2013年07月08日

神仏は妄想である。425

さて、旧約聖書の成り立ちに戻る。

モーゼの跡継ぎとなった、ヨシュアの物語。ヨシュア記は、想像を絶する、野蛮な戦いの物語である。

イスラエルの神、ヤハウェが、天地創造の神、唯一の神というが、ヨシュア記を見れば、それが、嘘であることが解るというもの。

単なる、一民族の、守り神である。

徹底した、焦土戦術と殲滅作戦により、ヨルダン川東西の国王の数を仔細に列挙している。
イスラエルが、エリコの城塞を足掛かりにして、十二部族宗教連合を結成し、神の約束の土地への、組織的な侵入を達成したかという、仔細な記録を書き付けているのである。

すべてが、終わり、ヨシュアは、民と契約を結び、それを律法の書に書き記す。
これを、シケムの契約という。

更に、ヨシュアは、シケムに近いエバルの山に祭壇を築き、契約確認の祭りを厳粛に行う。
モーゼの律法を、民の前で石に書き写し、それを朗誦するのである。

シケムの集会が、契約締結の祭りであり、しかもシナイ契約の更新であったことを、疑うことはできないだろう。
山形孝夫

ヨシュアの契約は、モーゼの契約の反復である。

彼の朗誦する言葉は、神の救いと恵みについての圧縮した告知からなっており、それは会衆の心に、過去の出来事についての記憶をよびさますこと、つまり想起にむけられている。それは、言葉の本来の意味において、神話「ミュートス」であった。
山形

神話は、反復朗誦されることによって、歴史性を獲得し、現実性を獲得する。想起とは、こうした歴史化と再生作用をいうのである。
山形

申命記に記された、信仰告白を見る。
わたしの先祖は、滅び行く一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所の導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。

カナン侵入後、農耕民となった、イスラエルの民は、祭りの日に、野の収穫物を携えて、聖所に集まり、それを供えて、上記の言葉を朗誦した。

それは、神の救いであり、恵みである。そして、具体的な、土地取得の成就において、はじめて明確化される。

モーゼ五書と、ヨシュア記を通じて流れる主題がそこにある。

だが、土地取得は、神が与えたものではない。
彼らが、戦い奪ったものである。

それを、神話として、神が、主が与えた土地・・・
そうして、民族の共同幻想が出来上がる。

すべての民族には、そのような神話がある。
そして、それを取りまとめる、一つの存在を、神としておくのである。

であるから、旧約聖書を読み続けると、イスラエル民族の滅びも書かれる。
更に、他の神々に対する、信仰も書かれる。

このイスラエルの民は、王国を築き、そして、崩壊してゆくのである。

ヨシュア記の次の時代、士師時代がはじまる。
それは、「さばきつかさ」の活躍した時代である。

士師とは、部族内部の有力な指導者を言う。
それは、宗教的、あるいは、軍事的指導者としての役割を強いられる場合もあるが、本来の職能は、十二部族宗教連合の集会において、民に、契約と律法の履行を促し、それを監視することにあった。

その時代は、約200年間である。
紀元前1200年から、1000年の間。

この作者によると、ヨシュアが死に、彼に従った勇敢な戦士たちも死に、イスラエルの子らは、「以前に戦いを知ることがなかった」と書かれる。

イスラエルの子らは、戦いを知らない。
この平和な時期に、イスラエルの人々の変心を見るのである。

そこに、イスラエル人とカナンの住民と契約を結び、彼らの神の祭壇を破壊することを、ためらった結果であると、書かれる。

ここから、異邦人という意識が出てくる。
異邦の民カナンの人との、付き合いから、異邦の神、バァールとアシュタロテに仕えたとある。

彼らの娘を妻に迎え、自分たちの娘を彼らの息子に嫁がせ、彼らの神々に仕えた
士師記

神の聖なる戦いによって、獲得したものを、その子らは、カナンの花嫁と引き換えに、敵に譲り渡してしまったのである。
ここから、旧約聖書の本質が、現れてくる。

聖なる戦い・・・
異邦の民・・・
彼らが平和の契約を結び、その祭壇の破壊をためらったカナンの民。彼らが、手に入れた花嫁・・・それらは、敵である。

ここから、その非寛容性と、排他性が強烈になってくるのである。

それを、イスラエルを試みるために、神が残しおかれた「敵」なのである。
作者が言う。

キリスト教は、イスラエル民族を、人類と同じように、説くが、全く違う。
異邦人は、敵なのである。

つまり、ヤハウェ共同体とは、一つの民族の妄想の神・・・
あるいは、単なる、一つの霊である。

ユダヤ教原理主義になると、どうなるのか・・・
ユダヤ人以外は、すべて異邦人である。
つまり、敵なのである。

共栄共存することは、無理なのである。



posted by 天山 at 01:08| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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