2013年07月26日

国を愛して何が悪い75

モンゴルと、ポーランド、スウェーデン、フランスからの侵略に悩まされていたロシアも、ピユートル大帝の頃から、毅然と反撃を始めた。

北方戦争で、スウェーデン、ノルウェー、ポーランドを破り、バルト海の覇権を握る。

そして、東方のシベリア進出は、1558年からである。
1706年には、カムチャッカ半島を占領した。
競争相手のいない、シベリア侵略は、史上最大の征服事業だった。

さて、その先頭を行ったのが、ウクライナの逃亡農奴である、コサックの騎馬部隊である。

コサック隊は、ベーリング海峡を越えて、アラスカを占領し、更に、太平洋岸に沿って、サンフランシスコ付近までに至る。
1812年.
このまま、東征を続けて行くと、西へ西へと進むアメリカと衝突しただろう。

だが、ロシアは、1867年に、アラスカを二束三文で、アメリカに売り渡し、北米大陸から、撤退した。

このスラブ民族は、Siavと、奴隷のSlaveと同じ発音である。
奴隷という言葉が、何故、スラブ民族から来たのか・・・

その一つは、ヨーロッパでは、バイキングの時代から、人身売買、奴隷貿易が普通に行われていたのである。

戦争、拉致により、連れられた人材は、奴隷商品として、高値で取引されていた。

中でも、スラブのロシア人は、体も大きく、力持ちで、よく働き、苦難に耐えることから、奴隷商品として、最高の価格で、取引されたのである。

ここから、スラブ即、奴隷となったと、考えられる。

更に、ロシア皇帝支配の下、人民は、ほとんど勤勉な農奴であった。
農民は、苛酷な賦役を課されて、耕作を強いられる。
奴隷のように働かされて、貴族や支配者の家来でも、家内奴隷として、使役されたのである。

この農奴制の上に、ロマノフ王朝の専制政治が樹立されていた。

ところが、ロシアだけではない。
ヨーロッパの農民は、皆、農奴であったといえる。

ここで少し、寄り道する。
日本の農民に関して説明する。

日本には、農民は存在したが、農奴は、存在しないのである。

ヨーロッパでは、農奴の世界である。
貴族、主人や大地主から、搾取され、打たれ、もっと収穫を上げろと、いつも鞭で打たれる農奴である。

そして、貧しく、いつも反抗的で、つねに暴動を企む農奴。
藁の上に寝て、涙を流して、パンを食べ、一年に一度新しいズボンを、五年に一度、一足の靴を手に入れることのできる人たち。

生涯一度も、風呂に入らず、自立することなど考えたこともない。読むことも、書くこともできない人たちである。

これは、産業革命以前のヨーロッパの農民に関する史料を調べた時に、必ず出遭う農民の姿、生活である。ヨーロッパにおける農民の決定的な特徴は、人々の食糧の生産をひとえに担っていたにもかかわらず、領主の横暴の最大の犠牲者だったということである。彼らは身を守る力も術もなかったため、搾取されつくした。農民はヨーロッパ社会の最大の集団であったが、同時に社会の最も弱い構成員だった。
松原久子

それでは、日本のその頃の農民は・・・

彼らもまた、数からいえば日本社会の最大の集団であった。三千万の人間を養う食糧を確保するためには、多くの人手が必要であった。日本の農民も当然村に住み、田畑を耕した。ここまではヨーロッパの農民と同じである。
松原

だが、日本の農民は、庄屋、地主の犠牲になることはなかった。
それどころか、自立していたのである。

ヨーロッパの農民には生涯体験できないことだった。
大切な食糧の生産者である農民には、確固たる地位が与えられていた。

士農工商・・・
農民は、武士に次いで、二番目の地位である。

日本の至る所に、自立した村落共同体が作られた。
どの村にも、議会である、寄り合い、というものがあった。
寄り合いでは、メンバーの中から、代表者と、二人の委員が選ばれ、彼らは、対外的に村を代表した。

特に、年貢、納税の問題について、村の人々の意見を代弁するのである。
税の額は、米で計算された。
脱穀し、俵に詰めた米が納められた。

これは、村ごとに毎年異なり、作柄に応じて、収穫を基準にして、定めたのである。
同じ領内の隣の村でも、それは、異なった。
年々の、豊作、凶作により、加減されたのである。

特に、強調したいのは、税の額は、農民の頭ごなしに、お上が一方的に決めたものではないということである。

土地の地味、日当たり具合、灌漑の効率などを考慮して、全ての水田が、測量された。
米による、納税額の査定基準が、公正と公平に行われていたのである。

納税額を決める際に、農民は、村の代表者を通して、協議し決定に参加する権利を持っていた。

ヨーロッパの農民、農奴とは、全く違うのである。

ところが、西洋の歴史を学ぶ、馬鹿な学者が、それに合わせようと、とんでもない解釈をしたのである。

農奴の反乱と、日本の農民の、一揆を同じく考えたのである。

また、そうしなければ、西洋人から、馬鹿にされた。
支配者に反抗しなければならなかった農奴の経験に基づき、一揆を解釈するという、馬鹿な真似をしたのである。

だから、日本の農民が、納税のために、静かに話し合う行動も、一揆と数えたのである。

例えば、村の代表者と、大名の代理人が、年貢米の納入量について、合意に達することが出来ない場合は、近隣の村々の代表が、大名屋敷に参上して、年貢の軽減を願い出る。

そのような陳情が、暴力沙汰になるケースは、極めて稀であった。
それでも、一揆として、解釈するという・・・

ヨーロッパ人は、日本は、革命を起こしたことが無いということを、無能と、考えるらしい。
が、それこそ、ヨーロッパ人の思い込みであり、野蛮さである。

そんなことをしなくても、日本では、話し合いで、解決したのである。

大名は、領民をわが子と思い、大切にする。
天皇が民を、我が身と思い大切にする。

上から下まで、そのようであった。

実に、民主的ではないか。



posted by 天山 at 05:29| 国を愛して何が悪い2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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