているのである。

三分説の立場になると、肉体以外の言葉を、心理という、一つの概念にまとめてしまうわけには、いかないのである。

霊と、魂は、それぞれ独立して、固有の領域を持った概念となる。

それでは、肉体、身体、体というものが、明確にされているのかと言えば、これも、実に不安定である。

われわれの身体は、それ自身が決して自己同一性を保っていないからです。
高橋巌

高橋氏は、
肉体というのは、決して矛盾なしに調和して存在するものではなくて、そもそも肉体くらい矛盾だらけの存在はありません。
と、言う。

互いに、自律的に作用する三つの部分の結合体である。
神経感覚系を代表する、頭部。
循環系を代表する、胸部。
代謝系を代表する、腹部。ということになる。

この三つは、それぞれ同じ肉体に属していながら、それぞれ全く異なった固有の働きをしている。

それが、統一されているように、錯覚しているのである。

だが、思考、感情、意志と肉体との関係を、どのように考えるのか・・・
これが、肉体の思想における重要な問題になる。

posted by 天山 at 05:36| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月03日

霊学113

いったい人間という、肉体においても魂においても矛盾だらけの存在が、どういう意味で個体という統一体と考えることができるのか。それぞれの部分が互いに矛盾している中で、いったい人間とは何か。あらためてこの点を考えていく過程で明らかなことは、現在われわれが人間として、この瞬間に生きている存在の仕方そのものが、決して本来のありうべき状態にあるとはいえない、ということではないかと思うのです。
高橋巌

そして、
自己反省ではなく、自己実現もしくは自己変革の観点からとらえていかないと、人間を認識したことにならないという感じがする・・・
と、言う。

それでは、魂と、霊との区別である。
これは、あくまでも、神秘学というものからの、提言である。

魂とは、自我の働く座である。
そこにおいて、自我が自己をあらわすことのできる領域だという。

実に具体的である。
だから、魂が、外なる対象に対して、自分、自我にとって、プラスかマイナスか、共感が持てるか否かの反応をする。

共感の持てるものには、広がり、持てないものには、退く。

霊というものは、何か・・・
スピリット・・・

スピリットを何らかの実体を持った存在と考える場合は、学問では、価値の総体として捉えてきた。
特に、文化価値の総体をスピリットと名づけた。

精神科学という学問では、精神というのは、人間が文化的な活動を通して、作り上げてきた価値、つまり、歴史が創造した価値の総体として理解した。

精神分析という場合の精神は、魂のことになり、魂を精神分析では、精神という。

魂の共感と反感をめぐる諸機能が正常に働かない場合、精神病となるのである。

神秘学にとって、スピリットとは、目的と愛の根拠であると、いう。

魂が或る目的を実現しようとして働く場合、その魂のあり方の中に、霊的な働きがあると考えます。同じように、性愛の意味の情動作用とは別に、人間が自分自身以上に他者を大切にし、その他者の中に自分が帰依しようとする働きを持つ場合、そこにも霊的な愛の働きがあると考えます。この意味では霊とは何かを考える学問、つまり「霊学」は、神秘学のもっとも重要な部分です。
高橋巌

ここで、整理すると、内界の部分に霊的な世界があり、外界の部分に体的な世界があり、その内的な霊界と、外的な体の世界、物質界との間に、魂が色々な働きをしている。

これが、欧米の神秘学、霊学の考え方である。

私が理解している、魂の世界は、体と、霊の核になる存在である。

であるから、体、心、霊、魂と、深くなってゆく。
心は、精神分析で扱う場所と理解する。

神秘学でいうところの、魂の働きは、心であると、私は理解する。
それでは、それを説明すれば、いいのか。
違う。

兎に角、この神秘学を通って行かなければならないのである。

そして、神智学である。

それを批判する形で、私の、霊学を説明するべきなのである。

日本の霊学の場合は、復古神道により、語られたが、あまりにも、道教色を帯びていて、説明に混乱をきたすのである。

道教については、別エッセイ、神仏は妄想である、の中で充分に語っている。

高橋巌氏の、神秘学講座から、順に説明していく。

魂についての、説明である。
そこでまず感覚的知覚とは何かということを考えた場合、当然問題になるのは、感覚的知覚が、外と内との間の境域をあらわしているということです。・・・
この境界の外側には外的な世界があり、内側には内的な魂の世界があり、その境目に感覚的知覚があると考えられます。
そこで大切なことは、感覚的知覚を肉体だけでは決して生じさせることができないという事実です。
もしふつう知覚心理学で考えているような肉体の働きだけで知覚活動、あるいは知覚の像があらわれることができるとしたら、どういうことになるでしょうか。

大脳生理学とか知覚心理学の専門家にきいても、大脳の中枢に達するプロセスまではわかるのですが、それが像として意識できる意識化のプロセスがどうなっているのかということになると、それはまったくわかっていない謎の部分なのです。
高橋

肉体の組織だけを取り上げて、その構造から、感覚的知覚を説明するものを、取り出そうとしても、無理なのである。

体のプラス何かが、感覚的知覚に加わっていなければならないが、それが何であるのか、全くわかっていないのである。

その部分を、神秘学で言うと、魂ということになる。

体と魂によって、感覚的知覚が、成り立つと考える。
だが、魂は、目に見えない存在である。

余談である。
言葉の解釈や、翻訳の場合の問題もあると、思う。
例えば、心理という場合は、ドイツ語のガイスト、英語のスピリットは霊であり、精神となり、魂は、ドイツ語では、ゼーレ、英語では、ソウルであるが、魂と訳す。
ガイストもスピリットも、精神とも、心とも訳される。
レーゼ、ソウル、マインドも、精神とも心とも訳されている。

先に、私は、体、心、霊、魂と、言ったが、精神は、また別物で、脳による思考を言うのである。

二分説に立つと、精神と心を曖昧にせざるを得ない。
だから、三分説に立つというが・・・

三分説だと、霊と、魂を区分けて考える。
すると、私の場合は、四分説になり、更に、脳の働き精神をいれると・・・
だが、精神と、心は、微妙に接しているのである。

矢張り、書き続けてゆくしかない。


posted by 天山 at 06:16| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月04日

霊学114

表象というのは、人間が知覚活動を通して、心の中に再生産したイメージですが、目の前に対象があって、感覚がその対象に向かい合っているときにその対象をイメージとして作り上げるものは、表象というよりも、むしろ感覚的な知覚像です。しかし、その対象からいったん離れて、直接知覚活動をもつことなく、以前の知覚体験を思い出したときのそのイメージは表象そのものです。
高橋

つまり、表象とは、記憶と同じであるということになる。

表象と感覚的知覚が、共に働き、一般に知覚像と呼ばれるものが成立する。更に、そこに、絶えず、記憶の思い出が結びつく。

知覚、記憶、概念、判断のすべてを含むものとして、仮に、表象という言葉を使って呼ぶと、この表象は、過去から、未来の方向に流れていると、考える。

だが、意識に上らないものもある。
今は、思い出さないが、思い出すことが、いつでも出来る表象である。

この流れは、意識そのものの、流れではない。
意識は、現在の瞬間に、そのつど、表面に現れてくる流れである。

表象の流れの、ある特定の部分が、顕在化しているときに、本来の意識活動がある。
では、表象の流れと、意識とは、どういう関係を持つのか・・・

それを考える時、もう一つの流れがあるということ。
内界から、幻覚を生み出す方向の流れである。
レグレッシヴ、退行的という。

レグレッションの出発点には、情動というものが出てくる。

では、この情動とは、何か・・・

情動とは具体的に言いますと、たとえば不安とか、あこがれとか、希望とか、欲望とか、絶望とか、そういう種類の魂の働きです。
高橋

神秘学では、それを魂の働きとして、表象と並んで、人間の意識を成立させる、決定的な要素であると、考える。

この、情動の動きは、表象とは、反対に、未来から現在へ、あるいは、未来から過去へと流れてゆくもの。

これでは、とても、抽象的だが・・・

詳しい説明は、省く。
どうも、私が言う、魂と、神秘学が言う魂との、考え方が違うので・・・
説明し難いのである。

ただ、人間の体験は、時を経ることにより、次第に薄れる体験と、それが激しくなっていく、体験がある。
時と共に、激しくなってゆく体験は、その体験の本質が、未来から自分の方へ流れてくる。

そのような方向に流れる流れを、情動という。
憧れ、予感、不安、期待、希望・・・

この情動の流れを右から左への流れ、表象と、判断の流れを左から右と考えると、二つの流れが、現在のところで、合流し、渦を巻く。

現在の場所が、渦の中心となり、過去から未来、未来から過去への流れがある。

左側に外界があり、それは、過去であり、右側に内界かあり、未来である。
その境界に、一つの壁があり、そこが、感覚的知覚の場所があるとする。

外界との、境のところで、外からの知覚内容とぶつかり、色々な印象、判断を生む。

そして、意識が成立する。

それらは、客観的な判断である。
客観的な判断とは、内界の世界に留まらず、外界の事実を指示する。

判断は内界に存する表象の触発から始まって、外界と内界の壁をつきぬけ、そして外界の或る事実を指示することで終わります。
高橋

判断は、結論を持って終わるが、情動は、満足を持って終わる。

判断は、客観的なもので、魂にとっては、好ましくないことでも、結論が客観的であれば、従わなければならないのである。

判断から結論に行くプロセス、過去から未来に向うことプロセスの場合、出発点は魂の内なる表象活動から始まるけれども、その終点は魂の外なる事実の指示することで、つまり魂の外に出ることで終わる。魂という内界の外で、客観的な結論として終わるのです。
高橋

それが、意識である。

だが、情動から満足にゆくプロセスは、逆である。
無意識の底から情動が起こる。
そして、表象と同じく、壁にぶつかる。
すると、壁の外に付き抜けずに、満足を求めるために、カーブして、内界の満足を求め、その中で終点を迎える。

情動の働きは、内部に持つことなのである。

感情というものは、情動が停止した時に、発生するものとなる。

感情は、情動作用が直接知覚に向っても、向わなくても、内部のある特定の表彰とぶつかったとき、そこに生まれます。
高橋

心理学とは違い、神秘学は、その辺が、テーマのようである。

意識も、過去から未来、未来から過去への、渦の中にある。その中心を意識と言う。
その渦は、猛烈に変化し、一瞬も留まらない。

それらの、衝突、ぶつかり合い以外に、シュタイナーは、意識を説明できないという。

ただ、シュタイナーが、見ているものが、まともなものなのかは、分らない。
検証が必要である。
更に、その霊的感覚などである。


posted by 天山 at 05:49| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月05日

霊学115

ではなぜ意識が過去と未来からの表象と情動とのぶつかり合いによって生じるのかと言えば、自我が現在のこの時点で鏡のようにこの渦を反映させているからだと考えるのです。したがって現在におけるこの意識の座は同時に自我の座でもあります。
高橋 巌

自我という鏡を通して、意識化されるとき、その意識の成立過程は、同時に、自意識の成立過程でもある。

ただ、自我というものを、否定する人たちもいる。
自我は、そのときそのときの、意識内容の連続であり、自我というものは、無いのだという、考え方である。

大乗仏教にも、そのような考え方がある。
私というものは、無いのである。
今の私は、次の私とは、別物であり、私というものは、存在しない・・・

神秘学では、何事も、注意力を持って見ることから、見えるという、その注意力を自我と名づける。

哲学者は、その注意力を、志向性と名づけている。
志向性が、働かない限り、感覚的知覚体験は、出来ないと考えるのである。

つまり自我とは、魂がある一定の方向に向ってエネルギーを向けるときの、その基本的な意志の主体を言うのです。ですからもしその自我が存在していないとすると、この注意力そのものも一貫性をもっていないということになってしまうのです。
高橋

意志の主体を自我と名づけると、自我は、感覚と不可分に結びついているということになる。

更に、自我は、感覚と共にあらわれ、感覚と共に、消えるともいえる。

表象は、自我の存在が、次第に、曖昧になり、希薄になる状態である。

夢体験と、表象体験は、非常に良く似る。
それで、感覚体験が強ければ、自我体験も強くあわられる。

神秘学では、魂の重要な働きを、表象と情動であるとする。

もう一方は、感覚である。
感覚的知覚については、普通、五つの感覚を問題にするが、それ以外に、第六感というものも、加えて考える。

ルドルフ・シュタイナーは、それを十二に分けるという。
十二の感覚である。

占星術にある、黄道十二宮のように・・・

視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚、熱感覚、均衝感覚、運動感覚、生命感覚、言語感覚、概念感覚、個体感覚である。

意識が直接受けるところのできる、体験内容を、すべて感覚と呼ぶ。

この場合は、外側の外界に向う感覚を、外部感覚とし、内部に向ってひらかれる感覚を、内部感覚という。

面白いのは、熱感覚である。
熱というのは、触覚だけではなく、非常に霊妙なものとの認識である。
熱の問題は、霊学にとって、非常に重要であるとのこと。

例えば、人に出会う。温かい感触を受ける。
あるいは、その逆に、冷たい感触を受ける。

集中すると、体が熱いと感じ、更に、体温も上がるなど・・・

生命感覚も、自分自身の生命の営みを感じるもの。
調子がいい、不調だなど・・・

言語感覚は、言葉の力によって、肉体にまで、影響するもの。
日本の言霊に近い感覚である。

概念感覚とは、特定の思想内容を、判断を通さず、じかに体験するという。
一つの思い込みの場合もあるだろう。

だが、神秘学にとって、概念感覚は、重要であり、霊的体験とは、すべて概念の体験であるとする。


兎も角、十二のすべてが、それぞれ独立した感覚であると、考えるのである。

その感覚の座の中に、七つの生命活動が働きつつ、感覚を支える。
七つとは、呼吸、体温、栄養分の摂取、成長、生体の維持、排泄と分泌、そして、生殖、再生作用となる。

情念、表象、判断が、更に一層、魂の営みをしている。
思考と感情と意志とが、魂の内部で働いて、その中心に自我がある。

そして、その外部に感覚と生命が、働くのである。

霊、魂、体という場合は、このすべてを含めて、霊、魂、体でなければならない。
知覚としての体、魂、霊であり、生命活動としての、体であり、魂、霊である。

知情意としての、体、魂、霊であり、そして、自我である。

このようにして、人間を捉えるというのが、神秘学であり、そうでなければ、具体的な把握にはならないという。

感覚が、互いに融合して、オカルティズムで言うところの、霊的体験が可能になると、解説するのである。

そして、自我によって、統制されることのない、霊的体験は、何らかの意味で、病的なものになるという。

幻覚と、知覚との区別が、つかなくなるのである。

霊的な体験の、最もなものは、夢であるという、見解を持つ神秘学である。
夢を見ている限り、人間は、すでに、霊的な世界と関わりを持つという。

その夢を、どう理解するのか・・・
それは、知覚の問題と関連して具体的に見て行くのである。


posted by 天山 at 05:18| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月06日

神仏は妄想である。427

伝承に見る、バァール神話をみる。

バァールは豊饒の神、「雲に乗る者」、稲妻と雷雨の神、ハダドとも呼ばれる。

バァールには、父と母、兄弟たち、そして、妹がいる。
父の名は、エールであり、もろもろの河の源、大洋に君臨する大神。母は、アシュタロテ、すべての神々の母である。

兄弟の一人は、ヤム・ナハル、洪水の神、他の一人は、モート、火の空で大地をカラカラに干上げる神。

バァールは、この二人の兄弟と、雌雄を決し、王権を確保しなければならない。
その運命を背負ったバァールのために、身命を賭して献身する妹、アナトがいる。

さて、バァールの第一の相手は、荒れ狂う海と、洪水の神、ヤム・ナハルである。
ヤムは、父エールに強請して、バァールの王権の剥奪を図る傲慢、卑劣な神である。

バァールは、ヤムの策謀を知り、激怒して、ヤムを打ちのめした。
ヤムを倒したバァールは、ゼフォンの山頂に祝宴をはり、王宮を造営して、妹アナトの強力な支援により、王権を確実にする。

第二の戦いは、モートとの闘争である。
モートは、大地が火の空によって、乾き、穀物や果実が実る季節、大地を掌握し、支配する収穫の神である。

この神との一連の闘争物語が、バァール神話の重要な文献となっている。

バァールの死のドラマが、克明に描写されている。

物語は、バァールが、おそろしく貪欲な怪獣に飲み込まれるところから始まる。

恐怖におののくバァールは、モートに隷属を誓う。

父エールの元に、使者が来て、バァールが死んで、野に倒れていることを告げる。
エールは、悲嘆にくれて、王座をおりて、地に座し、頭に塵をかぶり、麻布を身にまとい、石で、頬と顎を傷つけ、胸をかきむしって、バァールの死を悲しむ。

バァールが死ぬと、大地は干上がり、豊かな沃地は、荒野となった。
父エールの悲嘆を見た、アナトは、一人バァールを求めて、山野を漂泊する。

そして、美しいシールマットの野に倒れる、バァールの死体を発見する。
アナトは、泣く泣く、バァールの遺体を、ゼフォンの山に戻り、そこに埋葬する。

バァールは不在となったが、バァールに代わり、王位を継ぐことのできるものは、いなかつた。

歳月が流れた。

悲しみの乙女アナトは、モートをつかまえ、激しくモートを糾弾して、バァールを返してくれるように訴える。

それから数日が過ぎ、数ヶ月がたった。
アナトの中で、バァールに対する慕情が、抑え難く高まった。

アナトは、復讐を決意する。

アナトは、少女をおとりに、モートをひきよせ、モートを捕らえる。
アナトは、剣を持って、モートの体をずたずたに引き裂き、風を送って、吹き分け、火にかけて焼き、碾臼でひいて野にまいた。

エール王が、夢に幻を見た。
天の油が地に落ちて、雨となり、涸れた谷に蜜があふれ出した。
王は歓喜して言う。
アナトよ、聴け、バァールは生きている・・・

バァールが再びゼフォンの山に戻り、モートも再生して、再び、両者の間に、激しい闘争が開始される。

しかし、共に力尽きて、倒れる。
女神シャバシュが仲裁に入り、両者は、引き分けて和解する。
こうして、バァールの王権が確保された。

その他、神話には、バァールとアナトとの婚礼の物語などがある。

バァール神話の、死と再生のドラマは、季節の交替のドラマに重なる。

バァールが倒れると、モートが支配し、モートが倒れると、バァールが支配する。

雨季と乾季が交替し、種蒔く季節、収穫の季節が継起するのである。

バァール再生は、雨季の開始、モート再生は、乾季の開始である。

この神話は、一年を二分する、地中海世界の雨季と乾季の交替のドラマであり、それが、生き生きと、リアリティを持って展開するのである。

われわれは、死の神モートとの闘争に、アナトの勝利の舞をみる。アナトは右手に剣、左手に白布をつんかでおどる。古代オリエントの勝利の女神の原型をうつしだしている。この女神が問題なのだ。
山形孝夫

なぜなら神話の目的は、この処理の女神と再生の男神との婚姻の叙述にあるからである。再生のバァールとの祝婚の歓喜のなかで、アナトはバァールの子を宿す。アナトに宿った生命は、大地の豊饒の確証であった。物語は、ここで完結している。
山形

そして、この神話の原型は、ギリシャ世界に、アドニス神話として知られる物語がある。

それは、美少年、アドニスと春の女神、アフロディテとの恋物語からなっている。

そして、そこにも、死と再生のドラマがある。
物語としては、同じ類型である。

更に、エジプトにも、同類の物語、オリシス神話がある。
ここでも、死と再生がテーマである。

それは、矢張り、季節を二分する基底がある。
古代オリエントの農耕社会は、死と再生の儀礼によって、一つに結合されているのである。
その源流を辿ると、美しい豊饒の女神に出会うのである。
つまり、大地母神となる。

女神は、聖なる処女であり、花嫁であり、悲しみの女であり、花婿の再生を左右する原理であった。この女神の演ずる悲嘆と歓喜のドラマのなかに、人々は大地の収穫と豊饒を約束する救いのドラマをみたのである。
山形


posted by 天山 at 05:07| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月07日

神仏は妄想である。428

文化史的にみれば、・・・古代イスラエルの預言者たちが、始終一貫、執拗なバァール批判を試みたのは、こうした大地母神崇拝に支えられた農耕文化の基本原理にたいする挑戦であったとみることができる。荒野と砂漠の神である天の父ヤハウェを唯一の神と信じ、いっさいの偶像の拒絶を誓い、その破壊を叫んだ士師や預言者の声は、「聖なる花嫁」を讃美する信仰圏とは、真っ向から対立するものであったのだ。
山形

そして、
カナンの大地母神崇拝を要とする多神教的な信仰体系そのものに対する挑戦であった。そこには砂漠の神の宗教と沃地の神の宗教との激しい対立と葛藤が、期せずして如実にうつしだされている。
山形

つまり、唯一の神というのは、イスラエルの神を言う。
イスラエルにとっては、唯一の神である。が、他民族にとっては、それも、一つの神であり、神々の世界が存在していたということである。

ここで、ユダヤ教、キリスト教が言う、唯一の神という概念が、どのようなものか、理解出来るということだ。

イスラエルのみの、唯一の神が、人類の唯一の神ではないということだ。

まして、砂漠という限られた地域に生まれた神が、唯一である訳がない。

であるから、時代は、流れる。
イスラエル王国の建設と、分裂、そして、崩壊によって、旧約聖書の時代は、過ぎ去ったと考えるべきである。

次に来る時代は、美しい女神たちの花婿として、穀物霊の死と再生を演じた男神が、やがて、驚異と不思議の病気治しに活躍する時代がくるのである。

それは、紀元前334年、アレクサンダーの東征以降、ポリス国家に支えられたギリシャの古典的世界の没落から、ローマの覇権が地中海世界に確立する約300年間の、ヘレニズムの時代である。

レバノンが、かつてフェニキアと呼ばれていた時代の、古代都市シドンがある。
その、シドンは、大国の侵略にさらされ続けた。
最初の侵入者は、海からやってきた。
この「海の民」が、何者で、どこから来たのか、解らない。

紀元前12世紀頃、エジプトを含む、東地中海沿岸諸国は、いっせいに、海からの襲撃を受けたという。

「海の民」は、幾つかの部族に分かれていて、その中に、ペリシテと呼ばれる民が含まれていた。
やがて、このペリシテの定着した海岸を、人々は、パレスチナと呼ぶようになる。

ペリシテの襲来、そして定住は、東地中海世界の平和に一大脅威を与えた。
繁栄を誇った、シドンの運命も、衰微する。

そして、シドンは、紀元前7世紀以降、アッシリア、バビロニア、エジプトなどの、圧倒的な大国の支配に服従を余儀なくされる。

更に、マケドニアのアレクサンダーの支配、シリアの支配、そして、紀元前63年、ローマ帝国の属領となり、歴史はヘロデの時代、つまり、新約聖書の時代に入るのである。

新約聖書のシドンは、旧約聖書の語るカナンの長子の栄光を失い、美しい緋の国の港を、明け渡してしまったのである。

さて、そのシドンのエシュムン神殿が発掘されて・・・
時代は、紀元前5世紀、小人像が、シドンの王バアナの子、バァール・シュレムによって、エシュムン神に捧げられたものであることを、碑文が語る。

この神は、病気治しの神・・・

その後の発掘で、神殿玉座の、バス・レリーフから手がかりが与えられた。
エシュムン神の狩猟の場面と、スフィンクスと並んだ女神アシュタロテ像が、浮き彫りにされていたという。
アシュタロテは、すべての神々の母、バァール神の母でもある。

山形氏は、エシュムン神は、ギリシャ人がアドニスと名づけた、古代フェニキアの神の、本当の名前だったのではないか、と言う。

アドニス神とエシュムン神との関連を示唆するこのリレーフは、病気なおしの神の本性について、ひとつの重大な証言を与えている。
山形

病気治しの神が、再生の神に他ならないという結論に行きつく。

山形氏は、そこからギリシャの治癒神について考察しているが・・・
それは、省略する。

何故、ここまで、旧約聖書から話を進めたか・・・
それは、イエスに続く物語のためである。

イエスの生涯を記すという、福音書の世界で、イエスは、多くの奇跡を行う。
そのまま、治癒神である。

その伏線として、古代地中海世界の神々の物語が存在するという、観点である。

イエスもまた、フェニキアのエシュムン神やエピダウロスのアスクレピオスと同様に、古代社会に出現した病気なおしの神様だったのである。
山形

最も古い、マルコの福音書でも、癒しの神の驚異的な病気治しの、活動によって、準備されるのである。

であるから、それは、今までの流れを汲むものであると、考えられる。
歴史は、断絶してあるのではない、連綿とした、流れの中にある。

山形氏は、古代社会におけるキリスト教の最初の勝利は、まさに治癒神イエスの勝利、すなわち、治癒神イエスが、その驚異的な治癒力によって、他の神々を圧倒し、ついに駆逐することに成功した、と言うのである。

ここに、新約聖書の成り立ちを解く鍵がある。
それは、あまりに福音書、そして、他の手紙の類が矛盾しているからである。
矛盾と、嘘に満ち溢れている、新約聖書である。

新約聖書の成り立ちと共に、その嘘八百について、書き続けてゆく。

神仏は妄想である、以前に、それを準備し、そのために作られた文書・・・
それが、聖書である。


posted by 天山 at 05:07| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月08日

神仏妄想である。429

古代社会においては、病気とその治療は、呪術、宗教体系の中に、包含されていた。
人間の死も含めて、病気は、ことごとく神に起因し、病気は、人間の犯した罪に対する、神的懲罰とみられたのである。

従って、病気の治療には、宗教儀礼が関与することになる。

古代イスラエルの場合も、同様である。

旧約聖書の、ヨブ記に描かれた、苦難の物語は、病気を神の刑罰とみる呪術と、宗教的観念が存在する。
ヨブの苦難は、自らの義の証しのために、自己の道徳的高潔さにかけて、こうした病気の苦難と戦わなければならなかった。

病気との対決を、自己の道徳的行為の完成によって成就しなければならなかったヨブの状況に含まれる矛盾は、どうにも否定しようがない。
山形孝夫

ヨブ記では、試す神の素顔が見えるのである。
実に、いやらしい試みである。

このようなう観念に染まる、イスラエル人の感性を、中々理解できるものではない。
旧約聖書には、忌むべき、諸々の病気に対する、厳格な戒律が定められていた。

特に、治療の手立てのない恐るべき病気については、不可触の禁忌が適応されていた。
重い皮膚病は、その筆頭である。

レビ記には、延々として、それらの説明が続く。

古代イスラエルは、一連の医療行為、検診、診断、治療、隔離、社会復帰の許可を、すべてユダヤの最高法院を通して、祭司の手に委ねていた。

こうした祭司の職能は、厳密に魔術師や呪術師から、区別されていた。
女呪術師を生かしておいてはならない。出エジプト記
男であれ、女であれ、口寄せや霊媒は必ず死刑に処せられる。彼らを石で打ち殺せ。彼らの行為は死罪に当たる・・・ レビ記

治癒権の行使に関わる、正統と異端の規定である。

禁止事項があるということは、当時そのような者が大勢いたという証拠である。

そこで、新約聖書のイエスの言動である。
この旧約の背景からすると、福音書に描かれるイエスの驚異的病気治しは、ユダヤの最高法院に対する、無謀な挑戦である。

ここから、新約聖書の話題に入る。

イエスの病気治しの話は、マルコ、マタイ、ヨハネを通して、115の癒しの話が記録されている。
奇跡物語である。

だが、イエスが、本当に、奇跡的な病気を治したのかは、不明であり、更には、奇跡はなかったとする説も多い。
何故、福音書では、奇跡物語が多いのか・・・

また、その弟子たちも、不思議な方法で、病気治しを行っている。

更には、最初の教会が、病気治しを起こったという事実は、疑問の余地はない。

ここで、山形氏は、
イエスがガリラヤの村々を遊行し、病人に癒しの手をさしのべられたという福音書の記述は、イエスの弟子たち、あるいは初代教会が、村々を巡り、イエスの名によって病気をなおしたという事実とひとつに重なっている。
と、指摘する。

最も古い、マルコの福音では、弟子たちは、杖一本のほかには、食べ物も、銭も持つことを許されず、ただ病気を癒す権威、悪霊を制する権威を与えられて、出たと書かれている。

弟子たちの使徒権と、治癒権は、切り離し難く結合されていた。

つまり、福音書の作者たちによる、作為ある物語となるのである。

それが、古代オリエント宗教史における、治癒神の系譜が伏線にある。
新しい、治癒神として、イエスが登場したのである。

さて、祭司の権威のないイエスの、病気治しについて、福音書には、それを告発するものがない。

何故、ユダヤのパリサイ派の人たちや、律法学者が、告発しなかったのか。

あるのは、ただ、安息日に、中風の癒しをしたということである。
それも、癒しについてではなく、安息日に、行為したということに、対してである。

癒しの行為に対しての、咎めが無い。

更には、律法学者たちの告発は、癒しにではなく、イエスの語る言葉に、神に対する冒涜があるとするのである。

そこに、当時の特異な状況があったといえる。

ユダヤ教律法学者の口伝・解説集である、タルムードに、それがある。
イエス時代のラビたちは、魔法や呪術に寛容であった。
彼らも、好んで、奇跡を起こしたのである。

ユダヤの民衆は、こうしたラビたちの不思議な力に喝采し、奇跡にまつわる伝説を、ラビたちの生涯の事績に織り込んで、物語を作成した。

福音書も、タルムードと同じである。

新約聖書は、イエスの驚異の奇跡を語ることによって、まさに、その起源を語っているのである、と。
山形

勿論、ラビたちは、魔法ではなく、旧約聖書にある、神の不思議な業が、現実に起こりえることを、証明したのであるという、研究者もいる。
そして、イエスの行為も、同様であると、いう。

だが、それでは、収まらない。

イエスの奇跡の、魔術的性格は、明らかに、旧約聖書から逸脱する。

特に、悪魔祓いにおいて・・・
マタイにある、悪霊に取りつれた者が二人、墓場から出てきて、イエスに言う。そして、イエスは、悪霊を豚の中に入れると、悪霊が豚に入り、皆崖を下り、湖に入り、死ぬ。

イエスの言葉は、魔法の呪文のように、不思議な力を発揮する。

悪霊祓いは、ラビ文学にも、顕著に見られる。

そこで、当時は、悪霊憑きの治癒物語が、定型的様式を備えた文学として、広く民衆に流布していた結果による。
福音書も、ラビ文学も、それを利用したのである。

奇跡物語が、日常的な状況・・・

福音書も、それに添って書かれたものとなる。
特別なことではないのだ。

一番古い福音書である、マルコは、イエスの死後、35年ほど後に、書かれている。
後々、じっくりと、マルコの説を見るが・・・

イエスを、キリストにするために、書かれたもの・・・それが、福音書である。

歴史的、地政学的・・・文学的に見れば・・・
聖書は、どのようなものなのか。

新約聖書が、旧約聖書の、予言を引き続き、引き受けるものとの意識の上に、書かれ、更に、それが、初期ユダヤ人イエス教団から、ローマ帝国の宗教になり・・・

ユダヤ教から、別にして、キリスト教へと進んだ歩み。
人間の作為なくして、考えられないのである。

作為とは、何か。
それは、支配者、為政者によって、都合の良いものになること。
更に、宗教団体として、都合の良いものになるもの、である。

posted by 天山 at 05:01| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月09日

神仏は妄想である。430

治癒神イエスの登場に関する研究は、近年もっぱら、後期ユダヤの複雑な政治的状勢と、ヘレニズム末期の特異な宗教的状況の、交錯した地帯の確定に、その照明をあててきた。
山形孝夫

それは、死海文書の発見によって、更に深まる。

ユダヤ教の一派である、エッセネ派に、かなり近いとされる、クムラン教団が、死海西北岸に存在し、死海文書を中心に、洗礼と聖餐を守り、厳格な禁欲生活に徹した、共同体を作っていたことが明らかにされた。

更に、マルコ福音の冒頭に、イエスの先駆者として登場する、バプテスマのヨハネが、それらと関わりがあったことが、想定される。

バプテスマのヨハネには、死海文書の担い手である、クムラン共同体の、禁欲的、終末論的信仰が、色濃く投影されている。

そして重要なことは、ヨハネの活動の舞台が、荒野、ヨルダン川周辺は、クムラン教団の存在した、死海西北岸に接近しているのである。

イエスの出現が、ヨハネによって準備されたと、マルコが書く。

イエスは、ガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受ける。
ヨハネが捕らえられた後、イエスは、ガリラヤを基点に、最初の宣教を開始する。

時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい・・・

悔い改めは、ヨハネの叫んでいたことだ。

後期ユダヤ教から、エッセネ派、そしてクムラン教団、洗礼派のヨハネ、イエスと続くのである。

死海文書の発見から、明確になったのである。

イエスも、終末的考え方を持っていたのか・・・
その後の、弟子たちも、そのようだった。
すぐにでも、世が終わり、イエスが雲に乗って、天からやってくる・・・

さて、山形氏は、イエスとヨハネの関係が、極めて曖昧、不確かであると、提言する。

イエスは、ヨハネ教団に属していたことは、史実として確認されている。
ヨハネの逮捕後に、イエスは、すぐに宣教を開始している。
つまり、イエスは、完全にヨハネ教団から抜けて、独立したのである。

ヨハネは、荒野で行為したが・・・
イエスは、町に出た。

そして、イエスは、貧しい多くの民衆を相手にした。
更に、悪霊に取り付かれた人たち、皮膚病を患う人たち、足の悪い人、罪ある女・・・

マルコは、記す。
医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。

そして、福音書では、イエスの奇跡が山盛りなのである。
ヨハネは、病気治しを一切しない。

ヨハネは、脇役である。
だが、もし・・・
ヨハネをメシアとする人たちがいたら・・・
今頃、ヨハネ・キリストと呼ばれる存在になったかもしれない。

イエスがヨハネ教団にいたのなら、ヨハネはイエスの師匠である。
それが、福音書では、ヨハネに謙譲語を使わせているのである。

これも、作為である。

マルコが書くのは、イエスの周りに集まって来た人たちは、皆、ユダヤ教では、神の懲罰として忌み嫌う人々である。

そこから物語を作るのである。

山形氏は、
このようにみてくると、ヨハネ集団とイエス集団との間のひらきは、もはや決定的である。治癒神イエスの登場には、クムラン教団、およびヨハネ集団と明白に違った、もうひとつの系列がからんでいたということになる。
と、書く。

そこで、ガリラヤの特異性が、問題になる。

その前に、一言余計だが・・・
イエスをキリストとして、創り上げていった過程について、とても、奇跡的だと言える。勿論、多くの宗教の教祖がいるが、キリスト教の世界的な広がりである。

あくまでも、ユダヤ教の中での問題であった。
ところが、ローマ帝国という、白人がイエスの集団に目をつけて、初期のユダヤ人イエス集団を皆殺しにし、白人のイエス・キリストを創り上げたということ。

どうもこの辺が、私は、胡散臭く思えるのだ。
そのカトリック教会の歴史は、おぞましいほどの殺戮の歴史なのである。
キリスト教が、戦争を創ったと思われるほど、戦闘的である。

イスラムとの戦闘、つまり十字軍から始まり、後に、プロテスタントとの、宗教戦争である。

白人に乗っ取られた、イエス・キリスト教団が、世界を席巻するという、驚きである。
そして、その人種差別などなど・・・

現在、イスラムのテロ集団を恐れ、更には、それを敵として対処しているが・・・
その昔は、イスラムのテロ集団よりも、激しいことをしていたのである。
更に、イスラムのテロ集団の問題の大本は、キリスト教である。

種を撒いたのは、キリスト教である。
異教徒、異民族からの、搾取は、甚だしい。

ローマ法王で、唯一、教会の過ちを認め、謝罪の旅をしたのは、ヨハネ・パウロ六世のみである。
ユダヤ教の悪い伝統を受け継ぎ、更なる、悪行を重ねたキリスト教である。
その種が、新約聖書、そして、その前段階の旧約聖書である。

単なる、一つの民族の神話、伝承のお話である。
人間とは・・・
白人とは、愚かな者である。


posted by 天山 at 05:02| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月10日

神仏は妄想である。431

イエス時代のパレスチナは、紀元前2世紀のアンティオコス四世による、エルサレムのヘレニズム化政策、そして、紀元前63年以来のローマ支配により、ヘレニズム化、ローマ化の過程が、進行していた。

ただ、ユダヤ行政府の中心である、エルサレムには、ユダヤ教正統派を任じる、ファリサイ派、特に、熱心党のように、ヘレニズム化政策に反対する、強固なユダヤ民族主義が存在していた。

しかし、ユダヤ辺境の地、ガリラヤになると、別である。
ガリラヤとは、ガーリールというヘブライ語が、アラム語を経て、ギリシャ語化されたもので、ユダヤ王国時代、ガリラヤは、すでにゲリール・ハッゴーイムと呼ばれていた。意味は、諸民族の地域、である。

ガリラヤは、ユダヤ教とオリエント的、ヘレニズム的宗教の混沌とした地帯だった。

ガリラヤは、ヘレニズム世界の、治癒神、エシュムン、アスクレピオス信仰の一拠点である、フェニキアの都市シドンと、極めて近いのである。
福音書でも、シドンは、奇跡の起きやすい町であったという。

福音書に関する、最も新しい研究は、エルサレムを中心とした、原始キリスト教団に対し、ガリラヤにも、キリスト教徒の集団が存在していた。
前者は、救い主キリスト伝承の担い手であり、後者は、イエスの奇跡物語の伝承の担い手であった。

ここで、伝承という言葉が出る。
伝承とは、伝える・・・
人の口から口へと・・・
つまり、そのお話は、どんどんと変形して行くのである。

福音書も、一番古い、マルコの福音書を基底に、マタイ、ルカが出来上がっている。
尾ひれはひれがついて・・・
更に、マルコも一つの創作欲に駆られて、更に、自分の思想を創り上げた。
イエスという、人物を通して。

その、マルコによる福音書について、神学者である、田川建三氏の説から、紹介する。

治癒神イエスの登場を生き生きと素朴に描き出したマルコである。
その手法の発見は、極めて緊密な仕方で、マルコのガリラヤ理解と一つに結合されていたのである。

ガリラヤによって、エルサレムを意識し、エルサレムを意識することで、ガリラヤに自己を定位したマルコである。

山形氏は、その田川氏の研究から、三点に絞り要約している。
まず、一つは、ガリラヤの辺境性である。
ガリラヤは、ユダヤの北方サマリヤの、更にまた北に位置している。
ユダヤ行政府からは、遠い。

そして一つは、ガリラヤの異教性である。
イスラエル王国時代に、すでに異邦人のガリラヤと呼ばれていた。
その長い埋もれた民族の歴史から見れば、ガリラヤは、海岸都市フェニキアの一部に組み込まれていた。
つまり、ガリラヤの異教性は、本来のものである。

その一つは、反エルサレム的、反体制的性格である。
エルサレムの最高法院に対する、反体制的性格が、ガリラヤの政治風土を決定づけている。

こうしたガリラヤ理解の上で、マルコは、治癒神イエスを設定したという。

であるから、それは、イエス自身ではなく、マルコの独創によるものである。
治癒神イエスの登場は、ガリラヤ無しには、有り得ないとなる。

更に、山形氏は、荒井献氏の、イエスとその時代、からの分析を見る。

荒井氏は、伝承の担い手となった民衆を、社会の階層性においてとらえ、伝承に記憶されたイエス像の、社会的階層性を浮き彫りにした。

そうした方法で、奇跡物語の伝承を分析した結果・・・
その一つに、奇跡物語の担い手となった民衆は、イエスの言葉伝承を担った、小市民層とは違う、社会の最下層、特に、社会的に差別の対象とされた、地の民、罪人と呼ばれた階層である。

その一つは、彼らの生活、行動の場は、ガリラヤの農村である。

そして、その一つは、彼らの用いた日常語は、アラム語であり、彼らは、差別された状態から、社会への復帰を熱望していた。

ガリラヤのナザレの町の、小市民から出たイエスが、社会の最下層の「地の民」と交わり、彼らの抑圧された願望や期待にこたえながら、彼らの生きようとする方向へ、自らの運命を賭けていく。そうしたイエスの行動を、荒井は驚異の治癒物語伝承の背後に読み取ろうしたのである。
山形

一人の男の、人物伝承を書く行為によって、思想とする。
そこにあるのは、ユダヤ民族主義、キリスト論的イエス理解に、批判的だったマルコの創意工夫が、結実したもの、それが、マルコ福音書である。

であるから、他の作者たちも、それぞれの思想を持ち、マルコの福音書をベースにして、更に、その思想を展開させたのである。

一つ一つの、福音書は、つながっているのではない。
別々の思想によって、成り立っている。
だから、聖典とされなかったものも、数多くある。
それらを、外典として処理している。あるいは、異端として、処理しているのである。

遊行して村々を廻ったイエスは、実在した。
しかし、そのイエスが、救い主、キリストであると、明確にしたのは、後の人たちである。

そうせざるを得ないほどに、地の民、最下層の人々は、抑圧されていた。

二千年前の、ある地域のお話である。

イスラエル民族、後のユダヤ民族、そして、ユダヤ教という権威によって、抑圧されていた人々。
つまり、ユダヤ教は、すでに崩壊していて、なす術もなく、ただ、すでに過ぎ去った歴史の残骸である、旧約聖書という伝承と、神話を持って、形骸化した集団と化し、人々を裁くだけの存在として機能していた、最高法院なるユダヤ教の幹部、選ばれた者たち・・・

イエスは、それらの人々との、交わりを持たなかった。
持つ必要がなかったのである。
というより、イエスも、小市民の一人、地の民の一人だった。


posted by 天山 at 05:21| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。