2013年07月04日

神仏は妄想である。421

出エジプト記とは、エジプトの奴隷からの解放と、イスラエルの神、ヤハウェによって、救われたという主題である。

出エジプト記の、一章から十五章までは、一つの完結した、神話である。
モーゼが書いたというなら、モーゼが創り上げた物語である。

それは、古代オリエントの、過越祭の、イスラエル的演出を試みたものとの説がある。
過越祭を、ペサハという。

このペサハは、旅支度を整えて、大急ぎで食べることから始まる。
次に、練り粉の、粉ね鉢を抱えて立ち上がり、悪魔の攻撃を逃れて、目的地に行進するという、遊牧民の祭りであった。

この、ペサハの伝承に、モーゼの英雄物語と、葦の海の奇跡が取り込まれて、イスラエル開放闘争の勝利の歴史ドラマとして、創作された。

エジプト脱出は、過越しの祭りと、結合した、祭儀神話であり、祭儀劇であったといえる。

物語であり、神話であれば、史実に関しては、曖昧でいいのである。

古代オリエントの、ペサハの祭りとは、元来カナン地方に伝わる、春祭りである。
その祭りは、「野」に向かい、「王」の勝利の行進と、神婚の儀式からなっていた。

その主役は、神―王である。
王は、穀物霊とされていた。

モーゼのエジプト脱出とシナイ半島の荒野の行進は、このオリエント的な、神―王の、穀物霊再生の祝祭を、原型としているのである。

だが、ペサハの祭りは、モーゼ以後、急速に本来の意味を失ってゆくのである。
最初の変化は、イスラエルのカナン定住後にやってきた。
遊牧民から農耕民への移行の過程で、牧草地への移動という祭りの本来の動機が、無意味化されたのである。

祭りの主題が、牧草地からの安全な移動から、農耕地を確保し収穫を祈願する、祭りに変容した。

さて、次は、シナイ山での、モーゼの十戒である。

この、シナイ山・・・
実際は、不定である。

物語は、ただ、神ヤハウェとイスラエルとの、契約の締結である。
ここに、作者の意図がある。

イスラエル民族を一つのまとめるために、必要なものは・・・
それが神なのである。

共同幻想である。

イスラエルが神に対して、絶対の服従を誓うならば、神は、その所有する土地を、ことごとくイスラエルに与えるという。

土地取得を条件に、神への絶対服従を誓うのである。

勿論、未だに、それは叶っていないが・・・

ただ、その神の契約は、別の形で、大航海時代に出た。
カトリック教会の法王の許可において、植民地政策が行われたのである。

誇大妄想の最たるものである。

さて、モーゼの十戒に関しては、聖書に書かれる通りである。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない・・・
殺してはならない・・・
盗んではならない・・・

散々に、他民族を虐殺しておいて・・・の言い分である。

主題は明瞭である。それは疑いなく、神との契約にもとづく「ヤハウェ共同体」の成立を告げている。その時がいつであり、その場所がどこであったか。それを確かめることはできないが、そのために、主題に込められた意義が損なわれてはいない。
山形孝夫

神の言葉から、察するには、他の神々が存在していたということである。

であるから、唯一の神とは、ユダヤ、キリスト、イスラム教が言うのであり、神は多々存在していたのである。

一神教とは、各自各々が、単に自己申請していることである。
であるから、排他的であり、非寛容である。

実は、このシナイ山の顕現伝承は、すでに本来、古代オリエントのカナン地方の農民に伝わる、収穫祭である。

その、カナン土着信仰を、ヤハウェ宗教化したのである。

更に、収穫祭に新しい歴史的意義が加えられたのである。
それが、ユダヤ教を創り出す。

イスラエルが創造した神が、唯一の神として、世界に紹介されたのは、キリスト教によってである。
更に、狡猾なユダヤ人たちが、利益を得るために、その神を有効に使ったのである。

ここで、神との契約が、イスラエルの平和にとっては、必要不可欠なものだったということを、言う。

契約は、平和と同じ意味である。

イスラエル十二部族の強力な団結である。
その団結こそが、砂漠に生きる民の、生存の掟であった。

ムハンマドが、イスラムのアッラーを唱えた時代も、部族社会であり、一族の団結が、生死を分けるほどのものだった。
部族無くして、生存はないのである。

そこに、強い絆を生む、唯一の神という、共同幻想が必要であった。
つまり、
あなた以外の神をおがまない・・・
これが、必要だったのだ。

ヤハウェは、天地創造の神でも、唯一の神でもない。
イスラエルにとって、団結するための、方便の神の名であった。

イスラエル、ユダヤ教、つまり、ヤハウェ共同体である。

それを、権力により乗っ取ったのが、キリスト教である。
初期、ユダヤ・キリスト教は、壊滅させられ、ローマ帝国により、白人のローマカトリックとして、創作されたのである。

現在のユダヤ教は、メイアをイエスと、認めていない。
キリスト教は、旧約聖書のメシアこそ、イエスだと、主張するのである。
そして、イスラム教は、イエスは、一人の預言者であるという。




posted by 天山 at 05:43| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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