2013年07月25日

国を愛して何が悪い74

それでは、ロシアについて、見ることにする。

ロシアは、昔ソ連と言われた。
共産国である。

当時の、ソ連は、地球陸地の六分の一の広さを持つ。
それは、日本の60倍、アメリカの2,5倍である。

時差が凄い。
国の中で、最大九時間もある。
西は夕焼け、東は夜明け・・・

朝日と夕日を国内で同時に見ることが出来るのである。

ユーラシア大陸の北の部分を独占していたのである。

だが、国土の三分の一は、氷久凍土で、平均気温マイナス30度以下の酷寒である。
南は、イラン、アフガン方面から熱風が吹き込み、広大な砂漠やステップ地帯になっている。

国土は広いが、利用できる耕地は、十分の一以下である。

ヨーロッパ文化の中心パリから、モスクワまで、2500キロ。要するに、ヨーロッパの僻地である。

この国は、平原であるから、異民族の侵入を遮るものが無い。
故に、11世紀のバイキングの侵略、13世紀のタタールの侵略、近世に入り、ナポレオン、ヒトラーと、他民族からの侵略の歴史である。

長い、ツァー、つまり、ロシア皇帝の独裁の時代、そして、革命後のソ連にしても、近代化への道のりは、厳しいものだった。

この広大な国土を統一支配するためには、皇帝の権力にせよ、社会主義国家の権力にせよ、上からの強い独裁的筋金が必要だったのである。ツァーの専制農奴制の極端な不平等から、民衆が開放されるために、共産主義革命は必然だったのかもしれない。
清水馨八郎

ただ、ロシアの風土は、敵の侵入に対して、有利に働いたことも事実である。
ナポレオンの68万の大軍も、冬将軍の猛威と、追撃軍の攻撃に悩まされて、パリに逃げ帰った時は、3万人に減っていたという。

第二次世界大戦の際に、ナチス・ヒトラーの電撃的侵入である。
ナチスは、独ソ不可侵条約を反故にして、ロシア大平原に大軍を進めた。
レニングラードも、モスクワも陥落寸前まで攻めた。

この大戦で、ソ連側は戦死700万人、負傷者を加えると、3000万人の犠牲を払った。
だが、最後は、自然の苛酷さで、侵略者を食い止めた。

陸続きの平原の国は、第二次大戦の被害と深刻さは、日本の敗戦以上といわれる。

守ることで、不敗のロシアも、攻める場合は、勝ち目が薄い。
南方への出口を求めた、クリミア戦争で、英仏軍とトルコ軍に敗退し、東へ向っての、日露戦争でも、名も無い新興国日本に、敗れ去った。

それは、ロシア軍が弱かったのではなく、自然の厳しさが不利に作用したからである。

当時は、極東へは、シベリア鉄道一本である。
一本の鉄道があっても、本国から極東まで、走りに走っても、一週間から、10日間もかかる。その間、日本は、何回も往復できるのである。

また海は、バルチック艦隊が、前年の十月に本拠のバルト海を発ち、幾つもの大洋を越えて、地球の果ての日本に辿りつくのに、八ヶ月もかかった。

これに対して、日本は勝手知ったる海で、訓練を重ねて、士気は高揚し、敵と遭遇した途端に、一瞬にして、打ち負かしたのである。

攻めれば負け、守れば勝ちの教訓と、たび重なる外的侵入の悲惨な歴史的事実が、この国を国防中心の半永久的軍事国家に育てたのである。ロシア本国を、外敵の国境線からできるだけ奥深いものにするために、防波堤としての衛星国郡の輪をできるだけ強固にしておきたいのは、民族的本能なのである。
清水

米ソ冷戦中、ハンガリーやチェコなどの、鎖の一部がほどけることに、異常な神経を尖らせていた。
1968年、有無を言わさず、戦車で進駐したハンガリー動乱、1968年のチェコ進駐は、その恐怖の現れである。

周辺の衛星国を攻め続けたことで、ロシアは、国は広いが、心が狭い、といわれた。

ツァーリズムの時代、社会主義の時代共に、公海への出口を求めたという欲求は、民族的願望である。

スウェーデン、フィンランド、デンマークと、バルト海の争奪戦を繰り広げた、1700年からの北方戦争も、北に偏るサンクト・ペテルブルグを首都として、フィンランド埠頭に要塞を築いたのも、公海に出たいという憧れである。

ヨーロッパの中心であるというが、ヨーロッパ文明の中心からは、遠い。
ヨーロッパの田舎だった。

ヨーロッパと言っても、西と東では、非常に違う。
東ヨーロッパの代表は、ロシアである。
民族としては、スラブ民族になる。

スラブ族の発祥は、カルパティア山脈の北側、今日のポーランドの東南部である。
ウクライナの西部でもある。

それが、東からの蒙古人の来襲、北からのゲルマン族の移動と侵攻によって、突き動かされて、9世紀から11世紀にかけて、西スラブ族、ポーランド、チェコ、スロバキアと、南スラブ、セルビア、クロアチア、スロヴェニア、ブルガリア、東スラブ、ロシア、ウクライナに、分類して、今日に至る。

4,5世紀には、ゲルマン民族の大移動があり、8世紀から11世紀後半にかけて、バイキングという名の、海賊集団に侵入を受けた。

このため、スラブ人の血の中にも、バイキングの野獣性、略奪性、凶暴性が遺伝する。

13世紀から、15世紀にかけて、250年間、ロシアはモンゴル帝国の支配を受けた。
タタールのくびき、が始まったのである。
タタールとは、ロシア語で、蒙古人のことである。

チンギチハンの大遠征は、12回に及び、ロシアの大部分がタタールの苛烈な支配下に置かれた。

ロシア人は、モンゴルのチンギスハンをツァーリ、皇帝と呼び、これに従ったのである。
ロシア人は、徹底的にその影響を受けた。
蒙古人が中国から学んだ東洋的専制主義は、遊牧民の直截さで、そのまま適用されたのである。

その支配は、イワン三世が、1480年、チンギンハンをロシアから追放するまで、250年も続いたのである。

20世紀のレーニン、スターリンの残虐冷酷な人民支配の手口は、そこから来ているといえる。

ロシア史上の独裁を挙げると、イワン皇帝、ピョートル大帝、レーニンの三名となる。
いずれも、大独裁者である。

ロシア建国以来の長きに渡り、王侯を出してきた、リューリク家系は、1598年断絶し、混乱と動乱の果てに、1613年、ミハイル・ロマノフが皇帝に推挙され、1917年の、共産革命まで、約300年続く、ロマノフ王朝の祖となった。




posted by 天山 at 05:21| 国を愛して何が悪い2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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