2013年07月07日

神仏は妄想である。424

旧約聖書と、新約聖書は、別物である。
そのことを言う。

旧約聖書は、イスラエルの伝承、そして、ユダヤ教の経典とされるものである。
新約聖書は、イエスを、救い主として認める、とりあえず、聖典と呼ばれるものである。

キリスト教は、その旧約聖書を新約聖書と結びつけて、勝手な解釈をほどこしたものである。

神話や、伝承に関しては、どのようにでも、解釈できる。だから、神話であり、伝承である。

モーゼ五書では、延々として、主なる神の掟、彼らには律法というものが、書かれてある。
律法を平たく言えば、法律に近いものである。
民族の法律である。

そして、キリスト教は、イスラエル民族を、人類と結び付けていることも、特徴であり、だからこそ、世界宗教へと広がったのである。

十戒の第二の戒めは、偶像禁止である。
それをシナイ山でモーゼが受けていた時、山の麓では、金の牛の像を作っていたのである。

詩篇第106では、
彼らはホレブで子牛を造り、
鋳物の像を拝んだ。
彼らは神の栄光を
草を食う牛の像と取り替えた。
彼らは、エジプトで大いなる事をなし、
ハムの地でくすしきみわざをなし、
紅海のほとりで恐るべき事をなされた
救主なる神を忘れた

そして、神の怒りである。

主は、モーゼに言う。
それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう。・・・

その時、モーゼは、
主よ、大いなる力と強き手をもって、エジプトの国から導き出されたあなたの民にむかって、なぜあなたの怒りが燃えるのでしょうか。・・・
どうかあなたの激しい怒りをやめ、あなたの民に下されそうとされるこの災いを思い直し、あなたのしもべアブラハム、シサク、イスラエルに、あなたが御自身をさして誓い「わたしは天の星のように、あなたがたの子孫を増やし、わたしが約束したこの地を皆あなたがたの子孫に与えて、長くこれを所有させるであろう」と彼らに仰せられたことを覚えてください。それで、主はその民にくだすと言われた災いについて思い直された。

だが、今度は、モーゼの怒りである。
モーゼが宿営に近づくと、子牛と踊りを見たので、彼は怒りに燃え、手から板を投げ打ち、これを山のふもとで砕いた。また彼らが造った子牛を取って火に焼き、こなごなに打ち砕き、これを水の上にまいて、イスラエルの人々に飲ませた。
のである。

そして、翌日に続き、主がモーゼに言う。
すべてわたしに罪を犯した者は、これをわたしのふみから消し去るであろう。しかし、今あなたは行って、わたしがあなたに告げたところに民を導きなさい。見よ、御使いはあなたに先立って行くであろう。ただし刑罰の日に、わたしは彼らの罪を罰するであろう。
そして主は民を撃たれた。彼らが子牛を造ったからである。・・・

キリスト教の解説者が言う。
詩篇は、そのモーゼの姿を、
破れ口で主のみ前に立ち、み怒りを引きかえして、滅びを免れさせた・・・

今や、神の怒りが敵軍のようにイスラエルの民に襲いかかろうとしている。
「破れ」は同時に、民の破滅の「破れ」に通じる。

そうして、突然、イエスが登場する。
律法はモーゼをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。
ヨハネ福音

ここで、はっきりと、モーゼは、イエスと対置されている。
というのである。

律法とめじみとの対置が、モーゼとキリストとの対置を必然的なものとしているのである。らしい・・・

モーゼは、驚くほど、キリストに似ている、らしい。
モーゼの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する。
ルカ福音

つまり、旧約聖書はモーゼの律法もふくめて、ことごとくイエス・キリストについて書いてあるというのである。らしい・・・

モーゼがイエス・キリストのすがたさし示すのは当然ともいえる。モーゼもまた単に律法だけではなく、めぐみをも示すものである。
らしい・・・

今、私は旧約聖書の成り立ちについて、書いている。
そこで、キリスト教が、新約聖書と結びつけるという行為を批判している。

旧・新約聖書共に、継ぎ接ぎして、如何様にも、解釈できる、代物である。

更に、人殺しに関しては、実に冷酷に突き放して見るという、キリスト教である。

そこでモーゼは彼らに言った、「イスラエルの神、主はこういわれる。「あなたがたは、おのおの腰につるぎを帯び、宿営の中を門から門へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ」レビの子たちはモーゼの言葉どおりにしたので、その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。
つまり、殺されたのである。

同じ民を殺すのであるから、他民族など、朝飯前である。

ここに、モーゼの固有のすがたと、彼によって示される神の固有のすがたがあるということができる。モーゼによって与えられたのは依然として神の律法であり、律法は究極的には人間に対するさばきで終わるのである。モーゼがキリストをさし示すのは、さきに用いたたとえでいえば、「すかし模様」の方式によるのである。すかして見れば、モーゼの背後にキリストのすがたが見えてくるけれども、あらわな形で印刷模様になっているのではない。モーゼにはモーゼの固有の意義がある。
らしい・・・

更なる詭弁である。
イエス・キリストはまさに、「破れ口で主のみ前に立ち」たもうたが、そのとき彼自身は徹底的に「破れ」の運命を身に引き受けて、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びたもうたのである。
マタイ福音

神の怒りはイエス・キリスト御自身によって徹底的に引きうけられ、神の愛はイエス・キリストを通して私たち人間のところへ徹底的に与えられるのである。
らしい・・・

私たち、人間のところへ徹底的に、与えられる・・・
それを信じているのが、キリスト教である。

それを信じていない人間は、異教徒である。

たった、一つの民族の取り決めた、神という、妄想が、全人類にまで、適応されるという、狂いは、遺憾ともし難いのである。




posted by 天山 at 05:24| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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